※この作品は十年以上前にベイトさんが「ベイトの部屋」というホームページを運営していた時に、サイトのレンタルサーバーを僕と同じところに変えてその引っ越しのお祝いとして何かできないかと思い書いた作品です。
松谷裕子はベイトさんのキャラクターで「雨ニモ負ケズ・・」の薫との引っ越しに関する物語を書いたパラレルストーリーになります。

 

 

 「戻りなさいよ」

 

 「戻らないわよ」

 

 「はっきり言うけど、祐子にボクシングは向いてない」

 

 「同じ格闘技じゃない。空手でチャンピオンになった私がどうしてむいてないのよ」

 

 「左を制する者が世界を制す。これボクシングで有名な格言」

 

 「それくらい私だって知ってるわよ」

 

 「突進型の祐子が左を使いこなせる自信あるの?」

 

 「格闘技のセンスなら誰にも負けないわよ」

 

 「ならいいけど」

 

 受話器の奥から溜め息の漏れる音が届いた。

 

「・・・・・この前の試合観たよ。すごいねチャンピオン、左だけで祐子を弄んじゃって。あれが世界を制する左ってやつじゃないのかな。祐子はあのレベルまで左を磨ける自信ある?」

 

祐子は口をつぐんだ。

 

 空手チャンピオンとしてボクシングのチャンピオンである美香に挑んだ試合、祐子は美香の前にまるで歯が立たなかった。

 

 倒されたのは右のパンチだったが、試合を支配したのは左のパンチであり、左のパンチの前にキャンバスを舐めたといってもよかった。

 

 悔しいけど、美香の左は見切れないほど早かった。威力は手加減されたからよく分からなかったが、本気の威力で打たれていたら1R持たなかったのかもしれない。

 

美香との試合でボクサーのパンチ技術の恐ろしさを祐子は身を持って体験した。

 

 「いいの。私はファイターなんだから!」

 

 受話器の奥が静まる。

 

 「わかったよ祐子・・。祐子の意思は固いんだよね」

 

 元々冷め気味で感情が分かり辛いつぐみだが、声がしおらしくなったと祐子は気付いた。

 

 「うん・・ごめんねつぐみ」 

 

 「応援するよ」

 

 「ありがとう」

 

 つぐみからの電話が切れた。

 

 空手を捨てちゃったのよね。

 

 今の自分の立場を改めて実感した。

 

 空手家としての立場を捨てて、ボクサーの世界に身を投じて一から駆け上ることにした。

 

 美香に負けたままでいられないという思いからボクシングの世界へ本格的に足を踏み入れることを決めたけど、つぐみの言うとおり、ボクシングでもチャンピオンになれる保証などどこにもない。

 

 それに、道場の門下生やライバルなど多くの人たちの心を裏切ることになってしまった。

 

 でも・・・・・負けたままじゃいられないじゃない。

 

 祐子は左の掌に拳を当てた。

 

 それから音が気になって台所の方へと顔を向けた。台所からぐつぐつと煮えている音だった。

 

 「ああ、沸騰しちゃってるじゃない」

 

 祐子は慌てて台所へと向かった。

 

 

 

第一話

 

 

 

 夕日が落ちかけ始め空は赤焼けに染まっている。8月に入りようやく梅雨明けした東京は夕方でも蒸し蒸しとして熱かった。家のドアを開けた途端に熱い空気が体にまとわりつき祐子は唇をすぼめた。部屋のクーラーが壊れていて、扇風機でなんとかその場を凌いでいたために冷気を体に貯めておけなかったからというのもあった。

 

 大家の笑顔に騙されたと引越しして早々に至った後悔の念にまたも駆られようとしている。

 

 むすっとした顔してちゃいけないと思って頭の中を切り替えることにした。

 

 祐子は両手でそばを乗せたお盆を持ち、隣の家のドアの前に立った。

 

親に言われてそばを用意したけど、今時そばもらってありがたいって思う人いるのかな。そもそも隣人のご挨拶にそばを持っていくなんて礼儀を若い人知ってるのかってのもあるし。ピザじゃないなんて気が効かないねなんて言われたりして。

 

その時は、夜に部屋に来る祐華相手に鬱憤を晴らそうかな。

 

祐子は苦笑した。

 

すぐに真顔に戻して一息つくとピンポンと家のブザーを押した。

 

音が出なかった。もう一度押してみるもやはり音は出ない。

 

仕方なく、ドアを二度ノックした。暫く待ったが反応はない。

 

留守なのかと思いドアノブを回すとくるりと時計回りに動き、ドアを開けられた。

 

30度ほど開いたところで止めてちらりと覘く。

 

ああ、これじゃストーカー見たいじゃないと思いつつも何してるのか確認してみることにした。

 

途端に祐子の眉が持ち上がる。

 

祐子とさほど年の変わらなさそうな外見をした男女がパンチを出し合ってる。

 

女性の顔にパンチが当たったらどうするのよ。

 

「喧嘩はダメ!」

 

 ドアを蹴破って祐子は叫んでいた。

 

 対峙していた男女は共に祐子の方に顔を向ける。

 

 「喧嘩?」

 

 ショートカットの女性が戸惑い気味に言った。

 

 「その前に誰?」

 

 「えっ私?隣に引っ越してきた者で松谷裕子ですけど」

 

 ショートカットの女性の視線が祐子の両手にいく。祐子も釣られて視線がそこに向かった。

 

両手にもたれているのはそば。

 

 女性の顔が崩れると笑い声が出た。

 

 「なるほどね。喧嘩じゃないよ。マスボクシングっていって寸止めでするスパーリングみたいなもん。ボクシング知らない人が見たら喧嘩に見えるよね」

 

 「ええ~」

 

 祐子の顔が赤く染まっていく。

 

 あ~また早とちりしてしちゃった。

 

 しかも、ボクシングジム通ってるのにあたしは。

 

 「引越しの挨拶ににそばもってきてくれたんだね。ありがとう」

 

 ショートカットの女性の顔を間近で見ると祐子は自分よりも1、2歳年下なのかなと思った。

 

 「あっはい。口にあうかはわからないけど」

 

 祐子が女性の前に差し出し渡した。

 

 「気持ちだけでも十分だよ。なっ英三」

 

 「そうだなっ」

 

 連れの男はそっけなく返事をした。

 

 「なんだよ、英三には食べさせないよ」

 

 「薫は気持ちだけで十分なんだろ。だったら俺が食う」

 

 「わかった。英三に食わせない」

 

 「マスボクシングに付き合ってやったんだ。俺が食うのは当然だな」

 

 「困った時は助け合うのが当然じゃないか。英三はそれだから小物なんだよ」

 

 「プロで6連続KOしてる俺のどこが小物なんだよ」

 

 冗談まじりに言葉を交わしていた二人の口調がだんだんと荒っぽくなっている。

 

 「どうせオレはまだ一勝もしてないよ」

 

 大きい声を出すと薫という女性は頬を膨らまして英三という男から顔を背けた。

 

 「もしかして、プロボクサーなの?」

 

 「ん、そうだよ。今の話でわかっちゃうよね」

 

 「私もプロボクサーなのよ」

 

 「えっそうなの」 

 

 薫が目を大きく見開き、ややあって嬉しそうに表情が柔らかになった。

 

 祐子は口にした後であっと思った。

 

 プロで試合をしたことがあるといっても空手家として美香と試合をしただけでプロボクサーといえるのだろうか。

 

 でも、今はボクシングジムで練習しているし、近いうちに改めて今度はプロボクサーとしてリングに上がることになるだろうから嘘ではないわよね。

 

 「プロでどれくらい闘ってるの?」

 

 祐子はぼそりと言った。

 

 「1戦して1敗」

 

 「オレと一緒だよ。オレもこの前初めてプロのリングに上がったんだけど、負けちゃったんだ」

 

 「そうなの~」

 

 「あれっ松谷祐子って聞き覚えがあるな。もしかしてチャンピオンの音羽美香と闘った空手家の人?」

 

 女子ボクサーである薫と出会え気持ちが高揚していた祐子だったが、ちょっとうんざりした気分になった。言われたのは何度目だろう。ボクシングのチャンピオン音羽美香に惨敗したブザマな空手家といつまで自分は思われるのだろうか。

 

 「そうよっ」

 

 視線を逸らし、少しすね気味に返した。

 

 「そっか。ボクシングすることになったんだね」

 

 薫は頬を緩めて微笑んでいた。

 

薫は空手家だった私を敵じゃなくて仲間として見てくれるんだ・・・・。

 

 なんだ、良い人なんだ。

 

 途端、祐子の機嫌はすっかり直った。

 

 「負けたままじゃいられないわよね~」

 

 声も明るく大きくなっている。

 

 「分かる。負けたまま終わりになんてできないよね。オレだって次こそは睦月に勝ちたいもん」

 

 睦月?

 

 ボクシングの事情にまだそれほど詳しくない祐子も聞いた覚えのある名前だった。たしか、男子の興行に組まれた初めての女子ボクシングの試合が下山睦月と水野薫のカードだったような。

 

祐子は薫に親近感を覚えた。境遇が同じに思えてきたからである。デビュー戦で注目を集めたということ、そして、KOで敗れてしまったこと。

 

 「あっそうだ、せっかくだからマスボクシングやらない?」

 

 薫の提案に祐子はわくわくした気持ちが沸いた。

 

 「面白そうねそれ~」

 

 

 

 

第二話

 

  

 

 「マスボクシングはやったことある?」

 

 真っ先に美香とのロードワークでの出来事を思い出したが、あれは自分は当てる気でパンチを打って美香だけ寸止めでパンチを打つ条件だったから正確にはマスボクシングと違う。

 

 自分はパンチを寸止めする必要がなかったのに、自分のパンチはまったく当たらず、逆に美香のパンチはほとんど避けられなかったのだから情けない思い出だ。

 

 でも、薫とは対等な条件というわけだ。そう思うだけでうずうずしてくる。

 

 どこまで自分が成長しているのか試したい。

 

瀬里香さん、攻撃的な性格な割りに基礎的な練習ばかりでスパーリングもさせてくれないし。

 

 「やったことないわ」

 

 「マススパーっていっても、足を止めて寸止めでパンチを打ち合うだけなんだけどね。これでだいたいわかるよね?」

 

 「うん」

 

 「間違ってパンチ当たった時のために祐子も一応バンテージする?」

 

 「そうね」

 

 薫から投げられたバンテージを受け取ると、祐子は部屋の隅で両拳にくるくるとバンテージを巻いた。

 

 バンテージを巻くだけで気分が高揚していくのは自分だけかな。松谷祐子という女性から女子ボクサー松谷祐子へと変貌していく瞬間はこの時なのではないかと最近よく感じる。

 

薫がバンテージをわざわざ渡してくれたのも薫もそのことを分かっているからかもしれないと祐子は思った。

 

 それにしても・・・・・

 

 祐子は、改めて部屋の隅に目を向けた。 

 

部屋に入った時から気になっていることがずっとあったのだ。自分と同類の人間が住んでいる部屋の雰囲気に慣れ始めた今、いやその前から気にせずにはいられなかった。

 

 薫の部屋にはサンドバッグが吊るされている。

 

 おかしいでも恥ずかしいでもない。

 

 ちょっと羨ましい。

 

 祐子が抱いた感情はそれだった。

 

 毎日叩き放題じゃない。

 

 ストレスが溜まった時にいつでも叩ける。ああなんて良い環境なんだろう。あっよく考えてみたら薫と仲良くなれば自分も毎日叩きにいけるかもしれない。素敵すぎる隣人よね。

 

 「せっかくだから、ボクシンググローブもはめてみる?雰囲気出るよ」

 

 薫は目を細め赤いボクシンググローブの紐を握り目の前にぶらさげる。

 

 「だからって当てちゃダメだけどね」

 

 薫は冗談ぽく笑って見せた。

 

 「そうしようかな」

 

 2人はボクシンググローブをはめる。

 

 「準備できた?」

 

 「あっ大丈夫」

 

 部屋の中央に2人は移動してファイティングポーズを取り対峙する。

 

 「2分1セットでいい?」

 

 「いいよ」

 

 「いくよ」

 

 「オッケイ」

 

 と言って祐子は頷いた。

 

 2人は上半身を小刻みに揺らし、リズムを作る。某立ちしていてはパンチの的である。

 

 マスボクシングは初めてだったこともあって祐子はまずは受けに回ろうと考えていた。薫の攻撃を見てどんなものなのか感触を掴もう。

 

 だが、薫は一向にパンチを放ってこないので二人は睨めっこを続ける。

 

 「遠慮しないでパンチ打ってきていいよ」

 

 薫の言葉に祐子は気持ちを切り替えた。

 

 「じゃあ遠慮なくいくわよ」

 

 まずはジャブから。

 

 左のパンチを放つ。もちろん、寸止めで。パンチを打った瞬間薫は俊敏な動きでパンチの軌道から頭をそらしていた。祐子のパンチは完全にかわされていた。

 

 まだ一発じゃない。

 

 気を取り直して連続してジャブを放つ。

 

 しかし、祐子が放つジャブは薫をまったく捕らえることができなかった。薫のリズムの良いウィービングがことごとくパンチの軌道

 

 なんで当たらないの。焦りと悔しさ、情けなさが徐々に募り始めていた。

 

 この感覚には覚えがある。しかも二度。どちらも美香と関係していることだ。一度目は試合をしたとき。序盤当たっていたパンチが途中からまったく当たらなくなってしまった。

 

初めは手を抜かれてたからなんだけど。思い出したら腹たってきた。二度目はロードワークでばったり会った美香に練習半分でパンチを打つことになったとき。自分よりも強いものがいることへの、そして自分自身の未熟さへの悔しさを感じるのだ。

 

 シュバッと空を裂く音が耳に届くと眼前には左拳が止められてあった。

 

 あっ思う間もなくもう一度同じ軌道でパンチが祐子の目の前で止められた。

 

 祐子は身動きを一つ取れなかった。

 

 速い・・・。

 

 また、目の前でパンチが止められた。

 

 祐子は唇を噛んだ。

 

 痛みがあるわけではないが、心にはパンチを当てられた時以上の悔しさが募る気がした。

 

 負けられない。

 

 祐子は試合であるかのようにムキになってパンチを放つが、逆に大振りとなり、ますます空振りが惨めなものとなるのだった。

 

 

 

薫は冷静にパンチを的確に寸止めさせる。

 

 なんで・・薫だって白星ないんでしょ。なのになんでこんな強いの・・・それとも私が弱いっていうの?

 

 同じ境遇だと思っていた薫が持つ予測を遥かに上回るボクシングテクニックを見せられて祐子の気持ちは重くなっていった。

 

 歯を噛み締めて闘争心を剥き出しにした口とは裏腹に祐子の目は細くなり弱々しさが表れていた。

 

 マスボクシングを続けたくもあり、今すぐ止めてこの状況から逃れたくもある複雑な心中なのだ。

 

 ますます祐子のパンチは大振りが目立っていく。完全に祐子のボクシングは壊されていた。これが試合だったら薫のジャブで嬲り者にされていたに違いない。

 

 

 

 

 「2分経ったぞ」

 

 「終わりだね」

 

 薫がフットワークを終わらせた。それで祐子もマスボクシングの終了に気付き、ファイティングポーズを解いた。 

 

 「お疲れっ」

 

 汗をほとばしらせ、頬が上気している薫が気持ち良さそうな表情で祐子の肩をぽんと叩いた。

 

 「お疲れ・・」

 

 祐子は肩を下げる。薫からタオルを渡されると部屋の隅に腰を下ろし体中から噴き出る汗を拭った。

 

 顔、両腕、脇、タンクトップをめくってお腹、半ズボンから出ている股や太もも。拭っても拭っても汗は噴き出てくる。

 

 汗を拭っているうちに気持ちも落ち着き始めていた。気持ちの切り替えの速さには自信がある。

 

 「サンドバッグ叩いてもいい?」

 

 「あっかまわないよ」

 

 立ち上がると祐子は溜めを作りおもいっきしサンドバッグを叩いた。

 

 ドガアァッ!!!

 

 サンドバッグは跳ね上がり、大きな揺れを作ってから祐子の下へと戻ってくる。その動きを見て瞬間的にロープに跳ね返された対戦相手を思い描き、祐子はボディブローを突き刺す。

 

 ものを潰すたまらない感触が右手に伝わってくる。

 

 ボクシングはこうじゃなくちゃ。

 

 マスボクシングなんて自分の性には合わないわよ。

 

 「今のっすごいよ!」

 

 薫が興奮した声を発した。 

 

 連続してサンドバッグを打とうとしていた祐子はサンドバッグを両手で止めて頬の緩んだ顔で薫に振り向いた。

 

 「そっそうかな~」

 

 後頭部に掌を当てた。

 

 「ものすごいサンドバッグの揺れだったよ。たいしたパンチ力なんだね祐子」

 

 「バカ力だけが取り柄だからね~」

 

 「羨ましいよ。・・・」

 

 薫が潮らしい表情になる。

 

 「そうだっ今度スパーリングしない?祐子のパンチ力は実践でこそ生きるものだよ」

 

 言われてみるとそんな気がしてきた。マススパーリングで情けないところを見せたままでいるのもしゃくだし。

 

 祐子はゆっくりと声を低くして言った。

 

 「面白そうじゃないそれ」

 

 

 炎天下は今日も続いた。30度を軽く超える日中の温度にTシャツは早くも肌に滑りついてしまっている。
 

 祐子は横に目を向けると、苛々が増し片目を瞑った。
 

 もう・・・。
 

「なにぶすっとしてるのよ。スパーリング中だけはぼっとしてないでよ」
 

「なによ、私だってそうそう暇じゃないのに」
 

「練習でくたくたって言って日曜日いつもごろごろしてるのはどこの誰よ」
 

「いつもじゃないのにっ・・」
 

「とにかく、しゃんとしなさいよね」
 

 祐華は返事を返さなかった。
 

 祐子も祐華と同じくむすっとした。
 

 瀬里果さんに他のジムにスパーリングしにいくなんて言ったら、怒られるのは目に見えているし、ジムで他に頼めそうな人は見当たらなかった。だから、嫌がるのは承知で祐華にセコンドを頼んだのだ。

 

 まさか、ここまでふてくされるとは思わなかったけど・・・。
 

 それにしても薫が7年もジム通いしていたなんて。どうりでボクシングテクニックに長けているわけだ。
 

 そのことを薫の口から伝えられてからマススパーで良いように翻弄されたことへの納得と共にスパーリングでも薫に敵わないのではないか、薫よりも遥かに弱いのではないかという杞憂が現実のものとして感じられるようにもなっていた。
 

 祐子は両手で頬を張った。 
 

 大丈夫よ。ボクシング歴は2ヶ月でも格闘技歴は4年。しかも、空手チャンピオンにもなったんだから。
 

 積み重ねてきた時間は薫に多少引けを取る程度だし、中身はむしろ凌駕してさえいる気がする。
 

 なにより、実践派なのよ私は。薫だってそう言ってたじゃない。そうそう、薫との実力は大差ないわよ。
 

「お姉ちゃん何してるの?」
 

 祐華が覗くようにして祐子の顔を見ていた。
 

「えっ・別になんでもないわよ」
 

 顔が熱くなり、大きな声が出ていた。
 

 ナーバスになっていたところを祐華には察知されたくなかった。
 

「それにしても・・・お姉ちゃんとスパーリングしたいなんて薫さんも変な人だよね」
 

「どういう意味よっ」
 

 またもむっとした。
 

「だって、薫さん7年もジム通いしてるんでしょ。ボクシング素人のお姉ちゃんが相手になるわけないよ~」
 

「薫は私のパンチ力に目を見張るものを感じたの」
 

「馬鹿力なだけじゃない」
 

 祐華がぼそっと言う。
 

 とりあえず、祐華の頭にげんこつを食らわした。
 

 祐華が頭を抱えた。
 

「痛い!だから、馬鹿力なのよ!」

 

「ちゃんとセコンドしてよ。活入れてあげたんだから」
 

「活入れるのは私の役目じゃない!」
 

「もういっちょいっとく?」

 

 握り拳を僅かに持ち上げる。
 

「元気出てきたかな~」

 

 目を反らして祐華が半笑いした。
 

「あっ・・」

 

 祐華が人差し指で指した。釣られて祐子も後ろに顔を向けた。

 

「着いた・・ね・・・」
 吉井ボクシングジムの看板が建物の二階に付けられてある。

 

 地下がボクシングジムの入口のようで階段で降りて扉を開けた。

 

「よろしくお願いします!」

 

 ドアを開けると頭を下げて元気良く祐子は声を出した。

 

 顔を上げると薫と英三の2人しかジムにはいない。薫は体中から汗を噴出しながらサンドバッグを叩いているところだった。髪がくしゃくしゃになっていること、床に水溜りが出来上がっていることからも長時間叩いていることが分かる。
 

「いらっしゃい。遠くからよくきてくれたねっ」

 

 薫は頬に汗を滴らせながら頬を緩ませた。
 

「いや、近所だろ」

 

 隅で背中を壁につけながらだるそうに座っている英三が指摘する。
 

「細かいな英三は」
 

「それより、早く始めようぜ。親父に見つかったらことだ」
 

「親父?」

 

 祐子の振りに英三の方を見ていた薫が振り向いた。
 

「英三の親父さんがここの会長なんだ。他のジムの選手とスパーリングしたいって言ったら断られたんだよね。だから、ジムが休みの日曜日にこっそりとやることになったんだ。英三がいるからジムの鍵もなんとかなるしね」
 

「あっさり言うなよ。鍵取るのだっていくつかの死線を渡る必要があったんだぞ」
 

「英三にはまだまだ協力してもらわないとね。大役が残ってるんだから」

 

 薫は申し分けそうな気持ちは微塵もみせずあっさりと言った。

 

「じゃあ準備しようか。更衣室はあっちだから」

 

「更衣室は必要ないよ」
 

「えっ?」

 

 祐子はその場でTシャツとジーパンを脱ぐ。祐子の体には上下オレンジ色で統一されたスポーツブラにスッパツが着用されている。
 

「面倒で着てきちゃったから」

 

 祐子は舌を出す。

 

 試合で着たコスチュームである。薫も黒のスポーツブラに黒のトランクスを着て試合を思わせる格好をしている。

 

 2人で事前に決めていたことだった。スパーリングだけど、実戦さながらの形式を取ろう。ヘッドギアはなし、ボクシンググローブも試合で使う10オンス、2分6R。提案したのは薫のほうだった。

 

 祐子も躊躇せず同意した。

 

 早く試合がしたい気持ちで一杯だった。この2ヶ月でどれだけボクシングの技術が向上したのか確かめたかった。薫との実戦に近いスパーリングがちょうどいい機会だ。薫も試合がしたくてたまらないんだと素直に気持ちを明かしてくれた。やっぱり、薫は自分と考えが似ている気がした。

 

 ボクシングローブを両手にはめた祐子はリストの部分を祐華に包帯でぐるぐるとテーピングをして固めてもらった。

 

 これから殴り合いをするのだと意識する瞬間だ。自然と気持ちが高揚していく。

 

 祐子はリングへと上がった。すでに赤コーナーには薫が待機している。

 

 遅れて英三がリングの中へと入った。赤コーナーに行き、薫と2、3言葉を交わすと、口にマウスピースをはめこませてリング中央へと向かい立ち止まった。

 

 祐子も薫もお互いセコンドを用意してくることを決めていた。祐子は妹でありプロボクサーでもある祐華を、薫は英三をセコンドにした。あと試合に必要なのはレフェリーだけである。その重要な役をしてもらえる人間は祐子も薫も頼み込める人間がおらず、結局、
英三にレフェリーと薫のセコンドの二役をこなしてもらうことになったのだった。

 

「2人を真ん中に一度呼んだ方がいいのか?」
 

「そうしてよ英三」

 

 面倒そうな表情をしながら英三は2人を手招きした。

 

 祐子と薫が歩み寄る。すでにマウスピースを口に含んでいる薫の上唇はもこっと盛り上がっている。そのせいもあってか薫の表情はきつめである。

 

 祐子も気を引き締めて薫を見る。
 

「2分6R。あくまでスパーリングなんだからお互い無茶はするなよ」

 

 対峙してみると、拳一つ分祐子の方が背が高かった。アウトボクサーであろう薫のリーチが自分よりも短いのだから、リーチの差を上手く突けばジャブの刺し合いでは優位に立てる。マススパーのときはお互いがパンチを当てる距離でやっていたのだから、逆にリーチが長い方が不利だ。そう思うといけるんじゃないかという気に祐子はなってきた。

 

 2人は再び離れコーナーへと戻っていく。

 

 祐華からマウスピースを口にはめ込まれると一度胸の前で拳をがつんと叩いた。

 

 準備は万端。

 

「お姉ちゃん・・・」

 

 小さな声が耳に届き、祐華に顔を向けた。

 

「ガード固めてね・・」

 

 祐子は優しく微笑んで見せた。

 

「分かったわ祐華」

 

 普段口は悪くしてもいざとなればあたしのことを思ってくれる。姉として祐華に心配をかけるわけにはいかない。

 

 すぐに闘う者の表情へと祐子は戻す。力強く結ばれた唇が祐子の意思を表明していた。

 

 試合にあたって自分のすべきことを確認する。

 

 まずはガードを固めるね。防御ってあたりが祐華らしいわよね。

 

 攻撃は、ジャブとストレート中心でいこうかな。ボクシングジムに入門して以降、パンチの練習はジャブとストレートが圧倒的に多くさせられた。空手のパンチの癖を矯正するためだと瀬里果さんは言っていた。自分がどこまでボクシングの動きを身に付けられたのか確かめる良い機会である。
 

 英三がゴングを鳴らし祐子と薫のスパーリングが始まった。
 

 ゆっくりとコーナーを出て行く祐子に対して薫は機敏な動きで円を描きながら祐子との距離を詰めてきた。
 

 距離が近づくに連れて祐子の足が進まなくなる。薫の横の動きを追うので精一杯なのだ。自分の足を動かす方にまで意識のいく余裕がない。

 

 なんだか、やりづらいわ。
 

 まだお互い一発のパンチも出し合っていないというのに体が感じ取っていた。
 

 薫の体を追い左から右へと視線が移った時、薫の動きが縦へと変わった。

 

 一気に間合いを詰められての右フック。弧を描いたパンチは見事なまでに祐子の頬を抉った。頬がへこみ、マウスピースが早くも口から押し出された。
 

 腰くだけとなりどたどたどたっと後ろへ下がっていく。右足でキャンバスを力強く踏みしめてとどまる。
 

 何がなんだか分からなくなり祐子は気が動転していた。一つだけ確かなのは左の頬が骨まで痛むことだ。
 

 殴られたの・・? 

 

 認めたくない事実。しかも、あやうくダウンするところだったのだ。開始して僅か数十秒でダウンなんてしたら赤っ恥もいいところだ。

 

 目が大きめに開きがちになり、パンチの衝撃で口からマウスピースがはみ出たままくわえている祐子の顔は間が抜けたようになっている。
 

 その顔面にパンチを受けた事実を認めざるをえないパンチが突き刺さる。
 

 バシッ!!バシッ!!バシィッ!!
 

 ジャブの3連打。その全てが的確に祐子の顔面を捕らえた。祐子はまったく反応ができていない。
 

 パンチのダメージに耐え抜き再び薫に顔を向けた祐子は剥き出しになっていたマウスピースが口の中に隠れていた。
 

 ジャブが真正面から打ち込まれたことでマウスピースが祐子の口に押し込まれたのだ。だが・・・・・

 

 祐子の左の鼻の穴から唇の上、顎を伝いたらりと血が滑り落ちていく。正確な薫のジャブは早くも祐子の鼻の損傷をもたらしていた。祐子の顔は間が抜けた表情へと戻らされたのだった。 

 

 呆然としている祐子の顔面にまたも薫の左ジャブが突き刺さった。顔面が弾けた音が発せられると鮮血が宙を舞った。
 

 痛みに顔をしかめながらも祐子は反撃に出た。薫同様に左のジャブを連発する。しかし、祐子の出すジャブは薫のようには当たらない。
 ムキになって連発するもいくら打っても薫の体に触れることさえできない。祐子のパンチはガードさせることさえできず、すべて空を切っていた。
 

 なんで当たらないのよ。
 

 苛々と焦りは募るばかりである。
 

「ぶふぅっ!!」

 

 苛立ちに止めを刺すかのように薫の左ジャブが祐子の顔面に突き刺さった。

 

 薫が再びジャブで攻めに出ると、負けていられないと祐子もジャブを続け、試合は中間距離でジャブの差し合いへとなった。

 

 バシィッ!!バシィッ!!バシィッ!!

 

 ジャブが弾ける音は絶え間なく続いた。

 

 激しい打ち合いとは呼べるものじゃなかった。パンチを受けているのはすべて祐子だからだ。
 

 祐華はあぁっと力なく声を漏らし、英三は渋い顔をしていた。
 

 同等の数ジャブを出し合っているというのに当たるのは薫のジャブだけであり、祐子は醜く歪む顔をセコンド達の目に晒される目にあっている。

 

 大人と子供のボクシングとでも言い表すべきミスマッチ。

 

 ボクシングの基本ともいえるパンチの応酬が皮肉にも2人の間にある実力の差を如実に表す格好になっている。
 

「ぶへっ!!ぶほっ!!ぶふっ!!」 

 

 パンチングボールのように弾かれる続ける祐子の顔からはブザマな苦痛の声が漏れる。

 

 ワン、ツー!!

 

 ワン、ツー、スリー!!

 

 左のジャブだけだった薫の攻撃も右のパンチ絡めた痛烈なコンビネーションへと移行している。

 

 ワン、ツー!!

 

 ワン、ツー!!

 

 基本に忠実でコンパクトに直線的な薫の攻撃が続きざまに当たる。

 

 きっ効かないわよこんなパンチ。

 

 祐子は鼻血で真っ赤に染まった顔に赤く彩られたマウスピースを剥き出しにしながらパンチを出す。ムキになって出された大振りのフックは虚しくも空を切り、対照的であるコンパクトで直線的な薫のワン、ツーが祐子の顔面をまたも捕らえる。

 

 きっ効かないったら・・

 

 思いとは裏腹に祐子の上体が棒立ちになる。

 

 そこへ、また薫のワン、ツー。

 

 バシィッ!!バシィッ!!

 

 薫のワン、ツー。

 

 バシィッ!!バシィッ!!

 

 鼻を潰されて血が放射状に飛び散っていく祐子の顔は目の焦点が定まらなくなっていた。

 

 前のめりに崩れ落ちていく。正面に立っていた薫の肩に顔が当たり、薫は祐子の体を支えた。

 

 ここで1Rのゴングが鳴る。

 

 頭が真っ白で何も考えることができず、息の切れた呼吸を吐きながら薫に体を預けたままにいた。

 

「もう・・終わりにする・・?」

 

 いたわりの気持ちを持った、それでいて奥底ではがっかりとした気持ちも含んでいる、そんな言い方だった。 

 

「まだ・・やれるわ」
 

「分かったよ・・」

 

 祐子は触れ合っていた肌を離すと背中を向けて青コーナーへと戻っていく。千鳥足となり、右に左にふらつきながらようやく祐華が置いた椅子へと座ることができた。

 

 1Rが終わったばかりだというのも祐子は早くもノックアウトされる寸前な状態である。

 

 祐子は美香との試合に本気を出されてから1R持たずにノックアウト負けを喫したのだが、薫とのスパーリングはその再現に近い。薫の左ジャブを中心としたアウトボクシングは美香を髣髴とさせるものがあり、実力でもけっしてひけを取っていない。今の自分の実力では美香に敵うはずもないと悟っている祐子が勝てる相手ではなかったのだ。
 

「お姉ちゃん・・」

 

 祐華の声に反応し、祐子は顔を上げた。真っ青にしている祐華の顔がある。
 

「大丈夫よ祐華・・まだまだ体は動くんだから」  

 

 祐華は黙ってしまった。喉仏が動き唾を飲み込む音が微かに耳に届いた。

 

 相当酷い顔になってるのだろうか・・。

 

 祐華はタオルで祐子の顔を拭いた。白かったタオルに赤い染みが広がる。

 

 英三が祐子の前に立った。

 

「これは試合じゃなくてスパーリングなんだ。無理しない方がいいんじゃないか?」
 

「大丈夫です」 

 

 英三はやれやれといった表情で、
 

「薫にも言われたよ。祐子の意思を尊重させてくれって。良い根性してるよお前ら」
 

 と言った。

 

 薫・・・。

 

 自分の気持ちを分かってくれる薫に感謝した。
 

 だからこそ、薫とは対等でありたいのだ。

 

 ───────良いようにやられたままではいられないわ。
 

 祐子は立ち上がり、祐華にマウスピースの手渡しを即した。渋る渋る祐子の掌に置かれたマウスピースを祐子は口にはめる。

 

「そんな顔しないの。次のRから反撃開始するんだから」
 

 虚勢を張るもののもちろん祐華の顔から心配の色が消えることはない。

 

 言葉ではなく試合で示さなければならない。

 

 英三がゴングを持ちにリングから降りる。

 

 ゴングの音を待つ四者は必然的に同じ思いになっていた。

 

 祐子の挽回する姿である。

 

 不甲斐無い姿を見せた祐子は対戦者とその陣営である薫と英三にさえも同情を持たれている。

 

 だからといって薫が手を抜くことはない。第2R以降も全力でもって自分のボクシングを祐子にぶつけてきた。

 

 ボクシングテクニックが素人も同然の祐子の顔面に手本を見せつけるかのようにジャブを中心に百発以上のパンチを浴びせた。

 

祐子の血によって赤く彩られたリング上に祐子は薫のパンチによって踊らされた。祐子の顔面からは血飛沫が何度も噴き上がる。顔面が血塗れと化した祐子はもはや鼻だけではなく口からも血を吹き続けた。

 

 お互いが望んで生み出された光景ではない。実力差があり過ぎることが残酷な試合展開
を生むのだ。

 

 それでも祐子は立ち続けた。立ち続けパンチを浴び続けた。

 

 そして、4Rが終了する頃には、祐子の顔面は頬も瞼も水脹れのようにパンパンに腫れ上がり吐き気を催すほどの悲惨な変貌を遂げていた。

 

 髪はくしゃくしゃになり、目がうつろなその表情からは精気も消えうせているかのように映る。
 

「お姉ちゃん!」

 

 祐華が泣きそうな顔をしてコーナーポストにだらりと体をもたれかけている祐子の肩をゆする。
 

「祐華・・」
 

「もう止めようよ」
 

「私は・・まだ・・やれるわよ」
 

「意地張らないでよ」
 

「祐華の言うとおり意地だわ。意地でやってるわよ。でも・・」

 

 祐子は力強い目で祐華の顔を見つめた。
 

「負けられない相手が目の前にいる。自分から負けを認められるわけないじゃない。祐華だってそのうち私の分かる時がくるわよ」

 

 祐華が口ごもる。
 

「私だってわかるよ・・」

 

 顔を逸らす祐華を驚いた顔で祐子は見つめた。

 

 無言のまま数秒が過ぎた。

 

 祐華がマウスピースに付いた血をタオルで拭う。それから、目の前に差し出された。
 

「これっ・・」

 

 祐華が目を合わせた。

 

 いつもならその場に居辛くなると目を合わせることはけっしてしなかったのに。 

 

 祐華も大人に・・ううん、ボクサーなのよね。 

 

 祐華が成長していることを祐子は感じた。

 

 ───────ごめんね祐華。我侭なお姉ちゃんで。

 

 首を縦に振り、祐華の手から口にはめこまれた。

 

 顔を上げて祐子は口をぽかんと開ける。

 

 英三が祐華の後ろに立っていたのだ。ラウンドが終わりインターバルに入るたびに青コーナーに足を運び祐子の体の状態を確かめに英三は足を運んでおり、スパーリングを続けられのか確かめることが、いや、スパーリングをもう終わりにしないかと説得することが決まりごとのようになっていた。

 

 英三は何も言わずにリングの中央へと戻っていく。姉妹の会話を聞かれていたようだ。

 

 我侭で迷惑ばかりかけている。だからこそ───────

 

 このままじゃ終われないわよ。

 

 祐子は立ち上がり、自分の気持ちを奮い立たせるべく拳を一度打ち合わせた。

 

 第5Rが始まる。

 

 祐子は突進してパンチを当てにいき、薫は足を使いジャブを中心に細かいパンチを当てにでる。

 

 2人のボクシングは祐子がノックアウトされる寸前の状況である第5Rに入っても変わらない。それは、同じことがまたも繰り返されることを意味していた。祐子はパンチの空振りを重ね薫のパンチを打たれるがままに浴びる。祐子の動きが鈍くなっておりむしろ、前のR以上に酷くなっているといえる。

 

 ジャブの速射砲が祐子の顔面を吹き飛ばし続ける。血と唾液、汗あらゆる液体が祐子の顔から飛び散っていく。

 

 ロープを背負い、いよいよ祐子は薫のサンドバッグと化していく。薫の両腕から放たれた無数のパンチが祐子の顔面を乱打するように叩き潰す。

 

「ぶふぅっ!!ぶはあぁっ!!あぶぅっ!!」

 

 祐子は無力にも悶え声を発することしかできない。

 

 顔面に一発パンチをもらう度に顔の骨が焼けるような痛みを受ける。

 

 どうして・・どうして私のボクシングが通用しないのよ・・・。

 

 薫のパンチを受ける度に自分の弱さを思い知らされる。肉体的なダメージだけでなく精神的な苦痛も味あわされている。

 

 サンドバッグとなった状況が10秒以上続きパンチも20発以上受けたところで怒りは頂点に達する。

 

 薫の右ストレートが頬にめり込み祐子の顔面を豚のように醜く歪ませていた瞬間だった。なにかぶちっと切れるものを祐子は感じた。

 

「打たれたままでなんていられないわよ!」

 

 祐子の怒りの右ストレート。

 

 ドボオォッ!!
 

「ぶほおぉっ!!」

 

 尖った唇が開けられたまま祐子の表情が苦痛で固まっている。

 

 祐子のどてっ腹にはアッパーが突き刺さっていた。薫がめり込んだ拳をさらに突き上げると祐子は白目を向き、口の端から涎が泡のように流れ落ちた。
 

「ぶえぇっ!!」

 

 マウスピースが吐き出されると祐子の両腕がだらりと下がる。両足は力がなくなり踵がキャンバスから離れている。

 

 薫のボディアッパーは直角に曲げられ力強く全体重がのしかかる祐子の体を支えていた。

 

 

 

 

 薫が拳を引くと、祐子は前のめりに落ちていき、無防備に顔面をキャンバスに強く打ちつけてビチャッと血が顔面とキャンバスの狭間から飛び散った。

 

 祐子はうつ伏せに倒れたままぴくりともしない。

 

 薫と英三、祐華。三者が静まり返った。

 

 重苦しい雰囲気の中、英三が両手をクロスした。

 

「スパーリング終了だ」

 

 英三の口から告げられた試合終了の声。

 

 それは祐子にとってとどめを刺されたかのような宣告だった。

 

 まだ、やれるわよ・・。

 

 祐子は敗北を否定する。

 

「お姉ちゃん!」

 

 すぐ側から祐華の声が届いた。肩と背中に祐華の手が触れられる。

 

 祐華、リングに入ってきちゃダメよ。私はまだやれるの・・・。

 

 やれるんだから・・・。

 

 足音が届く。音が段々と大きくなっていく。

 

 やめて・・・。
 

 お願いだから来ないで。
 

 咄嗟に予感した事態を祐子は拒絶する。
 

「祐子・・」

 

 薫が辛そうに名前を呼びかけた。

 

 対戦相手である薫にまで声をかけられた。薫も試合を終了を受け入れたということである。対戦相手の気持ちも試合終えた後の心情に移っている。

 

 薫のかけた言葉は試合は終わりを意味するのだ。

 

 祐子は苦痛に硬直した頬をキャンバスに張り付かせながら、惨めな気持ちを味わった。

 

 弱すぎるわ・・・。

 

 どうしようもないくらい弱い・・・。

 

 空手時代に体験したことのない感情をまた味わうことになった。

 

 自分に完敗し涙を流していた対戦者の気持ちが美香に惨敗したことでようやく自分も思い知らされた。

 

 空手ではトップにいられてもボクシングでは並みのレベルなの?

 

 そんなに私って弱いのね・・・

 

 空手着を身に纏い大声を張り上げて正拳と蹴りを放っていく自分がいる。顔から汗をほとばしらして闘志を前面に表している。

 

 私、良い表情してるじゃない・・・・

 

 昔の姿を思い出し祐子は首を振った。

 

 弱くない。弱いと認めたら、空手に申し訳が立たない。

 

 ───────空手はけっして弱くなんかない。私は弱くなんかない。

 

 祐子が拳を突き立てて上体を持ち上げる。
 

「無理しないでお姉ちゃん」
 

「まだ私はやれるわよ」
 

「お姉ちゃんっ!」

 

 がくがくと震える膝と闘いながら祐子は立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
 

「おっ・・おいっ・・」

 

 止めようとする英三を左手で振り払う。

 

「まだ、テンカウント経ってないはずよ」

 

「オレもまだ10秒は経ってないと思うよ。でも、これ以上続けたら無事に終わらないよ」

 

 薫が強い口調で言う。

 

「私はまだ全てを出し切ってないわ」

 

「強がりだったらオレは怒るよ」

 

「強がりなんかじゃない」

 

 薫は祐子から目を逸らさずに見つめ続ける。

 

「殴られる方だけが辛いんじゃないよ。殴る方も辛いんだ」

 

 祐子は言葉をなくした。

 

 薫の気持ちを無視して自分のことしか考えていなかった。でも・・・

 

 それでも私はスパーリングを続けたい。

 

 祐子は下を向いたまま拳を強く握り締める。

 

「分かった、続けるよ」

 

 祐子は顔を上げる。薫の顔は依然として厳しかったが、どこか柔らかくもあった。

 

「でも、次倒れたら今度こそ終わりだからね」

 

「ありがとう薫・・」

 

「感謝は、拳で返してくれよな。オレだって祐子を殴るためにスパーリングの申し出をしたわけじゃないんだからさ」

 

「分かったわ」

 

「薫、俺はもうこれ以上続けたってどうにもならないと思うぞ」

 

 祐子と薫のやり取りに英三が割って入る。

 

「英三、オレだって祐子を殴るためにスパーリングの申し出をしたわけじゃないんだ。英三はオレの気持ち分かるだろ」

 

 言いたいことを喉元で抑えたような表情を英三は見せる。

 

 諦めたように英三は首を横に振った。
 

「早くコーナーに戻れよ薫、試合続けるぞ」

 

「祐華、そういうことだから、もう少し私の我侭に付き合って」
 

「無事で終わってよねお姉ちゃん」

 

 背中を見せる祐華は涙声になっていた。
 

「ファイッ!!」

 

 英三の言葉を合図に試合は再開される。祐子はその場に腰をどっしりと沈め左手をやや前に出し、右腕を顎の位置から下げた。両腕を高く上げ頭を守ろうとするボクシングのポーズではない。

 

 それは空手の構えである。

 

 フットワークも捨て去りすり足で徐々に距離を詰めていく。対照的にフットワークを使い、薫は前に出る。

 

 高速のマシンガンジャブ。

 

 ビシィッ!!ビシィッ!!
 

「あぶっ!!あぶぅっ!!」

 

 祐子は無力にも薫のジャブを避けきれない。両腕の壁がない今、薫のパンチを遮るものもなく、容易くパンチが当たるその様はディフェンスがさらに悪くなったといえる。

 

 しかし、祐子はパンチを浴びながらも必ず受け終えたあとすぐさま薫の顔にぎらついた視線を向けている。まだ、祐子の目は死んではいない。

 

 ───────好きなだけジャブを打ちなさいよ。

 

 祐子は薫の懐に飛び込むチャンスを伺っていた。これまでも左での刺し合いに押されると距離を詰めに出るのだが、薫はサイドへステップし、攻撃をかわしている。軸をずらされてはパンチは当たらない。祐子はワンステップの間に薫の体を捕らえなければならないのだが、これまでのところ、祐子のダッシュが攻撃に繋がったことは一度もなかった。祐子の追い足には薫のフットワークを捕らえ切れる力がないとうことである。

 

 攻撃を捨て受けに専念していることで体がジャブのタイミングになれてきている。だからといってかわせるほど見切ったわけではない。なんとなくわかるといった程度のもの。

 

 祐子は意を決する。

 

 その矢先、祐子の顔面にこのR8発目となる左のジャブが突き刺さる。ジャブとは思えぬグシャッとした鈍い音を響かせたパンチは正面から当たり祐子の鼻を強烈に押し潰している。

 

 血の糸を引きながらグローブが戻されると鼻血が両穴から噴き出ており顔面を真っ赤に染め上げていた。薫のジャブで祐子は鼻を破壊された。だが、目は薫の顔を強く捉えている。

 

 パンチが戻り切る前に祐子はダッシュへを仕掛けた。薫はこれまで同様にサイドステップで対処に出ようとする。

 

 僅か0コンマ数秒の差である。素人目には分からないほどの僅かな差。その僅かな差が大きな違いを生んだ。

 

 ドボオォォッ!!

 

 祐子の右の強振したパンチが薫のどてっ腹に突き刺さる。薫の体がくの字に折れ曲がり間髪入れずに左のフックを薫の顔面にぶち込み体ごと吹き飛ばした。

 

 祐子のパンチ力が災いし、またも2人の間に距離が開く。

 

 だが、祐子のパンチがついに薫の捉えたのである。

 

 もう一度前へ出ていく。祐子のステップは右手と右足、左手と左足を同時に前に出している。逃げ切れない薫の体に右足で前へと踏み込むと同時に右腕でパンチを放ち、ボディブローから、さらにボディブローでたたみかける。

 

 両腕の位置を下げて左右の拳を薫の腹へと打ち込んでいく。それはボクシングのボディブローではなく、空手の突きといってよい。薫ががら空きの祐子の顔面にパンチを打ち込もうとお構いなしに突きを打ち込むのを止めない。

 

 祐子の圧力の前に薫は防戦一方になる。

 

「薫!なにしてんだよ、早く距離を取れ!」

 

 英三の指示が聞こえてないのか薫は足を止めて祐子の接近戦に付き合う。薫は逃げずに打ち合いに応じているのだが、パンチ力が祐子とではものが違う。薫のパンチが当たっても祐子の攻撃を止められずボディブローを受ける度に体を激しく波打たせていた。その様は祐子を逞しく薫をひ弱に思わせる。

 

 右フックを打ち抜くと、また薫がふらふらと後ろへ下がっていく。祐子は距離を詰めてパンチを打ちに出る。踏む込む足と振る腕が同じ変則的なパンチに薫は反応ができずパンチを食らう。そこからボディブローを集中砲火される。薫の鉄壁のディフェンスが崩されてしまっている。空手の変則的な動きが薫のボクシングに狂いを生じさせている。

 

 薫がロープに詰められてラッシュを浴びるところでゴングが鳴った。

 

 2人とも肩で息をし、ふらふらとした足取りでコーナーに戻る。 

 

 祐子は椅子に座り、両腕をロープにかけた。疲れから背中はコーナーポストにかける。顎を上げ疲れ切った姿を見せながらも祐子は心地よさに浸る。初めて気持ちよくインターバルを迎えることができた。次のRもいけるという希望が持てるインターバルだ。

 

 祐華が祐子の口からマウスピースを取り出した。銀色の糸を引くマウスピースを洗いながら話しかける。
 

「逆転できるなんて思ってなかった」
 

「そう簡単に負けないわよ。次のR薫を倒して借りを返さないと」
 

「お姉ちゃんの動きってなにか変な感じしたけど。右手と右足が同時に前へ出てたよね」
 

「ナンバっていって日本人は昔右手と右足、左手と左足を同時に前に出して歩いてたのよ。体を捻らないから相手はタイミングを掴み辛い。攻撃の時もそう。踏み込む足を手が同じだから分かり辛いわよね」
 

「なんか漫画みたい」
 

「空手は奥が深いのよ」

 

 祐子は握り拳を祐華の前に見せ付ける。

 

「あと1Rだね。頑張ってお姉ちゃん」

 

「任せといて」
 

 祐子は椅子から出る。あと1Rしかない。スパーリングだから判定で勝敗を決めるわけじゃないが、できるのならKOで薫に勝ちたい。
 

 薫の技術は一級品だったけど、圧力には弱いわ。
 

 ナンバ突きで接近戦に持ち込めば断然有利だ。

 

 最終Rのゴングが鳴った。前のR動揺にナンバの動きを軸にして攻め薫の懐の間合いから突きをボディに打ち込んでいく。

 

 ドボドボドボドボッ!!

 

 マシンガンのような突きの連打が薫の腹に次から次へと突き刺さる。赤みがかっていた腹の色が瞬く間にどす黒く変色していく。

 

 逃げ込むように薫は体を祐子に密着させて両腕を腰に回した。
 

「そうじゃないんだよ」

 

 苛立つように独り言を漏らした薫がすぐさま祐子の体を突き放そうと両腕で押した。

 

 瞬間的に祐子はチャンスだと感じた。

 

 突き出される前に左手を薫の首の後ろに絡ませてロックした。

 

 有効な攻撃の手段だと体が理解している。狙うは美香が祐子にゲロを吐かせたボディブローの連打の再現である。

 

 身動きできない薫の腹に至近距離からのボディブローをぶち込む。

 

 一発、二発、三発。

 

 五発、六発と入れていくうちに薫の表情が青く変色していく。唇の端から涎が思考能力がなくなったかのようにだらだらと漏れ続け、涙目になっている。 

 

 薫の体からまだロックを振りほどこうとする抵抗する力は感じられるが、表情を見ればグロッギーとなっているのが露だ。

 

 祐子は容赦せずにボディブローを打ち込む。

 

 ドボオォッ!!

 

 薫の両足が宙に浮いてもおかしくないくらい体がくの字に丸まった。

 

 もう一発。

 

ドボオォォッ!!
 

「うえぇぇっ!!」

 

 苦痛に満ち溢れた叫びのあとに薫は、

 

 「負けるもんか・・」

 

 奮い立たせるように独り言を言った。

 

 だが、薫に立っていられる力など残ってはないことを祐子は知っていた。薫の体からは力が伝わってこない。

 

「残念だけど薫、私の勝ちよ!!」

 

 とどめのボディブローを薫の腎臓に突き刺す。
 

「ぶうえぇぇっ!!」 

 

 薫の突き出された唇から大量の唾液が絡みぬめるように吐き出されたマウスピースが祐子の右肩に当たった。

 

 その瞬間、祐子は両手で薫の体を突き放し十分な間合いが開いたところで右正拳突きを薫の顔面にぶち込んだ。

 

 ブシュウッ!!

 薫の鼻が破壊された。鼻から血が放射状に散り、ひしゃげている。薫は両腕をバンザイしながら後ろへと無防備に倒れ落ちた。

 

 ぴくぴくと体を波打ちさせて・・・

 

 

 

「ワンッ!ツー!」

 

 薫は頬をキャンバスに張り付かせながら死人のごとく何も捉えていなかった。鼻からも口からも血が垂れ流れ落ち瞬く間にキャンバスを赤く染めていく。

 

 薫の凄惨な姿を祐子はロープに右腕を絡ませながらなんとかリングの上に立ちながら見つめていた。

 

 薫がダウンしたことで緊張の糸が解け急激な体の疲労が裕子に襲い掛かったのだった。接近戦で薫を圧倒しながらもこれまでのダメージの蓄積量は祐子のほうが上回っている。体力の面でも接近戦で休むことなくパンチを出し続け無酸素運動を2Rに渡り行い底をついている。

 

 体の限界を超えて呼吸したツケを払うためにたくさんの酸素を取り込もうと祐子は早く大きな呼吸を繰り返す。 

 

 これ以上空手の動きを続けられそうになかった。空手の試合は5分であり、無酸素運動を多く必要とする短期決戦向けである。

 

 空手の型で闘って4分。これまでの体力の消耗も合わさって限界にきている。

 

 薫が上体を起こす。

 

 寝ててよ・・。

 

 ふらふらとしながらも薫が立つ。

 

 薫は足元が定まっていないが、大丈夫だと強く言い放ち、英三に再開を促す。薫の気持ちを組んでか最終Rだからか英三は試合を続行させた。

 

 やるしかないわよね。

 

 祐子はダッシュして薫の元に向かっていく。カウントが数えられている間に回復したちょっとの体力が切れる前に決着をつけなきゃ。

 

 足が言うこと聞かずにその場に立ち尽くす薫にボディの連打を打つ。顔面をがら空きにしてでも薫は両腕をお腹の前にもっていき固いブロックをしく。祐子はガードの上から突きを打ち続ける。

 

 4発、5発、6発。

 

 徐々に祐子のパンチの回転が下がっていく。蚊も止まるほどのよれよれしたスピードでパンチを放つと祐子の体は硬直してしまった。

 

 涙目になり苦しそうに横に開かれたままの口からは唾液が漏れ落ちる。

 

 息を吸うことができないのだ。

 

 両腕が鉛のように感じられだらりと下がる。

 

 やられると予感することさえできないほ祐子は呼吸に苦しんでいる。

 

 一方の薫も目がとろんとし、グロッギーな様相を呈している。

 

 どちらからともなく、二人の体が密着し支えあった。肌と肌が触れ合う中で悶え苦しむように息を吐く。

 

 ここでゴングが鳴った。

 

 祐子と薫お互いがゴングに救われたといったところである。 
 

「これでスパーリング終了だな。お2人ともお疲れさん」

 

 祐子は体中の力を抜き、ロープに背中を預けしならせた。天を仰ぎながら激しく呼吸を続ける。

 

 祐子の元にやってきた祐華の肩を借りて祐子はコーナーへ戻ることになった。

 

 情けないけど、一人で帰れる余裕はなかった。

 

 スパーリングもこれで終わりか・・。短いようで長かったな・・・。
 

「ちょっと待って」

 

 薫の声に皆が振り向く。薫はロープに右腕を絡ませて辛そうに立っている。

 

「もう1R延長させて欲しいんだ」
 

「何言ってんだよ。6Rって決まりだろ。それに一人で立っていられてねえんだぞ」

 

「私は構わないけど・・」

 

 すぐさま英三がむすっとした表情で祐子の顔を見る。
 

「でも、延長したい理由だけは聞かせて欲しいな」
 

「見てのとおり、オレのボクシングは技術はあるけど、一度捕まえられると情けないくらい弱くなるんだ。睦月の試合もそれが原因で負けた。だから、接近戦でも対処できる荒々しさが必要なんだよ。祐子の荒々しいファイトに押されっぱなしじゃなにも成長してない。もちろん、そう簡単に成長なんかできるはずないけど、折角のチャンスなんだ。あと、1R自分の可能性を試してみたいんだ」
 

「分かったわ。私も薫ともう1R闘いたい。私だって自分の可能性を試してみたいわ」

 

 薫は頬を僅かに上げて感謝の表情を浮かべた顔を祐子に送る。それから薫は英三の方に向ける。目じりを下げてねだるような表情である。 

 

「分かったよ。これでホントに最後だからな。3分休んでから再開だ」

 

 祐子は椅子に座りながら首と肩を下げて再開をじっと待つ。祐華も祐子の体力が限界だと分かっているから話しかけてくることはなかった。拭いても拭いても止まらずに噴き出る汗を拭おうとする。

 

 3分間はあっというまに過ぎ去った。

 

 祐子は重い腰を上げた。

 

「これで本当に最後ね。行ってくるわ祐華」
 

「頑張ってお姉ちゃん」

 

 祐子の口にマウスピースがはめこまれる。

 

 エキストラRが開始された。

 

 3分間休憩できたといっても2分間パンチを打ち続けることは到底無理だ。ナンバ突きからのラッシュで短時間のうちに決めなければならない。

 

 確実に当てないと。

 

 バシィッ!!
 

 慎重に間合いを計る祐子の顔面に薫のジャブが突き刺さる。

 

 体勢を立て直したところにもう一度頭を弾かれた。相変わらず祐子は薫のジャブを避けられでいる。

 

 やっぱり、悠長なことは言っていられない。

 

 祐子は仕掛ける。

 

 ジャブを顔面で受けてからのナンバ突きでの反撃だ。

 

 ───────これまで上手くいったんだから薫には避けられないわよ。

 

 右足で踏み込んでの右の正拳突き。

 

 重く鈍い音がすると、祐子が顔を歪ませていた。左腕でパンチをブロックされているのだ。

 

 祐子は歯を食い縛り拳の痛みに耐える。

 

 ガードはされたけど、距離を縮めることには成功したじゃない。

 

 かまわず、打った。呼吸の続く限り突きで攻めまくる。

 

 ナンバ突きはガードされたが、突きは薫のガードを突き破ると怒涛の連打で当たった。パンチが突き刺さるごとに薫の体をくの字に曲げた傾きが増していく。

 

  スピードの落ちないうちに薫を倒さなければならない。スピードの乗ったパンチはおそらくあと3発が限度。体が祐子にそう教えている。だから、振りを少し大きめにとった。

 

 ドボオォォッ!!

 

 リスクを大きくした分、拳が肉にめり込む深さも増した。

 

 二発目の正拳。

 

 ドボオォォッ!!

 

 拳がめり込むと、薫の腹筋の力が抜け落ちていくのが拳に伝わった。腹筋の緩んだ状態でパンチを腹に打てば地獄の苦しみを相手に与えKOは必至である。

 

 ラストの一発を祐子は放つ。
 

「これで終わらせるわ!」

 

 気合を吐いて打ち込んだ正拳突きは鈍く重い音を打ち鳴らした。しかし、拳に伝わる感触は硬すぎた。当たっているのは腹ではない。薫の左腕。右腕と重ねたクロスガードで薫の腹はがっちりと守られている。
 

「終わるせのはオレだ!!」

 

 くの字に曲がっていた体を伸ばしながら急上昇した右のアッパーカットが祐子の顎を上へと弾いた。

 

「ぶへえぇっ!!」

 

 真上へ突き上げられた祐子の顔面から血反吐と真っ赤に染まったマウスピースが吹き飛ばされた。

 

 マウスピースと共に祐子の体も宙を舞う。

 

 背中を激しく打ち付けるとダウンが宣告された。 

 

 肉体へのダメージと試合をひっくり返された精神的なダメージに祐子は打ちひしがれた。

 

 負けるはずがないと思っていた接近戦で薫に打ち負けた。

 

 接近戦でも対処できる力を身に付けたかったために薫は祐子とのスパーリングを望んだ。

 

 自分の可能性を試したいと言い放ち、そして自分の可能性を切り開いた。

 

 悔しいけど、薫はすごい・・・。
 

 私は可能性を切り開くことができたのだろうか・・・。

 

 私の可能性ってなんだろう・・。

 

 薫に勝つことなのだろうか?

 

 それが私の可能性なのだろか・・・。

 

 祐子は立ち上がった。

 

 なかなか足が前に進まない。歩いていると同然のスピードしか前へいけない祐子に薫の左ジャブが突き刺さる。

 

 それでも、ナンバ突きで反撃へ出たのだが、待っていたのは薫のカウンターパンチだった。

 

 ダッシュして距離がつまったところに薫の右フックが祐子の顔面にめり込まれた。
 

「ぶふうっ!」

 腰がくだけところに追い打ちのジャブが祐子の顔面に打ち込まれる。

 

 ミドルレンジから左と右のコンビネーションが槍のように祐子の顔面に突き刺さった。ミドルレンジでは祐子が相手になるはずがない。祐子もパンチを放つも空転を繰り返すだけであり、距離を縮めようにもナンバ走法のタイミングを覚えられ縮めようにも縮められない。

 

 祐子の空手戦法が薫に通用しなくなっている。

 

 なんで当たらないのよ。

 

 思うようにいかず苛々が再び募るところに小さなパンチがこつこつと顔面に当てられる。パンチは当たらないし、小さなパンチばかり当ててくる。 

 

 ボクサーはどうしてこうもちょこまかと苛々させる動きをするのだ。

 

 何言ってるんだろう・・・

 

 考えを否定した。

 

 どうしちゃったのよ、私もボクサーじゃない。

 

 グシャアッ!!

 

 薫の右ストレートの前に祐子の体がロープまで吹き飛ばされた。ロープから逃れる隙も与えずに薫が距離を詰めてラッシュを仕掛けた。

 

 祐子の頭が右に左にふられる。朦朧とした表情となった祐子の顔面から汗、唾液、血あらゆる液体が飛び散っていく。

 

 滅多打ちを浴びてガードが下がったところで英三が割って入りロープダウンを取った。

 

 ロープに身を委ねる祐子は滴る汗で煌びやかな輝きを放つ顔面が血塗れに染め上がりだらりと両腕をさげて完全にグロッギーな状態と化していた。

 

 カウントが耳元で揺れるように響いていく。揺れているのは音だけでなく、目に見える世界もだ。

 

 祐子の朦朧とした瞳が揺れる世界を目にする。しかし、そんなことはどうもでよくなっていた。

 

 なんでボクサーになろうとしたんだっけ・・・

 

 美香への復讐のため?

 

 ボクサーへの憎しみ?
 

“じゃあね空手家さん・・”

 

 勝者の嘲笑の言葉。
 

“弱っちいくせに出てくるな“

 

 観客の心無いブーイング。

 

 リング上にいる対戦相手だけでなく、大勢の観客までもが敵だった。祐子がノックアウト負けされる結末だけを望まれ、実際は手加減されて調子に乗せられた挙句完膚なきまでに打ちのめされる観客が望む以上の無様な姿を祐子は大勢の観客の前に晒すはめになった。

 

 これ以上ないほどの醜態を晒し今まで築き上げてきた栄光とプライドがズタズタにされたのである。

 

 壊された栄光とプライドは取り戻さなければならない。だからこそ、ボクサーとしての練習を積んできた。瀬里果さんの厳しい練習に耐えてきた。辛くてきつくて・・・でも、充実してた二ヶ月間・・・ 

 

“バンテージ巻くのさまになってきたじゃない“

 

 珍しく瀬里果さんが褒めてくれて嬉しかった。

 

“フケ顔で悪かったわね”

 

 ロードワークの最中に美香と出会い仇敵は倒すべきライバルであり、仲間にもなった。

 

 私は声を大にして言える。

 

 私はボクサーなのだ。

 

 だからといって空手家としての過去を拭い去り、縁を切ったつもりもない。

 

ボクシングはボクシングであり、空手は空手だ。空手の方が強いとかボクシングの方が強いということを比較すること自体間違っていた。空手家として美香に勝つのではなくて、ボクサーとしてボクシングというスポーツのチャンピオン美香に勝ってみせたいのだ。そして、格闘家としての技量は優れたものを持っていてもボクサーとしての技量はまだまだ未熟であり、だからこそ、瀬里果さんは徹底的に基礎を叩き込もうとした。それなのに、これまで養ってきた基礎を捨てて空手の闘い方で薫と勝負を挑もうなんてまた同じ過ちを繰り返すところだった。ボクサーとしては薫より遥かに劣っている。それは紛れもない事実なのだ。その事実を受け止めてボクサーとして薫と闘うことに意味がある。

 

「まだやれるか?」

 

 英三の確認に祐子は両腕を上げ再びボクサーのファイティングポーズを取った。

 

 試合が再開される。

 

 この二ヶ月の練習の成果を確かめよう。

 

 薫がとどめを刺しに前へ出てきてくる。

 

 祐子は集中して次のパンチに練習の全てを出し切るつもりだった。

 

 これが現時点での私の最高のジャブだわ。

 

 薫の顔面めがけ放たれた左ジャブは祐子のベストパンチだったというのに何も捉えることができなかった。

 

 パンチをかいくぐり、膝を曲げていた薫は膝のバネを解放させた右のアッパーカットで祐子の顔面にとどめを刺した。

 

 ミシミシと悲鳴を上げる祐子の顔面。拳を振り抜かれた瞬間、祐子の顔面から血が盛大に噴き上がった。

 

 グワシャアッ!!

 

「ぶへえっ!!」

 

 歪んだ口から勢いよくマウスピースが吹き飛ばされた。マウスピースはリングの外へと落ちていく。

 

 そして、祐子の体は両足がキャンバスから離れ背中を反り返らせて宙を飛んでいた。 

 

 

 背中から落ち祐子の体が一度大きくバウンドした。

 

 真っ先に祐華が青ざめた表情でお姉ちゃんと叫んだ。

 

 英三はその場に固まって動けない。

 

 スパーリングの終了が告げられる前に薫が哀しい表情で祐子の顔に顔を寄せて名前を呼んだ。
 

「んん・・」

 

 祐子は目を瞑ったまま寝言のように声を漏らした。気は失っているが、大事には至ってないようである。

 

 祐子の開けられていた唇が閉じられて端が持ち上がる。

 

 駆け付ける祐華と英三に薫が言った。

 

 「オレだけかな・・祐子、ノックアウトされたのに充実した顔に見えるんだ」


epilogue
 
 コンコンと二度ノックされた。ブザーではなく、わざわざノックする。そんなことをするのは一人しか思い当たらない。

 

 換気扇を回しているところなのだから、下手すると気がつかなかったかもしれない。だからといって注意したとしてもノックした方が親近感を感じるんだとまた言われるのだろうと思うと祐子はくすっと笑った。

 

 「開いてるわよ~」

 

 ドアが開けられた。
 

「お邪魔するね」
 

「は~い」

 

 台所へと足音が近付いて来る。

 

「料理できるんだ。意外だな~」

 

「料理って言うほどのものじゃないわよ」

 

「そうなんだ」

 

 なにも分かっていないように鍋の中を覗いている。

 

 自分よりもさらに料理音痴が目の前にいた。

 

 といっても祐子も母親にやり方を教わったから蕎麦を茹でることくらいはできるのだが。

 

「だいぶ痣もとれてきたみたいだね」

 

「ジム行ったら瀬里果さんにこってり絞られて最悪だったのよ」

 

「おたがいさまだよ。オレも英三の親父さんにばれてこってり絞られたんだからさ」

 

 薫は苦笑いを浮かべた。

 

「その後、練習はどう?」

 

「あいかわらず基礎ばかりなのよのね。でも、基礎が大切だと分かったから」

 

「うん、そうだ」

 

 薫は頷く。

 

「今は基礎の練習しかできないけど、そのうちに絶対に美香と闘えるレベルにまでなるつもり。美香に勝つまではボクシング止めないわ私」

 

「決意だね。オレも睦月に勝つまでは引退しないつもりだよ」

 

「お互い頑張ろうね」

 

「うん、頑張ろう」

 

 2人は顔を見合った。このまま握手しそうな勢いだ。

 

 湯気が祐子の頬に当たる。鍋を見ると良いころあいになっていた。

 

「これで完成ね」

 

「どれ」

 

 と言って薫は一本摘んで口に入れた。

 

「う~ん・・・」

 

 薫が首をかしげた。

 

「ツユないのに美味しいわけないでしょ」

 

「そうだよね」

 

薫は再び苦笑いを浮かべた。

 

「じゃあ行こうかしら、引越しの挨拶に」

 

 薫は頷く。

 

 祐子は部屋のドアを開け薫があとに続く。

 

「お隣さんって薫誰か知ってるの?」

 

「見たことないよ。祐子の隣の人も引っ越してきたばかりだから」

 

「そうなんだ。また女子ボクサーだったら笑えるわよね」

 

「まさか~」

 

祐子と薫が笑った。
 

2人は家のドアの前に立つ。表札を見ると高梨美月と書かれていた。

 

おわり