MLB対NPBの団体対抗戦。先鋒戦にエースである鷹羽南海をもってきて確実に一勝を勝ち取り優位に立とうと目論むNPBチームだったが、予想外の展開に会場の日本武道館は異様なざわめきが起きていた。
試合は第4Rに入ったというのに南海のパンチは空転し続けるばかり。NPBリーグ二連覇で日本最強と呼ばれる女子ボクサーのパンチがまったく当たらないのである。一発のパンチでさえも。
しかし、対戦相手であるレモン・ラン・スライダーをよく知っているアメリカのボクシングファンからすればそれはいつもの光景で何ら驚くことではなかった。レモンはこれまでMLBリーグのリングに上がった全ての試合、4試合で一度もパンチを受けたことがないのだから。クイーンオブザクイーンと呼ばれたアイリーン・ロドニーのパンチさえも。
そして、この試合でもそのレコードは更新中である。
レモンのパンチもまだ南海には一発もヒットしていない。
しかし、試合はレモンの術中にあるといってよかった。
パンチの空振りをし続けた南海の身体からは尋常じゃない量の汗が噴き出ている。
それに対し試合でパンチをまだほとんど放っていないレモンは涼しげな顔でキャンバスを軽やかに舞っていた。
南海なら大丈夫。絶対に勝ってくれる。
控え室のモニターで試合を観る星や天音らNPBの戦士たちは対戦相手にいいように翻弄され続ける南海の姿を見続けながらも彼女の勝利を願い続けた。まだ一発のパンチも受けてないのだからと。
しかし、第7R終了のゴングが鳴り終えた頃にはその願いすら空しくなるほどの光景がモニターの奥にあった。
左右の頬がパンパンに腫れ上がり輪郭が綺麗だった線を失い醜く顔が変わり果てた南海。こんなにも顔を腫らした南海の姿など誰も見たことがなかった。
そして、青コーナーのレモンは今も試合前と変わらぬ綺麗な顔を保ち続けている。彼女は第7Rを終えてなおまだパンチの被弾を一発も許していないのだった。
南海のパンチを14分に渡って鮮やかにかわし続けるその様は闘牛の突進を避けるマタドールのように観客の目には映った。ボクシングの試合ではないような異様な光景である。
今にも倒れそうにコーナーポストに背を預けスツールに座る南海は呆然とした表情で天井のライトを受けていた。
「恐るべきレモン・ラン・スライダーのディフェンス技術。彼女の耳には今日も精霊の声が聞えているのでしょうか!?」
「なんやね、精霊の声って。そんなのあるわけなかたい」
南海の身体の汗をタオルで拭いていたセコンドのユウキがアナウンサーの実況に苛立つように声を荒げた。
「精霊の声……」
ぽつりとつぶやく南海。
本当に聞こえているのかもしれない……。
精霊の声の導きに従いパンチを避けている。
メディアの前でそう答えるレモンの発言を南海も耳にしていた。
試合前はそんなわけないと思っていた。しかし、どんなに体勢を崩してもパンチを避けてしまう彼女のディフェンスを目の当たりにしていくうちに南海は精霊の声が聞えるというレモンの発言が本当のことであるように思う心境になっていた。そうでなければボクシングの試合で7Rに渡ってパンチを避け続けることなど不可能だ。しかもこれまで多くのファイターをマットに沈めてきた自分のベストショットを。
インターバル終了のブザーが鳴り南海はゆっくりと立ち上がる。セコンドからマウスピースを口に入れてもらうがその目に宿っていた輝きは消えかけていた。
リングの上では第8Rに入っても南海がパンチを浴び続けていた。レモンが距離を取って左ジャブをいいように浴びせていく。まるで南海の顔面をパンチングボールであるかのように正確にリズムカルに。乾いたパンチの音が鳴りやまないリングの上に対し、赤コーナー側のリングサイドの観客席ではノートパソコンのキーボードを打ち続ける一人の女性がいた。白と黒のシンプルな色合いのシャツから見える腕には立派な筋肉がついていながらおっとりとした顔に眼鏡をかけた女性。NPBのリングに上がる北海道代表の日ノ本公映である。
「何やこんな時くらいパソコン止めて試合に集中したらどうなん」
公映の隣に座る織姫がリングからため込んだストレスをぶつけるかのように言った。
「レモン・ラン・スライダー。彼女がなぜパンチを避け続けるのか答えを導きだそうと思っていたのですけど」
「えっそうなん。なんかわかった?」
一転して表情を弾ませる織姫。
「いえ、さっぱり」
「なんやねん、期待させといてっ」
すぐまたがっくりとうなだれる。
「こうなると精霊の声が聞えるという彼女の言葉を信じるしかないかもしれませんね」
「精霊って・・・・・ここはボクシングのリングなんやから」
「精霊の声が聞える戦士あたし知ってる」
織姫と公映が振り返る。
意外な言葉を発したのは横に座る獅子王ライナ。
「故郷の戦士オルガンが言ってた。森に行くと精霊の声が聞えるって」
「ホントに!?」
ライナはこくっと頷いた。
「レモンも精霊の声聞こえるならそれなくすことも出来る」
そう言ってライナはさらに隣に座る千葉洋子のバッグを奪い中身を探る。
「ちょっ何するのライナちゃんたらっ」
ピンク色に光る唇をとがらす千葉洋子の言葉を気にせずにバッグの中からいろいろと取り出すライナはやがて「あった」と言ってお目当ての物をかざした。
第8R終了のゴングに救われかろうじて生き延びて赤コーナーに戻ってきた南海。さらに酷い姿になり帰ってきた南海にセコンドたちは言葉を失う。
「もう十分南海はよくやった。終わりにしよう」
会長の言葉に対し南海は首を横に振る。
「わたしが負けるわけにはいかないからっ」
「南海……」
その時、ライナがエプロンサイドに上がる。
「なっなに!?」
戸惑うセコンドを気にせずにライナは右手を上げる。
手にしていたものから霧状の液体が南海の身体に吹き付けられた。一度ならず三度四度と。
甘ったるい柑橘系の匂いが自身の身体から立ちこもり南海が顔をしかめる。
慌ててセコンドがライナの肩を掴み彼女の奇行を止めた。
「何するんだ試合中だぞ!!」
「これ南海のパンチが当たるおまじない」
「香水つけてパンチが当たるわけないじゃないか!」
「いやっ」
そう言って南海が手を伸ばしライナの肩からセコンドの腕をはらう。
「信じるよライナの言葉」
南海は口の両端を優しく持ち上げ、
「その目を見たらわかる。ライナの目はリングでわたしと対峙した時と同じ目だから」
と言った。
ライナは黙って頷いた。
第9Rのゴングが鳴った。
軽快なステップでコーナーから出てきたレモンだったが南海と対峙するやその涼し気な顔が硬直する。
レモンの異変を感じ取った南海がすぐに攻撃に出た。
いきなりの右ストレート。そんな大きなパンチ当たるわけない。そう思われた攻撃は鈍い音を立てレモンの顔を後ろに吹き飛ばした。
わぁぁぁッと歓声が沸き起こる。
南海がラッシュを仕掛けた。これまでの空転が嘘のようにパンチが当たっていく。
「どんなマジックかけたんやライナ」
赤コーナーの下に立つライナを追いかけた織姫が聞いた。
「オルガンが言ってた。香水をつけた都会の女嫌いって」
ライナが右手に持つ香水を織姫にみせる。
「戦士の感覚鈍るから。戦士の感覚鈍る、それ精霊の声も聞こえづらくなる」
「てことは南海は今洋子の香水の匂いぷんぷんさせとんのか」
にかっと織姫が笑う。
リング上では歓声が一段と高くなった。
レモンがキャンバスに片膝をついているのだった。
最終Rが始まった。
それは時間との勝負に思われた。
ロープを背負うレモンに対してラッシュを続ける南海。香水の臭いをぷんぷんと放つ南海にレモンは何も出来ない。KOは時間の問題である。しかしその時間がない。
両腕を上げて亀のように丸くするレモン。一心不乱にパンチを打ち続ける南海。
時間はない。
南海が倒しきるかレモンが逃げ切れるか……。
ガードの上からパンチを叩かれるたびに両足が沈んでいく。
もはやダウンは避けられない。それでも朦朧とした意識の中でレモンは対戦相手の顔を見続ける。
負けられないの……。ファイアルカの森をあたしは守らなきゃいけないんだから……。
大丈夫だよ。
聞こえなくなっていた声がレモンの心に鳴らされた。
その声はこれまでで一番はっきりと、そして匂いを伴っていた。
故郷の森林地帯ファイナルカの生命豊かな樹木の潤しい香り。
わたしたちの声が聞えなくたってレモンなら大丈夫。
だってレモンにはボクシングのリングで積み重ねてきた経験があるんだからもうわたしたちに頼らなくてやっていける。
消えかけていたレモンの目に再び戦士の火が宿る。そして、次の瞬間、レモンはロープから脱出していた。右のパンチを大きく空振る南海の背中を前にして両足で軽やかなステップを刻む。振り返った南海が青ざめた表情を見せる。すぐにきりっと唇を結びレモンに向かって行った。
しかし、当たらない。南海のパンチが空振りを繰り返す。レモンは涼しげな表情を取り戻しリングを舞う。
状況は逆戻りしていた。
残りは一分を切った。
ロープに追い詰められながらも難なく脱出するレモン。なおも追いかける南海。
大きく踏み込んでの左フック。
その瞬間だった。
狙い澄ましたかのようにレモンの右フックが南海の頬を打ち抜いた。
グワシャァッ!!
南海の目が宙を泳ぎ前のめりに崩れ落ちていく。
両腕がバンザイしキャンバスに顔を埋める南海。微動だにしないその姿を見てレフェリーがすぐに試合を止めた。
鷹羽南海●(10R1分10秒TKO)〇レモン・ラン・スライダー
※試合イラスト:ふうたさん
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から