「ママっ!!ドリームトーナメントの招待状が着てるって本当なの!?」  

 

 ジムの扉を開ける也、まりあはルネの元へと駆け付けて言った。まだ高校生と若き少女であるまりあも40歳を超えた年輩の女性であるルネも綺麗な赤い髪をしていた。特にまりあの髪の色は童話の主人公として出るに相応しいのではないかというくらいに鮮やかな赤だった。その長く赤い髪だけで街を歩ければ男たちが振り向きそうであるが、彼女の顔もその赤い髪に負けず劣らず美しく、その上日本とフランスのハーフでもあった。日本人では適わない華を備える彼女は、白色に赤いラインの入ったジャージを上下に着て、両拳には白いバンテージが巻かれている。

 

 彼女はボクサーであった。高校生だというのにすでにプロのリングにも立っている。その鮮烈な長くて赤い髪ともまだあどけなさを残しながらも大人びてもいる美しい顔とも不釣り合いのようでいて、しかし不思議と様になっているようにもみえる。  

 

 まりあの熱のこもった真直ぐな視線を受け止めるルネは険しい目で彼女の顔を見つめ続ける。その理由にすぐに気付いたまりあは、 「ルネさんっ本当なの?」  

 とまりあは言い直した。その様子を見てルネがようやく微笑みの含んだいつもの表情になり、

「そうよ」  

 と言った。親子である二人は、ジムでは会長と門下生という立場にあり、親子という関係を持ち込むことをルネは許さなかった。

 

「今回は団体戦なんでしょっ、誰が出るの?」  

 

 両拳を握って興奮した様子のまりあにルネも

「招待状はうちのジム宛に送られたものだから誰でもいいらしいのよ」  

 と言った後で口元に笑みを浮かべて

「さあ誰にしようかしらね」  

 と楽し気である。

 

「でも、京子さんと香織姉さんは決まりなんでしょ」  

 とまりあが尋ねる。京子と香織は朝宮ボクシングジムの二枚看板のボクサーだった。京子はフェザー級の日本チャンピオンであり香織もバンタム級の日本ランカーである。ジムの誰もが三人のチーム戦となれば迷うことなくまずこの二人を選ぶだろう。しかし、ルネは首を横に振る。

 

「京子はベルトの防衛戦が控えているから出さないわ」

 

「じゃあ私も出れる可能性はあるの?」  

 

 興奮していたまりあの声がこの時は控えめになった。団体戦のドリームトーナメントに出たくてしかたない彼女だったが、プロの女子ボクサーが数多くいるジムの門下生の中でまだ新人ボクサーの域を出ない自分をメンバーに入れて欲しいと強くは言えなかった。

 

「まあ、ないわけじゃないわ」  

 

 まりあの気持ちを察してか、ルネは穏やかな目で言った。

 

京子を出せないから今回は若い娘たちに経験を積ませようかと思っているのよ」  

 

 ルネの言葉を聞いて、まりあは目を輝かせる。

 

「本当っマ…ルネさんっ」  

 

 高揚してまたママと言いそうになったが、なんとか礼儀を守って言えたまりあだった。

 

「残念だけど、まりあ、あなたは出られないわ」  

 

 後ろから気分を削がれることを言われて、まりあは睨み付けるように振り向いた。声の主が貴久子であることが分かり、まりあの目は一段と険しいものになる。貴久子とは犬猿の中である。同い年であり、同じ階級の新人プロボクサーである二人はジムで顔を合わせればことあるごとに言い争いするのだったが、案の定、ドリームトーナメントも口喧嘩をまねく事態になろうとしている。

 

「どういうことよっ貴久子!!」  

 

 声を荒げるまりあだったが、貴久子はそれを無視してルネの顔を見て、

「あたしもチームメンバーに立候補させてくださいルネさん」  

 と言った。

 

「あなた、Blow of Fateには関心ないって言ってたじゃないっ」  

 

 まりあは非難するように言うが、

 

「音羽美香や下司ナミ、それに山神裕子も参戦するのよ。レジェンドたちとリングの上で拳を交えることが出来るこんな機会逃すわけにはいかないわ」  

 

 貴久子は口元の右端を吊り上げて言った。特別というステージに強く惹かれる彼女らしい高揚の表れだった。

 

「向上心があっていいことよ」  

 

 ルネも貴久子の参加したい意思を歓迎する。その様子を見て、まりあは貴久子にこれ以上言いたい気持ちを奥底に留めた。貴久子の言うことはもっともだ。そして、貴久子の参加したい動機はまりあもまた同じく胸に秘めていたものであった。

 

「じゃあメンバーはどうするの?」

 

 まりあが荒立った心を抑えてルネに尋ねる。ルネは両肘に両手を合わせたまま、しばらく真直ぐに見つめ返したままだ。彼女の視線は横に並び立つまりあと貴久子の両方に向け、二人を選別しているようでもあった。

 

「ルネさんに選ばせるなんてあたしは良い方法だと思わないわ」  

 

 貴久子が言い、自分の言葉を否定されて言い返したくなったまりあだったが、すぐにその気持ちは消えていった。母親であるルネから自身が選ばれても有耶無耶な気持ちが誰の中にも残ることにまりあも気付いたのだ。ルネが選ぶのなら誰もが納得する戦績を残していなければならないけどまりあはそうではない。だったら自分は辞退した方がよいのではないか。そんな思いが浮かんで、まりあは思い悩むように顔を沈めた。  

 

 ふんと鼻を鳴らす音がまりあの耳に入り、顔を上げる。貴久子がまりあに鋭い視線を向けていた。

 

「あたしとまりあで試合をすればいいのよ。あたしたちはボクサーなのよ。強い方が試合に出る資格がある。そうでしょまりあ」  

 

 貴久子の提案、いや挑戦状とも言うべき台詞にまりあは、

「分かったわ。受けて立つわよ」

 と力強く言い返した。

 

「いいわ、あなたたちの好きにしなさい」  

 

 門下生同士で決めたことにもルネは全く動じずに同意した。

 

「だけど、トーナメントに出たいのはあなたたちだけじゃないかもしれないのよ」  

 ルネは続けてそう言うと、周りを見渡した。

 

「他には出たい人いるかしら?」  

 

 その場で練習していたジャクリーンも真帆もパンチを打つのを止めてルネに目を向けるが、彼女たちは静かに見つめ続けるだけだった。強い参加への意志を表すまりあと貴久子に気を使っているのかもしれない。

 

 だが、

 

「私も出たいです」  

 

 手を上げる一人の少女がいた。エミリだった。

 

「あらっあなたも? 珍しいわねあなたから名乗り出るなんて」  

 

 ルネの言うように大人しく内気の性格のエミリがジムの中で自分の意思表示をすることは初めてであった。

 

「どういう気の代わり用かしら」  

 

 エミリはそれについては特に説明する様子はなく、恥ずかし気に顔を下げるだけだったが、

「この前の陳麗華との試合があなたを変えたのかしら」  

 とルネが微笑みながら言うと、エミリはやっぱり口ごもったままだったが、頬を赤く染めそれがルネの推測を肯定していると言い表していた。

 

「ライバルが出来てあなたにとってとても大きな試合になったみたいね」  

 とルネが感慨深げに言う。

 

「香織とエミリは決まりね。残りの一つの椅子をまりあと貴久子で試合をして決める。それでいいわね」  

 

 ジムで練習する門下生全員に向けてルネは言い、試合をするまりあと貴久子の二人が「はい」と力強く答えた。  

 

 

 思えばプロのテストを受ける時も貴久子と一つしかない椅子を試合をして争った。あの時のことが昨日の出来事のように鮮明に蘇ってくるまりあは、赤いボクシンググローブをはめた両手で掴んだロープの間を広げてくぐりながら、貴久子こそが私の最大のライバルになるのだろうかという思いが胸の内に湧いてきた。貴久子をライバル視しているのは自分でも認めているけれど、ジムが同じである以上、貴久子とプロのリングで試合をすることはない。だから、プロのリングで試合をしていれば貴久子よりも意識したくなる選手がきっと出てくると思っていた。でも、プロのテストを受けるための選考の試合でも、ドリームトーナメントのメンバーの選考の試合でもたった一つの椅子を巡って彼女と争うことになった。大事なところで必ず競い合い、リングの上で決着をつけることになる彼女こそ同世代の最大のライバルなのかもしれない。  

 

 そんな思いになったのは、プロテストを受ける前の時と違って、今回は貴久子がルネに配慮をみせたからかもしれない。ルネに選ばせて辛い思いをさせたくなかった母への配慮を本当なら自分が真っ先に考えて行動に移さなければならなかった。それを貴久子にされた悔しさがあるのはもちろんだけれど、それ以上に貴久子の成長した姿を目の当たりにして、まりあは神妙な面持ちになっていた。プロで連勝中のまりあは、あの時よりも強くなっているという自負があったが、貴久子もまたプロで勝ち続け肉体だけでなく心の面でも成長していることに気付き、彼女より一歩先をいっている自信が揺るぎつつある。  

 

 しかし、まりあはそうした思いを払拭するように両拳を胸元でばすっと合わせて、今回も勝つのは私だからと気持ちを高めた。  

 

 まりあのセコンドには従姉妹のジャクリーンが、貴久子のセコンドには彼女の親友の真帆が付いている。それもあの時と同じである。今回も勝つのは私。そうまりあは自分に言い聞かせて、試合開始のゴングが鳴ると赤コーナーを出て行った。  

 

 

 はぁはぁと荒げた呼吸音が項垂れるようにスツールに座るまりあと貴久子の口から漏れていた。  

 

 試合は四度目のインターバルを迎えていた。四回戦のボクサーであるまりあと貴久子は、本来4R制で試合をするものだが、ドリームトーナメントが6R制であることからラウンド数を大会の試合に合わせていた。そのために未体験のステージに足を踏み入れたまりあも貴久子も疲弊困憊であることを全身で表していたが、その顔には強い闘志が発せられている。

 

「どうまりあ、まだ闘える?」  

 

 ボトル缶のストローを口にくわえ、うがいをし水を吐き終えたまりあにジャクリーンが心配な面持ちで尋ねた。

 

「もちろんよ貴久子のパンチなんか全然聞いてないわ」  

 

 強気に返答したまりあだったが、頬も瞼もパンパンに腫れ上がり、特に両目が塞りつつある瞼の腫れがまりあのこの試合の苦闘を物語っていた。アウトボクサーである貴久子のボクシングの生命線である左のジャブは以前闘った時よりもさらに磨きがかかりスピードも威力も格段に上がっていた。毎日ジムで共に練習をしていれば十分に分かっていると思っていたが、実際にリングの上で闘ってみるとその切れ味はまりあの認識以上のものであった。  

 

 スリッピングでかわすことはおろかガードで避けることも十分に出来ず、技術戦では貴久子にはどうにも敵わない。前回の闘いで勝敗の決め手となったカウンターパンチ作戦も今の貴久子には油断がまったく見られず通用しなかった。  

 

 大振りのパンチを出すことが無くなったどころか相手のガードが下がったところで右のストレートを的確に放ってくるのだから、手も足も出ない。しかし、まりあもプロのリングに何度も上がり経験を積み彼女もまたあの時のまりあではない。技術の攻防で敵わないならと亀のようにガードを固めながら、勝機となる時をただひたすらに耐えしのぎ待った。  

 

 サンドバッグのように一方的にパンチを打たれながらパンチに耐えしのぐその姿は何も出来ずただ貴久子のスタミナを待っているだけのようにもみえた。貴久子もその狙いを察知して「あたしのスタミナ切れを待ってるの?芸がないわね」と挑発をぶつけもするのだが、まりあは挑発にも「うるさいわね」と言い返すだけでその固いガードを緩めることはけっしてしなかった。  

 

 ラウンドを重ねるごとにまりあだけがボロボロな姿に変わっていくが、第3Rに突入し中盤に差し掛かった時、まりあがついに前へと出た。貴久子の右ストレートに右ストレートを合わせに出たのだ。前回の闘いの再現を狙ったかのようなまりあのカウンター戦術はこの試合を見守る誰の目にも無謀に映った。貴久子の右ストレートは左ジャブ同様に速く、ジャクリーンならともかくまりあのカウンタースキルでは到底打ち当てられるものではなかった。  

 

 しかしである。右と右のストレートの勝負は、思わぬ光景をリング上に作り上げた。貴久子の右ストレートはまりあの左頬に深々と突き刺さっていた。妹のような存在のまりあの痛恨のダメージを負った姿にジャクリーンが両手で口を覆った。

 

「ぶほおぉっ」  

 

 まりあがマウスピースを口から吐き出す。その直後、痛々しい呻き声がもう一つリングに響き渡った。

 

「ぶはあぁっ」  

 

 貴久子もマウスピースを吐き出したのだった。マウスピースとマウスピースがキャンバスの上を何度も弾みぶつかった。  

 

 貴久子が苦痛に顔を歪ませて右ストレートを放ったまま動けない。貴久子のお腹にまりあの右ストレートが突き刺さっているのだ。綺麗にカウンターを取れないならと相打ち覚悟でカウンターに持ち込んだまりあの執念の一撃であった。右ストレートと右ストレートの相打ちから数秒後、ようやく貴久子が後ろに飛び距離を取った。  

 

 パンチ力ならまりあの方が数段上だが、顔とお腹への打撃であることを考えるとどちらのパンチがより威力を与えているのかは判断が付かない。パンチのダメージに打ち震える二人の姿を見ると、まりあも貴久子も相当なダメージを負ったのは確かであった。  

 

 貴久子はまたステップを刻み始め、軽快なフットワークで変わらぬ戦いぶりをみせようとする。フットワークも左ジャブも以前と変わらぬキレで衰えはまったく見られない。しかし、右ストレートを打つタイミングだけは巧みさが失われ、彼女の精密なボクシングに狂いが起きていた。綺麗に右ストレートを当てることにこだわるあまり、まりあのボディブローを意識してしまい、普段とは程遠い動きになる。完璧であることにこだわる彼女の欠点が出てしまったといえた。  

 

 右ストレートの脅威が減ればその分、近づくことは楽になる。それまでまったく接近させてもらえなかったまりあが、時折貴久子の懐に潜り込み、ボディブローを打ち込むようになっていった。第4Rになると、接近してボディブローから得意の右アッパーカットもヒットさせた。この試合で始めてみせたまりあのクリーンヒットに貴久子の身体が後ずさる。  

 

 しかし、その後は貴久子の左ジャブの弾幕にまりあは追撃に出ることが出来ない。まりあも貴久子もどちらも必死であった。自分の得意の距離で闘おうとなりふり構わずパンチを出し続け、リング上を動き続けた。まりあが挽回し始めた3R以降もクリーンヒットの数でいえば貴久子の方が遥かに上である。しかし、まりあの得意の右アッパーカットをまともにもらい貴久子は身体を吹き飛ばされたのだから与えたダメージの面では互角かあるいはまりあの方が若干勝っていたかもしれない。  

 

 決着が付かないまま、二人の試合は第5Rを迎えようとしていた。まりあの顔が頬も瞼もパンパンに腫れ上がっているのに対し、貴久子の顔にはほとんど痣がない。お腹は赤紫色に変色し、顎に赤みが帯びているものの、二人の姿では圧倒的に貴久子の方が有利にみえる。採点も第1Rから第4Rまで全てのラウンドで貴久子がポイントを取っているにちがいない。もしこれがプロボクシングのリングなら4回戦ボクサー同士の二人の試合は貴久子の判定勝利で終わっていただろう。しかし、もしもという仮定の言葉は真剣勝負においてまったく意味はない。求められているのはどちらが試合終了後に勝ち名乗りを受けているかである。

 

「もう一度カウンターを打てるまりあ?」  

 

 まりあの頬から流れる汗を拭きながらジャクリーンが尋ねた。

 

「もちろんよ。今度は相打ちじゃなくて綺麗に決めてみせるわ」  

 

 まりあは声を振り絞り、また強気に言った。試合は徐々にまりあが盛り返してきているが、まりあのダメージの蓄積を見るとこのままじゃ勝算は低いとジャクリーンは感じていた。判定ではもう勝ち目はないだろう。貴久子から逆転のKO勝利を手にするには右のアッパーカットだけじゃなくもう一つの武器のカウンターパンチをもう一度決める必要があった。カウンターパンチが相打ちでもいいからまたヒットしたらダウンを奪えなかったとしても試合を支配出来るかもしれない。

 

「その意気よ、あなたなら絶対に決められるわ」  

 

 ジャクリーンはまりあを鼓舞して、第5Rへと彼女を送り出した。次のラウンドの指示を伝え、あとはまりあの勝利の瞬間が来るのを願うのみだった。  

 

 インターバルでは疲れ切った姿であったまりあも貴久子も第5Rが始まるときびきびとした動きで相手へ攻めて行く。インファイトとアウトボクシング。全く対照的なボクシングスタイルで自身の勝利を掴もうと二人は懸命にパンチを出した。一進一退の攻防が第5Rに入っても続いていく。  

 

 しかし、一分が過ぎた頃、まりあの動きが突如鈍くなっていく。肩で息をして、辛そうに顔を歪める。懐に飛び込もうと前へ前へと出ていた足が止まってしまった。まりあの身体に蓄積していたダメージと疲労が彼女の限界を超えて一気に噴き出たのだ。まりあ自身にどんなに闘う意思があっても身体を思うように動かせなくなっている。  

 

 まりあの異変を察知した貴久子は左ジャブを連続して放った。一発当てることに苦心していた第5Rのこれまでの攻防が嘘のようにジャブの連打がまりあの顔面にことごとくヒットした。パンチングボールを打っているかのようにまりあがまったく抵抗できずにジャブを浴び続ける。  

 

 まりあが自身の身体を思うように動かせなくなったのなら、あとは距離を取って牽制程度に左ジャブを打っていればもう貴久子の勝ちは確定したようなものであった。しかし、貴久子はそんな勝ち方をよしとしなかった。ライバルであるまりあに会心の勝利を手にしなければボクサーとしてこの先たいした歩みを進むことが出来ないという思いが彼女に攻撃の手を緩めさせなかった。サンドバッグのように棒立ちでジャブの雨を浴びるまりあはそれでも倒れずに立ち続ける。羨むほどのタフネスぶりを持つまりあを倒すにはもう一度右ストレートを打つしかない。

 

「貴久子さんっ!!」  

 

 貴久子のセコンドの真帆が大声で名前を呼んだ。右ストレートを打とうとする貴久子の思いを察し言わずにはいられなかった。試合の勝利が確実に貴久子のものになるようにと真帆は彼女を止めようとした。しかし、右ストレートを打ってはダメという言葉が攻勢である貴久子のボクシングの妨げになる恐れも抱き、その先の言葉を言うことが出来なかった。

 

「まりあっ!!」  

 

 ジャクリーンの声もほぼ同時に叫ばれた。涙がその瞳から溢れそうな顔から発せられたその言葉はまりあを鼓舞するためにもともうこれ以上は闘わないでいいからとも読み取れる複雑な思いが混じり合った声だった。  

 

 まりあはもう自ら仕掛けに出られるような状態ではない。お互いのセコンドが貴久子の一挙一動に注視する中、貴久子が右ストレートを放つ。真帆の言葉は耳に届いていたが、貴久子はどうしてもまりあからKO勝利を手にしたかった。  

 

 貴久子の渾身の一撃は、無防備なまりあの顔面に正面から打ち込まれた。  

 

 グワシャァッという鈍い音がして、黒いグローブとまりあの顔面の間から血飛沫が吹き散った。グローブ越しからまりあの身体から力が抜け落ちていく感触が伝わってきた。貴久子は右の拳を引き、目が宙をさまよい口がだらしなく開いているまりあの顔面をこの目にし、まりあから勝ったわと勝ち誇る思いが心の内側から湧き出た。両腕がだらりと下がり前のめりに崩れ落ちていくまりあ。ライバルがキャンバスに崩れ落ちていく瞬間を目にしながら、貴久子は勝利の喜びに浸っていた。その瞬間であった。  

 

 下から突き上がっていく右拳が無防備な貴久子の顎を捉えた。  

 

 グワシャアァッ!!  

 

 まりあの起死回生の右アッパーカットが貴久子の顎を突き上げる。貴久子の両足がキャンバスから浮き上がり、身体が宙に舞い上がった。  

 

 貴久子が背中からキャンバスに崩れ落ち、レフェリーである京子がダウンを宣告した。

 

「貴久子さんっ!!」  

 

 再びセコンドの真帆から叫び声が上がった。

 

「立って!!立ち上がって!!」  

 

 勝利を目前にしてキャンバスに倒れた親友を精一杯鼓舞する。

 

「分かってるわよ、真帆……」  

 

 親友の思いに応えるように貴久子はカウント8で立ち上がった。

 

「まだ出来ますからっ」  

 

 京子が闘う意思を確認する前に貴久子から闘う意思を自ら示した。あとちょっとでまりあに勝てるというのにこんなところで負けるわけにはいかない。京子でなく、まりあの方に目を向けると、彼女は今にも倒れそうな姿で両腕をロープに絡めてかろうじて立っている状態だった。ほらっダメージがあるのはむしろあっちの方よ。早く試合を再開させて。ダウンを奪い返しにいくから。闘いへの思いが止められない貴久子であったが、京子は両腕を交差して試合を止めた。

 

「ちょっと待ってっ」  

 

 信じられないという表情で貴久子が叫んだ。試合終了のゴングが鳴ってもまりあは身体をコーナーポストに預け下を向いたままで、状況が何も分かっていないようであった。京子がニュートラルコーナーに行き、まりあの右腕を上げてもまりあはまったく反応出来ずに顔が下がったままであった。

 

「なんで試合を止めるんですかっ京子さん!!あたし全然納得できません!!」  

 

 京子の背中から彼女の方に右手を置いて貴久子が強い声で言った。京子は振り返ると表情を変えずに、

「ルネさんと試合前から決めてたことなのよ」  

 と言った。

 

「大会まで時間がないからダメージを蓄積させるわけにはいかない。だからダウンした時点で試合を止めようって」  

 

 京子の説明を聞いて、貴久子は唇を噛みしめて下を向いた。

 

「貴久子さん……」  

 

 真帆が後ろから声をかけるが、貴久子は何も反応を示さなかった。  

 

 まりあがジャクリーンの肩を借りてリングから降りていく。ボロボロに変わり果てたその顔は勝利の喜びが全くみられず呆然とした表情だった。

 

「まりあっ!!」  

 

 貴久子がリングの上から大声を上げた。まりあがジャクリーンに肩を借りたまま、ゆっくりと振り返った。

 

「ドリームトーナメントで負けたら承知しないからねっ」  

 

 貴久子はまた大声で言い、

「優勝してまたあたしと試合しなさいよっ!!」  

 と誓いを求めた。まりあは左腕を上げて、「うん」とだけ答えた。  

 

 まりあとジャクリーンは練習室の隣の部屋に入った。普段は来客用のために使用される部屋だ。そこでジャクリーンはまりあを椅子に座らせて身体の手当てを始める。まりあの顔に付いている血を拭き取り、消毒液を塗るとガーゼを頬に貼っていく。  

 

 まりあの顔から涙が零れ落ちていく。

 

「わっ私……」  

 

 まりあが嗚咽しながら言った。

 

「試合に勝ってない……」  

 

 それから、

 

「だから、トーナメントに出る資格なんてない……」  

 と言った。ジャクリーンは手当てを続けた。完全に塞がっている右目にも消毒液を塗ってガーゼを貼り終えると、

「そうね……あなたは試合に勝ってないかもしれない」  

 とまりあの目を見つめて言った。

 

「でも、負けたわけでもないわ」

 

 一度目を閉じて、またまりあの目を見た。

 

「私の知ってる朝宮まりあはあの状況で試合が再開されてもまだ闘ってたわよ」  

 

 ジャクリーンの言葉にまりあは目に浮かぶ涙を右手で拭う。

 

「いろんな思いをその拳に受け止めてリングに上がればいいんじゃないかな」  

 そう言うと、ジャクリーンはまりあの右拳の上に両手を包み込むように置いた。  

 

 ジャクリーンは一呼吸置き、

「貴久子の思いも」   

 それから、

「私の思いも」  

 と言うと下を向いて口元を微笑ませた。まりあは「うん」と頷くと、

「ありがとうジャクリーン。私、もう泣き言は言わないから」  

 と言い、椅子から力強く立ち上がった。