”トーナメントを優勝できた要因は?”

 

日本代表選抜トーナメントのBブロックを優勝し、控室で行われた記者たちとの質疑応答で天音はこう答えた。

 

”コーチから日ごろ教えていただいたトレーニングの成果をやっと試合で出せるようになってきた。そうなのかもしれません”

 

赤紫色に変色した痛々しい頬を眼が閉じるまでに持ち上げて死闘となった二試合を勝ち抜いた後とは思えない可愛らしさにやりきったという充実感に満ちた清々しさが花を咲くその笑顔に記者たちも気持ち良い顔をしながら、相槌を打つ。

 

”星川トレーナーの昭和とも言うべき熱血指導があってこそというやつですかぁ”

 

記者の一人がそう言い、他の記者たちも流石は幾人もの世界チャンピオンを生み出した名伯楽だと賛同の声を上げる。天音もうんうんと笑みを浮かべ、記者たちの言葉に頷く。

 

記者たちの言う通り。お世辞にも運動神経があるとは言えない天音が日本代表の切符を実力で掴み取ることが出来たのは星川トレーナーの厳しい指導があってこそ。自分だけではNPBボクサーという位置さえも維持できていたかさえ危うい。だからこそ、トレーナーへの感謝への思いを何よりも声にしたかった。でも、天音は記者たちには読み取れなかったもう一つの思いをあえて口に出すことはなかった。

その感謝の思いはもう一人のトレーナーにも向けられていたことを。

 

NPBのリングに上がった当初、天音は試合をしてはKO負けで終わる連戦連敗の日々が続いた。東北はボクシングが盛んな土地ではなかった。NPBリーグに東北代表のボクサーが参加できるようになったのも十年前からで他の地域に比べてその歴史は浅い。だからこれまで東北代表のボクサーはたいした成績を残せずにいた。新たな代表となった天音もアマチュアで目を見張る実績を残していたわけでもなかったが、野宮忠治という世界チャンピオンを何人も育てた実績を誇るトレーナーが就いたことで少なからず地元の期待を抱かれた。しかし、天音はNPBにデビューしたその最初のシーズンを一勝も出来ずに終えてしまった。地元の東北ファンから批判を浴びながらも初めての年であることや、世界チャンピオンを何人も育てたあの名伯楽がついているのだからとまだ寛容な姿勢も持たれていたが、優勝とまではいかないまでもせめて4位くらいにはと飛躍を願った翌年もあろうことか一勝も出来ずに終えてしまい、リーグが発足して以来初となる二年連続の白星無しという不名誉な記録を作ってしまう。当然、地元のファンから批判の声が天音に集中砲火することは避けられなかった。。

 

東北の恥だ!!

 

早く辞めちまえ!!

 

誰でもいいから他のボクサーに東北代表の席を譲ってくれ!!

 

天音もそうした批判の声の数々に心が折れ翌年の東北の代表を辞退しようと決断する。しかし、ルールでは地域の代表は現材代表のボクサーの引退がないかぎりは二年に一度、現在代表のボクサーと予選を勝ち抜いたボクサーとの代表入れ替え戦マッチをして決めるという規定があり、天音もボクサーを引退するまでの思いはもっていなかったので、トレーナーを交代するという措置で事態を収めることになった。トレーナーの交代。成績を出せず他のトレーナーに選手の指導の座を譲り自分は他の選手を指導する。新米のトレーナーならともかく何人もの世界チャンピオンを育てた実績を持つトレーナーがそのままジムに居座ることをプライドが許すわけもなく、それはすなわちジムを去ることに他ならなかった。こうして天音の初めてのコーチ、野宮トレーナーとのトレーニングの日々は終わった。次に天音のトレーナーを担当することになったのが星川であった。星川は女が相手であっても厳しい声を容赦なく浴びせ、ひたすらに練習を課す指導をモットーとしていた。

 

気が弱い天音とは相性が悪いのではないか。そんな声もジムの内外からは聞こえてきたが、ふたを開けてみれば、天音は白星を重ねるようになっていき、三年後には初めての3位、Aクラス入りを果たした。その後は4位と3位の位置を行き来しまだ優勝を期待されるほどの結果を出せてはいないが、着実に実力をつけ成績を上げていっていた。気が弱く目を見張る運動能力を持っていたわけではない天音だったが真面目で素直な性格であった彼女は自主性を求められる練習よりもこと細かく口を出され地獄とも称されるほどの練習の量を積み重ねるスタイルが合っていたのだった。

 

しかし、3位まで成績を上げたところでその位置を行き来し一つの壁に当たっていた天音がこうして選抜トーナメントを優勝できたのは、星川の指導のほかに天音自身が自分に足りないものを見つけ実践したからであった。対戦相手を徹底的に研究し対策を練る。そのために対戦相手の試合のビデオを穴が開くまで見て弱点を見つけ攻略法を練る。それは野宮トレーナーの指導の根幹をなし、天音にも教えたものであった。しかし、当時の天音は運動神経が良いとはいえずに自分のボクシングをするので精一杯。対戦相手のボクシングに対して臨機応変に対応する余裕など持てなかった。そのためにも自分のボクシングすら思うように出来ずに何もできずに完敗するという試合を繰り返していた。その天音が野宮が退任し5年という月日がたった今、自ら対戦相手の分析を徹底的にするようになったのは、試合を重ねていくうちに対戦相手の研究の重要性を痛感するようになったからだ。自分には何が足りずどうしたら良いのか自分で判断出来るようになった。そのレベルにまで成長した天音は自分の意志で対戦相手の分析を徹底的にするようになり、リングの上でも作戦として取り入れるようになった。そして、選抜トーナメントのBブロック優勝という結果を残し、野宮の指向したIDボクシングをリング上で体現できるようになるまでに天音は成長したのだった。星川の地道な練習の反復による泥臭いボクシングと対戦相手を徹底的に分析するIDボクシングが結実した今の天音は心身ともに充実し、ボクサー人生の中で絶頂期といってよかった。

 

 

選抜トーナメントを終えた一週間後にMLBチームとの対抗戦のカードが発表され、天音はその日のうちから所属のジムを通して対戦相手であるエンジェル・ロッシのビデオを収集するために動いた。そして、エンジェルのビデオを見れば見るほどに彼女の強さを痛感するのだった。MLBリーグでの二年間の戦績は13勝3敗12KO。エンジェルは右と左でスイッチし二つのボクシングスタイルを兼ね備えている。右構えの時はオードックなボクシングをし、アウトボクシングからインファイトまでその時の状況に応じて柔軟に応じる。左構えの時は右腕をL字のように曲げるデトロイトスタイルから腕を左右に一定のリズムで動かしそこから鞭のようにしなるジャブを放つ。しなるように伸びていくそのパンチはリーチ以上に腕が伸びていくかのような錯覚を覚えさせ変則的なパンチの軌道といい対戦相手は避けることもままならず、面白いようにジャブが当たっていく。リーチもさることながら威力も相当なもので12KOという高いKO率もさることながらそのうちの8つは5Rまでという圧倒的な攻撃力を誇り、その対戦相手をリングに沈むまでの過程は相手を制圧するという言葉がまさに適格な表現だった。エンジェルは左構えからのデトロイトスタイルを主軸に時には右構えのオーソドックスなボクシングも使い、MLBリーグでたったの二年でトップランカーの地位を担うまでになったのだ。

 

二年間で3敗したといってもそのうちの2敗はMLBリーグ三連覇を遂げているアイリーン・ロドニーから。残る1敗はMLBリーグで二番目の実績を誇るスーザン・スペンサーによるものでその敗北した試合を見ても対戦相手の二人の強さが光るばかりでエンジェルのボクシングの弱点はどこにも見当たらなかった。

 

天音のボクシングはアウトボクシングを主体に左のジャブから距離を詰めてパンチを打ち込み相手の反撃を受ける前に離れるというヒットアンドアウェイを得意としていた。しかし、エンジェルとではリーチが12センチ違い、このリーチ差では中間距離でのジャブの打ち合いで大きなハンデとなる。しかも、エンジェルのフリッカージャブは軌道が変則的であり避けるのが厄介である上に威力もジャブと言うには収まらないほどの殺傷力を誇る。リーチ、機動性、威力どれをとっても天音に分が悪く、勝因となるものを見つけようにも自分との実力差を痛感するばかりであった。身長が167センチとフライ級にしては身長が高く過度な減量からスタミナ不足という弱点があるのではないかとも思ったが唯一の判定となった試合でも彼女は最後まで手数が落ちることなく戦い抜いた。考えに考え抜いた末に思いついたその弱点の仮説がビデオでそうじゃないと証明された瞬間、自宅の自分の部屋で天音は席に座りながら思いきり仰け反り背すりにもたれながら天井を見上げてしまった。

 

これって万策尽きったってやつかな……

 

 

三日後、気分転換にとボクシングの試合を見に行った天音はその会場で思いもしない人物と出会った。メガネの下にあるたれ気味の瞳に深い目皺。初見の人からしたら愛嬌とも胡散臭そうにも見えるその独特の風貌の人物は野宮だった。こちらに気付いていない野宮に天音から声をかけた。

 

「野宮コーチ」

 天音はそう声をかけ、

「お久しぶりです」

 と言って頭を深々と下げる。天音が頭を上げる前に野宮から返事がきた。

 

「何言ってんや。わしはもうお前のコーチやないで」

 そう言って、顎を右手でさする。独特の言い回し、そして手の癖は今も変わっていなかった。

 

「すみません、つい癖で」

 天音はそう言って、恥ずかしそうに頬を赤く染める。

 

「変わってへんなぁ、お前は」

 野宮はニタニタと笑い、

「そうでもないか。今は立派な日本代表のボクサーの一人や」

 と言った。

 

「コーチのおかげです」

 言ってから、またコーチと言ってしまったことに気付いてあっと思ったけれど、天音が言い直す前に野宮がまた

「何言ってんのや」

 と言った。自分の学習能力のなさを指摘されるかなぁと天音は身構えたけれ、野宮の次の言葉は天音の思っていたものではなかった。

「星川のおかげやろ。わしはお前に何もしてやれんかったわ」

 野宮の顔から笑みはまだ残っていたが、嫌みで言っているものではなく心の底から言っているのだと天音は感じ取った。

「そんなことないです。今、あたし対戦相手の分析を徹底してやってるんです。それも野宮さんが教えてくれたから……」

 

 話したいことはたくさんあった。その思いから天音は理路整然としないながらも次々と言葉を伝えていく。

 

「あの時、あたしが野宮さんの教えを飲み込める力があればあんな結果にならなかったのに……」

 

「いやいや、能力に劣るもんは相手の弱点を突くしかない。おまえにはとても合ったボクシングやと思ったんやけど結果を出せんかった。それもわしの引き出しの少なさが原因だった。わしにも良い勉強になったがいかんせんこの老いぼれにはもう時間がなかったわ」

 

 それは黄鷲ボクシングジムを去って以降、他のジムでも成果と言えるほどの指導の結果を出せなかったことをさしているにちがいなかった。野宮のジムが変わりトレーナー業を退くまでの五年間、野宮の指導したボクサーは誰も10回戦に上ることもなかった。

 

「まぁ、こうして立派なボクサーになってくれてよかったわ」

 

「はい、おかげさまで」

 

 天音は野宮に笑顔を向けた。

 

「教え子の元気なところが見れて良かったわ。と言いたいところなんやが」

 

 そう言い野宮は続けた。

 

「わしもあかんな。もうトレーナー業を引退したって言うのに、教え子が悩みを抱えてるのがすぐぴんときてしまう」

 

「えっ……」

 

「どうせ、エンジェル・ロッシの強さの前に手の打ちようがないって頭抱えてんやろ」

 

「はい、エンジェル・ロッシの弱点が見つからないんです。ビデオを何べん見ても彼女の強さしか見えなくて……」

 

「そやろうな。あんな強い女子ボクサーそうそうおらんわ」

 

「あれだけの身長だから体力がないかなと思ったけどそうでもないし」

 

「ふむ……なかなか良い線ついてるやないか」

 

 エンジェルの弱点をすでに見抜いているかのような田宮の口調に思わず天音は距離を詰めて聞き返した。

 

「えっでも、スタミナ切れになった試合はなかったですよ」

 

「だから、良い線っていったやろ。誰もスタミナ不足とはいっとらん」

 

 それではさっぱり分からない。天音は首をひねる。

 

「ビデオはどれくらい見た?」

 

「30時間くらいです」

 

「十分や。それくらい見たってことは————」

 

 いよいよエンジェルの弱点が野宮の口から告げられるのだろうか。天音は息を止めて野宮の言葉の続きを待つ。

 

「そのビデオの映像には弱点がないってことやろな」

 

 天音ははぁっと息をつく。

 

「やっぱり弱点はないってことかぁ」

 

「だからそうは言っとらんやろ。そのビデオには弱点が映ってない。それがこのビデオ研究の正解や」

 

 野宮の言っていることが全く分からずに天音は「えっえっえっ」と挙動不審に頭を両腕で抱えた。

 

「わしはもうお前のトレーナーやないし、言いすぎるのもどうかと思ったが、しゃーない、最後のヒントや。フリッカージャブを打つボクサーは今も何人かおるけどどれもデトロイトスタイルからそれっぽい動きをしてるだけや。パンチがぜんぜんしなってへん。しかし、エンジェルのフリッカージャブだけは別物や。あれだけのしなりを見せるフリッカージャブはトーマス・ハーンズ以外におらんやろ」

 

 野宮の開いてるのだか閉じているのだか分からない細い目が眼光鋭く開いた。

 

「他のボクサーのフリッカーがなまくら刀やったらエンジェルのそれは名刀や。そら受けたらとんでもないことになる。でもな、名刀も完璧なわけやない。どんなに完璧な武器にも必ず弱点はある。その弱点がそのビデオには映っていない。ただそれだけのことや」

 

 これだけ教えてもらっても天音にはエンジェルの弱点の糸口すら浮かんでこない。でも、一つだけ気づいたことはある。天音のトレーナーを辞めて5年になるというのに野宮は今も天音を我が子のように心配しているということ。そうでなければこうまでエンジェルのボクシングを語ることはできない。

 

「エンジェルとの試合、楽しみにしとるよ。幸い、日本で開催やしな」

 

 

 野宮は踵を返し、掌をひらひらと泳がす。背を抜ける元恩師に向かい、天音はまた深々と頭を下げて言った。

 

「ありがとうございますコーチ。エンジェルとの試合、絶対勝ちますから」

 

 またコーチと言ってしまった。すぐに気づいた天音だけど、頭を上げても野宮から指摘の声は返ってこなかった。

 

 

 

 喧騒が止まない重苦しい空気に満ちた日本武道館。悲鳴のようにしか聞こえない天音への声援と手拍子が送られているリングの上では、無情にもエンジェル・ロッシのしなやかで鉛のごとく硬い鞭と銃弾の特性が合わさったかのような暴力性に満ちた拳が天音の顔面を風船玉のように予測不能な方向へと激しく吹き飛ばし続けていた。だるそうに両腕を顔の位置までただ上げているだけで無抵抗にパンチングボールのようにフリッカージャブに打たれ続ける天音。パンチを浴びるたびに口から唾液が漏れ出て瞳がとろんと宙を泳ぐ天音のその顔は天国にいるかのような快楽に包まれているように見え、瞼も頬もぷっくらと膨れ鼻から鮮血が撒き散っていくその痛々しい顔面の変形の相は地獄の苦しみを味わっているようにも見えた。

 

 試合は第6Rに入ったが、エンジェル・ロッシの強さだけが際立つ一方的な試合になっていた。エンジェル・ロッシのデトロイトスタイルから繰り出されるフリッカーージャブがただひたすらに天音の身体を壊していく。天音にもヒットアンドアウェイという武器を持っていたが、エンジェルとの距離を詰めようにも天音はパンチを打つことさえ許されずにフリッカージャブの銃弾の餌食となって打ち返される結果になっていた。拳銃に対して竹槍で向かっていっているという表現がぴたりとあてはまるかのように二人の得意とする武器には圧倒的な差があった。2Rに入ると、ヒットアンドアウェイが通用しないと諦めたのか天音はフットワークを使いリングを舞いながら隙をついてステップインする戦い方を止め、インファイターのようにべた足になりガードを固め防御に徹している。そんな天音の消極的なファイトを前にしてもエンジェル・ロッシのフリッカージャブは楽々と天音のがっちりと固めたガードの隙間からその拳をぶち込み、唾液、汗飛沫、血飛沫とあらゆる液体をキャンバスに撒き散らせるのだった。エンジェル・ロッシのフリッカージャブが天音の顔面をつるべ打ちする光景がビデオで一つのシーンを繰り返し再生しているかのようにリングの上では繰り返されていた。一つだけ変化していく、いや変わり果てていくのは言うまでもなく天音の肉体であり、その小さくてファイターとは思えないおっとりと愛くるしかった顔は瞼も頬も血が通わなくなったかのように赤紫色に変色し水膨れのように膨れ上がった変形も合わさって直視できないほど醜悪な姿になっていた。

 もはや原型を留めてないほどに変わり果てたその表情からは闘う意思がどこまで残っているのかも読み取れない。パンチもほとんど出なくなり、ただ立っているだけで闘志さえ伝わってこない天音はもはやエンジェル・ロッシのサンドバッグでしかないように、そこまで試合は一方的な展開へとなっていた。そして、場内のだれもが終局へと近づいていると感じざるを得なかった試合の展開は今まさにクライマックスに足を踏み入れた。銃弾のように高らかに発せられていたパンチの連音は止み、鈍器で殴ったかのような生々しい肉を潰す重い一発の打撃音がリング上に鳴り響いた。場内は一転して静寂になり、そして、少女の口から発せられたとは思えないような醜い呻き声が空しく響き渡る。

 

天音のみぞおちに突き刺さる左のボディアッパーボディアッパー「ぶおぉぉっ」という声を上げた天音は白目を向いて、涎が両端から漏れ落ちていくその唇は、もこっと上唇が盛り上がり、白いマウスピースがぬめりと零れ落ちていった。

 

あれほどフリッカージャブを耐え抜いてきた天音を一発でグロッギーにさせたエンジェル・ロッシの左のボディアッパー。ベノムナックルフロムヘルという名を持つ彼女の第二の必殺パンチが決まり、勝敗は決したかのように見えた。

 

ボディブローでのダウン、最初のダウンということで形式的にカウントを始めたレフェリーだったがカウントが5つを数えたところで、表情を強張らさせた。天音が上半身を上げて立ち上がろうとしたのだ。どよめく場内。カウントは8で止まる。天音が立ち上がってきたのだ。

 

試合が再開されたところで第6R終了のゴングが鳴った。不屈の闘志をみせた天音。でも、満身創痍で追い詰められたことには変わらない。重苦しい空気に包まれた一分間が過ぎ、第7Rが開始される。

 

エンジェル・ロッシが勢いよく天音に向かっていく。よれよれと力ない足取りの天音に近い距離まで詰めて右構えからパンチを打って出る。右、左と連打で天音を攻め立てる。満身創痍の天音を右構えにスイッチして仕留めに出たエンジェル・ロッシ。ガードを固め、三発、四発と防御で耐えしのいでいた天音だが突如、反撃に出る。エンジェル・ロッシと同じように右と左の連打で応戦する。第7Rになって開戦された打撃戦。両者の身体にパンチが次々と決まっていく。ようやくパンチが当たるようになった天音。しかし、インファイトもこなせるエンジェル・ロッシと違い天音はアウトボクシング専門のボクサーだ。そして、言うまでもなく圧倒的なダメージの差が両者にはある。ヒットしているパンチの数は同じであっても天音が圧倒的に不利であることに変わりはない。しかし、天音のパンチは止まらない。それどころか徐々にエンジェル・ロッシの手数を上回るようになっていく。エンジェル・ロッシのが一発パンチを当てると天音は二発パンチを返していく。天音はひたすらにパンチを打ち続ける。技術などあったものではない。ただ愚直なまでにそれが勝利への道だと信じてパンチを出し続ける。

 

天音の右、左、右。そして、左アッパー。四連打が決まり、エンジェル・ロッシがたまりかねて天音の腰に両腕を回し抱きつく。二分前までは想像だにしていなかった光景に場内がざわめく。クリンチを振りほどくほどの体力がない天音は左目は閉ざされうっすらと開いている右目を弱弱しくエンジェルに視線を落とし、はぁはぁと全身で息を欲するかのように激しく呼吸をする。

 

レフェリーが二人を離したところで第7R終了のゴングが打ち鳴らされた。肩で息をして自軍のコーナーへと戻っていく天音とエンジェル。

 

「よくやったぞ相楽」

 

星川トレーナーの言葉に無言で頷く天音。はぁはぁと乱れ切った呼吸を整え第8Rも打ち負けない体力を回復することに専念する。あと少し。すべては作戦通りいっているのだから。

 

エンジェル・ロッシに長身のボクサーにありがちなスタミナ不足という欠点はない。でも、体力のスタミナは十分に持っていてもフリッカージャブを打ち続ける右腕の耐久性は十分ではない。あれだけパンチをしならせるのだ。右腕の負担は相当なものに違いない。その思いにいたったのはビデオの試合の映像ででエンジェル・ロッシが第7R、第8Rになると右構えにスイッチし、接近戦を仕掛け仕留めに出ていることに気付いたからだ。仕留めに出ていること、試合の展開に緩急をつけようとしているのはフェイク。終盤になるとフリッカージャブを打てる状態でなくなっているから。野宮のヒントを元にそう仮説を立てた天音は勝負となる終盤戦までできるだけ体力を温存することに決めた。インファイトは得意じゃない。パンチ力もテクニックも劣るかもしれない。でも、スタミナだけは上をいけたら勝機をとれるかもしれない。勝てる可能性はわずかだとしても化け物のような強さを誇るエンジェル・ロッシにはその作戦にかけるしかなかった。

 

身体の汗を拭き取ってもらい、マウスピースを口にはめ込んでもらう天音。ブザーの音が鳴ると、天音は気だるくもスツールから立ち上がる。そして、第9R開始のゴングが鳴るとまた赤コーナーを出ていった。このRで決めないと体力が持たないと自身の余力を悟りながら。

 

ゴングの音と同時にコーナーを出て相手に向かっていく天音。前のRでクリンチをし劣勢を強いられたエンジェルも負けじと一直線に相手に向かっていく。足を止めての打ち合いが再び始まった。

 

 飛び散る二人の美しきファイターの汗飛沫、血飛沫。自国を代表する戦士の熱戦に声を枯らさんばかりに声援を送る日米のファンたち。時が止まったかのように天音とエンジェルはただひたすらにパンチを打ち合った。手数で上回る天音。氷のように冷たい目線を相手に向け一発一発のパンチに力を込めるエンジェル。

 

永遠に続くかのように思われたパンチの打ち合いは、それまでの泥臭い打撃戦が嘘のように下から美しく伸び上がった右拳によって終わりを告げた。

 

長いリーチと共に天まで届くかのように伸び上がった美しきアッパーカット。エンジェルのもう一つの必殺パンチ、ヘブンズゲイトが天音の顎を突き上げた。両足がキャンバスから離れ、両腕を広げ背中から落ちていく天音。激しく打ち付けた音が起こり、そして、両腕がバンザイし左右の瞳は何もとらえず弛緩した口がだらしなく開いたまま涎が垂れ流れぴくぴくと身体が震える天音の姿は天国に昇ったかのような快楽を味わいながらKOされたボクサーのようであった。

 

しかし、奇跡はまたしても起こる。天音はカウント9で立ち上がってきたのだ。信じられない光景を目にしているかのように呆然とするエンジェル。だが、その表情は今にも叫び出さんとばかりの気迫が漲ったものへと変わり、天音へと向かって行く。闘志に満ちた表情で天音にパンチの連打を浴びせるエンジェル。好いようにエンジェルのパンチが当たっていく。エンジェルの猛攻の前に何も出来ない天音。レフェリーストップは時間の問題と思われた。

 

しかし、劣勢であっても自分のボクシングを貫き通しているのは天音の方であった。リングに上がると温厚だった顔が冷徹なものへと変わる。いつしか当然のように付けていたその仮面を無意識に外してしまったエンジェル。その姿は勝ち星に恵まれなかった新人時代のものへと戻っていた。そんなエンジェルに対して、顔面を何度も左右に吹き飛ばされながらも勝利を諦めずに対戦相手の顔を見続ける天音。

 

どんなに追い詰められても勝負を諦めないでいる天音に対して、無情にもレフェリーが動いた。天音の背後から近寄ってくるレフェリーの姿を目にしたエンジェルが、自分の拳で試合を決めるとばかりに渾身の力を込めて左のストレートを放つ。

 

グワシャッ!!

 

凄まじい衝突音がリングに響き渡った。レフェリーは足を止めて視線を天音からその先へと移す。花が散ったかのようにどさりと後ろへ崩れ落ちていく金色の髪をした女子ボクサー。

 

エンジェルの左ストレートをかわし切り天音が右ストレートをヒットさせた。天音のクロスカウンターにエンジェルは仰向けに倒れ落ちた。

 

それは奇跡の一撃であり、自身のボクシングを信じて愚直なまでに貫き通したボクサーがもたらした必然ともいえた。

 

レフェリーが10カウントを数え上げる。死闘となった副将戦は天音のKO勝利で幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

相楽天音〇(第9R1分54秒KO)●エンジェル・ロッシ

 

試合イラスト:Yoemiさん