幻影の少女は髪を後ろでろうそくの炎のように束ねた風変わりな髪型をしていた。その髪は金色で、タイトルマッチでは最新の試合の白色とは正反対の上下黒のコスチュームを纏っていた。しかし、響の具現化する姿は全身が朧げな黒である。色までは再現されていないがその動きは荒々しいものの気迫に満ちた動きをしており今にも関西弁が口から出てきそうなほど本物に近かった。

 

 その幻影の少女の名は山崎茜という。響とは小学生の頃からの顔馴染みであり、アンダージュニアのボクシング大会に出場していた同級生の茜のファイトを見て、響は触発されてボクシングを始めた。茜はその大会で目立った成績を残せなかったが、女子で出場したのは茜だけであり、男子にも決して引けを取らずに闘うその雄姿に目を奪われたのだ。響は大人しい少女であったが、リングの上で男子と闘う茜の姿はあまりに鮮烈で響の中で何かが弾けたのだ。奥底にあった闘争本能に火が付いたといってよかった。  

 

 それ以降、響もボクシングジムに通うになり、器用な響はみるみるうちにボクシングの腕を磨き上げて強くなっていった。はじめはボクシングを始めるきっかけとなった茜の存在を強く意識していたが、高校生になると響が高校ボクシングに活動の場を変えたのに対し茜はプロボクシングに完全に狙いを定めアマチュアへの大会に出ることを控えたために、二人は別々の道を歩み、響の中にあった茜への意識は次第に薄れていった。

 

 その高校時代に、響は目覚ましい活躍を残すことになる。一年生でインターハイで優勝し、その後も大人も交えたアマチュアの大会でも勝ち続けオリンピックへの出場を手にした。オリンピックでも躍進は止まらず銀メダルを獲得し日本人の女子ではボクシング競技で初のメダル獲得という快挙を成し遂げた。その時、響はまだ17歳であった。

 

 天才女子ボクサーとして名を馳せ、ボクシング業界だけに留まらずメディアからの注目を集めるようになった響はその後プロへの転向を果たしたのだが、本人は望まずもデビュー戦で新人ボクサーとは思えないほどの注目を集めることになった。そして、その対戦相手はなんということであろうか、山崎茜であった。

 

 響のボクシングを始めたきっかけとなった存在である茜がプロのデビュー戦の相手を務めるという運命のいたずらに響の心は揺れた。一番闘いたくない相手といってよかった。ボクシングを始めるきっかけとなった茜は響にとって憧れであり目標でありライバルでもあった。茜のようになりたいという思いが響をリングの上の闘争の世界であるボクシングの道に引き寄せたのだ。

 

 しかし、中学時代に茜とは一度も拳を交える機会を得られず、高校生になりインターハイ優勝、オリンピック出場、銀メダルを獲得という輝かしい成績の数々を響は一年の間に残した。

 

 僅か一年の間で響の世界はがらりと変わった。ボクシングを始めた当初に抱いていた茜への思いなどもうどこにも見当たらなかった。全ては過去形であった。憧れだった存在は美しいままに憧れとして残っていて欲しかった。もし一年前に茜と闘っていたら、憧れの存在を超えた達成感をリングの上で得られたかもしれない。しかし、もう遅かった。茜も響と同じプロデビュー戦である。プロとしての経験を茜も持っていないのなら、響の相手にはならないであろう。響の完勝で終わるという結末を誰もが予想をしていて、響自身もそう確信していた。そして、憧れという存在をKOし自分の淡い思いをも消失する光景を響は目にしたくなかった。  

 

 プロデビュー戦。女子でありながら異例のテレビ放送となった茜との試合は、誰もが予想をした通り、序盤から響が茜を圧倒した。真っ向から向かって行く茜の身体に響の左ジャブがことごとく突き刺さった。左腕を下ろして低い位置から左のジャブを打ち放つ響のデトロイトスタイルに茜はまったく対応出来なかった。

 

 デトロイトスタイルを使えるボクサーなど現代のボクシングにおいて希少であり、その使い手はごく僅かである。相手がデトロイトスタイルでくると分かっていても経験を積めなくては対策も出来ず、ぶっつけ本番でリングに上がるようなものだ。

 

 これまで響と対戦してきた多くのボクサーが下から斜め上へとジャブを放つ響の変則的なボクシングに全く対応できず、中間距離からいいように左ジャブを打たれ続け、その軌道に目が慣れ始める頃にはキャンバスの上に眠らされていた。

 

 茜も響に倒されたボクサーとまったく同じ道を辿っていた。デビュー戦のまだ17歳のボクサーにデトロイトスタイルに対応しろと望むこと自体が無茶な話である。しかし、響もまた同じ17歳のデビュー戦のボクサーなのだ。二人とも同じ条件でリングに上がっており、違うのは両者が持つ技術の圧倒的な差なのだ。デトロイトスタイルというチャンピオンクラスの技術をすでに身に付けている響とさしたる技術もない茜。いや、茜も響の目標の存在であったのだからその技術は十分に高いのだ。しかし、憧れであった茜をいつしか大きく追い抜いた響の天才的なボクシングセンスが同じ17歳のプロデビュー戦を残酷なものへとさせた。  

 

 下から斜め上へ放たれる響の左ジャブ。軌道が読みづらい上に弧を描くように伸びていくのだから、威力はジャブであってもストレートに匹敵した。その左ジャブが何度となく茜の顔面に当たっていく。茜は本気で防御をする気がないのではないのかと思うくらいに茜の顔面には面白いように左ジャブがヒットした。百発百中といってよいほどに。その光景は衝撃的であり、オリンピック銀メダルのプロデビュー戦を観に訪れた観客達を大いに満足させるものであった。響と茜の二人は小学生の時に同級生であるということは興行で配布されているパンフレットにも書かれ周知のことだったが、その両者の試合を煽るふれこみすら必要がないであろうと思うくらいに響のボクシングは観る者を魅了し、リングの上で孤高に輝きを放っていた。  

 

 バシィッ!!バシィッ!!バシィッ!!  

 

 響の左ジャブが多彩な角度から茜の顔面にヒットしていく。茜も肩で息をして苦痛に顔をしかめながら反撃を打つもののそのフォームは大きく崩れてしまっている。まともなパンチを打つことさえ出来ず両者の技術の差は開く一方であった。茜の顔面は頬も瞼も赤紫色に痛々しいくらいに腫れ上がっている。もう頃合いであった。いや、観客たちがそれを望みつつあった。決着の瞬間である。まだ2Rだが、響のボクシング技術は十分に堪能出來たし、茜ももう満身創痍に傷ついている。これ以上続けるのは残酷なショーを観るようなものだった。  

 

 しかし、リングの上で闘っている茜は両腕を高々と上げ前へ前へと出て闘志に満ちた姿を見せているのだから試合は続行のままだ。誰も止められない。打たれても打たれても茜は前に出て行く。まるでパンチが効いてないかのようにさえ見えてくる。  

 

 ズドォッ!!  

 

 まるでストレートのような響の左ジャブが茜の顔面を射抜いた。茜の顔面から血が飛び散っていく。左ジャブとは思えぬ強烈な一撃だった。それでも、茜は後ろに弾かれた顔を歯を喰いしばった表情で戻し再び前へと出て行く。  

 

 しかし、下からシュゴゴゴという音を立てて伸び上がっていく右拳が非情にも茜の気力をも刈り取っていく。響の右アッパーカットが茜の顎を打ち上げ、天井に向かって伸び上がっていく。  

 

 グワシャァッ!!  

 

 茜の両足がキャンバスから浮き上がり、その身体が宙に舞い上がった。茜がうつ伏せにリングに倒れ落ち、レフェリーがダウンを宣告した。  

 

 右拳を高々と突き上げていた響が拳を降ろし、倒れている茜に向けていた哀し気な目をニュートラルコーナーへと移した。誰よりも試合が早く終わることを望んでいたのが響であった。もう一つの武器であるアッパーカットを茜の顎に打ち込む過程を響は試合までに何度となくシミュレートした。どうすれば早くフィニッシュブローを決めて試合を終わらすことが出来るか。試合が長引けばそれだけ茜を傷つけることになる。リング上で茜に長い時間惨めな思いを味わせることになる。それを避けるために最速のKO決着のルートを事前に導き出し、そして響はこの試合でそのシミュレートを体現させた。リングの上で起きたことすべてが響の狙い通りの展開であった。  

 

 響はオレンジ色のボクシンググローブをニュートラルコーナーのロープに預け、空虚な目で「これで終わったのね…」と呟いた。何も満たされない4分間だった。子供の頃から待ち望んでいた茜との試合。もっと早くに彼女とリングの上で拳を交えることが出来たらわたしは充実した勝利を得ることが出来たのだろうか…。  

 

 しかし、テンカウントのゴングはいつになっても鳴らなかった。嫌な思いがよぎり、響はリング中央に目をやった。そこには鼻血で顔を真っ赤に染めながらもファイティングポーズをレフェリーの前で取ろうとしている茜の姿があった。  

 

 響の思いとは裏腹に試合が再開された。響が呆然とした顔でニュートラルコーナーから出て行く。茜の足取りは少し覚束ないが、しかしその表情は力強い眼差しを響にぶつけ闘志に満ち溢れていた。

 

「なんや、その顔は…。まさか勝ったと思ったんか?」  

 

 デトロイトスタイルを取らない、いや取ることさえ忘れている響に茜が言った。

 

「響、せっかくあんたと試合出来るようになったんや。うちをがっかりさせんといてな」  

 

 響ががっと茜を睨みつけた。

 

「がっかりさせているのはどっちよ!!」  

 

 響が激高し右ストレートを放った。茜の身体が反射的に動いていた。茜の利き腕である左ストレートが放たれ、両者の拳が交錯した。

 

 グワシャァッ!!  

 

 凄まじい音がした。響の右ストレートが茜の右頬を捉え、フィニッシュの一撃が決まった。しかし、響の左頬にも茜の左ストレートが抉り込まれている。茜だけでなく響までもがボクシンググローブに頬の肉を押し潰され、顔が醜く変形していた。むしろ茜の赤色のボクシングローブの方が抉り込むような形で強烈に響の頬を押し潰していた。

 

 観客たちは呆然とリング上の光景を見つめていた。ここまで痛々しく顔面を歪める響を目にしたことなど一度もなかった。世界の大会であっても。それがプロデビュー戦の茜がこの光景をもたらしたのだ。観客は息を呑み、場が張り詰めた。

 

「ぶほおぉっ!!」

 

 頬が押し潰され歪まった口から白いマウスピースが吐き出された。よたよたとした足取りで後ろに下がっていくのは茜であった。茜の身体はロープにまで下がり、その背中をロープに預けてかろうじて茜はダウンを免れた。

 

 クロスカウンターの相打ちに打ち勝ったのは響であった。茜のパンチの威力は見た目ほどではなかったのだとそう観客たちは受け止め、固まった空気がまた僅かに流れ始めた。

 

 カーン!!

 

 ここで第2R終了のゴングが鳴った。 茜はセコンドの斌(さやか)に肩を貸してもらいながら青コーナーへと戻っていく。一方の響は変わらぬ足取りで一人赤コーナーへと戻った。 青コーナーに戻り、スツールに座ったものの半分意識が飛んでいた茜は斌に大声で声をかけられようやく意識を取り戻した。もはや次のラウンドに臨めるかも分からない茜であったがその表情だけは依然として闘志を感じさせた。一方、赤コーナーでスツールに座る響はセコンドからダメージの確認を問われ、大丈夫ですと気丈な表情で答えていた。しかし、響は痺れが起きている下半身に焦りを感じながらインターバルの時間を過ごしていた。たった一発のパンチが身体の芯にまでダメージが響いている。その事実を頭で認識すると、響は茜に打ち込まれた左ストレートの映像が脳裏をよぎった。その軌道がよく見えたわけではないが、パンチを打たれた体感が生々しく蘇る。「あのパンチ…スクリューしていた…」 響はぽつりと呟いた。

 

 響の瞳孔が開き気味であるまま、第3R開始のゴングが鳴った。ラウンドが開始されたばかりなのに青コーナーを出た茜はだるそうに両腕を上げてファイティングポーズを構えている。一方、足の痺れが残る響はステップを小さくせざるえなかった。スピードが落ちているが下半身のダメージを気付かれないようにリズム自体を遅くしてフットワークを刻む。

 

 幸いにも茜にも青コーナー陣営にも気付かれた様子はなく、響は慎重に中間距離を保ちデトロイトスタイルの構えから左ジャブを打ち放っていく。茜はこれまで同様に響の左ジャブに対応出来ず二発三発と左ジャブを顔面に浴びるが、かまわずに右ストレート、左ストレートと連続して反撃に出た。中間距離という響の得意の間合いを維持する中で放たれた茜のストレートに響は危なげなくスウェーして対処していく。茜のストレートはまったく捻りが利いていなかった。スクリューブローを打てるとは到底思えない。

 

「そうよ…まぐれに決まってるわ」  

 

 響がほっとするように言葉を漏らし、三発目の茜のストレートを響は左腕でパリングして弾くと、右ストレートを茜の顔面に叩き込んだ。ダメージの蓄積が激しい茜は足元がもつれふらふらと後ろに下がる。チャンスとばかりに響が距離を詰め、パンチのラッシュを叩き込む。一発二発と響のパンチが当たると茜はロープを背にして、それから響のフックの連打をさらに浴びた。ロープが背に食い込み身体を丸めながら響の連打に耐える茜の姿は滅多打ちの様相を呈していたが、それでもなお茜が左のパンチで反撃に出た。両腕をたたみ折り密着した距離でコンパクトにストレートを打って出る。響はこのパンチのタイミングを完全に読んでいて、「またパリングして左のパンチを叩き込むわ」と右腕で弾こうと構える。しかし、茜のパンチは響の想定を上回る加速をしていく。  

 

 ドスウゥッ!!  

 

 茜の左拳が響の顔面を捉えた。さらに拳はきりもみして回転し拳が響の右頬にめり込まれていく。拳の回転運動に連動するように響の口から血が放射状に飛び散って出た。拳の回転が止まり茜のパンチが打ち終えた時、茜と響の動きが完全に止まった。リング上の攻防を間近で見守り続けていた赤コーナーと青コーナーのセコンドたちが一斉に目を大きく見開き息を呑んだ。何なのだろうか今のパンチは……。コークスクリューブローのようにも見えたがそれすらも凌駕する威圧するものがそのパンチにあった。プロデビュー戦の茜がそのようなパンチを打つはずが……。茜のセコンドである斌でさえも今のパンチが何なのか分からずにいる。  

 

 しかし、それは決して気のせいではなかった。茜が放った未知のブローに響の右頬は異様な形に捻じり押し潰されていた。響の顔の凄まじい変形の仕方に響のセコンドは言葉を失った。響の腰が砕け落ち、尻を付いてキャンバスに倒れた。  

 

 全く想定していなかった響のダウンに場内が騒然とした。どよめく声が場内をこだまして響く中、尻持ちを付いたままダウンしている響は口を開き呆然とした表情で宙を見ていた。  

 

 茜のパンチは確かに回転していた。それはけっして錯覚でもまぐれでもなかった。それどころか茜のパンチの回転の数は前よりも増していた。その驚愕の現象が響の心を著しく焦燥させた。幸いにも決定的なダメージにまではいたってなく響はカウント8で立ち上がった。 だが、試合が再開すると、響の出足は鈍く、逆に一気呵成とばかりに「うぉぉっ」と声を上げて攻めに出た茜の左ストレートを顔面にまともに浴びた。それは回転していない単なるストレートだった。駆け引きもない単純な大振りの左ストレートに過ぎず、そんなパンチをまともに浴びてしまった響を見て場内の観客からは響の身体のダメージが危惧された。 

 

 しかし、深刻なのはダメージの量よりも響の内面の状態であった。茜の回転するパンチの残像が響の心に恐怖を芽生えさせ、彼女の手足の自由を奪うのだった。茜にパンチを打たれると手足が何者かに掴まれたかのように動かなくなり、茜のパンチを浴びてしまう。茜の追撃のフックの連打をもいいように浴びる響の姿は衝撃的であり、ここにきて完全に失速した響が茜のパンチの猛攻に晒される光景は響のKO負けが現実のものとして迫っていることを覚悟させ場内は重苦しい空気に包まれた。

 

 あまりの急展開に場内を賑わせていた響への歓声は嘘のように消え、代わりに茜を応援する声が数は少ないものの威勢良く出始めている。名字でなく下の名前を呼んでおり、芯の通った声で茜を応援する彼女らは茜のジムメートにちがいなかった。関西弁で茜の名前を呼ぶ彼女らの声援も合わさって場内の空気は茜の色に染まろうとしていく。

 

 響はロープに追い込まれ、背中を丸めながらガードを固めて茜のパンチの連打に必死に耐えた。第3Rの残りの時間も僅かであと少しでゴングが鳴る。響は反撃を捨てただひたすらガードに徹しこのピンチを逃れようとしている。スピードがあるわけではないが荒々しく飛んでくるパンチの一発一発に響の背中がロープに食い込むように何度も激しく押された。その圧に変化が生まれた。空気が渦を巻くような荒ぶる振動を響はガードの奥から感じ取る。それは肌で感じ取ったほんの僅かな察知であったが、茜のスクリューブローに脅威を感じていた響はあのパンチが来るっとガードする両腕への力を強めた。

 

 ドスゥッ!!

 

 茜のスクリューブローは両腕をクロスした響のガードに防がれていた。計算して取った行動ではなかった。スクリューブローへの怯えが本能的に強固なディフェンスの構えを響に取らせたにすぎなかった。両腕をクロスして防いだというのに響の両腕はパンチの衝撃で腕の感覚が麻痺するほどの痛みが起きていた。もう一発スクリューブローを打たれたらクロスガードであっても防げない。パンチへの怯えのあまりに響の表情が引きつる。だが、ここで救いのゴングが鳴った。   

 

 カーン!!  

 

 第3R終了のゴングが鳴り、茜が左拳をゆっくりと引いた。響は大きく息を付いたが、茜が「まだ回転が足りん…」と独り言のようにぼそりと言うと、響の表情は再び固まった。茜のスクリューブローはまだ完成してないっていうの……。あれ以上のパンチの衝撃を受けるなど考えたくもない。茜のスクリューブローの重圧がさらに響の心に重くのしかかる。  

 

 赤コーナーに戻ると、セコンドの由子からは次のラウンドは距離を取って徹底して逃げなさいと指示を出された。次のラウンドも取られたとしても1Rと2Rに取ったポイントで判定で勝てると由子は言った。しかし、仮に逃げ切れたとしても判定で勝てるのか、響には判断が付かなかった。ジャッジは1Rと2Rで4点以上を響に与えているかもしれないし、3ポイントに留まっているかもしれない。それはどちらともいいきれない曖昧な加点であり、仮に4点以上を響が取っていたとしてもそれはオリンピック銀メダリストである響に対して甘く採点しているのかもしれない。

 

 茜との闘いでそのような曖昧な結末を自ら得たくはなく、由子の逃げ腰の姿勢は茜のドリルプレッシャーに怯えを抱き弱気になっていた響の心にかえって闘志を焚きつけさせた。茜から逃げ回るなんてあってはならない。自分のボクシングを最後まで貫いてみせる。心の中で呟き自分の意思を確認する響であったが、プロデビュー戦でセコンドの意に反して、「最終R、茜を倒しに行きます」と言い返すほどの強固な我は持っていなかった。それは後に防衛大学に進学する響の特性であったともいえるのだが、響は一人スツールに座りながら、最終Rをどう闘うべきかインターバルが終わる時間ぎりぎりまで考えるのだった。  

 

 一方、青コーナーでは斌が「よくやったよ」と茜を褒めて傷ついた身体のケアをしながら茜が放った未知のブローの説明をした。パンチの初速では真直ぐに向かっているパンチが肘が半分ほど伸びたあたりから捻りの運動が起こり始め、パンチが相手に当たる瞬間にその回転数が最高値に達して驚異的な威力を生み出す。それが茜のパンチの正体だった。斌はこのパンチをスクリューブローを超えたパンチ、「ドリルプレッシャー」と称した。パンチの命名をされて、茜は「最高に素敵な名前やん」と言って痣だらけの顔ににやっと笑みを浮かべた。必殺のパンチを得た茜は左右の拳をばすっと胸元で当てて、意気揚々と最終Rのゴングを待ち望んだ。  

 

 セコンドとの会話で俄然気持ちが高揚する茜と一人でどう闘うべきか苦心する響。対照的なインターバルの時間を送った二人の最終Rの闘いがゴングの音と同時に始まった。

 

 茜が最初から他の選択肢など全くないかのように一直線に向かって行く。一見すると技術の低さがそのまま表れているかのように見えるが、ポイントで負けている4回戦のボクサーが最終Rで取ったその行動は案外悪くないのかもしれない。一方、響は両腕を高く上げ構えていた。デトロイトスタイルの構えを取らない響は自身のボクシングを捨て、セコンドの逃げ回る指示を守る決断を下したのかのようにみえる。響の取った選択に場内から落胆の声が今にも聞こえてきそうだった。響のボクシングの象徴であるデトロイトスタイルが見られないどころか同じデビュー戦の新人相手に最終Rを逃げ切ろうとしている。ダウンを一度ずつ奪い合った好試合であるはずなのに期待を裏切られたなんともいえない空気が漂う。そうした観客の思いを背に受けながら、響は次々と襲いかかる茜のパンチを懸命に避け続けていた。

 

 最終Rの時間が30秒を過ぎようとしていた。残り90秒。このままいけば試合の勝敗は響のものになる。しかし、全身が汗にまみれて懸命な表情で必死にパンチを避ける響はこのまま逃げ切れるとは思えずにいた。ドリルプレッシャーの凄まじい衝撃が恐怖となって今もなお脳裏に焼き付き、響は自分の身体が思うように動かない歯がゆさを感じていた。そうした状況で試合をしているのだから身体への疲労の蓄積も普段の数倍になろうとしていた。まるで黒い靄が両手両足に絡みついているかのようである。自分の身体じゃないような鈍い感覚に陥り、一発もらったらノックアウトされるだろうドリルプレッシャーの重圧に耐えながら躊躇なく出し続ける茜のパンチの連打を避け続けるのは苦行といえた。  

 

 しかし、これらはすべて響の計算の内であった。セコンドの指示通り、逃げ回ってポイントアウトして判定で勝とうという思いは持ち合わせていなかった。デトロイトスタイルの構えを取らなかったのは、下半身のダメージからフリッカージャブを打つことは出来そうにないからだ。打てたとしても鞭のようなしなりがまったくないただのジャブになるだろう。自分のボクシングの主軸たる技を使えなくてはドリルプレッシャーという一撃でKO出来るパンチを持つ茜に負ける結末は十分に考えられた。まして試合の流れは今茜にあるのだ。セコンドの指示通り足を使って逃げ回ってもいずれ茜に捕まって攻勢にされてしまう。そう予測を立てた響が最終Rにセコンドの指示通りにリングの上を逃げ回っている。それは響が得意としているもう一つのパンチに勝負の行方を委ねたからだった。リングを逃げ回るのはあと40秒持つかどうか。でも、茜ならきっとそのうちこう言ってくるに違いない。

 

“いつまで逃げ回ってるんや!!プロのボクサーちゃうんか!!”  

 

 響の予測した言葉は試合時間が60秒を過ぎた頃、リング上で発せられた。

 

「響!!いつまで逃げ回ってるんや!!あんたプロのボクサーちゃうんか!!」  

 

 前に出ながら大きく口を開けて大声でそう言い放った茜。彼女の性格から読み取った言葉が現実の言葉になった事実が響を後押しさせる。  

 

 勝負に出るなら今しかない。逃げ回る消極的なボクシングに茜が焦れた今がカウンターパンチを打ち込む最大の好機。  

 

 相手に向けて発せられた怒声の残響が残るリング上で、二人のボクサーが前へ出て行く。 突如前へと出た響の行動の変化を見ても直進の勢いを止めずに茜は大きく右足を踏み込んで左ストレートを放つ。前傾するように踏み込む響は茜のそのパンチに合わせるように右のフックを打った。焦れてますます単調になった茜のパンチにならコンディションが最悪の状況であってもカウンターパンチを合わせられるはず。響の懇願ともいえる憶測は、しかし最悪の形で打ち破られた。  

 

 グワシャァッ!!  

 

 茜の左ストレートが打ち抜かれ、響の顔面が激しく吹き飛ばされた。誰もが羨むほどの美しい顔が目を塞ぎたくなるほどに醜悪な歪み方をして、銀メダリストの威光は完全に消えて無くなった。ノックアウトされたボクサーの姿でキャンバスに大の字に倒れ込み、響は全く動かなくなった。

 

「ダウン!!」  

 

 レフェリーが響のダウンを宣告し、場内が完全に静まり返った。

 

 朦朧とした意識の中で天井の照明に仰向けに大の字に倒れている身体を照らされ、響は自分がカウンターパンチに失敗したことをかろうじて認識していた。タイミングは完璧だった。しかし、茜のパンチの空を裂く音が耳に届いた瞬間、響のパンチは失速していった。パンチへの恐怖がまたしても響の身体の自由を奪った。茜に負けたんじゃない。自分の心の弱さに負けたのだ。小学生の頃から何も変わっていなかった自分に気付いて、響は自嘲気味に心の中で笑った。響が自分で自分にタオルを投げたその時だった。

 

「響!!こんな終わり方であんたええんか!!」  

 

 茜が叫んでいる。

 

「あんたが勝手に自爆したみたいでこれじゃ勝った気がせえへんやんか!!」  

 

 勝者になれる茜が試合を放棄した対戦相手に立ち上がって来いと言っているのだ。大の字に倒れまま宙を仰ぐ響の目元から涙がこみ上がってきた。  

 

 その涙はもう動かないはずの響のエネルギーとなっていき、彼女の心身の活力となっていく。  

 

 茜——————。  

 

 待ってなさい、今立ち上がるから。  

 

 ロープに両腕を絡ませて死に物狂いで響が立ち上がる。銀メダリストの満身創痍になりながらも立ち上がる姿に、そして、ダウンした対戦相手を鼓舞する茜の姿に場内から拍手が沸き起こった。もうオリンピック銀メダリストだから無名の新人ボクサーだからという色眼鏡を付けて観る者はこの場にはいなくなっていた。  

 

 弱々しいファイティングポーズに、もう試合を止められてもおかしくない響だったが、観客の拍手が試合を止められない状況を生み出した。レフェリーが試合を再開させ、茜が「うおぉぉっ」と大声を発しながらダッシュして向かって行く。  

 

 ロープと近い距離から動けない響だったが、一直線に向かってきた茜に左フックで機先を制する。自分で作った勢いがそのまま自分に跳ね返り、茜がよれよれと後ろに下がった。かろうじて踏ん張った茜が「やるやないか」と響に向かって言った。

 

「さあ、来なさい茜っ!!」  

 

 響が両手で相手を手招き珍しくパフォーマンスをみせる。両足が言うことを聞かない響の元へ茜が再び一直線に駆け寄り、二人の打撃戦が始まった。お互いが足を止めてパンチを打ち合う。全力のパンチを放ち続ける二人だが、恐るべきは響であった。相手が得意とする近距離で、満身創痍の身体だというのに茜のパンチを避け続け、パンチを避けた反動で的確に茜の顔面にパンチを打ち込んでいく。響をノックアウト寸前まで追い込んだ茜だというのに自身の得意の距離で歯が立たない。オリンピック銀メダリストの本領が発揮され、場内が沸いた。完全に恐怖を払拭した響のボクシングに観客は酔いしれた。技術の差がありすぎて二人の格の違いが改めてリングの上で鮮明になる。無類のタフネスぶりを誇る茜もKOされるのは時間の問題となりそうだ。しかし———

 

 再び窮地に立たされた茜は恐るべき行動に出て活路を開こうとする。  

 

 グワシャアァッ!!  

 

 クロスカウンターの相打ちが茜と響の顔面に打ち込まれていた。深々と相手の拳が顔面にめり込まれ、血がぽたぽたとキャンバスに垂れ落ちていく。パンチが顔面にめり込んだまま動けなくなった茜と響。血飛沫を口から吐き出して、前に崩れ落ちていくのは、響の方であった。あれほどパンチを打ち込んでいた響の方がたった一発の相打ちで打ち負けたのだ。 鉄人のように茜の身体はタフで響の身体はガラスのようにもろく観客の目には映った。そして、山崎茜というボクサーには技術の差を弾き返す得体の知れない底力が秘められているという認識を抱くようになっていた。  

 

 響がなんとか両足で踏ん張り、揉み合うようにお互いの身体が触れ合う。クリンチとなって打ち合いが一時休戦となった二人は小さな声で言葉を交わした。

 

「もう終わりなんか……」  

 

 茜も精魂尽き果てた状態になっていた。

 

「まだまだこれからよ……」  

 

 響も囁くように答えた。  

 

 ダメージも疲労も限界に達している茜と響。二人はレフェリーに身体を離され、試合が再開されるとまた前へと出て行く。ボクサーならではの機敏なフットワークは失われ、鈍臭い足取りに落ちていた。本能が二人の身体を動かしているにすぎない。響がまたしても左ストレートを当て機先を制した。さらに右ストレートと立て続けに茜の顔面にヒットさせる。この距離はリーチに勝る響に分があった。響が前へ前へと出て行く。茜のパンチを避けた隙に反撃のパンチを的確に当てる作戦をする気はなかった。いやもうそんな高度なテクニックを使える身体ではなくなっていた。気持ちでただパンチを打ち込むだけで精一杯だった。茜もパンチを打とう打とうとするのだが、先に響のパンチがヒットする。リーチの差が大きく影響しているのか、それとも気持ちの面でも響が茜を上回っているのか。四発、五発、六発。中間距離からストレートを打ち放つ二人は、響のパンチだけが次々とヒットしていった。苛立ちが最大限に達した茜は「うおぉぉっ」と気勢を発して左ストレートを放つ。しかし、そのパンチさえも響の右ストレートを先に打ち込まれ、空振りに終わった。そして、クロスカウンターとなった響のパンチの前についに茜が尻持ちを付いてキャンバスに倒れた。  

 

 レフェリーがダウンを宣告して、場内が再び沸いた。尻持ちを付いた程度のダウンであるから茜が立ち上がることは予想出来た。しかし、ポイントの面ではまた響が茜を上回ったかもしれない。ノックアウト出来なかったとしても響にとっては大きなダウン奪取であった。

 

 茜が立ち上がってくる。

 

「ボックス!!」  

 

 レフェリーの合図で試合が再開された。試合の残り時間はもう30秒を切っている。ダウンを挽回すべく、茜が前へ前へと出た。再びリーチに勝る響の左ストレートが茜の顔面に打ち込まれた。先ほどと同じ展開だというのに気に逸る茜が中間距離からストレートで反撃に出る。しかし、響のストレートがことごとく茜のパンチより先にヒットしていく。一発、二発、三発。一発当たるごとに茜の顔面から飛び散っていく血の量が増した。茜の顔面は鼻血が噴き出ていて鮮血に染まっている。

 

 威勢の良かった茜のボクシングはパンチが出なくなり、ついに響のストレートが一方的に茜の顔面に打ち込まれていく。二人の死闘はいよいよ終わりに近づいていこうとしていた。響のストレートが打ち込まれる度に茜の膝が伸び上がり、七度目の響のストレートが茜の顔面に打ち込まれた時、茜の膝は逆にがくっと折れ曲がった。もう限界と思われた。だが、茜は体勢を崩しながらも右のアッパーカットを放っていく。闇雲に放った茜の右のアッパーカットは、体勢の乱れが功を奏し、二人の距離が縮まりパンチの射程圏内に入っていた響の顎めがけて上昇していく。  

 

 グシャアァッ!!  

 

 茜の右のアッパーカットが響の顎を捉えた。奇跡的な一撃に響の顎が突き上げられて後ずさっていく。後ずさる響の動きがスローモーションのように茜には映った。極限の打ち合いに勝った茜の感覚が研ぎ澄まされてそう感じたのかもしれない。ここしかないっ。茜はここが勝利を掴む最後のチャンスだと思った。茜が響との距離を縮めながら左のストレートを放つ。渾身の一撃は螺旋状に拳が回転し大きなうねりを生み出しながら、今もパンチのダメージにのけ反っている響の顔面へ向かっていく。研ぎ澄まされた感覚が再び茜の拳をスクリューさせる。土壇場で打ち放たれた必殺ブローは、しかし、空を切った。  

 

 シュッ!!  

 

 パンチは空を切り、目の前から響の姿がいなくなっている。茜には何が起きたのか全く理解出来なかった。感覚が研ぎ澄まされて相手の動きがスローモーションのように映っていたのは茜だけでなかった。極限の打ち合いが響の感覚も極限に上げていたのだ。崩れた体勢の顔面に迫りくる茜の必殺ブローを驚異的な反射で下にかわす響。あまりの速さに茜の目には響の身体が消えたように映った。極限の感覚に陥った二人の攻防は、この瞬間に決着が付いた。そして、二人の死闘にも終止符が打たれる。無防備な茜の顎にめがけて響が伸び上がるように右のアッパーカットを放っていく。  

 

 グシャアァッ!!  

 

 茜の身体が宙へと吹き飛ばされていった。膝と連動して全身が伸び上がり右拳を天井へ突き上げる響。その美しいアッパーカットのフォームに、そして宙に高々と吹き飛ばされていく茜の姿に、観客たちは言葉を失い魅入らされた。茜が血を噴き上げながら身体が反転し、そしてキャンバスに倒れ落ちた。  

 顔をキャンバスに埋めて仰向けにダウンしている茜。驚異的なタフネスを誇る茜ならもしかしたらまた立ち上がってくるかもしれないと観客たちは恐れるように彼女に目を向ける。しかし、キャンバスに埋まる茜の顔面から血が広がっていく。想像を絶する響のアッパーカットの威力に観客たちの血の気が引いていく。死闘を制したパンチの威力はあまりにも凄まじくタフネスを誇る選手ならば立ち上がれるというレベルではもはやなかった。微動だに出来ずにキャンバスに赤い塊を作る茜の壮絶な姿にレフェリーさえも真っ青になり、慌てて試合を止めた。  

 

 カーンカーンカーン!!

 

「第4R1分43秒勝者~伊達響~!!」  

 

 試合終了がアナウンスされると場内がどっと沸き上がった。ニュートラルコーナーに背中を預けていた響がレフェリーによって右手を高々と上げられる。しかし、響は勝利の余韻に浸ることなくすぐに倒れている茜の元へ近寄って行った。  

 

 斌に背中を支えられ介抱されていた茜が響の姿に気付くと、茜は斌に肩を貸してもらってなんとか立ち上がった。

 

「やっぱり強いなぁ、響は」  

 

 KO負けされたばかりだというのに茜は子供の頃に近所の男の子に喧嘩で負けた後のようににかっと笑って言うのだった。そんな茜の姿を見て響は、

「あなたもわたしの憧れの茜だったわ」  

 と言った。それから、握手しようと右手を差し出そうとした響は両腕にグローブがはめられていることに気付き、両腕を彼女の背中に回し、抱擁するのだった。 

 

 

 デビュー戦こそ二度もダウンを喫しKO寸前にまで追い詰められた末の薄氷を踏む勝利だった響は二戦目以降は2R以内に対戦相手をKOするという圧倒的な強さを見せつけていく。オリンピック銀メダリストの実力をプロのリングでもいかんなく発揮していく響は、六戦目で日本チャンピオンとのタイトルマッチに挑むのだが、この試合ではわずか第1R数十秒でKO勝利し、日本王座をあっさりと手にするのだった。周囲からは早くも世界王座のベルトへの挑戦の期待が上がるが、しかし、響の胸の中にあったのは茜との再戦であった。  

 

 デビュー戦で試合をして茜にKO勝利したものの、茜に「立て!」と鼓舞されなければ響は立ち上がれなかった。あの試合で茜に勝利したとは思えない響はいつしかまた茜と闘いたいという思いを胸にずっと秘めていた。その思いは世界王座のベルトを手にすることよりも重い。茜も二戦目以降勝ち続けた。響と違い、圧勝というわけではなく苦戦の連続だったがそれでも負けずに勝ち上がっていった。そして、二人は日本王座という舞台で再び拳を交えた。チャンピオン伊達響、挑戦者山崎茜として……。

 

 

「響おるかっ?」  

 

 防衛大学ボクシング部の練習室の扉が開かれ、思いがけない女性の声に響がびくっとして扉の方を見た。関西弁を話す知人の女性は一人しかいないのだから、まさかと思ったがそのまさかはあたり、茜が立っていた。

 

「どうしたのよ急に……」

 

「急でもないやろ。明日山之井ボクシングジムに行くんやから」  

 

 ドリームトーナメントでチームメートとなった茜とは明日、山之井ボクシングジムに行く予定であった。同じく大会に出場する予定のジム所属の選手と三対三の団体戦を想定した親善スパーリングを行うのだ。2週間後の大会に向けた最後の調整である。そのために茜がわざわざ大阪から来てくれることになっていた。

 

「下北沢駅で待ち合わせっていったじゃない」

 

「せっかくやから一緒に練習しよ思てな。東京きたんやし」  

 

 響は額に右手を当てて目を瞑った。

 

「あなたのジムじゃないんだから、そういうことは事前に行ってもらわないと」

 

「さっき東京に着いた途端思いついてな。堪忍、堪忍っ」  

 

 茜は右の掌を顔の前で立てて苦笑いを浮かべる。響が壁にかけられた時計を見て、

「コーチがあと10分もしたらくるから了解を取ってみるわ」  

 と言った。

 

「悪いなぁ」  

 

 茜は相変わらず愛嬌のある苦笑いを浮かべている。

 

「そこに座って待っててくれる」  

 

 茜は響が指定した長椅子に腰をかけた。響はまたシャドーボクシングを再開する。しかし、もうイメージする姿を誰か浮かべる気にはなれなくなっていた。漠然としたシャドーは案の定、なんとなく身体を動かしているだけにすぎず、茜が待っている間の手持無沙汰の時間を消費するだけが目的となっていた。

 

「流石やなぁ」  

 

 茜が本当にそう思っているのか適当にそう言っているのか分からないが、響は気にせずにシャドーを続けた。

 

「それにしても、響がチームのメンバーに入ってくれるとは思わんかったわ」  

 

 そこで響の身体が止まった。

 

「そう?」  

 

 響がファイティングポーズを取ったままの格好で聞いた。

 

「団体戦は興味なさそうやん」

 

「そうでもないわよ」

 

「そうか。まぁうちは響とチーム組めて嬉しいからええんけど」  

 

 部室の扉がまた開き、響のコーチである鼎(かなえ)馨が姿をみせた。響は馨の元へ行き茜が来ている事情を話し、合同練習の許可の指示を仰いだ。馨から許可を得た響は茜との会話で胸の内に秘めていた言葉をそのままに、茜にこの場で練習出来る許可を得たことを伝えた。  

 

 ドリームトーナメントに参加するのはあなたがチームのメンバーにいたからよ。 響はその思いを彼女に伝えることはないだろうと思いながら、初めての茜とのトレーニングの準備をするのだった。