父親である繁長とジムの会長が後ろで見守る中、赤コーナーに立つ星が対角線上の青コーナーへ目を向けた。
世界で一番強い女性が私の目の前にいる……。
MLBリーグのチャンピオンとリングの上で対峙して、星は国歌斉唱がなくてもこの試合が世界タイトルマッチであるかのような抑揚が体中を漲っていく。
覚えてるこの感覚……。
お伽噺のような子供の無邪気な感傷に包まれた映像がふと沸き上がり星は意図せずして幼き頃の記憶に触れた。
お父さん、すごいなぁ……。
まだ5歳だったし私は女子だったからものすごく興奮したわけじゃないしむしろ心配しながら試合を見てたんだけど、試合が終わって父の勝利を知ると、ほっとして漠然とそう思った。
でも、あの時の感覚だけは忘れずに今も覚えている。
心が満たされたような思い。
でも、ずっと思い続けていたわけじゃない。
数年前の夏休み、高校野球のテレビ中継で母校が全国優勝した瞬間も自分のことのように喜んだ。でも、どこかで物足りなさを覚える日々を送っていると漫然とそういう思いが心の片隅にあった。
心が満たされるような思い。父親が味わせてくれた瞬間を思い出しのは、奇しくも父親が立っていた同じ場所。ボクシングのリング。不本意ながらも父親に泣きつかれてNPBリーグを目指すようになって、出場の資格をかけて闘った初めてのボクシングの試合。その試合に勝利した私は心が満たされていく感触を味わった。
私も全力で何かに打ち込んで満たされたい。幼い頃、私は世界チャンピオンとしてリングの勝者になった父親の姿を見て漠然とそう思ったことをその時、思い出したのだ。
でも、私が味わった思いは父親に比べたらまだまだ。いつか世界で一番強い人と闘って勝ちたい。そう願ってボクシングのリングに立ち続けた。
そして、今、世界で一番強い人と闘えるチャンスを得た。
やってやるぞ。
右のパンチを軽く振り、星は自分の気持ちを鼓舞させる。
星はレフェリーに呼ばれ、リング中央へ向かった。
アイリーンと対峙して星は気持ちで負けないよう強い視線を彼女に向ける。
「タカハと試合できると楽しみにしてたんだが、口だけ娘を大将戦にもってくるとはね」
アイリーンが発した言葉に
「口だけ娘!?」
と星が不快感を露わに言った。
「これでも調べてあるんだぜ。お前さん今年のリーグ戦は負け越してるんだってな。よくそんな情けない戦績で私で十分だなんて私に啖呵を切ったもんだ」
アイリーンは呆れた表情で両腕を開いて掌を上に向けた。星はかっとなって反論しようとしたが、それをしたらアイリーンのペースにはまってしまうと思い毅然と言い返した。
「もうあなたの挑発には乗りません」
アイリーンが右拳をすっと伸ばし身体に触れた。
「なっ何するんですか!?」
驚いたように声を張り上げる星は視線をその右拳へと下す。彼女の右拳が当たっているその位置は星の左の脇腹。
アイリーンは何も言わずに拳を引き、赤コーナーへ戻っていく。拳を相手の身体にあてたアイリーンの行為の意味を星は青コーナーへ戻りながら考える。
ボディブローでKOしてみせる。
予告KOならぬ予告フィニッシュブロー。大胆不敵なアイリーンの振舞いに星は奇しくもそのパンチが自分が得意とするパンチと同じであることに気持ちがいった。
それって偶然? それとも……。
「あんなのアメリカ流のパフォーマンスにすぎない。気にするな星」
会長の言葉に星は「はい」と頷いて気落ちを切り替える。
「ねぇ、星、本当にあの戦法をやるのかい」
心配が滲み出た言葉を発したのは、繁長だった。
「この場になって何言ってるのよ。試合前に何度も確認したでしょ。アイリーンに勝つにはこれしかないって」
「それはそうだけどでも……」
口ごもる繁長。でも、その後に言いたかったことは聞かなくても分かる。
あの闘い方をアイリーンを相手にするのは危険すぎる。
そう言いたかったんだろうけど、その言葉を飲み込んでくれた。
「大丈夫だってお父さん」
セコンドの不安を逆に取ろうとしている。どっちが親で出どっちが娘かこれじゃ分からない。そう呆れつつも娘の身体をいつも気遣ってくれる父の優しさに星は少し嬉しさも感じる。昔の私だったら闘う意欲をそぐこと言わないでよって不機嫌になってたろうけど。
「わかったよ星。思う存分闘ってきな」
繁長の言葉を胸に止め、試合開始のゴングが鳴ると、星は赤コーナーを出て行った。
星はややオープン気味に両腕を構える。相手がパンチを打ってくる瞬間が分かる。星にはそういった能力に長けていた。それは世界チャンピオンであった父親譲りの天性のもの。父はその才能を活かした攻防一体のボクシングで世界チャンピオンになった。
しかし、星は相手が打つパンチが分かっても避けた後の攻撃への移行がまだまだであった。そのために相手のパンチを避けても反撃に移ろうとしたところにパンチを受けたりすることもたびたびだった。そして、何より問題だったのが相手がパンチを打つ瞬間を読み間違えて致命的なパンチを浴びてしまうことが少なからずあったことだ。父親譲りのパンチの察知能力を十分に活かせていない。それでNPBリーグに参戦した当初、不用意にパンチを受けて逆転負けしてしまったり、あっさりと試合序盤で負けてしまったりして思うように勝ち星が伸びなかった星はその闘い方を捨て、ガードを重視したオーソドックスなボクシングへとスタイルを変えた。自身の才能に頼らずにまずはボクシングの基礎的な技術をしっかりと上げていくことにしたのだ。それ以降、徐々に戦績は伸びていったもののトップクラスの選手に勝つにはまだまだであった。
そんな星が転機を迎えたのが去年のシーズン。3位までの選手が日本シリーズの出場をかけてトーナメントで闘うセントラルリーグのクライマックスシリーズに3位で出場権を得た星は、2位の選手との試合の時に追い詰められたその時、相手のパンチを察知して読むあの能力を無意識に発揮して逆転勝利をした。1位選手との試合でもその能力を使い試合に勝ち念願だった日本シリーズへの出場する権利を得たのだ。惜しくも日本シリーズではパシフィックリーグ代表の選手鷹羽南海に敗れたものの、自信を深めた星は、対戦相手や試合展開によってオーソドックスなボクシングと相手のパンチを察知して避けながらせ攻めていく二つのボクシングスタイルを使い分けるようになった。
特にインファイターを相手にするときに後者の闘い方をするようになった。アイリーンのボクシングは両腕を顎の前で固めるピーカブースタイルから距離を詰めコンビネーションを放っていく攻撃的なボクシング。星は自分の意志でオープン気味にかまえて闘うボクシングを決めた。圧倒的なパンチ力を誇るアイリーン相手にその闘い方は危険すぎるという声もあったが星は決して自分の考えを曲げなかった。負けても仕方ない格上の選手相手ならなおさらリスク覚悟のボクシングをする必要がある。いや、アイリーンに勝つにはその戦法しかなかったといっていいと思う。
アイリーンの右肩のかすかな動きが見えた。
右のパンチが飛んでくる。右ストレートにちがいない。そこまで予測できていながらも、星はアイリーンのパンチに反応することすら出来なかった。
グワシャァッ!!
星の顔面を的確に捉えたアイリーンの右ストレート。その一撃に顔面を潰された星はひしゃげた顔面から「ぶふぅ」と唾液を吹いて、バンザイのように両腕を上げて後ろへ崩れ落ちた。
「悪いね始まったばかりだっていうのに。あまりに隙だらけだったもんでね」
リング中央で派手に倒れている星に向かってそう言い放ち、アイリーンはニュートラルコーナーへ向かう。
早くも大歓声が起きる場内。秒殺KOか? 予想していた通りの強さを見せつけるアイリーンに観客は興奮しきっていた。
星はカウント8で立ち上がる。しかし、その表情は弱々しくダメージが身体に残っているのは明白であった。試合が再開されると、星はオープン気味に開いていた両腕を内側に寄せガードを固める。
相手のパンチを察知してもパンチの軌道すら見えなかった。けた違いのアイリーンのパンチのスピードに星は、まだ試合が開始されて30秒も経ってないというのに試合前に決めた闘い方を放棄せざる得なかった。
ガードを固めて左のボディブローから相手を崩していく。通常のファイトスタイルでの闘いに急遽変えた星だったが、その闘い方ではNPBでも平均レベルの実力でしかない。世界最高峰のMLBリーグを三連覇しているアイリーン相手に通用するとは思えなかったが、それでも僅かな勝利の可能性を信じて星は攻めていく。
両足を地につけてどっしりと身構えるアイリーンに星は左ジャブを打ち様子をうかがいながら、隙をみて踏み込み左のボディブローを放った。確かな手応えが星の右拳に伝わってくる。自分の得意とするパンチがアイリーンに当たった。いけるかもしれない。そう思い、アイリーンの表情をうかがう星だったが、アイリーンは平然としてこちらを見ていた。
「いいパンチだな」
そう言い、
「3Aでなら通用するかもしれないな」
うっすらと唇の端を持ち上げる。3AとはMLBリーグの下部組織にあたる。つまりはマイナーリーグ。馬鹿にしないでよと星はもう一度左のボディブローを打った。しかし、そのパンチはアイリーンの右腕で防がれた。
次の瞬間、星のお腹に凄まじい衝撃が走った。星の口が膨らみ、唾液を放射上に吹き上げてマウスピースを吐き出した。星が両腕をお腹に当てて苦しみに満ちた表情で前のめりに崩れ落ちていく。
レフェリーがダウンを宣告した。
「相手の得意のパンチで倒す。ショーとしては最高だろ」
そう言い放ち、アイリーンはまたニュートラルコーナーへ向かう。そこに自身が向かうのは当然のごとく自然に。
星は唾液が口の端から垂れ流しながらもカウント8でかろうじて立ち上がった。試合が再開されるものの、アイリーンは悠然とニュートラルコーナーを出て行く。一気に仕留めようとしない。試合を終わらすことはいつでも出来る。そんな余裕からかチャンスでもじっくりと星の様子をうかがう。
星はガードを固めてアイリーンの単発のパンチをなんとかしのぎきり第1R終了のゴングが鳴った。
「星、もう試合は止めにしよう」
第1Rが終わったばかりだというのに弱りきった姿で赤コーナーに帰ってきた星に繁長が言った。星は首を横に振る。
「まだ試合は始まったばかりだよ。お父さん、大丈夫、挽回してみせるから」
試合開始前に立てた作戦は通用せず、絶望的な状況の中で星は健気にそう言った。
勝利への意志を捨てない限り、試合に勝てる可能性はあると信じて。
ドボオォォッ!!
重たく鈍い音が生じ、耳を塞ぎたくなるほど苦しみに満ちた少女の呻き声が上がる。星が両腕をお腹に当てて、苦しみで顔を歪め口元から唾液を垂らしながら前のめりに崩れ落ちていく。これまで何度となく繰り返されてきた光景がまたリング上で起きた。
「あ~っと浜野またしてもダウン。これで7度目のダウン。アイリーンの強さだけが光るここまでの展開。これはもう試合を止めた方が良いんじゃないでしょうか」
そう大声で実況するアナウンサー。
「あかん。まさかここまでアイリーンが強いなんて……」
這いつくばるように倒れたまま微動だにしない星を見て、観客席の織姫がそう言った。
「でも、星さんのダウンはほとんどがアイリーンのボディブローの一発からです。アイリーンが得意とするコンビネーションブローを受けないうちはまだチャンスはあります」
そう言う公映の声も流石にいつもの平静さは消え心配な思いがうかがえる。
「そうは言ってもパンチが当たらないことには勝てへん。アイリーンがまだ本気を見せてない今ならまだ勝てるチャンスはある。どうか立ってや星……」
織姫の願いが届いたのか星がカウント8で立ち上がる。試合は再開されるものの、ダメージの蓄積でもはやその場から動けずに立ち尽くしたままの星にアイリーンが言った。
「打たれ強さだけはMLB級だな」
呆れたようにそう言い、アイリーンがピーカブースタイルの構えからダッシュして、左のフックを放つ。
グシャッ、ドカァァッ、グワシャァァッ!!
左フック、右フック、左ストレート。アイリーンのコンビネーションブローがついに星の身体をすべて捉えた。星の両足がキャンバスから離れ、吹き飛ばされるようにキャンバスに背中から倒れ落ちた。大の字になってキャンバスに倒れたままぴくりともしない。壮絶なダウンシーンに場内が静まり返る。
「ワン、ツー」
全く動けずにいる星に対してカウントが数え上げられていく。
やっぱり無理だったのかな私がアイリーンに勝つなんて……。
心が折れかけて、力ない目で天井を見上げる星。
「立て、立つんや星~!!」
大声で叫ぶ織姫の声。それだけじゃない。千葉洋子も公映もライナも大声で星の名前を鼓舞するように叫んでいる。
立て、立ち上がってって。
「なんで星が大将なん? 実力からいったら南海やないの?」
NPBの代表選手たちで行った事前の作戦会議。その場に呼ばれていない織姫が「大将戦は星ちゃんがいいと思う」と提案した南海に異議を挟んだ。
「弱者の兵法というやつですか?」
そう言ったのは公映。NPBリーグきっての頭脳派ボクサーである彼女の知恵を借りようと呼ばれた彼女は冷静にそう言った(織姫は公映についてやってきたのだった)。
「弱者の兵法?」
そう聞き返す織姫。
「大将戦は捨てるということです。アイリーンには誰が闘っても勝てない。それならという選択です」
「うちは反対や。そんな弱腰でどうするんよ」
織姫は不機嫌に言った。
大将戦は捨てる。そのために選手の中でけっして強い方じゃない私をアイリーンに当てる。
団体戦に勝つためとはいえ、辛いなぁと星が思っていると、
「そうじゃないんだ」
と南海が言った。
「うちらの中でアイリーンに唯一勝てる可能性があるのは星ちゃんだと思う」
えっ?と星を含めてこの場にいる全員が驚いた表情で南海を見る。
「去年の日本一決定戦。あの試合でわたしを追い詰めたあの時の星ちゃんはホントに強かった。アイリーンのあの高速コンビネーションブローを避けてパンチを当てられるとしたら星ちゃんしかいないよ」
そう言ってくれた南海の言葉に星は胸を打たれ、涙が出そうになった。
私一人で闘ってるんじゃないんだ。NPBで闘っている全員のボクサーの思いを私は背負ってこの試合に臨んでいる。
立たなきゃ……。私、まだ一発のパンチさえアイリーンの顔に当てていない。
カウントは9で止まる。星が立ち上がってきたのだ。
レフェリーが星の闘志を確認し、試合は再開された。
すかさずダッシュして左フックを放つアイリーン。しかし、そのパンチは空を切り、パンチの下をかいくぐった星がボディブローを打ち込んだ。鉄壁の硬さの腹筋を持つアイリーンの表情に異変が起きる。片目を瞑り、一瞬パンチのダメージをみせる。さらに星は追撃のパンチを放つ。
右フック、左フック。三連打の形で星のコンビネーションが決まった。
アイリーンが右のフックを打ち返す。アイリーンの反撃を浴びた星もすぐさま右フックを打ち返した。ここが勝負。退くわけにはいかない。そう覚悟を決める星。
二人が足を止めて打ち合った。高度なディフェンスと攻撃が繰り広げられる壮絶な打撃戦。ヒットするパンチの数は同じでも両者のパンチの威力には大きな差がある。まして星にはこれまでの相当なダメージの蓄積がある。圧倒的に星が不利なパンチの打ち合い。すぐに星がダウンをするだろうと思われてもしかたない。しかし、この打撃戦に打ち勝ったのは星だった。
アイリーンの左ストレートを頬にかする寸前でかわしきり、右のストレートをヒットさせた。クロスカウンターとなったその強烈な一撃にアイリーンが後ろへと下がっていく。後退するアイリーンはロープが背中に当たり、踏み止まる。
アイリーンがパンチのダメージで後退するなどMLBリーグでも見られない光景であった。予想だにしてなかった出来事が起き、場内が騒然とする。
カーン!!
第4R終了のゴングが鳴った。
「星……」
満身創痍の状態にほのかに充実感を浮かばせて赤コーナーに帰ってきた星に繁長が今にも泣きそうな表情で迎えた。
「いやだなお父さん……まだ勝負は終わってないんだよ……」
弱々しい口調でそう話す星。身体のダメージが限界を超えているのはまちがいない。でも、あと少しで世界最強の女性、アイリーンを倒せるところまで追い詰めることが出来た。試合を止めることなど出来るはずもない。
星の勝利を、そして無事に試合を終わって欲しいことを願いながら、繁長は愛する娘の傷ついた身体を懸命にケアすることに努めた。
青コーナーではアイリーンが両肘をロープに乗せてスツールに座っている。その堂々とした姿はこれまでと変わらない。
「ダメージはどうなんだ?」
動揺気味にアイリーンに状態を確かめるセコンド。
「あと10秒あったら倒されていたかもしれないな」
セコンドは目を大きく見開き信じられないといった表情でアイリーンを見る。
「次のR、距離を取るんだ。まずは体力回復に専念するんだ」
「距離を取る? 私はMLBリーグのチャンピオンだ。相手から逃げるなんて選択肢はない」
そう言い跳ね除け、アイリーンはスツールから立った。まだ第5R開始まで時間はある。しかし、ダメージはない。そうアピールするように彼女は堂々と第5R開始のゴングが鳴るのを待った。
「さっきまでふらふらだったっていうのに私を逆に追い詰めるなんて面白い」
誰に伝える風でもなくそう言い、
「これでこそ、日本にまで来た甲斐があったっていうものだ」
アイリーンは口元を緩ませた。
第5R開始のゴングが鳴り、星は赤コーナーを出て行く。弱々しく今にも倒れそうな足取りで、しかし力強くファイティングポーズをとる星にアイリーンは言った。
「さぁさっきの続きをやろうぜ、ミラクルガール」
※試合イラスト:まみむめむーさん
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