「桜真選手、惜しかったですね。あともう少しというところまでいってたのに。それにしても花奈房選手、ちょっと強過ぎませんか!? いっぱい勉強出来ることもあるだろうし、わたしもグローブ合わせてみたいなぁ……」

 

 ヴィーナストーナメント準決勝第一試合で月詠志穂との試合に敗れ、控え室で休んでいたマリアは懇意にしてもらっているボクシング雑誌の記者と共に準決勝第二試合桜真白銀対花奈房柚花との一戦を見終えてそう呟いた。花奈房柚花の必殺ブロー、トリプルアッパーを食らいダウンを喫しながらもその後にボディブローからカウンターでアッパーカットを浴びせて逆にダウン寸前まで桜真白銀は花奈房柚花を追い詰めた。しかし、逆に追い詰められながらも次のラウンドでトリプルアッパーを再び当てて勝利をもぎ取った花奈房柚花のボクシングを見てマリアは感嘆の声を漏らしたのだ。フットワークを駆使したアウトボクシングの同じスタイルで闘うボクサー。歳も二歳だけとそうは変わらない。その花奈房柚花と闘うことで自分には足りない何かを得られることが出来るんじゃないかと、そんな思いが無意識のうちにマリアは花奈房柚花との試合を切望するようになったのだ。

 

「ちょっと強過ぎませんかってそう佐々木選手が言ってたの? いや、それは持ち上げすぎだよ。ねぇアキラ」    

 

 大会が終わって二か月。Blow of Fate第二回興行で佐々木マリアとの試合が決まった柚花はカードが決まるまでの経緯をトレーナーのアキラから聞かされてそう照れ臭そうに言った。佐々木マリアが柚花と一戦交えたいとそうぽつりと漏らしその言葉を隣で聞いたボクシングスピリッツマガジンの記者が翌月の雑誌にて掲載し、反響を呼びBOF協会がファンの声を汲み実現にいたった。それまで佐々木マリアの柚花への発言を知らなかった柚花は彼女の思いを知って照れ臭い思いを持ちながらも彼女への関心が急速に高まった。スピードが速いボクシングをすることは知っている。ブロックが違っていたからじっくりと彼女の試合を見ている余裕はなかったけれど、自分が決勝戦で完敗に終わった月詠志穂に最も苦戦させられた相手と言われていることも大会終了後に目にしている。実力者の一人であることは間違いないと思っていた。  

 

 そんな印象を佐々木マリアに対して柚花は持っていたが、彼女の試合の映像を実際にこの目で見て彼女の実力を過少に思い描いていたと焦りの感情を抱かされた。こんなに速いボクシング見たことない。彼女と試合をして勝てるかどうか……。未知との遭遇ともいえるその迅速のボクシングに柚花は緩み気味だった思いを引き締めさせられたのだった。  

 

 満員の後楽園ホール。その前の二試合でKO決着が続きその熱の余韻が残る場内でリング中央で対峙する柚花とマリア。まだ19歳と17歳の少女が2000人近い観客を集めた興行のメインイベントを務める。二人は初々しさを放ちながらも猛々しくもどこか乾きを帯びたような気を漂わせる。それは火薬の匂いがしてくるような危うさを伴ったものだ。  

 

 二人とも呼吸の音が聞こえてきそうなほど間近に立ち合っているのに相手の目を見つめようとしない。この試合への、そして相手への思いを濁らせたくないかのように視線を合わせることを二人は拒否していた。  

 

 試合開始のゴングが鳴る。コーナーを小気味よく出た柚花とマリアは互いの赤いボクシンググローブを合わせた。それを合図に二人は距離を取り、フットワークを刻み始める。距離を取りながら柚花とマリアはリングの上を円を描くように周りながら相手の様子を見合った。

 

 第1Rは展開という場面はなく終わった。マリアは柚花の必殺ブローであるトリプルアッパーに柚花はマリアのスピードを警戒し様子見をしているようだった。

 

 第2Rが始まる。様子見は終わりとばかりにマリアのスピードが一段階速まった。リングを駆けながら打ち放つ彼女の左ジャブに柚花はガードをするので精一杯のようだった。柚花の手数がめっきり減っていく。マリアの左ジャブの弾幕に柚花はガードを固め、ガード越しから伝わってくるその衝撃にもどかしそうに顔を歪める。  

 

 しかし、40秒が過ぎた頃、柚花が一瞬の隙を突いて飛び込みボディブローをマリアに打ち込んだ。パンチを当てると柚花は後ろにステップして距離を取る。そして、またタイミング良くボディブローを打ち込むことに成功する。遠い距離からダッシュしてボディブローを打っては離れる。ヒットアンドアウェイと呼ばれる技術を柚花は駆使する。一発打っては離れることを繰り返し一見地味であるが、しかし、安全な距離から素早く駆けボディブローを打ちまた安全な距離に逃げるボクシングは嫌らしくやっかいな戦法である。スピードではマリアが上をいっているのに柚花は間の取り方が功名だった。スピードがすべてじゃないということを教えるかのように柚花のボディブローが面白いように当たっていく。マリアのお腹が赤く変色し始めその顔はまだ一発のダメージも受けてないのに焦りの色を覗かせる。

 

 そして、また柚花のダッシュからのボディブローが決まる。その一撃にマリアの身体がくの字に折れ曲がる。顔がくしゃくしゃに歪まるが、しかしマリアは右拳に力を込める。柚花が離れたところに右のストレートを当てる。そう先の展開を思い描いていたマリアは下から突き上がってきた一撃を浴びて、意識が飛ばされた。右拳で顎を突き上げられてマリアの瞳が宙を泳ぐ。その一撃でマリアの両腕がだらりと下がり無防備になったところにさらに柚花が左のアッパーカット、そして右のアッパーカットと打ち込んだ。一瞬の間に三発ものアッパーカットを浴びたマリアの身体は宙に舞い上がった。

 

 人間の身体がパンチでこんなにも飛ぶのかというくらいにマリアの身体は高く宙に飛ばされた。

 

 大きな音を立ててマリアは背中からキャンバスに倒れ落ちる。その衝撃にマリアの身体は一度弾み、そして、両腕をバンザイした姿で倒れたまま微動だにしない。柚花の必殺ブローを目にし観客が沸き上がりレフェリーがカウントを数える中、マリアはトーナメントで何人ものボクサーを倒した柚花の必殺ブローの威力に打ち震えていた。  

 

 早くも試合は決まった。そう思わせるほどの倒れ方をしたマリアだがカウント8で立ち上がる。  残り時間が少なくゴングに救われたマリアは早くも満身創痍の姿で青コーナーのスツールに座る。一方の赤コーナーの柚花はほぼノーダメージといっていい姿でセコンドのケアを受けていた。  

 

 観客の興味が柚花の早い回でのKO勝利に移っていく中、第3R開始のゴングが鳴った。第2R同様に柚花はヒットアンドアウェイの戦法を取り、ボディブローを打ち込もうとする。しかし、マリアはクリンチを繰り返しなりふりかまわない姿で追撃を受けないようにする。再三にわたるマリアのクリンチに場内からはブーイングが起こるが、それでもマリアはクリンチを止めなかった。柚花はくると分かっていても最速の足を誇るマリアのクリンチになかなか対処することが出来ずダメージの回復を許していた。

 

 そうして、追撃を与えることが出来ず第3Rが終了する。またクリンチに徹せられたらやっかいだな……。そう思いながら柚花は赤コーナーへと戻っていった。ダメージの回復に徹するマリアをどう打ち崩すか。セコンドのアキラと言葉を交わしながら、作戦を合わせる赤コーナーだったが、しかし、次のラウンド、リングの上で赤コーナー陣営が目にしたのはマリアのパンチを被弾し続ける柚花の姿だった。

 

 マリアはこのインターバルでスピードを完全に取り戻していた。しかし、まったく予期でなかったのは、マリアが前に前にと出る姿だった。これまで彼女のその迅速のフットワークは相手との距離を取ることを前提に使われていた。だが、このラウンドではマリアはダッシュしては強いパンチを再三に渡って打ち込んでいく。相手を倒すという思いが打ち放つパンチの一発一発からひしひしと伝わってくる。非力ながらもその迅速のスピードと合わさった攻めのアウトボクシングは、柚花の身体に被弾の雨を浴びせ瞬く間に彼女の顔を赤く染め上がらせた。鼻血が流れパンチを受けるたびに血飛沫が宙に飛び散っていく。二人のダメージは逆転し、足取りに鈍りが見え始めた柚花が意地になって反撃に出た瞬間、衝撃的な一撃が見舞われた。右ストレートを打ちに出た柚花が突然、糸が切れたマリオネットの人形のように前のめりに崩れ落ちていく。赤く染まったマウスピースを口から吐き出しながら両腕をだらりと下げて倒れ落ちていく柚花。彼女の姿をマリアは顔色一つ変えずに落ち着いた目線で見続けていた。柚花が顔からキャンバスに倒れレフェリーがダウンを告げる。

 

 右のストレートを打ちに出た柚花の顎を瞬時に打ち抜いたマリアの右のショートフックのカウンター。 しかし、そのあまりのパンチの速さに観客は何が起きたのか理解出来ずにいる。そして、うつ伏せの状態でレフェリーのカウントを聞く柚花もなぜ自身が倒れているのか分からずにいた。分かっていることは自分の身体がピクリとも動かないくらいにダメージを受けていることだけだ。セコンドのアキラが何度も張り詰めた声で飛ばす激に途切れそうな意識を何とか繋ぎ止め、柚花はかろうじてカウント内に立ち上がる。  

 

 試合が再開されるものの再びマリアの最速のパンチの前にいいように打たれ続ける。非力ではあるがその最速の拳が銃弾のごとく無数のパンチの被弾をもたらし柚花の顔面は原型を留めないほどに醜く変形を遂げる。  

 

 この試合で脱皮を果たしたスピードプリンセス。最速であり正確無比でかつ攻撃的なマリアのボクシングの前に柚花のボクシングではもはや相手にならなかった。サンドバッグのように一方的に打たれ、血飛沫を噴き上げ彼女の鮮血がキャンバスに無数の赤いシミを染み込ませていく。  

 

 スピードで上をいかれてパンチの正確さでも負けている。アウトボクサーとしてマリアに敵わない柚花はもうダメかな……とマリアのパンチを浴びるたびに弱音の声が心の内であがる。でも、一つだけ負けてないものがある。きっとこれだけはあたしの方が……。マリアのスピードを充分に捉えられずにパンチを当てることさえままならない柚花。マリアの隙を見つけることが出来ずにパンチの雨を浴びる中、右フックを頬に打ち込まれて膝が折れ力尽きるように前のめりに崩れ落ちていく。柚花の身体がマリアの身体に当たる。

 

「この距離ならスピードは関係ないよね」  

 

 柚花が両足でキャンバスを繰り上げて右拳を振り上げる。  

 

 グワシャァッ!!  

 

 柚花の右アッパーカットがマリアの顎を捉えた。そして、左、右。三度のアッパーカットがマリアの顎を打ち上げる。起死回生のトリプルアッパーカット。マリアの身体が再び宙に舞う。  

 

 大逆転となる一撃に場内が大歓声に沸く。 しかし、マリアもまたカウント内に起き上がる。ここまで相手を追い込み、そしてなにより自分に足りない何かを掴みかけて負けるわけにはいかない。  

 

 足がぷるぷると震えるマリア、そしてダウンを奪った柚花もまた両足が震えていた。

 

「負けられない!」  

 そう叫びながらマリアにパンチを打ち込んでいく柚花。

 

「わたしだって!」  

 柚花に呼応するように叫んだマリア。満身創痍の二人のアウトボクサーは思うようにならなくなった機動力を捨てて足を止めて打ち合った。血飛沫、汗飛沫を飛ばしながらパンチを浴びせ合う二人。至近距離であってもパンチのダメージでボロボロになっていてもマリアはパンチの数で相手を凌駕する。その手数に圧倒されいいようにパンチを浴びた柚花。しかし、何発パンチを受けても彼女は倒れなかった。そして、一発のパンチの威力で応戦する。  

 

 第7R、柚花の左ジャブを無防備に浴び続け、マリアが後ろに崩れ落ちるように倒れた。もはやジャブを耐えきる力さえマリアの身体には残っていなかった。高度な技術は見る影もなくなりただひたすらにパンチを打ち続けていた柚花とマリア。その泥臭い打ち合いの末に力尽きたマリアのダウンに青コーナーからは「立て!マリア!立ち上がれ!」と悲壮めいた様相で声が上がる。  

 

 もはや力は残っていないはずなのにマリアはその声に呼応するようにロープを掴み立ち上がる。  

 

 ゴングが鳴り、試合はついに最終Rに持ち越された。  

 

 最終R開始のゴング。ままならない足取りでコーナーを出る柚花とマリア。フットワークはもう使い物にならない。パンチの当たる距離で足を止める二人。その瞬間、天にめがけて伸び上がっていく柚花の拳。瞬時の間にその数は三度を数えた。  

 

 重く鈍い打撃音もまた三度と響き渡り、マリアの身体が宙に舞い上がった。観客達は息を呑み、照明に照らされて飛行する彼女の姿を目で追い続けた。  

 

 背中から倒れ落ち、身体が二度キャンバスに跳ねた。リングの端まで飛ばされて仰向けに倒れたその身体は荒く息が上がりその度にお腹が上下するだけで身動き一つ取れない。その瞳は弱々しく何も捉えてなく、力なく開いた口からは血に染まったマウスピースがはみ出ていた。血と汗がへばりつき痣だらけのその身体は力はおろか闘志さえも尽きているように映り、打ちのめされたこのボクサーにこれ以上のファイトを期待する者はもう誰もいなかった。  

 

 

 

 試合終了のゴングが打ち鳴らされる。

 

 こうして、スピード対決は幕を下りた。

 

 

 パンチのダメージで五日間の入院を余儀なくされた柚花は退院してから二週間後になってようやく練習を再開した。ロードワークのために早朝に家を出て、まだ太陽が十分に出ていない空を柚花は見上げる。そして、完全に勝ったとは思えない対戦相手の顔を思い浮かべ、「よしっ」と声を出して、走り出した。