「おいっメイのやつ、どこ行ったんだぁ」  

 

 近くにいた草季園江にネギが声をかける。ちょうどネギはボクシング部の練習室に入ったばかりであった。時刻は4時30分。部活が始まって一時間は経つ時刻だ。

 

「あれっいません? さっきまでいたんですけどね」  

 と園江はいつもながらの冷静な口調で言った。

 

 歴史のテストで赤点を取ったネギは補修のテストでも再び赤点を取り、単位を取るためにレポートを出す羽目になった。そこで時代劇が好きなメイにレポートのことで協力を得ようと思っていたのだ。

 

「そういえば」  

 と園江が言った。

 

「許しませんっ許しませんって連呼してたような……」  

 

 “許しません”はメイの口癖だった。不満を持った相手がいるとすぐにそう言って不平を漏らすのだ。曲がったことが大嫌いで正義感が強いのはいいけれど、短気ですぐに「成敗しますっ」と言って相手に向かって行くのはどうかとネギは思う。成敗をしてもその尻拭いをするのはボクシング部部長のネギの役目であった。面倒臭いったらありゃしない。今日もどうやらそのパターンのようだった。

 

「で、許せない相手は誰なんだい」

 

「う~ん、なにぶん独り言ですからねぇ」  

 

 園江もネギの独り言はほうっておくらしい。それが正解だとネギは思い、園江の立場を羨ましく思う。あたしも部長じゃなければ放っておくところなんだけどな。

 

「あっ」  

 

 記憶を巡らせていた園江が急に声を上げた。どうも嫌な予感がする流れにネギは感じる。

 

「富楽勇利~って言ってました」  

 

 園江は丁寧にメイの口調まで真似て言った。よっぽど園江もメイには手を焼いて溜まっている鬱憤があるのだろう。言い方が似過ぎだ。

 

「あ~あいつか。だったらいいや」  

 ネギはそう言って、両手を後頭部に組んで園江に背中を向ける。富楽勇利とは犬猿の仲である。プロの女子ボクシング興行であるBlow of Fateの立ち上げ期からお互いが参加してまだ対戦をしたことはないが、ことあるごとに口戦をしてきた。

 

 時には大会が始まる前の参加者が集まる記者会見で時には雑誌のインタビューで時にはSNSで。きまって先に喧嘩を吹っ掛けるのはネギの方だったが。なんだか気に入らないのだあいつが。ただそれだけの理由なのだが、相性の悪さほどやっかいな感情もないとネギは思っている。理屈で成立することは理屈で何とかなるが理屈の立たない感情の問題は何ともならないのだ。といってもネギは富楽勇利に挑発めいたことを言っても何も悪いとは思ってないのだが。ある時はあいつにライジングスクリューを打ち込んでやるって言ったかな。一年以上前のことだったけれどなんだか遠い出来事のように思える。この一年半でいろいろなことが起きすぎたからだろう。恐るべき時空の崩壊。いろんなことが起きすぎても不思議にも思えない。ともあれいろんなことが起きすぎて、富楽勇利への思いも前よりも薄れてきていた。何だか相手するのも面倒になってきた。ネギは生来の面倒臭がり屋なのだ。  

 

 しかしである。

 

「あいつだったらいいやっていうわけにはいかないよな」  

 

 富楽勇利への思いを辿らせているうちに思考が物事を客観的に見つめられるようになってきて、ネギは部室を出て行くのだった。

 

 

「ネギ姉さまにいつもいつもちょっかい出してもう許しません!成敗します!」  

 

 富楽勇利が所属するジムの扉の前にネギが着いた時、ジムの中からメイの大声が聞こえてきた。こりゃまずい。ネギは慌ててドアを開けてジムの中に入った。そこには上下黒色のタンクトップとハーフパンツを着た富楽勇利に詰め寄っているメイの姿があった。ネギが来たことに気付いた富楽勇利がこちらを見て言った。

 

「あぁ、良かった美園さん。彼女をなんとかしてくれませんか」

 

「悪い悪い」

 

 後頭部に手を当てて愛想笑いをネギは浮かべながら、なんでこいつに頭下げなきゃいけないんだ、メイの野郎、後で説教してやると思った。それからネギはメイに近づいて、右手を引っ張った。

 

「メイは何も悪いことは言ってません」  

 

 メイはすごい頑固者なのだった。あ~面倒くせえとネギは思いながら、

「部長命令だ」  

 と言った。頑固者だが、忠義を大切にもするメイはこの言葉の前には逆らうことが出来ず、渋々と頭を下げながらネギの後を付いていく。その時、ジムの扉がまた開いた。  

 

 姿を現したのは大峰澪音と柴波陽花だった。

 

「こっちです二人とも」  

 

 富楽勇利が手を上げて二人を手招く。大峰澪音と柴波陽花の二人がネギの横を通り過ぎていく。ネギは身体を振り向かせて二人の後を目で追った。  

 

 たしかあの二人、富楽勇利のライバルだったような……ジムも違うし一体何の用だ?  

 

 ネギには関係のないことだったのにどうにも気になってしまう。富楽勇利に口喧嘩を吹っ掛けすぎたせいか?  

 

 ネギの視線に気づいた富楽勇利がふふんっと鼻で笑うように言った。

 

「美園さん、気になりますかわたしたちのことが?」

 

「べっ別に……」  

 

 ネギは動揺した口調になって慌てて目を反らした。

 

「Blow of Fateからまた招待状が着ましてね、今度は団体戦のトーナメントが開かれるそうです、ドリームトーナメントと言って」  

 

 聞いてもないのに富楽勇利が説明をし始めた。

 

「わたしたち三人がチームを組んでの参加を打診されましてね、それで今日打ち合わせを」

 

「なんだって」  

 

 ネギは思わず声を出してしまった。Blow of Fateの団体戦のトーナメントなんて初耳だぞ。おかしい、戦績はまあ似たり寄ったりだけど、富楽勇利よりましなはずなのに。

 

「あれっ美園さんは招待状着てないんですか?」  

 

 見上げて、富楽勇利の顔を見たら、優越感に満ちた顔をしていた。くそっ……。ネギは舌打ちしたくなる感情をなんとか堪えた。

 

「持ってねえよ」  

 

 ネギは目線を合わさずに吐き捨てるように言った。

 

「やっぱりBlow of fateは眼識がたしかなんですね」  

 

 度重なる富楽勇利の挑発にネギの中でぶちんと切れる音がした。

 

「よしっだったら今ここで相手してやる。リングに上がりやがれっ」  

 

 富楽勇利の所属するジムだというのにこの場で相手してやるというネギ。めちゃくちゃ極まりない言動であったが、らしさが出てる彼女の姿にメイも賛同して「流石、ネギ姉さま」と声を上げる。ネギ味噌拳闘会所属の面々の中で唯一の常識人である園江だけが右手を額に当てていた。  

 

 試合の準備をすべく右拳に青いボクシンググローブをはめようとするネギ。

 

「くそっなんであたしには招待状が着てねえんだよ」  

 そう愚痴を言いながら今度は左拳にボクシンググローブをはめる。

 

「招待状なら着てますよ」

 

「なにっ!?」  

 

 ネギが顔を上げると、声の主である園江の顔を見た。

 

「うちら宛で招待状は着てたんですけど、顧問の先生と相談して他の人には見せずにいたんですよ。だってうちら、インターハイが間近じゃないですか。プロの興行と部活の大会だったら後者を選択すべきですしわたしたち学生だから」  

 

 動揺しながら説明をする園江に対してネギが言った。

 

「うちらもドリームトーナメントに参加だっ!!」  

 

 園江の言い分が最もであろうとネギには関係ない。部長の命令は絶対であった。  

 

 かくして、美園ネギ率いるTeam味噌ネギ拳闘会と富楽勇利率いるTeam Full Bloomの参加が決まり、今度こそBlow of Fateのリングで両者の対戦が実現することになるのか、それとも実現せずに終わるのか、運命の行方を待ち望む乙女たちであった。