ガキィッという鈍い音がして一人の女子ボクサーが吹き飛ばされた。リング上を見つめていたトレーナーたちは揃って額に手を当てた。
ドサッという音を立てて、女子ボクサーがキャンバスに倒れ込むと彼女は両腕を大の字に広げた姿で動かなくなった。気を失ったのは誰の目にも明白だ。その姿を間近で見下ろす褐色の肌をした女子ボクサーが言った。
「これでおしまい!? まだやりたいんだけどさぁ」
それはキャンバスに倒れている女子ボクサーに対してでなくて、褐色の肌をした女子ボクサーのトレーナーたちに向けてのものだった。彼女の相手を務めるスパーリングパートナーが気を失うのはこれで三人目だ。おそらくそのボクサーも彼女のスパーリングパートナーを続けるのはもう無理だろう。
「もっと骨のあるやついないの」
彼女の肌をした女子ボクサー、ミレンダがそう言ってリングの上からジムを見渡した。世界タイトルマッチの防衛戦を控える彼女のスパーリングパートナーたちはジムの外から選手をトレーナーたちが用意してきたのだが、もう誰でもいいといった様子だった。
しかし、名乗り上げる者は誰も出てこない。ミレンダのスパーリングパートナーを務めた相手は誰もが病院送りにされているのだから当然のことだ。やれやれといった様子でミレンダがリングから降りようとした時、
「だったら私がスパーリングパートナーを務めましょうか?」
リングの手前から女性の声が発せられた。一同の視線がそこに注がれる。声の主は橙色と白色が使われた奇抜な服装をしていた。へそが出ている上着は襟が付いているもののまだジャージ風の衣服に見えなくはないが、下はフリルの付いたスカートだった。しかも首には蝶ネクタイが巻かれていて、極めつけは右目に眼帯である。到底ボクシングジムに似つかわしくない風貌と丁寧すぎる言葉遣いの少女に、皆の目が点となる。この女が本当にスパーリングパートナーを務めましょうかと言ったのかといった疑問やそもそもいつからこのなりでジムにいたんだという至極真っ当な疑問まで様々なクエスチョンがジムの空気に入り交じる。そこへ、
「あんだっこのコスプレ野郎がっ!!」
とミレンダがそういったジャンルへの造詣は詳しくないだろうにスパーリングパートナーに名乗り出た少女の奇抜な格好を見事に言い表したのだから、場の混乱が収まりの動きを見せ始める。そう、彼女の格好はコスプレそのものであり、彼女がいるべきはここじゃない、アキハバラにでもいるべきであろう。場違いだからとっととジムから出て行け。そういう思考に行きつき始めるのだが、この場を支配するミレンダに気を使ってか誰も言いださない。
「何を仰いますか、私とリングで拳で交える気があるのかどうか、答えはそれだけじゃありませんの?」
ジムの空気はこの女を追い出せという風になろうとしているのに奇抜な格好の少女は変わらずに丁寧な口調で対戦を申し出て、その姿は堂々とした佇まいにさえみえる。
「面白い、勘違いした女の目を覚ますのも一興だね。いいよ、リングに上がってきな」
流石に女子ボクサーでない人間をミレンダと闘わせるわけにはいかず、トレーナーの一人がミレンダを止めようとした。
「なぁに、手加減くらいするさ。それとも代わりの相手を今すぐ用意してくれるっていうの?」
ミレンダに痛いところ突かれて彼女のトレーナーは黙ってしまった。
自前の黒いボクシンググローブを両手にはめて、奇抜な格好をした少女がリングに上がる。
「へぇっ、一応ボクシングはやってるんだ」
自前のボクシンググローブのことを指して言ってるのだろう。ミレンダは両手を腰に当てながらリングの上で対峙する少女に向けて言った。
「もちろんです。それより世界チャンピオンのスパーリングパートナーには多くの契約金が与えられているという話は本当ですか?」
「なんだっ、金目当てってやつかい」
奇抜な格好をした少女がスパーリングパートナーに名乗り出た動機が見えてきて、ごくごく普通なその動機にミレンダは少々拍子抜けした表情をみせる。掴みどころのないその風貌と言動に多少の関心を持ち合わせていたが、動機はそこらのボクサーと何ら変わりないものでもう興味が完全に失せてしまったのかもしれない。
「安心しなっ、あんたにも他の奴と同じ額を支払ってやるさ。病院代にだいぶ回ることになるだろうけどね」
ミレンダがそう言い、一人で笑った。しかし、対角線上にいる少女の口元にもふふっと笑みが浮かび上がる。
「そうではないのです。私が欲しいのはあなたに送られてきた招待状なのですよ」
少女の言葉にミレンダの笑い声が止まる。目が呆然と見開き、得体の知れぬ恐れが芽生えようとしている。
彼女は一体何者でなぜそれを知ってる————
「あるのでしょう、ドリームトーナメントの招待状が」
リングの上は奇抜な格好をした少女、橙危野がすでに制していた。
夕焼けに染まる空の色はリングの上に立っている彼女と同調しているかのようであった。褐色の肌をしたショートカットの髪型の少女はレフェリーから勝者として名を告げられているというのに、どこか哀し気な目をしていた。
街の一角に立てられた仮説のリングは、ロープもキャンバスも使い古されていて薄汚れた色が滲み付いている。リングの周りに群がる観客たちは冷めた勝者の姿には全く関心を示さずに自身が賭けた金の増減に一喜一憂していた。ほとんどが粗雑な身なりをした男たちであった。その中で一人の少女がリングへと近づいていく。
「そこのあなた、試合に勝ったというのに浮かない顔をしてますね」
リングの側から勝者に向けて話しかけたその少女は橙色と白色が使われた奇抜な服装をしていた。
「あんたには関係のないことでしょ」
褐色の肌の少女、アリサが冷めていて苛立ちも含んだ声で言った。
「ふふっ私には見えてますよ、あなたの心の内が。勝負しても血がたぎることはない。金のためだけに闘った虚無感というやつでしょう」
「だから何だっていうのよ」
アリサの声に苛立ちの色が増す。
「もう一勝負どうでしょうか? 私と今ここで試合してみませんか? あなたのその乾いた心を満たしたくてうずうずしてるのですよ」
「ふ~ん、あんたがねぇ」
その少女が単なる冷やかしではないようで、アリサはややトーンダウンした口調になる。
「アキハバラでも行ってなよ、その恰好でボクシングなんて冗談でしょ」
やはりまともに相手をする気はないようであった。
「あなたの左の脇腹は攻撃しないであげましょう」
しかし、奇抜な格好をした少女のその言葉でアリサの目つきが真剣なものへと変わる。
「痛めてるのでしょう。はじめからですね。痛めたのは試合前の練習じゃありませんか?」
アリサの目がボクサーのそれへと完全に変わる。
「いいわ。リングに上がってきて。相手してあげるわ」
闘志にようやく火が付いたアリサが続けて言う。
「言っとくけど試合の前に掛け金を出さないといけないの。お互いが出した金を賭けて闘う。それがここのルール。まぁわたしはあなたが強ければ金なんてどうでもいいんだけど」
「是非とも。金を賭けた方がむしろ血が騒ぐというものです」
奇抜な格好をした少女は掛け金の話になってもまったく動じる様子をみせない。それどころか、
「でしたら私はあなたの十倍の金を賭けましょう」
とまで言うのだった。
「勝てば全額もっていってください。ただし、私が試合に勝ったら、一ヶ月の間私と行動を共にしてもらいますよ」
アリサはフフッと笑う。
「いいじゃん。あんた面白いよ」
試合が決定し、自前の黒いボクシンググローブを両手にはめた奇抜な格好をした少女、橙危野もまた笑みを口に浮かべてリングに上がった。
「久々の日本は良いものですね」
成田空港のロビーに到着した危野は、両手を斜め上に思いきり上げて伸びをすると、「ねっ」と言って後ろに呼びかけた。
「わたしは初めての日本だ。知るかそんなもの」
アリサが危野に目を合わさずにぶっきらぼうに言った。
「それより、荷物をいつまでわたしに持たせる気だっ」
旅行用のキャリーケースを手にして引くアリサが苛々した声で言った。
「あれっジムに着くまでと言いませんでしたか?」
荷物を何一つ持ってない危野はアリサより先に進んでいて、後ろを振り返って言った。
「言ってないだろう。わたしが聞いたのは日本までだ」
「そうでしたかしら?」
とぼけた言動をみせる危野。
「そんなことで嘘を言うかっ」
アリサはますます苛立っていく。
「でしたらここらでもう一勝負どうでしょうっ」
と洋服のポケットからトランプを出した。
「ふざけるなっ。トランプはお前の土俵だろっ。もうだまされないぞ。こっちで勝負しろっ」
アリサは右拳を突きつける。
「それもよいですけど、あの時は決着がつきませんでしたものね」
危野は同意ともあの時を懐かしむようにもうんうんと頷く。
「と言いたいところなのですけど、大事な勝負をしにこれから向かわなければなりませんからね」
ようやく危野が真顔で言うと、
「本当に強い奴がそこにいるのか?」
アリサは訝し気に聞いた。
「強いのかどうかは分かりませんが————」
この話題になり、危野の表情が一層活き活きとし始める。
「リノンの占いが啓示したのは、和の国に星の輝きを放つ同志がいるということだけでした」
「何を言ってるかさっぱりだ。本当にその占い師の予言は当たるのか?」
「ふふっ。すでにあなたという仲間を見つけてるじゃありませんか」
リノンとは危野と付き合いの長いニューヨーク在住の占い師だった。大事な時は決まって危野はリノンの占いを求める。それは占いの手助けを得ることよりも冒険をより楽しくするためという意味合いが強かった。ドリームトーナメントの招待状を世界チャンピオンから奪い取った危野は、その後にリノンに占ってもらい、理想のチームメートを求めて南米の国にいる強者、アリサの元へと行ったのだ。危野との出会いが占い師の予言からであったことを始めて知ったアリサは頬を赤らめた。それは占いという出会いにロマンチックなものを感じたからではなく、自分のことを仲間と言ってくれたことにむず痒さを感じたからだ。
「それよりそのスターガールとはあたしに試合をさせてくれ。あなたとの試合は決着が付かなくて消化不良だからね」
アリサが照れ臭さを隠すように要求すると、危野はにっこりと笑った。その緩んだ頬には白いガーゼが左右に貼られていた。そして、同じように左右の頬にガーゼを貼るアリサもまた笑みを浮かべるのだった。
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