両目を閉じ握りしめた両拳を腰に付けて息吹を整える。その佇まいは達人のようであった。長い髪を後ろで束ねた少女は目を見開くと握り拳を手刀に変え、水平の軌道で空を裂く。シュパーンという音がすると共にビール瓶が真っ二つに割れた。割れた瓶からは水がしゅびびと垂れ流れ落ちる。  

 

 ビール瓶斬りの成功である。女性が素手でビール瓶を真っ二つに切るなど、フィクションの世界だけのことに思われるかもしれないが現実に可能なことである。コツはビール瓶の銘柄にある。割りやすい銘柄とそうでない銘柄があるのだ。さらにはビール瓶に水を入れていることも重要である。その知識を持っていたこの少女は割りやすい銘柄を選び水を入れて斬ってみせたのだ。とはいえ、スピードと角度とタイミングが一致しなければなかなか割れるものではないのだから、凄い女である。ビール瓶を目にした練習生たちからは拍手が出る。ビール瓶切りを成功した少女、松谷祐子は、胸の前で両腕を交差して十字を切り、「押忍っ」と言った。

 

「押忍じゃねぇだろっ!!」  

 

 祐子の頭を後ろから思いきりげんこつで叩いたのは瀬里香だった。祐子のトレーナーである。

 

「やるならビール瓶じゃなくてラムネの瓶にしろ。仕事の後の一杯を飲むたびにあんたのバカ面浮かんできたらどうすんだっ」  

 

 祐子のTシャツの首根っこ掴んで説教を垂れる瀬里香に”怒るとこそこっ!?”という突っ込みを練習生たちが心の中で入れる。どこかで見た覚えのある光景だが、祐子の大バカな振る舞いに瀬里香が大声で怒鳴るのはよくあることで天屋ボクシングジムのいつもの日常だった。

 

「まったく、あんたが喜ぶもん持ってきたっていうのに」  

 

 祐子に背中を向けて言う瀬里香だった。げんこつを当てられた個所をさすっていた祐子がその言葉に食いつき、目を輝かせて瀬里香に迫る。

 

「えっなになに。何ですか瀬里香さんそれって」  

 

 瀬里香はほらよっと言って背中を向けたまま人差し指と中指で挟んでいた封筒を祐子に渡す。それから祐子の反応を待たずして離れていってしまった。  

 

 祐子が瀬里香の言う“喜ぶもん“という形容にワクワクしながら、封筒の中にあった一枚の紙に目をやると、Blow of Fate-Dream tournament-参加チーム一覧と題された文字が書かれてあった。新たな女子ボクシングの興行であるBlow of Fateが団体戦の大会であるドリームトーナメントを開催することは裕子も知っていた。それと自分と何の関係があるのだろうかと不思議に思いながら、参加チームに目をやると、祐子は「うわぁっ」と感嘆の声を上げた。

 

「うらぷとめりあチームからは高梨美月選手、月娘チームにはあの山神裕子選手がっ山之井ボクシングジムからは下司ナミ選手も出るのっ」  

 

 豪華な参加選手たちの名前を目にして、改めて目をキラキラさせる祐子であった、そして、音羽美香の名前を見つけると他人ごとでありながらすっと気が引き締まるような胸の高鳴りを覚えるのだったが、

「美香も出るのかぁ、チーム名はてんやわんや、う~んあまり美香に合ってない名前のような気がするけど、えっ!!」  

 美香のチームメートに自身の名前が連なっていたのだから、驚かずにいられなかった。Team てんやわんやには音羽美香、松谷祐子、法条絵理子と名が書かれてあった。

 

「瀬里香さんっこれ!!」  

 

 祐子はジムの奥でミットの補修をする瀬里香に聞かずにはいられなかった。ミットの裂け目の個所を針で拭っていた瀬里香が顔を上げる。

 

「わたしの名前入ってるんですけどっ!!」  

 

 動揺してる祐子の顔を見て、瀬里香はにたっと意地悪な笑みを浮かべて、

「とっくの前に連絡来てたよ、祐子をドリームトーナメントに出させて欲しいってね」  

 と言った。

 

「なんで知らせてくれなかったんですかっ」  

 

 祐子は眉間に皺を寄せて抗議する。

 

「あんたに知らせたら、有頂天になってまた瓦割りすると思ってさ。まっ、浮かれてなくてもビール瓶斬りするあんたにはぜんぜん意味なかったけどね」  

 

 瀬里香がやれやれといった仕草で両方の掌を天井に向けて持ち上げた。

 

「まっホントのところはどうせ対戦相手はまだ分からないんだから、マイペースで練習して欲しかったんだ。まっ親心ってやつ」

 

「瀬里香さんっ」  

 

 祐子は瀬里香からのひょっとしたら初めてかもしれない思いやりに感激するのだが、その途端に瀬里香の表情が頭部から角が生えたかのような修羅の形相になり、

「これから開幕までの一か月間は練習で地獄みてもらうんだからさっ」  

 と不気味な笑いと共に冷徹に言うのだった。  

 

 祐子は聞かなかったことにしようとさっと背を向けて改めて文書に目を向けた。そうして何度も参加選手の名前を見ているうちに、 「わたしでいいのかな…」  

 と言葉を漏らした。美香は日本チャンピオンで六度防衛中だし、絵里子も日本ランキング3位で美香とのタイトルマッチでは僅差での判定負けだったのだからその実力は美香と同等といってよかった。それに対して祐子はデビュー以来勝ち続けているもののこの前八回戦に昇格したばかりである。悔しいけれど、チームを組む二人とは実績の面でまだ大きな開きがある。

 

「祐子を推薦したのは美香さっ」  

 と瀬里香が言った。

 

「チームメートには祐子を入れて欲しいってしつこくてな」

 

「瀬里香さんそれって……」  

 

 祐子が戸惑う顔をして瀬里香の方を見た。

 

「さあねっ、あんたの好きに解釈しなよ」  

 

 美香がわたしを……。美香が自分に抱いている思いを初めて知って、祐子は心臓の鼓動がどくどくと打つ音が聞こえた。ライバルだと思っているのはわたしだけじゃない。美香もなのかも……。そう思うと、祐子はドリームトーナメントの文書をラブレターのよう胸に当てた。  

 

 その時、瀬里香が会長から「電話が来てるぞ」と呼び出された。「何ですかっ」と面倒くさそうに答えて会長室まで向かう。そして、瀬里香が姿を消してから数秒後、

「法条絵理子が交通事故にあったって!!」  

 彼女の大声が祐子の元まで届いた。  

 

 

 祐子が病室に駆け付けると、絵里子はベッドの上に座るようにしていた。身体のどこかをギブスにして巻いたり、身体のいたるところが包帯で巻かれているということもなく、それどころか肌が見えるところにはどこも包帯すら見当たらない。病室には美香と夕菜もいて絵里子は彼女たちと話をしている。夕菜は美香と同じジム所属の六回戦のプロボクサーで美香の高校時代の後輩だ。

 絵里子は裕子に気付いて、

「松谷じゃないっ。わざわざ見舞いきてくれたのっ」  

 とどこも身体が悪くなさそうな明るい表情で言った。

 

「絵里子さん、身体は無事なの!?」  

 と裕子は心配な表情で聞く。

 

「交通事故って聞いたけど……」

 

「事故っていえば事故だけど、車には身体当たってないんだよねぇ。上手くかわしたから」

 

「えっ!?」

 

「かわしたときに地面に腰打っちゃってね、それで打撲なんだわ」

 

「人騒がせだよね、交通事故って知らせといて、腰の打撲程度なんだから」  

 

 美香が冷やかすように言った。

 

「うっさいな会長が慌てふためいたんやからっ」

 

「あっ出た関西弁。絵里子の関西弁はもう二度と聞けないかと思ってたよ」

 

「なんやっ喧嘩売っとんのかわれっ」

 

「機嫌損ねると関西弁出るから、リングで自分の思い通りいかないとすぐに関西弁が出るのよ絵里子は」  

 

 美香が祐子の方を見て言う。

 

「思い通りやない、あんたが腰抜けたボクシングするからやっ」 「その腰抜けたボクシングにKOされそうになったのはどこの誰かしらっ」

 

「いつうちがあんたの腰抜けボクシングにKOされそうになったって。KOされそうになったんはあんたの方やないかっ。痛くもないジャブで点数稼いで勝っといてよう言うわっ」

 

「次の防衛戦、あんたとやってもいいのよっ」

 

「望むところやっ」  

 

 ファイティングポーズを取ってかまえる二人に、

「まぁまぁ二人ともそのへんでっ」  

 思わず祐子が二人の間に割って入った。

 

「絵里子さん、腰の打撲なら大会は出られるのっ?」

 

「いやっそれがなんやけどっ」  

 

 絵里子は苦笑いを浮かべ、毛布から膝を出した。

 

「思わず事故の後に車に膝蹴りしちゃってなぁっ」  

 

 膝には包帯が巻かれていた。

 

「骨にヒビ入ってなぁ」  

 

 唖然と口を開ける祐子と美香。どうやら美香もこの事実はまだ知らなかったらしい。

 

「いや車もへこんだから痛み分けなんやけどっ」

 

「どうするのよっドリームトーナメントは!?」  

 

 そんなことはどうでもいいとばかりに祐子と美香が口を揃えて迫るように顔を近づける。

 

「堪忍っ堪忍っ」  

 

 絵里子は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「他のメンバー探すしかないわね」  

 

 美香が呆れた顔で言った。

 

「って言っても絵里子さんに代わる人なんてなかなかいないわよ……」  

 

 祐子と美香で両腕を組んで項垂れる。二人並んで考え込むのだが、後ろから二人の背中がつんつんと指される。二人が振り向くと、自分を指差す笑顔の夕菜がいた。

 

「代わりの選手ねぇ…」  

 

 改めて前を向き、考え込む二人だったが、背中をつんつんと指されるやり取りを繰り返した末に夕菜を三人目の選手に決めるのだった。大舞台で夕菜が試合以外のことでなにかやらかさなきゃいいけどという一抹の不安を胸に抱きつつ。