ボクシングの聖地後楽園ホールではこの日最後の試合が始まろうとしていた。


赤コーナーに立つのは汐織姫。NPBリーグを制したことはまだないがリーグきってのインファイター。そして青コーナーに立つのは、独立リーグからの刺客、川奈オリーブであった。二人のファイターはリング中央に向かいレフェリーがルールの確認をしてる中にらみ合い火花を散らす。胸が締め付けられるほどにこわばった表情で眼光を向ける織姫に決勝戦だというのに声援を忘れ場内の観客も固唾を飲んで見ている。


二人の間にある因縁はこの場にいる者ならば誰もが知っていた。


日本中の女子ボクシングファンを震撼させた一つの動画。そこにあったのは独立リーグのボクサーがNPBのボクサーを滅多打ちし一方的に打ちのめした信じがたい光景。日本最高峰の女子リーグと呼ばれていたリーグのトップファイターがプロとアマチュアの中間レベルと目されていた独立リーグのボクサーに完敗したというあってはならない事態。


本来なら織姫が圧倒的に優位である立場のはずなのにまた悪夢の結果が繰り返されるのではないかと、観客席の大半を占めるNPBリーグのファンである観客たちは不安な思いでリングに目を向けていた。ただただ織姫に勝って欲しいと願う観客たち。自分たちが応援していた団体の威信が地に落ちてしまわないようにと。しかし、川奈オリーブの実力が本物であることはもう観客たちも認めていた。一回戦でNPBリーグのファイターである獅子王ライナをKOで勝利したのだから。


MLBリーグとの団体対抗戦の日本代表を決める以上の意味合いを持つCブロック決勝戦。その運命の一戦のゴングが鳴らされた。


距離を取って慎重に相手の出方を見る織姫とオリーブ。どのタイミングで織姫がダッシュして距離を縮めていくかに注目が集まる。ダッシュからのフック、バッファローフックを叩き込み、そしてインファイトに持ち込む織姫の基本ともいえる戦法。


しかし、織姫が取った行動はその得意のパターンではなかった。

左のジャブ。距離を保ち一発、二発、三発と放っていく。


ボクシングの試合なら当たり前である基本の選択に場内がざわめく。

「なんと珍しい光景でしょう。浪速の特攻娘とまで言われた汐織姫が距離を取ってジャブを放っています!!」

バッファローフックを当てることから織姫のボクシングは始まると言っても過言でないくらいに彼女はこの技を闘いの軸としていた。バッファローフックが当たれば一撃必殺。仮に当たらなくてもガードさせればそこから得意の接近戦に持ち込める。この極端なファイトスタイルで織姫はこれまでKO勝利を量産してきた。


それゆえに左ジャブを打つことは極めて稀だったのだ。

その織姫が距離を取って左のジャブで相手を突き放す。オリーブのハードパンチを警戒していることは明白だった。相手の得意の間合いではなく苦手な間合いでの闘い。しかし、その間合いは織姫にとっても苦手とする間合いである。


はたして、織姫が取った選択は、相手の弱点を突く最善の策なのかそれとも自分のボクシングを見失った弱腰の行動なのか。


この予想だにしていなかった展開を受け入れた観客たちは期待と不安を抱きながら織姫への声援を始めた。織姫にとって完全なホームである後楽園ホールでの闘い。織姫の名前が絶えず飛んでいた場内は、しかし前半戦の終わりとなる第3R終了のゴングが鳴った時にはお通夜のように静まり返っていた。輪郭が正常な形を失うほどに頬がパンパンに腫れ上がった顔でスツールに力無く座る織姫。方や青コーナーでスツールに座っているオリーブの顔は試合前と寸分も変わらずに美しさを保っている。見ていられないほどに一方的な展開となっていることを如実に表した光景だった。


レフェリーが赤コーナーに行き、試合を終わりにするか確認を取る。


しかし、織姫はやりますと声を絞り出して答えるのだった。


力のない声。


それでも消えない闘志が織姫からは伝わってくる。


第4R開始のゴング。


観客たちは織姫が得意のバッファローフックを期待していた。左ジャブで試合を組み立てる闘い方はどう見てもオリーブには通用しない。


いや、アウトボクサーならそれは有効なのかもしれない。しかし、織姫のそれはお世辞にも四回戦レベルのものだった。オリーブは左ジャブに対してロングフック、右ストレートを合わせる術を持っている。織姫のジャブではそれを実行するのは容易なことだった。


だったら逆転の可能性を秘めたバッファローフックに一縷の望みをかける。それしかもう手はないと思われた。その戦法すら逆転勝利の可能性はほとんどないのだとしても。それでも左ジャブで攻めるよりもまだ希望が持てる。


しかし、このR織姫が最初に放ったパンチはまたしても左ジャブだった。


途端に観客席から失望の声が漏れていく。


オリーブは織姫の左ジャブを容易く避ける。


逆にオリーブの左ジャブが織姫の顔面を打ち抜く。


一発、二発、三発。


もはや左ジャブすらオリーブに上をいかれる織姫。


虚しさに満ちたその姿に観客席からは罵声が飛ぶ。

「いいかげんにしろ!!それでもNPBのボクサーか!!」

「右のパンチを打てよ!!おまえの左ジャブは当たんねぇよ!!」

情けない闘いを繰り返す織姫にブーイングが浴びせられる。


その中で織姫は一方的にオリーブのパンチを浴び続ける。


そして、オリーブの右ボディブローの前についに力尽きる。


打ち込まれたお腹を両腕で抱えながら前のめりにキャンバスに伏す。

「汐織姫ついにダウン~!! これはもう駄目か~駄目なのか~!!」

 

 

 

 

「ツー、スリー!!」

 

あかんなぁうち……。左ジャブ全然通用せんかった……

キャンバスに頬を埋め赤子のような表情で目を瞑り倒れている織姫は耳に届くカウントが遠くの出来事のように聞こえていた。


もうやることやったし、それで全然駄目だった。もうええ、もうええんよ……



織姫のボクシングに左ジャブはない。
一見無茶苦茶なファイトスタイルだが、織姫はNPBリーグの試合でKO勝利を量産してきた。しかし、一方で一部のファイターと相手すると何も出来ずにKO負けしてしまった。NPB屈指の左ジャブの使い手たちである。そのため、織姫はNPBリーグの中間ファイターのポジションに留まっていた。インファイトにはめっぽう強いがアウトボクシングに弱い。それが織姫の評である。それでも、織姫は自分のスタイルを貫いていつかNPBリーグを制することが出来ると思っていた。


一週間前その思いに自信を持てなくなった。自分が得意とするインファイトでねじ伏せられてしまったために。インファイトなら誰にも負けない。自分の中の心のよりどころをオリーブに完全に打ち砕かれてしまったのだ。


試合に負けて織姫は初めて泣きじゃくった。こんな悔しい思いしたことない。独立リーグのファイターとかそんなの関係ない。自分の土俵で敗けたことが悔しくてたまらなかった。一晩鳴き続けた織姫は、決意をする。


左ジャブを身に着けよう。それでもう一度オリーブと闘うんだ。


そう決めた数時間後にオリーブが日本選抜トーナメントに出場することになったと知った。


時間は全然ない。付け焼刃で練習したってものになる見込みなんてほとんどない。これまでたくさん練習してきて駄目だったんだ。でも、この機会を逃したらこれから先もずっと左ジャブを使えないままな気がした。


変えなきゃ。自分を変えなきゃうちは負け犬のままだ。


渋るトレーナーの佐倉さんを説得して、それからトーナメントまでの日々を左ジャブの練習だけに費やした。


そう、うちは自分の限界を超えるために大嫌いな左ジャブの練習を嫌って程してきたんや。


限界?  まだまだっうちはまだ限界までやってない。

 


織姫がカウント9で立ち上がる。


試合が再開される。


織姫はまたしても左ジャブを放つ。しかし、顔面を打ち抜かれるのは織姫の方だ。


状況はまったく変わらない。パンチングボールのように織姫の頭が右に左に吹き飛ばされる。


そして、オリーブの右ストレートが矢のように顔面に突き刺さり、織姫は鼻血を撒き散らしながら後退する。ロープの手前で織姫はなんとかダウンを免れた。


あかんわ……、左ジャブで相手を後退さてからって決めてたのに、うちの方が後退するなんて……


でも、ええ。確実にいける作戦が一か八かになっただけなんやから。


織姫が右拳をぐっと握りしめる。


オリーブに向かって突進していき大振りの右フックを放つ。必殺のバッファローフック。織姫は自身の得意技をようやく放ったのだ。しかし、この技はスパーリングの時にオリーブにカウンターで合わせられて破られた技である。


そして、オリーブはパンチを合わせに出る。


織姫の応援団がいる席から悲鳴が上がる。次の瞬間、交通事故に合ったかのような衝突音が響いた。


少女は宙に舞っていた。反転するように顔面からキャンバスに落ちていく。レフェリーがダウンを宣告した。


場内が騒然とする。


ダウンしたのはオリーブの方だったのだ。


なんとかカウント8で立ち上がるオリーブ。試合が再開されると織姫がまたしてもバッファローフックを打って出た。今度はオリーブがガードでかろうじてパンチの被弾を免れる。織姫は密着した距離からラッシュを仕掛けた。


防戦一方になるオリーブ。形成は完全に逆転した。


全ては織姫の狙い通りだった。左ジャブを打ち続けたのは直線の軌道を身体に目に焼き付かせるため。バッファローフックの反応を鈍らせるためだった。


織姫のバッファローフックを打ち返せないオリーブは、織姫の猛攻を止める術を失った。5Rに入っても劣勢を強いられ、またしてもダウンを奪われた。


なんとか立ち上がり、ゴングに救われたオリーブ。インターバルでレフェリーが青コーナーに行き、試合の意志を確認する。


オリーブは「まだやります」と力ない言葉でなんとか返事した。前のめりになり肩で息をするオリーブ。


「まだ……あたしは負けるわけにはいかないから」


セコンドにも聞こえないほどの小さな声でそう呟くオリーブ。


最終ラウンドが開始される。オリーブはコーナーを出て一直線に向かっていいったもののインファイトで織姫に圧倒される。


30秒もしないうちにサンドバッグになるオリーブ。リング中央でオリーブの血飛沫が凄惨に舞っていく。意識が朦朧としていくオリーブ。



「待って、東京に行くってホントなの?」


ジムの仲間だった女子ボクサーはオリーブの言葉に申し訳なさそうに頷いてジムを出てしまった。


これで何人目だろう……NPBリーグ目指して出ていったボクサーは。


独立リーグで試合をし続けても四国以外の人の目に入らない。


それが彼女たちの理由だった。


彼女たちの気持ちは分かる。でも、あたしは生まれ育ったこの町が好きだから、あたしは地元を盛り上げるためにも四国ILリーグで試合をし続ける。そう心に決めているオリーブ。しかし、四国ILリーグの集客は厳しくて運営の存続すら危ぶまれる状況だった。どうしたもんかと思っていたところにNPBリーグVSMLBリーグの対抗戦が発表された。これだとオリーブは思った。日本の代表にあたしが選ばれれば四国ILリーグが注目されるようになる。


作戦は怖いくらい上手くいった。


でも、この試合に負けちゃ何の意味もない。あたしは勝たなきゃいけないんだ。



「負けられないっ!!」


オリーブが大声を張り上げ、パンチを打ち返す。


「うちだって負けられへんっ!!」


すぐに打ち返す織姫。


ノーガードの打ち合いが始まった。足を止めて強打がお互いの顔面に何度となく入る。


飛び散る汗飛沫、血飛沫。


場内が大歓声に包まれた。熱狂する観客たち。ガードを忘れ意地でもパンチを打ち返す二人の女子ボクサー。


壮絶な殴り合いに終止符が打たれた。後ろへ下がっていくオリーブ。織姫が大きく足を踏み込み、必殺のパンチ、バッファロースマッシュを放った。


グキャッ!!


悲鳴を上げたのは織姫の右拳だった。オリーブは額で織姫の必殺パンチを止めたのだ。


しかし、次の瞬間、織姫のもう一つの拳が下から突き上がる。左のアッパーカットがオリーブの顎を打ち抜き、吹き飛ばす。後ろに崩れ落ちたオリーブ。レフェリーが試合を止め試合が終了した。

 

 

立ち上がったオリーブに織姫は彼女の両腕に触れた。お互いの力を認めて、試合の時には見せなかった笑顔で言葉をかわす二人。 

 

そして、織姫は告げた。

 

うちの代わりにMLBボクサーと闘って欲しいと。


織姫の右拳は折れてしまっていたのだ。


織姫がオリーブの両拳を握る。


「絶対に勝ってな」


オリーブは「はいっ」と返事する。


新たな負けられない理由を胸に止めて。

 

汐織姫〇(6R1分45秒KO川奈オリーブ