その日も薫と一緒に下校した。

 

 「英三、おじさんは次誰と闘うの?」

 

 「なんだよ急に」

 

 「うちのお父さんは引退したでしょ。闘う目的がないとおじさんきっと寂しいよ」

 

 「そうだな~親父もそろそろ引退かもな~」

 

 「引退っておじさん、日本チャンピオンだよ」

 

 薫が心配そうな顔を見せる。

 

 「まあ、そうなんだけど、家では親父、腰とかきつそうにしてるんだよ。外じゃそんな素振り見せないけどさ~」

 

 「世界チャンピオンは目指さないのかな?」

 

 「親父が?」

 

 英三は後頭部に両方の掌を持っていく。

 

 「親父も年だからな~厳しいんじゃね?」

 

 薫の足が遅れたのでどうしたんだと英三が振り向く。

 

薫は睨んでいる。

 

 しまったと英三は思った。

 

 「なんでそんな夢のないこと英三は言うんだよ。まだ31。いけるよおじさんは。だって・・」

 

 薫が唇に力を込めてぐすっとしゃくる。

 

「うちのお父さん倒したんだから。お父さんの思いを引き継いだんだから」

 

 薫の目からは涙が零れ落ちた。

 

薫のおじさんは親父との試合後に親父側の控え室に行き、親父に向かって引退の意志を告げた。試合前から負けたら引退を考えていたのかもしれない。薫のおじさんは俺の分までいけよと言って親父の手をはたいた。それは、バトンを託したことを意味していた。おじさんの思いを受けとめた親父はおじさんの分まで闘わなければならない。おじさんの思い、そして、それだけじゃなく薫を含めたおじさんを支えてきた様々な人達の思いを背負わなければならないんだ。

 

「そうだな・・」

 

 「諦めなかったらきっとなれるよ」

 

 涙を拭きながら薫が言う。薫の言葉が力強く耳に届く。

 

 諦めなければか・・・

 

 

 

 

 

 

 



雨ニモ負ケズ・・
episode2

 


第1話

 

 

 

 日曜日の昼下がりに薫の部屋に二人きり。薫の家に寄った理由は、借りていたビデオを返したにきたという些細なことにすぎないのだが、それにしたってなあと薫を見て英三は思う。

 

 家の中に入りビデオを渡しそのビデオをネタに会話を繰り広げて一段落着くと、薫は英三をほっぽって、軽い筋トレを始めたのだ。薫曰く、再開らしいが、そんな細かいことはどうだっていい。

 

客人を前にしてやるべきことなのかと呆れ、仕方なく、英三も暇つぶしのものを物色した。

 

女性の部屋だというのに不思議なくらい違和感なく棚に置かれてあるはじめの一歩52巻を手にし、ごろりと横になる。薫の部屋から女らしさが欠片も感じられないのはプロテインの袋やらダンベルやら握力グリップなどのボクサー御用達の道具が部屋に置かれているからであり、天井から吊るされているサンドバッグが致命的にとどめを刺していた。

 

 「ふ~ん、なるほどね~」

 

 薫は本を片手に呟く。もう片方の手にはダンベルが握られている。

 

 何がなるほどなんだか・・

 

 英三は冷めた目で薫を見つめる。

 

「ウエイトトレは、上半身と下半身で別々の日に鍛えた方が良いんだって」

 

 また筋トレ話かよ・・・。

 

 英三は寝返りをうち、薫に背中を向ける。

 

 

 

 

 睦月との試合に敗れ、薫は筋力の無さを痛感したらしい。それ以降、筋力トレーニングに取り組むようになり、ボクシングジムとはまた別にスポーツジムにも週に2日ほど通うになった。

 

 英三も薫から筋力トレーニングの重要性を顔を合わせる度に説かれ、スポーツジムに通うべきだと何度となく薦められた。それでも、話を聞き流す英三に対して、薫はあろうことか親父にまで筋力トレーニングへの理解を求めてきた。意外にも親父は薫の意見に賛同し、親父からのお墨付きまでもらっては、もはや断わることはできない。かくして、英三もジム通いさせられることになったのだった。

 

「英三聞いてるのか?」

 

 薫はなおダンベルを持ち上げていた。

 

 「聞いているよ、上半身と下半身で別々の日にやった方がいいんだろ」

 

 「それは前の話だろ。今は、時間の振り分けの話。全然、聞いてないじゃないか」

 

「どうでもいいよ。そんな細かく気を使ってやる必要あるとは思えねえし」

 

「これだから、無知って怖いよ。使える筋肉は柔らかい筋肉。英三みたいに闇雲に筋トレしてたらパンチのスピードが鈍っちゃうよ」

 

「ふ~ん・・」

 

 薫の言っていることは正しいのかもしれないが、理屈ばかりなのでなんだか、腹が立つ。

 

 「せっかくの日曜だろ。しかも、ジムも今日は休みだってえのに何が悲しくてボクシング話なんかしなくちゃ・・」

 

 英三は苛立って頭を掻いた。

 

「今日くらいボクシングは忘れろ」

 

 と言いながらも英三の右手にははじめの一歩が握られている。もっとも、薫の家に置かれているものはボクシングに関係したものばかりなのだからこれは仕方のないところと英三は自分に言い訳をする。

 

 「そうもいかないよ。試合が近付いているんだから」

 

 「試合ねえ~・・。まだ一ヶ月もあるっていうのに」

 

 「もう一ヶ月しかだよ」

 

 薫は真面目な顔をして言った。

 

薫のプロ2戦目は一ヶ月後後楽園ホールの男子興行に組み込まれている。半年前に行われたJBCが初めて公認した女子プロボクシングの試合薫と睦月の一戦は、関係者や専門家の間から低レベルだといった酷評や根拠のない女性がボクシングをやるべきでないといった声が四、好試合だったと評価する声が六といったところで賛否が真っ二つに分かれた。お互いが相手の体を極限まで傷付け合う派手な乱打戦となった試合内容が多くの人の心を鷲掴みする効果にも、逆に女性がやるには酷だと映らせる効果にも作用してしまったのだ。ただ、メインが日本タイトルマッチクラスの興行で後楽園ホールを埋め尽くしたことは確実に無視できない事実となっている。人気の低下した今のボクシングの興行で日本タイトルマッチがメインでは、8割程度が限界だからだ。残りの2割は間違いなく薫と睦月が客を集めたのである。

 

その後、薫や睦月のようにプロボクサーとしてリングに上がりたいと望む声が少なからず出ているのだが、JBCは慎重な姿勢を崩さなかった。それから暫くの間、女子ボクシングの試合が興行に組まれることはなかった。3ヶ月が過ぎ、ようやく女子ボクシングの試合がまた組まれることになった。それが、睦月のプロ2戦目の試合である。その試合も後楽園ホールは満杯になり、女子ボクシングが客を呼べることがほぼ証明されたといっても良かった。試合の内容はというと睦月が1R早々に決着をつけた。その試合を観た英三は改めて睦月の強さを実感した。薫を倒した実力はマグレではないことも、またその睦月をダウン寸前まで追い込んだ薫も決して弱くないこともだ。

 

 女子ボクシングにも需要のあることが証明され、それ以後、女子ボクシングの試合は頻繁にといえはいえないまでも、2週に1試合程度の感覚で男子興行に組まれた。女性がプロを意識してジムに通っている人数を考えればこの数字は決して低くなく妥当なのかもしれない。

 

日本女子プロボクシングという存在は確実に前進していた。そして、薫の試合もまた組まれることになったのだった。

 

その話を知らされた時、薫は子供のように無邪気にはしゃいだが、英三はとしてはどうしても素直に喜べなかった。女のくせにボクシングなんかという古臭い考えを持っているわけではない。好きならやればと良いと女性がボクシングをすることにたいしても冷めたスタンスを取っている。ただ、薫となると話は別だ。もちろん、薫が人一倍の努力をボクシングに費やしていることも知っているし、正直、睦月との試合には心を打たれた。それは認める。しかし、やはりそれとこれとは話は別なのだ。

 

もちろん、薫の気持ちも分かるから本人の前では薫の心を踏みにじるような言葉は一切出さないようにしている。

 

それにボクシングへの情熱が冷めた薫は薫じゃなくなるような気もしていた。結局のところ、願うのは対戦相手が弱くあって欲しい、それだけだ。

 

願いが通じたのか今度の対戦相手はプロ経験もアマチュア経験もなく、正真証明その日がボクシングデビュー戦となるらしい際立った実績がある選手ではないらしい。写真を見せられたが外見もごくごく普通の女の娘だった。

 

とはいっても睦月という例があるのだから、油断はできない。それでも、見事な実績を持ったものと相手では受ける重圧も違ってくるだろう。

 

今回は、順当に薫が勝てるのではないかと英三は踏んでいた。

 

「できるだけのことをやっておかないと。やりのこしや悔いは残したくないからね」

 

 悔いという言葉に英三の心は反応した。

 

親父の言葉がふと蘇る。睦月との試合、何度倒れてもその度に立ち上がってくる薫の不屈の精神の源を親父はこう説明した。

 

女子ボクサーにとって次また試合が組まれる保証なんてものはない。チャンスがこれっきりで終わる可能性だって十分ある

 

一度きりで終りかもしれないと覚悟していたからこそ、薫のファイトは輝いていた。

 

覚悟がボクサーをいくらでも強くしていくことを英三は薫の試合か知った。それ以降、英三もこれが最後になるかもしれないと自分を追い詰めてリングに上がったというわけにはならず、相変わらず自分を変えていない。デビューから未だ負け無しという状況が自分を追い込ませる気にはさせないのだった。

 

「それにまたチャンスをもらえたのが嬉しいんだ。もしかしたら、もうリングには立てないかもってすごく不安だったから」

 

 薫がダンベルと本を置く。

 

 「状況は確実に好転しているのにね」

 

薫は苦笑交じりに笑みを浮かべた。

 

薫が神経質になる気持ちも英三は分かっている。薫はJBCの傲慢な考えで何年もリングに上げられずに思い悩み、JBCが窮地に立たされてようやくリングに上げさせてもらえるようになったのだ。女子ボクシングの試合も徐々に増えてきているが、それも客を呼べると判断してのこと。つまりは、女性のためでなく、JBCのために女子ボクシングがあるともいえる。

 

英三の複雑な思いをよそに薫はまた、嬉しそうに喋りを続けた。

 

「いろいろとさ、夢はあるんだ。英三だってベルトが欲しいとか目標があるだろ」

 

「まあ、そんなとこだろうな」

 

「オレの場合、勝たないと次のステップにいけないから、まずはプロ初勝利なんだよね」

 

 薫は左の掌に右拳を軽く当てた。

 

「試合に勝ちたい。今はそれだけを強く思ってるよ。他にもいろいろと願望はあるんだけどね」

 

 「願望ってなんだよ?」

 

 「まだ、プロで一勝もしてないじゃん。だから、分相応でないとさ、英三じゃないんだから」

 

 「もったいぶったり、喧嘩売ったりしてくれるなぁ。で、分相応な薫様の願望ってのは何なのよ?」

 

 「勝ったら教えるよ。だから、英三もセコンドでよろしく頼むよ」

 

 「へいへい」

 

熱く語った薫を見て夢なんて恥ずかしい言葉をよく真顔で出せるよなと英三は思った。

 

薫は子供の頃から変わっていない。ボクシングの話をしている時は、子供のように夢中になる。

 

 夢か・・。

 

 もちろん、ボクサーである以上はベルトを巻くのが今の目標だ。しかし、そのベルトは日本のベルトか、それとも世界なのか。英三の階級ライト級は日本人としてはやや重い階級であって、身体能力に秀でているアメリカや欧州の選手がベルトを独占している。これまでに日本人が世界のベルトを巻いたのは薫のおじさんも含めて二人だけ。うちの親父は2度挑戦して両方とも失敗に終った。日本人が手を届かすには遠いベルトなのだ。

 

 大志を抱けという格言に従えば世界を目標に据えるべきなのだろう。しかし、大志を抱くべきは少年なのだ。日本人がライト級の世界のベルトを手にすることはほぼ無理だという現実も大人なら受け止めておく必要があるといえるだろう。日本人のライト級世界チャンピオンはもう15年以上出ていない。

 

 「英三!またぼっとしてる。オレの話を聞けよ」

 

 「悪い、悪い」

 

 「ったく。今度の試合は・・ん?」

 

 薫がズボンに手を入れた。

 

 「電話。ちょっと待って」

 

 携帯を取り出すと、畏まった声で電話に出た。敬語で応答をしていく。

 

 英三は会社からの電話かと見当がついた。

 

 「それはホントですか!」

 

 大声が飛び出た。感情をすぐに表に出す薫だから、珍しい光景ではないが、それでもやはり気になった。

 

 英三は横見に薫の顔を見るが、薫は途中から背を向けてしまい、今どのような表情になっているのかよく分からない。

 

 いくつか薫から質問が出て後は、はいと返事を返す。それを繰り返しているうちに電話が終わった。

 

 そのまま数秒が過ぎた。

 

 「英三・・」

 

 薫が振り向く。目線が虚ろだった。

 

 「JBCに裏切られたよ・・」

 

 

 

 

 しかし、薫に対して恨みは湧いてこなかった。満足した闘いだったこと、また、薫の顔はさらに輪をかけて酷かったからだというのもある。両目はほとんど塞がり、頬は水脹れのように脹らんだ醜悪な顔。薫の顔をこの手で醜く変貌させたことに罪悪感など少しもなかった。それよりもなぜ、あそこまで顔が腫れるほどダメージを負ったのに薫は立っていられたのか、試合の最中も試合が終わって半年近く経過した今も睦月の関心はそこに向けられている。

 

負けたくない気持ちは分かる。しかし、試合に出る者なら必ず持っている意志であって、薫だけ特別というわけではないはずだ。睦月ももちろん、負けたくないという意志が意識が飛びそうなほどのダメージを受けた時に自分の身体を支えた。

 

それだけではない。ふらふらだったはずの薫にもう少しでノックアウトされそうになった事実。けっして油断したわけではない。あれは薫の執念が結びつけた逆転劇だ。

 

薫は睦月の想像以上に魅力に溢れたボクサーだった。実力はもちろん、睦月の思惑どおりに終わらせない執念、精神力、機転。

 

それに比べて2戦目の相手はつまらないボクサーだった。顔は地味な作りでごくごく平凡、実力も目を見張る点は何もなかった。だから、あっさりと2Rで終わらせた。もう顔すら思い浮かんでこない。

 

 3戦目の相手の写真もすでに手渡されていたが、同じく印象に残らない地味な顔立ちで睦月はがっかりした。

 

 ─────つまらない。

 

 魅力のない相手と闘っても満足感は得られない。試合に惹かれるようになったといっても人を殴ることに快感を覚えたわけではない。強く、人として魅力を放っている相手と闘い、倒してこそ充実感が得られるのだ。

 

 3戦目が中止になったことにはそれほどがっかりしていない。対戦相手自体どうでも良い存在だった。

 

でも、今後二度とボクシングの試合ができなくなるのは困る。試合で得られる味を知ってしまった以上は、もはや練習だけでは物足りない。また、薫のように強く輝いている女性と闘いたい。もし、睦月を満足させるボクサーが薫以外に存在しないのならもう一度薫と、いや、薫とは是非ともまた闘ってみたかった。薫というボクサーをもう少し知ってみたい。それには拳を交すのがなによりも分かる方法だ。

 

がちゃりとドアの開く音がした。媛子お婆ちゃんが険しい顔つきで立っていた。ゆっくりと睦月の前の椅子に座り対峙する。

 

媛子お婆ちゃんは暫し、睦月の目をじっと見つめていた。瞬き一つされない瞳から心が読み取られていくかのような凄みが肌を通して伝わってくる。

 

とてもではないが、睦月から口は聞けなかった。

 

 「醜いとは思わないかい?」

 

 「えっ?」

 

 「奴等のやり方がね。50年前から何も変わりはしない。馬鹿な生き物達が世界を支配しようとする。権力を握り維持することだけが重要なのさね」

 

 50年前といえば媛子お婆ちゃんが女子ボクシングの団体を作ろうとしていた時期のことだ。

 

 「50年前ってお婆ちゃんが女子ボクシングの興行を開こうとした時のことでしょ。なんでダメになったの?」

 

 「あの時も酷かったね。JBCのお偉方が直接圧力をかけにきたんだよ。いくつもの脅迫を武器にね。わたし等はバーで働いていたんだから、ゆするネタはつつけばいくらでも出てくる。それに、賭けボクシングをやっていた過去は致命的だったよ。それでも、まだ50年前の方がマシだね。奴等は行動の中身はともかく大事なことを守ろうとしていた。それが奴等は一旦は美学さえ捨てたんだよ。美学があるのなら貫き通せばいいのさね。それがたとえ、醜かろうが最低限の評価は与えるよ。でも、その醜い美学さえ守れやしない。短絡的にその場凌ぎで生きているだけ。救いようがないね。そういった男達の醜い価値観にあたしらは振りまわされてきたんだよ睦月」

 

 媛子お婆ちゃんの顔に呆れたような笑みが浮かび上がった。

 

「睦月、安心しな。女子ボクシングは消えない。わたしらが守っていくんだ。再来月に自主興行を始める。モチベーションは落ちてないね?もちろん主役は睦月、あんただよ」

 

「うん、気持ちは全然。・・・・それよりも自主興行ってどういったものになるの?」

 

JBCに裏切られる前から着実に準備は進めていたんだよ。こちらも利用するだけして、時が来ればJBCから離れる予定だったからね。少し予定が早まっただけのこと。計画にたいした支障はきたさない。これからは1500人収容規模の会場にまずは隔月で興行を行っていくよ。もちろん、試合は全て女子ボクシングだ」

 

「選手は集まるの?」

 

「キックや空手に良い素材は沢山いる。それに、睦月、選手が集まるのを待ってては客はいつか離れる。選手は集まるもんじゃない。集めるんだよ」

 

「集めるんだ・・媛子お婆ちゃん」

 

「なんだい?」

 

「あたしの希望する選手も引き抜いてくれる?」

 

「誰かいるのかい?」

 

「ううん、これから探そうと思ってる」

 

「ああ、良いよ。ただし、次の第1回興行の相手に勝てたらと条件を付けるよ」

 

「相手は誰なの?」

 

「キックのチャンピオン、大河だ。前からオファーがあってね。今、あたし等が客に提供できる最高のカードがこれだからね。出し惜しみはなしだ。初回から勝負をかける」

 

「写真はあるの?」

 

「ほら」

 

 お婆ちゃんは立ち上がり、奥にある机の引き出しを開けた。写真を手渡されると、スポーツブラに両腕にはボクシンググローブをはめている上半身から写されているその女性は5センチほどしかない短い金髪を立てている。顔もごつごつしてて胸を見なければ男だか女だか区別がつかない外見だ。

 

 睦月は溜め息を付いた。

 

「相手として不服かい?」

 

「そんなことないよ。この人を倒せば良いんだね。わかった」

 

 失望した思いが自然に行動となって表れ、裏返しにして写真を返した。

 

「できればKOだとありがたいね」

 

睦月は黙って頷いた。自分としても早く倒してリングから去りたい。ゴリラ女相手では。

 

 これでは本当に薫以外はロクな選手がいないのではないだろうか。

 

 「水野さんは出るの?」

 

 媛子お婆ちゃんが不思議そうな顔をした。

 

「気になるのかい?睦月が他人を気にするなんて珍しいことだね」

 

「良いボクサーだよ」

 

「ああ。彼女には華がある。睦月と女子ボクシングの2枚看板になって欲しいもんだね。旗揚げ興行には彼女の試合も組む予定だよ。彼女にもセミファイナルに相応しい相手を探さないとね」

 

 

 

  

 

 スパーを終えた英三はまだ続いていたのかと思いながら体を休めるため椅子に座り込んだ。

 

 上体を左右に揺らしてから低い位置への左フック。そこから位置を上げて右フック、左フックへと繋げた。サンドバッグの揺れるとほぼ同時にまた、薫が体を揺らす。一発目の左フックはレバー。それで、動きを止めて顔面への左右のフック。鮮やかなコンビネーションに見ている側も攻撃の意図がすぐにわかる。

 

 サンドバッグを叩く薫は体からTシャツが肌が透けて張り付いているほどの汗の量を噴き出している。足元には水溜りが出来上がっている。練習の虫となり日々を薫が送っているのは相変わらずだ。

 

 素人目には薫は絶好調に映るのかも知れない。だが、英三は薫が本調子でないと捕えていた。

 

 男子ボクシング興行との決別が通達されてから一ヶ月が過ぎた。3週間後に下山ボクシングジムから二つの決定事項に関する知らせを受けた。一つは女子ボクシング協会の設立。二つ目は自主興行開催だ。

 

 自主興行は一ヶ月後だった。場所は池袋サンシャインシティホール。1500人収容できる広さを持っている。

 

 薫もその興行への選手としての参加を要請された。願ってもない話に薫も表情を崩し、すぐにでも返事をするのかと思ったのだが、意外にも薫は少し考えさせて欲しいと返事を延ばし、翌日承諾の意志を親父に伝えた。その時は、大事な話だから薫も1日くらい考える時間を設けてもなんら不思議ではないと思っていた。

 

だが、試合に向けて本格的な練習を再開した薫の動きは精細を欠いていた。なによりも薫自身の覇気が足りない。明るく振舞おうとしているのだから、分からないやつは気付かないだろうが、英三は嫌でも薫のちょっとした変化に気付けてしまう。薫の明るさはぱっと見四割減だ。

 

元気がないことを指摘しても薫は気のせいだと言い張る。スパーリングをしてもディフェンスの得意な薫が簡単なパンチを容易く食らうシーンばかりが目に付いた。

 

 そんな薫の姿を目の前で毎日見ているのだから、嫌でも試合への不安が募る。もちろん、並の相手なら本調子でない薫でも劣るとは思えないが、並じゃない相手と当たる可能性も十分あり得る。前回の下山睦月のように。

 

 気が付くと薫がいなくなっていた。

 

 まあいいかと立ち上がり、ボクシンググローブをはめていると、薫がひょこっと横から姿を現した。薫の表情が固い。

 

「対戦相手が決まった」

 

「だれ?」

 

「和泉キョウコ」

 

 名前だけは耳にしていた。日本の女子プロボクサーの先駆者的存在である。男子興行の中に女子のカードが組まれるだいぶ前から女子ボクシングの試合を行ってきている。国内ではキックの団体に交じり、また、積極的に海外にも出たりと。日本でも女子ボクシングがプロ化し、彼女の動向には注目が集められていたが、ついに参戦というわけだ。

 

 「英三も知ってるよね。プロで7戦6勝1分け。しかも、ボクシングをやる前は剣道をやっていてインターハイ優勝の経歴の持ち主。運動神経は抜群ってことだよね。相当強い相手だよ」

 

 「楽じゃねえな」

 

 珍しく薫が黙った。グローブの紐を結び終えたので練習に戻ろうとして、背を向けた途端、左腕を掴まれた。薫が上目使いにして見つめる。

 

黙って薫の言葉を待った。

 

 「英三・・スパーリング付き合ってくれないかな」

 

「いいけど」

 

 薫とスパーリングをするのはいつ以来だろうか。少なくともこの二ヶ月はやっていない。

 

 英三は薫とのスパーリングを避けていた。薫には失礼だけど、男が女とスパーリングをしても良いことは何もない。本気で殴るわけにはいかなく加減が難しいし、かといって気を抜くと薫のパンチには十分ヒットを許してしまうスピードがあり、ダメージは弱いが当たるのもカッコ良いものではない。

 

 薫の方も英三とのスパーリングには消極的だった。英三に殴られるのはむかつくと冗談まじりによく言っていた。

 

 ヘッドギアを被り、リングに上がる。

 

 「相手はどんなボクシングするんだ?」

 

 「アウトボクシングだよ」

 

 薫と同じスタイルか・・・

 

 目の合図で促し、ゴングが鳴った。

 

英三は足を使い距離を置き、不慣れなアウトボクシングで薫を攻めた。

 

 英三の出したジャブが何発も薫の顔面を捕らえた。逆に薫のパンチは鈍く、もちろん英三は食らわない。リーチの差があるとはいえ、不慣れな左の刺し合いでここまで優位に立ってしまうとは。

 

手加減が足りないのか?

 

いや、そんなはずない。

 

ポタッ!!

 

キャンバスに赤い液体が跳ねた。

 

 英三が両腕を下ろし、横を向いた。

 

 「やめだ」

 

 「なんでだよ」

 

 薫は鼻血を流しながら息を乱し気味に喋る。

 

 「体調を戻せよ」

 

「気を使うのはよしてくれよ。オレが良いって言ってるんだから」

 

 「俺がやりたくないんだ。これ以上手加減なんてできない」

 

 薫が顔を下げた。

 

 「いっそのこと思いっきり殴ってKOして欲しかったよ・・」

 

 呟くように声を出すと、薫の方がリングを下りてしまった。

 

 

 更衣室へと入っていく。英三は舌打ちして薫の後を追った。

 

 「薫、着替えてるのか?」

 

 「着替えてないよ」

 

 「開けるぞ」

 

 返事はない。

 

 ドアを開けると、薫は練習着のまま長椅子に座っていた。 

 

 「さっきは言いすぎた。悪かった」

 

 「別に英三は悪くないよ」

 

 英三は壁に背をもたらせて暫しの間、沈黙を続けた。

 

 「試合に勝てるか?」

 

 「思わないよ」

 

 薫は首を振った。 

 

「不安なんだ。また、試合が中止になっちゃうんじゃないかと思うと気力が湧いてこないんだ。女子ボクシング協会が出来たからって問題が解消されたわけじゃない。協会の中身は分からないし、またJBCの嫌がらせを受けて潰されるかもしれないよ。でも、興行に出たくないわけじゃなくて、もちろん、試合には勝ちたい。願ってもないチャンスを生かしたいよ。なのに、気持ちの方はどうにもならなくて・・」

 

足掻けば足掻くほど深い沼の底に落ちていく。薫の今の状態はそんなところなのか。

 

他人の力でどうなるわけでもなく、薫自信の力で解決しなければならない問題だ。

 

薫の力になってやれず、歯痒い思いで英三は天井を見上げるしかなかった。 

 

 

 

 

第3話

 

 

 

 薫が更衣室へと姿を消した。一人取り残された英三は身の置き場所に困り端っこに移動し壁に寄りかかった。

 

 記者達の会話が自然と耳に入ってくる。記者達の間で情報交換を行っているようだ。女子ボクシングに対する知識を持っている記者はまだそう多くはないのが現状らしい。

 

 試合まで一週間を切り、下山ボクシングジムではこれから公開スパーリングが行われようとしている。薫はそのために呼ばれた。記者達の前でスパーリングを披露するためだ。タイトルマッチでもないのに、そして、複数の選手による合同スパーと極めて異例な形となっている。

 

 記者達が賑やかなのも合同スパーへの期待、戸惑いが大きく誘因しているのだろう。彼等の口から出るのは薫と睦月の名前ばかりだ。

 

 これから、薫と睦月が続けてスパーリングを行うのだから、さしずめ品定め品評会といったところだろうか。薫と睦月の二人どちらがプッシュすべきか見比べる絶好の機会ではある。それはもちろん、下山ボクシングジムの狙いなのだろう。世間の注目を集めるためにはメディアの力が欠かせない。

 

 英三も薫も親父も合同スパーリングには消極的であった。ショー的要素が強すぎるし、第一薫の精神状態が不安定過ぎてなるべくメディアからは遠ざけたかった。

 

 しかし、会場を満杯にするためには仕方のないことなのだと下山ボクシングジムから言われてしまっては、承諾するしかない。

 

下山ボクシングジムも余計なことをしてくれたもんだなと愚痴の一つも零したくなる。

 

 英三は壁に取り付けられてある丸時計に目をやった。時間は3時50分。スパーリングの開始時刻は4時30分からとまだまだ時間はある。開始時刻は恐らく、記者達には伝えられていないはずだ。知っていたのならなお待たされる時間の長さに文句の一つも出るはずだからだ。

 

 演出しすぎだよと英三は愚痴った。

 

すでに睦月は着替えを済まして端で待機していた。その隣には祥子が立っている。

 

 英三は舌打ちした。

 

 英三は祥子が好きではなかった。薫と睦月の試合に関する打ち合わせ時に祥子のシビアな面を見せられて以来、身構えて接するようになっていた。

 

 それに、祥子の新聞の薫と睦月の試合結果を書いた記事も酷いものだった。タイトルからして水野アキラの娘を強烈KO!!女子ボクシング幕開けの日に新星登場と薫を水野アキラの娘として扱い、記事本文でも水野アキラの娘であることをしつこく強調し、そして睦月を必要以上に持ち上げようとする姿勢が顕著に見られた。写真も薫のKOされて失神した姿まで載せる必要がどこにあるというのだ。中立な立場で作られた記事とはとても思えなかった。

 

 嫌な顔を見ちまったと顔を背けてみせた。

 

 「どこ見てるんだよ英三」

 

 英三は思わず仰け反り声の方を見た。

 

 上が白いTシャツ、下を黒いスパッツに着替えた薫が立っていた。

 

 「驚かすなよ」

 

 英三の動揺にも薫は特に反応を見せず、

 

 「椅子に座るから」

 

 と薫は椅子へと移動する。1週間前ののスパーリング以降、薫は元気がすっかり消え失せて淡々としている。感情を全面に出すタイプなのに闘志がまるで伝わってこない。 

 

 椅子に座り、薫はバンテージを拳にぐるぐると巻き始めた。バンテージを巻く時は、これからボクシングをする期待感にどこか嬉しそうな表情が自然と滲み出ているのに目の前の薫は憂鬱そうな顔をしている。

 

 ボクシングを目の前にしてこんな薫の覇気のない姿は始めてだった。

 

 らしくねえよ薫・・・

 

 英三は上から薫の姿を見下ろしたまま心の中で呟いた。

 

 英三は顔を上げる。睦月が薫の目の前に立っていた。彼女は顔に軽い微笑を浮かべた。 

 

「試合のとき以来だね」

 

話しかける睦月が浮かべる笑みは勝者の余裕から出る嫌らしいものではなく、ごく自然に顔から出ている感じのようだった。

 

 英三は戸惑いを覚えた。

 

 睦月は薫を顔が別人になるほど殴り倒して失神させたのだ。それなのに気まずさを微塵も見せず、気を使う素振りも見えない。もちろん、調子づいた様子でもない。

 

 彼女は完全に自然体でいるのだ。   

 

 薫もとまどい、一瞬、間が空いた後に

 

 「そうだね」

 

 とつれなく返した。薫は睦月に興味を持っているはずである。睦月が自分のことをライバルと思っていてくれたら嬉しいと常々口にしている。しかし、今の薫には人と話す余裕なんてない。自分のことでいっぱいだ。

 

 睦月は覗くように薫を見た。

 

 「調子良くないの?顔色があんまり良く見えないけど」

 

 「えっそんなことないよっ」

 

 薫は両手を振り、慌てて否定した。

 

 英三も心臓が跳ね上がった。

 

 勘の鋭そうな娘に見えていたが、まさか、一瞬で当ててくるとは。睦月に早くこの場から離れて欲しいと英三は願った。

 

 だが、睦月はまだまだ離れる気はないようでさらに話かけてくる。

 

 「スパーリングパートナーは連れてこなかったんだ」

 

 「連れてきた方が良かったかな」

 

 スパーリングパートナーは自分達で用意するか、下山ボクシングジムに用意してもらうかの二つの選択肢があった。もちろん、自分達で用意する方が安心は遥かに高いのだが、女子のスパーリング相手ではそうそう都合の良い相手などいない。女子ボクサーの強さを引き立たせるには男では強すぎるし、吉井ボクシングジムには女子のツテがまったくない。そのため、下山ボクシングジムに用意してもらうことのなったのだが、一体どんな相手になるのか未だ分かっていない。

 

 まあ、端でシャドーをしている女性二人のうちのどちらかだとは検討つくのだが。

 

 そちらへと睦月が目線を送る。

 

「薫さんの相手右の人。九条さんっていうの」

 

 髪の下部分を二箇所に分けて縛っている茶髪の女性だった。体格は薫とほとんど変りなく年齢も同じくらいに見える。

 

 「強くはないんだよあの人。薫さんと同じでプロボクサーの娘らしいんだけど、だけど全然センスない感じだし。でも、どういうわけか今回、自分からスパーリングパートナーに名乗り出てきて。おそらくは、自分の腕ためしとかで引き立て役になろうという気はないんじゃないかな」

 

 たしかに様子を見ていると肩を丸めて思い詰めたような表情をしている。

 

「大丈夫、本気でやってもらった方が逆にやりやすいよ」

 

 薫がさばさばとした笑顔で返す。

 

 薫が当たりを見回した。

 

 「今日は、ジム休みなの?上からも人がいる気配感じないし」

 

 「休みだけど、でも、最近はこの大きなビル使い余してて。男の人達全員ジム移籍することになったから」

 

 「嘘っ・・なんで・・?」

 

 薫が目を丸くした。

 

 「JBCに喧嘩売っちゃったから」

 

 「あっ・・」

 

 薫の口から声が漏れた。

 

 「うちは大丈夫なのかな・・」

 

 薫が英三の顔を心配そうに見上げた。

 

 「大丈夫だよ、薫さん、試合の時だけジムの名前変えるでしょ。うちは誤魔化しようがなかったからだし」

 

 睦月の言うとおり、次から薫は吉井ボクシングジムでなく、柴田ボクシングジム所属となる。女子ボクシング協会から架空のジムの所属にしといた方が良いと指示が出ていたからだ。JBC加盟のボクシングジムに所属している選手が女子ボクシング協会主催の興行に出るわけにはいかないのだ。

 

 「九条さん付き合ってる人がうちのジムにいたんだ。それで別々になっちゃったから最近機嫌が悪くなっちゃって。スパーの相手買って出たのもそのせいかも」

 

 睦月が可愛らしく小さな笑みを見せた。

 

 「うん、注意するよ」

 

 薫もつられて笑う。睦月と会話しているうちに薫も気が紛れたようだ。表情が柔らかくなっている。

 

 睦月が丸時計に目をやった。時間は丁度4時を指していた。

 

 「そろそろかな」

 

 「・・・・」

 

 ドアの開く音が聞こえ、記者達からどよめきが上がった。

 

ジムの入口には二人組がいる。若い女性が二人。右側にいるのは、薫の対戦相手和泉キョウコだ。

 

 

 

第4話

 

 

 

 薫がリングの中へと入った。手にしてあるマウスピースを口にくわえる。

 

 薫にジムの中にいる皆からの視線が向けられる。その中には睦月、キョウコ、睦月の対戦相手である大河まである。メインイベントとセミファイナルを務める4人の役者が集められ、合同公開スパーを行うことになっていた。記者達には睦月と薫がスパーをするという事実だけしか知らせていなかった。まさか、公開スパーに対戦相手まで集めるはずがない。そんな常識を覆す展開に当然、記者達は驚きを隠せないでいる。下山ボクシングジムの思惑どおり、俄然、スパーへの関心が高められることになった。

 

 緊張感がほとばしる空気の中、一番手として薫のスパーが始まろうとしている。

 

 ゴングが鳴り、薫は左手を差し出した。だが、スパーリングパートナーの相手は薫の腕を振り払うとそのままパンチを打ってきた。不意打ちに薫は対処できずもろにパンチを画面にもらった。

 

 薫が思わず後ろに下がり、距離を取る。スパーリングパートナーの九条の目つきは殺気に満ち溢れていた。

 

 英三は自分の目を疑った。たかがスパーなのに不意をついてまで薫にパンチを当てようなんて何考えてるんだ。

 

 スパーリングでやるべきではないスパーリングパートナーのマナーを破った行為。調整ではなく真剣勝負が行われようとする空気に報道陣から雑音の声が漏れる。

 

薫も目つきが変わった。体全体でリズムを作り、軽快なフットワークを披露する。

 

パンチが当たるか当たらないかの距離でのジャブの刺し合い。それは、薫の距離である。リズム良く足と上体を動かし、的を絞らせない。事前に手の内を見せないように薫とは話を決めていた。スパーの相手が薫を倒す気でいようとこちらは今、強さを見せつける必要はなく、2分間が何事もなく去れば良いのだ。

 

対戦相手の九条という女性は左利きであること以外オーソドックスなボクシングスタイルだった。中間距離からジャブで攻撃の起点を作ろうとする。

 

 睦月の言葉どおり、ボクシングの実力はたいしたものではなかった。プロボクサーの娘という話らしいが、ボクシング歴も1年程度だろうと英三は判断した。型は出来ているが、それだけである。特になにか思うところはない平均レベルのボクシングで練習の成果を出すだけで必死といったことろだ。 

 

 それだけに英三が受けたショックは大きかった。

 

 薫が何度も九条のジャブを食らったのだ。

 

 あしらう程度でほとんど攻撃する意志のない薫に対し、九条は積極的にジャブを仕掛けていった。手数が多ければ良いというわけではなく、意図の感じられない右ジャブは逆にかわしやすいものだ。なのに薫はジャブを全て対処仕切れず、どうしてという場面で何度もジャブを浴びた。

 

 4、5発受けたところで薫が攻め始めた。名誉挽回するにはそれしかないと英三も思った。

 

相手を倒すか、そうでなくてもふらつかせるほどのダメージを与える。

 

 倒す意志を明確に出した薫だが、それでも信じ難いことに薫は格下相手に互角の闘いを演じる。

 

 記者達の間からざわざわと言葉が漏れる。

 

 どういうことなんだ

 

 水野薫はこの程度なのか

 

 薫の実力への不信感。

 

 記者たちに猜疑の目を向けられたままこのままスパーリングが終了になるわけにはいかない。

 

しかし、お互いがイージーなジャブを食らう泥試合は続く。これでは名誉挽回どころではなく、ますます猜疑の目は強くなるばかりだ。

 

 薫もパンチを受けるたびに手数が増えていった。完全に倒そうと躍起になっている。

 

パンチの威力を高めるために必要以上に踏み込みが強くなる。

 

 感情任せのボクシングは薫のボクシングではない。基本に忠実なレベルの高い洗練されたボクシングこそが薫のボクシングだ。

 

 もっと距離を取れと指示を出さなければならないのに、指示を出せない状況が英三をもどかしくさせる。余裕のなさを露呈するわけにはいかないのだ。

 

 ─────公開スパーだっていうのに何故にここまでハラハラさせらなければならないんだよ。

 

 両者の距離がさらに狭まり、いよいよ打ち合いへとなる。普段なら距離を取る選択をするはずなのだが、薫は退かずに全力でフックをぶつける。ガードをする暇があればパンチを打つ壮絶な乱打戦だ。

 

 もはやスパーリングではない。これは試合だ。

 

 お互いが相手を倒すという意志を持っているがためにガードを捨てて打ち合っている。

 

 どんな泥試合になってようが薫は技術を無視し、必死になってパンチをぶつけていく。歯を食い縛り、ムキになってパンチを出す。

 

薫はパンチを受け過ぎている。スパーに勝ってもこれ以上打たれたら試合に響いてしまう。

 

流石にこれ以上打ち合いを続けさせるわけにはいかなかった。

 

「もういい、打ち合うな薫、離れろ!」

 

しかし、英三の指示は薫の耳には届かず薫はなお無茶な打ち合いを続けた。

 

 グシャッ!!

 

 打ち勝ったのは薫だった。九条が一歩後退する。薫はすかさず、距離を詰めて、相手を倒すべく右フックを放った。

 

 まだ完全に相手がグロッギーとなったわけではない。危険は承知の上。それでも、相手を倒そうと薫は攻めに出た。

 

 その賭けが裏目へと出てしまった。九条の執念がクロスカウンターの相討ちを呼び起こしたのだ。

 

 グワシャアァッ!!

 

 薫の右頬には深々と九条の左フックがめり込まれている。パンチの圧力に口が不恰好にこじ開けられ、口からは白いマウスピースがはみ出している。ぷるぷると体が震え、パンチによって片目が潰され、残されたもう一つの瞳は何も捕らえることが出来ないでいる。

 

 この時点でもはや、薫は九条に負けたも同然だった。九条は薫の右フックで頬を潰されながらも闘う視線を薫にぶつけていたからだ。

 

 「ぶはあぁっ!!」

 

 耐えられずにマウスピースを吐き出したのはやはり薫だった。透明な唾液に包まれてキャンバスを跳ねたマウスピースは転がってキャンバスの外へと落ちていく。

 

 薫がゆっくりと後ろへ倒れ落ちていく。

 

 背中を激しくぶつけて、もんどりを打った薫が一度体が波打ちし、それっきりぴくりとも動かずに大の字になっている。

 

 一斉にカメラのシャッターの光が薫に集められた。

 

 英三はリングへと入る。

 

 ────これ以上薫を晒しものにできるかよ。

 

 目の前で体を屈めると、薫の体は細かく痙攣していた。

 

 口が開けられ目の焦点が定まっていない。まさしくそれは敗者の姿だった。

 

 英三に気付いたのか、薫は口を動かそうとするが、あががと声にならない声が漏れるだけだ。

 

 「薫、喋ろうとするな」

 

 それで薫の口が止まる。しかし、痙攣はなお続くのだった。

 

 

 

 

 

 

第5話

 

 

 

体の回復した薫は端の長椅子に頭を垂らしたまま座っている。

 

4人ともスパーリングは終わり、記者達の質問の時間となった。しかし、とても記者達の質問に応じられる状況ではなく英三は記者の群れを追い払った。

 

 肩を落として落ち込む薫にかける言葉など何もなかった。ジムの中央ではシャッターの音と記者と選手の会話で賑っているだけに隅のこちらが余計に暗く感られる。4人の中で1人だけ蚊帳の外になっている状況は惨め以外の何物でもなかった。

 

 「着替えて帰るか薫?」

 

 もう用は済んだのだからこれ以上この場にいても仕方ない。薫は全く反応を見せなかった。

 

 両手を椅子に付けて床を見つめている薫の顔は英三にはとても寂しく感じられた。

 

「水野選手の印象はどうですか?」

 

 薫の名前が聞こえ、英三は記者たちのほうへ顔を向けた。キョウコが質問を受ける番になっている。最後のスパーを終えたばかりのキョウコはまだスポーツドリンクを右手に持って飲み喉の乾きを癒していた。といっても彼女がスパーをした時間は僅か1分。その時間内に右腕だけで相手を倒してしまったのだ。恐るべきサウスポーという印象が強烈に残っている。

 

 キョウコが缶を置く。

 

 「水野選手もボクシングを7年続けていると聞きました。長さは私と同じです。しかし、リングに上がろうとせず、ぬるま湯に浸かった中で練習していた人間とどんな条件であろうと呑み、リングの上に身を預け続けてきた私とでは7年の重みが全く違うものでしょう。それは先程のスパーリングで証明されました。水野選手はプロボクサーでない女子に失神させられた。同レベルの相手を私は1分で倒した。水野選手が私の相手に相応しいとは到底思えませんね」

 

 薫が顔を持ち上げてきっと睨んだ。

 

 「では、対戦を承諾したのは?」

 

 「プロの厳しさを教えるためです」

 

 「胸を貸すということですね」

 

 「そんな生易しいものにはならないでしょうね。私は手を抜くことを知りません。それゆえ私と水野選手の間にある実力の差では水野選手の選手生命の危機に繋がるダメージを負う可能性も決して否定できないでしょう。悪いのはミスマッチを組んだ協会です。話題性だけを先行させてこのような無謀なカードを組むべきではない」

 

 キョウコの言葉に英三の心が敏感に反応した。

 

無謀なカード

 

思い出しくない記憶が再生される。

 

ノックアウトされた親父の姿。

 

試合が終わった後もリングの上で大の字に寝たままの親父の姿。

 

息が詰まり大声で叫びたくなってくる。

 

 突如、薫が椅子から立ち上がる。

 

「おっ・おいっ・・」

 

英三の呼びかけに答えず、薫はものすごい剣幕で報道陣の山を払いのけて、キョウコの前に突っかかっていった。

 

 鼻息が当たるだろう距離まで距離を詰め寄り、おでこ一つ分高いキョウコを見上げて睨む。一瞬即発の空気を作る二人にシャッターの光が集められた。

 

 動揺していた英三はどうすればいいのか判断ができないでいた。

 

 「遠いところから愚痴愚痴言わないで目の前で言ってみろよ!」

 

 目の前で睨みつけられてもキョウコは動じずに言い放った。

 

「あなたでは私の相手にはならないと言ったのです」

 

 「そんなの試合するまで分からないじゃないか。分かりもしないこと、やる前から好き放題言うなんて卑怯な奴がすることだ。どうせ負けたとしても負け惜しみ言って負けを認めないんだろ」

 

 「私は負けません。叩きのめされるのはあなたです。それがボクシングを見る目がある者なら誰もが疑うことのない結果なのです」

 

 冷静に、それでいて強くきつい口調でキョウコは言い返す。

 

 

 

 

 キョウコのセコンドが割って入った。続いて英三も薫の肩を掴んで引っ張った。

 

 「痛いって英三、放せよ」

 

 「ほら」

 

 薫の望むとおり、英三は手を放す。

 

 「あいつが悪いんだ」

 

 「分かってるよ。俺も見てて気持ち良かった。いつもの薫だよ」

 

 「分かってるじゃん英三も」

 

 薫が笑って英三の胸を小突いた。

 

英三も笑うもののこれで薫の闘志も回復したのなら良いだのがと思った。

 

選手達への質問も終わり、薫が帰る仕度を整えた。

 

 先に着替えを済ませたキョウコがまだ帰っておらず、ようやく帰ろうとしていたので英三は待つことにした。

 

 キョウコがジムを出ようとしたところに睦月が道を塞ぎ立った。睦月から特に表情は感じられず何をしようとしているのか英三には検討もつかなかった。

 

「なにか用ですか?」

 

 睦月が右手を出した。握手かと思いきや、右手には缶が握られている。

 

 「空き缶をジムの中に残したままにしてはダメだよ」

 

 よく見ると先程スパーを終えた後でキョウコが飲んでいたスポーツドリンクと同じものだ。

 

 「変ですね、きちんとゴミ箱に捨てたつもりでしたが」

 

 「ここは公衆の場じゃないから、きちんと捨ててもダメな人はダメってこと」

 

 キョウコが呆れかえったといわんばかりに目を瞑り首を横に振った。

 

 「くだらない嫌がらせですね。あなたにも幻滅しました。その行為は宣戦布告として受け取ります」

 

 キョウコが右手で缶を受け取ると、睦月が道を開けた。キョウコは鼻を鳴らしてジムを出る。

 

 睦月は薫のために少しでも抵抗してくれたのだろうか。子供っぽい振る舞いだったがそれでも嬉しいことに変りはなかった。

 

 睦月が今度はこちらにやってくる。

 

 「見てて気持ち良かったよ」

 

 と薫は睦月にお礼を告げた。

 

 「あれ?別にそういうわけじゃないよ」

 

 睦月が無邪気な笑顔で違う違うと手を振った。

 

 「じゃあ、どういうこと?」

 

 「ちょっと確認したかったことがあったから」

 

 「確認って?」

 

「薫さん、媛子お婆ちゃんが呼んでるよ」

 

睦月は質問には答えず視線を向ける。視線の先を英三も見ると、とても老人とは思えないすらりとした立ち方をしたお婆さんがいた。

 

「誰なの?」

 

薫が訊ねた。

 

「日本女子ボクシング協会の会長さん」

 

 

 

 

 

 

第6話

 

 

 

エレベーターは5階で止まった。前にこの建物に来た時も5階に上がりその時は4つの中で左奥の部屋に入ったが、今回は右奥の部屋へと入る。

 

 部屋の中は左奥の部屋同様、絨毯の上にソファーなどが置かれ高級感溢れる作りだった。額縁に入れられてある写真が薫の目を引いた。多くは白黒でグローブをはめた女性の姿が映っているものだった。私服にグローブ姿というのもあるが、ほとんどはスポーツブラにトランクスに着替えリングで実際に闘っている写真でありその光景は女子ボクシングの試合そのものである。

 

白黒ということもあって相当古い時期に撮った写真だと伺えた。今よりも遥かに男尊女卑が激しかった戦後間もない頃あるいは戦前に女性がボクシングをしていたということだ。

 

一体どこで?どういう目的で?

 

 写真が気になってしかたなかった。

 

「椅子に座ろうか」

 

 威厳とカッコ良さの二つを備えた喋りだった。

 

 老婦人が奥のソファーに座り、薫も手前の椅子に座り向かい合った。

 

 「下山媛子。日本女子ボクシング協会の会長だよ」

 

 「水野薫です」

 

 薫は軽く頭を下げた。

 

 「デビュー戦観させてもらったけど、良いボクシングだったよ。水野アキラを彷彿とさせるね」

 

 「オレ・・わたしなんてまだまだです」

 

 薫は照れて肩を狭めた。

 

「親父のボクシングを知ってるんですか?」

 

 「一観客として程度でね。彼には魅了させるテクニックとガッツがあった。それは薫のボクシングからもひしひしと伝わってきたよ。睦月との試合で見せたボクシングは素晴らしかったよ」

 

 薫は頭を下げた。

 

「ただ、今日のスパーリングはまったくの別人だった。何か迷いが感じられる」

 

 痛いところを突かれて薫は口篭もった。

 

「中学の時からボクシングジムに通っていたと聞いてるよ。17才の頃にはプロを意識していた。だというのにキック主催の興行でボクシングの試合を拒否してきた。それはなぜなのか聞いておきたかったんだよ」

 

薫は顔を上げて媛子の目を見た。優しさと厳しさの入り混じったような視線だ。

 

「ボクシングの試合が出来ればキック主催の興行だというのはたいした問題じゃなかったんです。でも、国内だとどうしても女子ボクサーがほとんどいないから必然的にキックボクサーとボクシングの試合をすることになってしまう。オレはどうしてもボクサーと試合がしたかったんです。ボクシングが大好きだから、ボクシングを大切にしていたいから同じようにボクシングに打ち込んでいる女性に自分が練習して積み上げてきた力をぶつけたかったんです」

 

「もしも、あたしらが女子ボクシング協会を立ち上げようとしてなかったしても、一生意地張ってたのかい?」

 

 薫は首を横に振る。

 

「理想だけじゃ何もできはしないから・・金を溜めて海外に行って試合をしようと考えてました」

 

「全てをボクシングのために捧げる覚悟がなきゃできないことだ。心の底からボクシングを愛しているね」

 

 薫は真摯な眼差しを向けてこくりと頷いた。

 

「あたしもボクシングが大好きだね」

 

 薫が目を見開く。恥ずかしげもなくボクシングが好きだと言えるこの老婦人に薫は好感を抱いた。自分と価値観が近い人に初めて出会えたのだ。

 

 媛子が写真を指差した。スポーツブラにトランクスを着て、両腕にはボクシンググローブをはめている女性が一人ファイティングポーズを取って写っている。 

 

「あの写真は、昔のあたしだよ」

 

 薫は下がっていた目を再び大きく見開かせた。

 

「試合をしている写真もありますよね。ボクシングをしていたんですか?」

 

「ああ。今と同じように女子ボクシング協会を立ち上げようとしたんだ。JBCに潰されて試合ができないまま終わってしまったけどね」

 

 声が出なかった。今まで考えたこともない事実を知らされて頭の中が真っ白になっている。聞きたいことは沢山あるはずなのに。

 

 「なんで・・・」

 

息を飲み込み、なんとか、声を絞り出す。          

 

「なんでJBCに潰されたのに、JBCと組もうとしたんですか?」

 

 「理想だけじゃやって何もできはしないって言ったね。そのとおり。女子ボクシングを認知させるためにはどうしてもJBCの力が必要だった。それは否定できない事実だから利用した。いずれJBCからは離れるつもりだったんだよ。JBCが先に裏切っただけ。奴等もこの半年で世界チャンピオンが二人出来て、人気回復の目途が立ったのだろうね。どちらにしろ、いずれは対立する運命だったのさね」

 

 媛子が掌に拳を当て乾いた音を弾かせた。

 

 「50年越しのリベンジだよ。前は力を全く持っていなかったが今は違う。資金は腐るほどあるんだ、夫の残した莫大な遺産がね。どんな圧力にも決して屈しやしない。薫・・」

 

 媛子の瞳が一層鋭くなった。

 

「一緒に闘ってくれるかい?」

 

 握り拳に汗が溜まっていた。興奮のあまり震えが止まらない。体の中身が躍動しているように感じられた。

 

 薫は力強く返事をした。

 

 満足げに頷くと媛子は時計を見て時間が来たと言って立ち上がった。

 

 「すまないね。こちらから呼んでおいて」

 

 「いえ・・ただ一つだけ知りたいことがあるんです」

 

 「なんだい?」

 

 「なぜ、女子ボクシング協会を作ろうとしたのかその経緯を今度聞かせてもらえませんか?」

 

 「和泉キョウコとの試合に勝てたらその褒美にまた招待するよ。話の続きはその時にね」

 

 

 

 


第7話

 

 

 

32歳で親父は世界挑戦の権利を再び手にした。それは英三にとって予期していなかった出来事であり、驚きのあまり呆然とした。

 

諦めちゃダメだ、おじさんは世界チャンピオンになれると薫に力説されても英三は満身創痍の親父には到底無理なことだと諦め切っていた。

 

いや、むしろ薫がムキになって言うほど英三に現実に目を向けさせていたのだった。

 

しかし、親父の世界挑戦が決定して以降は英三も柄にもなく興奮するようになっていた。悲観的な考えばかりしていても実のところ、親父には世界チャンピオンになって欲しかったのだった。

 

俺も信じなきゃ。

 

 薫を見習って前向きに考えた。信じる気持ちが重要なんだと願い続ける。

 

一方で、業界からは非難の声も少なくなかった。

 

 日本人でライト級の世界チャンピオンになったボクサーは二人しかいない過去のデータ、しかも、親父の年齢は32歳とボクサーとしては年を取り過ぎていた。

 

その逆境が親父を応援してやらねばという気持ちにさせるのだった。

 

世界戦当日は会場で英三は薫と薫のおじさんの三人で1列に並び親父の勇姿を見ることになった。

 

 「おじさんは負けないよ。絶対に勝つ」

 

 薫の言葉には何の根拠も保証もない。勝手に思いこんでいるだけだ。でも、英三も薫に同調し、親父が勝つと、目の前で奇跡を起こしてくれると信じていた。

 

 ドキドキと胸が張り裂けそうにながらも試合開始のゴングを聞く。

 

それから、20分も経たないうちにタイトルマッチはあまりにあっけなく終わった。わずか、4Rで親父はKOされた。10分程度の試合。それでも英三には耐えられない長さであった。

 

英三の顔がクシャクシャになる。涙を堪えようとしてもボロボロと頬を落ちていく。

 

Rからサンドバッグとなり相手のパンチを一方的にもらい、ボロボロにされた挙句、リング中央で大の字に失神した父親の姿は11歳の少年にはあまりに強烈すぎた。

 

こんな残酷な結末があって良いのかと英三は現実を恨んだ。

 

英三はその日からボクシングが嫌いになったのだ。

 

 

 

 忌々しい光景が脳裏によぎる。あの時と同じだと思っているのだろうか。水野薫対和泉キョウコが無謀なカードだと。

 

 キョウコは薫との試合を無謀なカードだと切り捨てた。二人のプロの実績だけ見ればたしかにそうだ。キョウコが7戦6勝1分けなのに対し薫は1戦1敗で1勝すらあげていない。

 

だが、二人のボクシング歴には差がない。その間に薫がしてきた練習が男と引けを取らない厳しいものであったことも直に見続けてきた。薫が劣っているなんてありえない。

 

だが、それも薫の体調が万全ならばの話だ。

 

 合同スパーリングで薫はダウンを喫し、どん底の状況に陥った。その合同公開スパーリングの後、女子ボクシング協会会長と話をし戻ってきた薫はそれまでの曇っていた表情とは一転して晴れやかですっきりとしたものになっていた。

 

 薫から女子ボクシング協会の会長とした話を聞いて英三は薫の変化に納得がいった。薫が欲していた舞台を会長は与えてくれたのだ。決して、中途半端には終わらせはしない希望が詰め込まれたリングだ。

 

 薫は迷いが吹っ切れたと断言した。たしかに、薫の顔は晴れやかではあった。

 

 通路の横を女子ボクサーとそのセコンド達が通りすぎた。そのボクサーは顔をタオルで隠していたが、肩を震わせておりしゃくり上げているのが分かった。ちらりと見えたタオルの中はボコボコに腫れ上がっているまさに敗者の顔があった。通夜のように暗い陣営達の空気がたちまちに通路中に広がっていくようである。顔の腫れ具合からしてKOされた可能性は高い。

 

 彼女の試合も無謀なカードだったのだろうか・・・

 

 彼女の寂しい背中を見届け、英三はまた通路を進む。控え室に到着し、ドアを明けると薫はウォーミングアップを終わらせて椅子に座っていた。両手にはボクシンググローブがはめられており準備は万端のようだった。

 

 ドアの音にも薫は反応せず、顔を伏せ目を瞑っていた。近寄り目の前で止まると薫が顔を持ち上げた。

 

 咄嗟に心を構えた英三に薫は力に満ちた表情を向けた。

 

 「眉間に皺寄ってるぞ、英三」

 

 声にも力が入っている。

 

 「心配するなって、オレが勝つんだから」

 

 薫は軽く胸を小突いた。薫の表情は勇ましいというのにそれなのに頼もしく思えなかった。それで自分の気持ちに気付いた。

 

この半年で英三の中で薫が群を抜いて強い女性という認識は崩されてしまっていた。2度も女性相手にキャンバスの上で失神させられた姿を見せつけられたからだ。薫に絶対的な強さがあるわけではないことを知ってしまった。まして、薫の対戦相手は最強の日本人女子ボクサーといっても過言ではない。

 

 もはや薫とキョウコが互角だとは言い切れなくなっていた。それどころか、無謀なカードじゃないとも言い切れない自分にやるせなさを英三は感じた。

 

「どうしたの?」

 

 薫が不思議そうに視線を向けてくる。よっぽど、変な表情になっていたのだろうか。

 

「別に」

 

英三は顔を背けた。

 

薫が試合に勝つか依然に果たして試合になるのかと考えていたことが薫には申し訳なくて顔を合わせられなかった。

 

 

 

 キョウコは目を瞑っていた。左手にはボクシンググローブをはめ込まれている感触が伝わってくる。トレーナーの麗奈にグローブをはめてもらっているところだ。

 

 いつも試合間の前には目を瞑り、精神の集中を図る習慣がキョウコにはあった。それはボクシングの試合だけじゃなく、剣道をしていた時から続けていた。心と技が噛み合ってこそ最高の技が繰り出せるとキョウコは常々考えている。

 

 「体調はどう?体のつやは悪くないように見えるけど」

 

 「上手く調整は出来ました。例によって愚直な男どもに足を引っ張られはしましたが」

 

 試合前、スパーリングをしたくリングが空くの待っていたというのに無視されて抜かされたことが何度となくあった。

 

男が優先してトレーニングの場所を使えるという不文律がキョウコのジムにある。キョウコはその件で何度も男達と揉め事を起こしけっして退かなかったが、会長の言葉の前にはどうしても食い下がらなければならなかった。

 

 「新しい会長が頭の固い考えの人だからね」

 

 「もう慣れたことです。それに劣悪な環境もボクサーにとって大事なハングリー精神を鍛えるのにはプラスに作用します。水野薫にはけっして理解できないことでしょう。2世ボクサーとしてたいした苦労もせずに大舞台に立てた彼女にハングリー精神など」

 

 キョウコの頭に浮かび上がる水野薫の顔。それは、小憎らしい生意気な顔つきでこちらを睨みつけていた。彼女は若い頃から世界チャンピオンの娘としてちやほやとされすっかり思い上がっているのだろう。

 

 自分は相手の顔面めがけてパンチを射抜くのみだ。倒れるまで何度でも射抜く。

 

 今日は日本で初めて行われる女子単独のボクシング興行。その記念すべき日をついに迎えることができた。キョウコは剣道を捨ててまで女子ボクシングが日本でもプロ化する日がくるために闘い続けた。今日という日のために7年間を捧げてきたのだ。

 

 ────2世ボクサーというだけで記念すべき舞台に上がれる水野薫には私の苦労など分かりしやない。客寄せパンダの水野薫には負けてはならない。女子ボクシングをさらに発展させていくためには真の強者が必要なのだから。

 

 目を開ける。キョウコを囲むのはトレーナーの麗奈だけだ。他には誰もキョウコのセコンドにつく者はいない。JBCと対立している女子ボクシング協会の興行に選手として出るキョウコはジムにとって迷惑でしかない存在なのだ。今日の試合も麗奈が会長に頼み込んだおかげでなんとか出させてもらえることになった。

 

 二人だけの孤独な闘い。

 

 ─────男の助けなど私には必要ない。

 

 氷のように冷たい表情を作り、キョウコは立ち上がり、闘いの場へと向かう。

 

 

 

 薫は御馴染みのボン・ジョビのイッツマイライフを入場曲にリングへと向かう。薫に対する客の反応は今日も大きかった。デビュー戦で負けたとはいえ、薫への関心は薄れたというわけではなさそうだ。もしかすると、薫のガッツが客の心を捕らえた効果なのかもしれない。

 

 英三がロープの幅を大きくし、薫がくぐってリングに入った。

 

 音楽が変わる。クラシックが劇的に鳴り渡る(カール・オルフのカルミナ・ブラーナ)。上品なようでいて強烈なまでに激しく奏でられる壮大な音を背にし、フード付きのガウンを着たキョウコが花道に姿を現した。観客の反応は薫と比べると幾分、落ちている。

 

 キョウコがリングの中に入り、闘う役者がいよいよ揃えられた

 

 


 

 キョウコは手馴れた動作でガウンを脱ぐと、両手を下ろし微動だにせずにすらっと立ったままだ。シャドーなどで体を動かそうとはしない。彼女の振る舞いからは力みや、緊張が一切伝わってこない。力みがまったくない自然体なのだ。これが海外で揉まれてきたキャリアなのだろうかと英三は感じた。ちょっとやそっとの舞台では臆しない。しかし、表情だけは別だ。薫に向けられている突き刺すような視線は殺気に満ち溢れている。

 

リング中央へと闘う二人が呼ばれ対峙をした。

 

薫は見上げて熱い闘志を、キョウコは見下ろして冷たい視線をぶつける。

 

燃えたぎる赤い炎と蒼白い炎。薫とキョウコの目には対照的で、それでいて共通するお互い勝ち気な眼光がある。

 

一瞬即発的な空気。女同士の馴れ合いなど微塵も感じさせない睨み合いにこれから潰し合いが始まるであろう予感を感じ取ったのか観客席から二人に喝采が飛ぶ。

 

 「よくこれだけの客が集まったものです。これもあなたの人気ゆえでしょう。しかし、あなたを観にきた客はあなたの実力の低さに失望する。この大勢の観客があなたが所詮は客寄せパンダであった事実の目撃者となるのです」

 

 「愚痴愚痴と女女しい奴だよ。オレに嫉妬してるならそういえばいいんだ」

 

 キョウコの眉間に皺が寄った。

 

「当たりだね」

 

 薫が笑う。

 

  キョウコはフンと鼻を鳴らした。

 

 「時期に分かります、あなたには私と闘う資格などないことを」

 

 そう言い放ち背を向けて赤コーナーへと返って行く。

 

 青コーナーへと戻ってきた薫に対し、

 

 「よくまああの理屈女を言い負かせたもんだな」

 

 英三は言った。

 

 「ざまあみろだよ」

 

 得意げな表情を見せる。やはり、精神的な迷いは消えているようだ。それでもまだ闘志が力みに繋がっているのではないかといった点が気がかりだ。

 

 「挑発には乗んなよ」

 

 念を押しておく。

 

 「分かってるよ、英三」

 

 「英三の言うとおりだ。左で自分のリズムを作れ」

 

 親父の指示に薫が声を出して頷く。マウスピースもくわえられて殴り合いの準備は出来上がった。

 

 第1Rのゴングが鳴った。

 

 ゴングの音と同時に薫は飛び出して行った。対照的にキョウコはスローテンポでコーナーから出る。

 

 薫はキョウコの右のジャブを警戒して、事前の対策どおり、反時計周りに円を描いて移動する。右手から遠い位置を取ることでジャブを打ち辛くさせるのだ。スピードに乗って薫は早くもジャブを連続して打った。先手先手で主導権を自分のものにしようとしている。本来持っている薫の華麗でいてアグレッシブなアウトボクシングが目の前では展開される。薫は完全に吹っ切れ、スランプから脱出したようだ。

 

 久々に薫の洗練されたアウトボクシングを英三は目にすることになり、薫のボクシング技術の高さを肌で感じ取った。スピード、リズム、フェイントどれを取っても男子に引けを取らない。リングの上に立つ薫は輝きを放つ。本気の薫はやはり女性のボクシングレベルを超えていると英三は思えてきた。

 

 観客席からも拍手と喝采が飛ぶ。おそらくは、本日の大会でこれまでリングに上がったどの女子ボクサーよりも遥かに上のレベルのボクシングを展開しているからに違いない。この程度かと自然と出来上がっていた線引きが一気に崩されたのだ。女子のレベルは想像していた以上に高いのだと認識の修正がされようとしている。それはキョウコの手によるものではない、薫一人の手によるものだ。

 

 薫ペースの試合展開に気を良くしていた英三だが、やがてリング上の異変に気付き始めた。薫がこれまでに放ったパンチは20発以上だ。その全てのパンチがキョウコにはかすりさえしていないのだ。

 

 手を出していないんじゃなくて、出さないでいるだけなのか? 

 

 浮かび上がる懸念の的中を後押しする事実にまた英三は気付く。キョウコの体からは汗が一滴も流れていない。逆に、薫の体は汗が無数に噴き出し、呼吸までが早く荒くなってきていた。

 

 「これがあなたのボクシングですか?」

 

不敵にも落ち着き払った声だった。

 

 「だったら何だって言うんだ!!」

 

 対照的に1分半以上、相手のペースで振り回された薫は顔をしかめながら声を荒げた。その顔面にパンチがめり込み、薫の顔面が苦痛に歪められた。

 

 ズドォォッ!!

 

 キョウコの右のジャブが一閃、薫の顔面を鮮やかに捕えたのだった。

 

 薫が何十発と打って体に当てることさえ出来なかったというのに、キョウコはたった1発のパンチでクリーンヒットをさせた。この事実が意味するものを英三は分かっていた。分かっていながら、認めることなんてできない。それでも心は反応し、ずしりと重くなっていく。

 

 薫の鼻孔からたらりと一筋の血が流れ落ちた。口をぽかんと開け、呆然とした表情のまま立ち尽くしている。ややあって、薫の目線が下へと移された。鼻血へと意識がいっているのだ。

 

 その姿を見て、キョウコは満足げに口元を吊り上げる。

 

右のパンチがさらに2度薫の顔面に叩き込まれた。

 

もうキョウコの顔から笑みは消えていた。薫の動きを追うキョウコの目は叩き潰す意思が明確に表れている。

 

目からひしひしと伝わってくる殺気に今は、距離を取り逃げるべきだと英三は感じ取った。体勢を立て直してからでないと太刀打ちできない。

 

だが、薫は戦況を把握していなかった。闘志を声にして表してパンチを打とうと踏み込んでいく。

 

その瞬間を待ってましたとばかりに狙われた。

 

グワシャァッ!!

 

狙い済ましたようにカウンターパンチが薫の頬にぶち込まれてしまった。

 

しかも、薫の左腕とキョウコの右腕が十字架を切り、クロスカウンターとなっている。

 

数倍に脹れ上がったパンチの威力に薫の体はぷるぷると震えていた。

 

二人の腕が交錯し固定してしまい薫が倒れるに倒れないでいる。

 

キョウコのパンチが頬にぶち込まれままで、薫はいつまでも口からマウスピースをはみ出させて顔を豚のように歪ませて立ち続けている。

 

 「あがぁっ・・」

 

 拳が薫の頬をぐるりと抉り、薫の口からは間抜けな声が漏れた。薫の右腕がだらりと下がり、薫はゆっくりと後ろへ崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

第8話

 

 

 

大きな音が会場中に響き渡り、薫は大の字となった。

 

 1R早々のダウンに英三は顔が青ざめていくのを感じた。しかも薫は大の字のまま動けないでいる。早くも深いダメージを負ってしまってノックアウト負け寸前なのだ。 

 

 カウントスリーとなったところで、ごろりと体を回転させた。このまま動けないで倒れたままであったらレフェリーがカウントを止めていたかもしれなかった。

 

 それでも、土壇場の状況は続く。

 

 薫は両腕に力を入れ、必死になって立ち上がろうとする。薫の体の下のキャンバスには汗が溜まっていく。

 

 カウント9で薫はぎりぎり立ち上がった。

 

 立ち上がれたものの表情は苦痛に歪められている。試合再開と同時にキョウコがダッシュしてパンチを放つ。

 

 ここで、ゴングが鳴り、キョウコのパンチは薫の眼前で止められていた。呆然と突っ立つ薫にキョウコはふふっと笑みを浮かべる。

 

 「あなた相手に左腕は使うまでもないですね。あなたを倒すのにはこの右のパンチだけで十分です」

 

 自信たっぷりと言い放つと背を向けて赤コーナーへと帰った。 

 

 薫は反論しなかった。

 

薫の元に近寄った英三の呼びかけにも反応せずに顔を覗くとまだ呆然としたままだった。あまりの実力差にショックを受けてしまっているかのようであった。

 

 コーナーに戻ると薫は椅子にどさっと腰をかけた。両肘をロープに乗せて、ぐったりと背中をコーナーポストに寄りかからせる。

 

 1R終わっただけだというのに薫は疲れ切っていた。

 

 虚ろな目。

 

 乱れきった呼吸

 

 止まらない汗。

 

 薫のグロッギーにさせられた姿がどうしても英三には納得出来ずにいた。たった一発とはいえクロスカウンターなのだから、相当な威力にはなるだろう。しかし、薫が受けたパンチは女のしかも、利き腕でないパンチなのだ。ダウンだけならまだしも、グロッギーとなるほどの威力を与えられるとは信じ難い。

 

 つまりは信じ難いほどのパンチ力をキョウコは持っているということだった。下山睦月のように女離れした威力を。利き腕である左のパンチを受けたらと思うと英三はぞっとした。キョウコは左を使うまでもないと言った。勝つとしたらその慢心の隙を突くしかないのかもしれない。

 

 「はぁっはぁっ!!」

 

 薫の吐く息はまだ荒れたままだ。

 

 ダメージだけでなく、体力の面でもやばいのが目に見えて分かる。

 

 この異常なまでの消耗は、空振りを続けさせられたことくらいしか思い当たらない。相手のペースで振りまわされているからだ。

 

 1Rからこの調子でどうすればいい?

 

 親父はガードを固めて距離を取れと指示を出しているが根本的な問題の解決にはならない。その場を凌ぐための守りでしかない。

 

 英三は思考する。

 

 ジャブの刺し合いでは歯が立たなかった。格の違いをまざまざと見せ付けられ、ダウン、そしてグロッギーにさせられてしまった事実から目を背けるわけにはいかない。

 

接近戦という選択肢が浮かぶ。

 

 自分のスタイルを捨てる。それは逃げなのだろうか。

 

 薫がこの作戦を受け入れるとは到底思えなかった。それでも言わずにはいられなかった。次のR薫が青コーナーに戻ってこられる保証なんてどこにもない。

 

 「相手の右を封じるなら接近戦もあるぞ」

 

 薫が辛そうに首を持ち上げてこちらに顔を向けた。

 

「英三、オレは親父のボクシングが大好きなんだ。アウトボクシングで負けるわけにはいかないよ」

 

 薫が英三の顔をじっと見つめる。

 

オレのボクシングを信じてくれ

 

薫の真摯な瞳はそう訴えかけていた。

 

 英三は頭を掻いた。

 

 結局、薫のボクシングにかける思いの深さを思い知らされるはめになってしまった。

 

 不器用なボクシング馬鹿。

 

 薫はそういう奴だ。

 

 英三は苦笑した。

 

だったらせめて俺たちだけは信じてやらないと。

 

「俺が弱気だった。信じるよ」

 

 英三の言葉を聞いた薫の顔から微笑が零れた。

 

 リングの上とは場違いな温かく純な表情。

 

 信じてくれたことへの最大限への感謝が滲み出ている。 

 

不覚にも心が動揺した。

 

 試合をしている最中だっていうのにくそっ・・

 

 動揺している英三をよそに薫はまた闘志の込められた表情に戻した。

 

 第2Rが始まり、青コーナーを離れていく薫の背中を見守った。

 

 まだ試合は始まったばかりだ。1Rの攻防で何が分かる。薫のアウトボクシングだってまだこんなもんじゃない。やられっぱなしで終わるはずが・・・。

 

 期待は、ものの数秒で裏切られる。

 

 バシィィッ!!

 

 高く弾けた音と供にコーナーを飛び出たばかりの薫が吹き飛ばされて青コーナーに戻ってきた。

 

 キョウコはコーナーに追い詰められた薫を殴りにいこうとはせず、薫に余裕を見せつけている。 


 「くそっ」

 

 薫がぼそっと吐き捨てるように言ったのが聞こえた。 

 

 またしても、薫がダッシュしてキョウコに向かっていく。

 

 頭に血が昇って薫が冷静な心を忘れてしまっているのは表情を見なくたって分かる。

 

 「薫、落ち着けよ!」

 

 英三の言葉にも薫は止まらない。

 

 ───────キョウコの余裕は挑発なのだ。その先には罠が待っていることも分からないのか。

 

 薫が放つ左ジャブをキョウコが楽々さばくと右のジャブを薫の顔面に打ち込んだ。1発、2発、3発。

 

 薫が打ち返すもあっさり避けられ、その隙にまたジャブの3連打。

 

 ズドォッ!!

 

 ビチャッ!!

 

 血がまたしてもキャンバスに飛び跳ねた。

 

 キョウコのパンチはジャブだというのに1発の音がストレートのように重い。威力の高さは薫の頭の吹き飛び方からしても明白だ。

 

 薫の顔からは鼻血が流れ、肩で息をする。

 

 薫が前に出たところに直進を止めるキョウコの右ジャブ。それでもまた出ようとしたところに右のジャブが薫の顔面に当たり、前進が阻まれる。

 

 薫が攻撃に移ろうとするところにキョウコのパンチが飛び、断ち切られる展開が続いた。薫は何も出来ずにいるのに、それでも懲りずに前へ出ようとしてパンチを顔面に浴びた。大人が子供を良いようにあしらっているとしかいいようがなかった。

 

 薫はムキになり過ぎている。

 

─────もっと冷静になれ。

 

 ようやく薫が左ジャブをキョウコにガードさせた。そこから果敢にパンチを放つ。パンチをヒットさせたわけではないというのに、パンチがキョウコのガードの上に当たっただけで試合を挽回しているような錯覚を受けた。

 

 英三はそれで決定的な事実に気付いた。今まで薫のパンチはキョウコの体に一度たりとも触れてさえいなかたったのだ。

 

 グワシャアァッ!!

 

 拳が交錯された直後、血がキャンバスの上に巻き散った。

 

薫の攻撃がまたも断ち切られている。

 

この試合2度目となるキョウコのクロスカウンターが薫の顔面にぶち込まれたのだ。

 

 1Rの時以上に破壊力に満ちている感じさせられるのはパンチがめり込んでいる薫の顔面からなおも大量の血がボタボタと流れ落ちているからだった。顔面がパンチに潰されて表情は見えてこないが、拳と顔面の狭間から流れ落ちる血の量は尋常ではなかった。

 

 呆然と戦慄の光景を見つめている英三は心の底で感じてしまった。

 

 冷静になればどうにかなる次元ではなかったのだ。

 

キョウコとの試合は無謀なカードなんだよ・・・

 

 

 

 

第9話

 

 

 

 「ぶほぉぉっ!!」

 

 薫の口からマウスピースが吐き出された。と同時に後ろへと崩れ落ちていく。

 

 ぴくりともしない。

 

 リング中央で大の字になった薫の姿が世界戦でノックアウトさせられた親父と被る。

 

 見ていて辛いだけだ。

 

 立てなんてとても言う気になれなかった。立ってどうなるというんだよ。

 

 無謀な試合を選手にさせるべきじゃない。レベルの違う相手に奇跡なんて起こるはずがない。現実は一度も良いところがなくボロボロに打ちのめされるだけだ。真剣勝負にお互いの見せ場など早々ない。ましてや実力が違いすぎては観る側にとって残酷なショーを見せるられて終わる。

 

 そんな辛い思いは親父の時だけで十分だ。

 

 しかし、薫は英三の思いに反して立ち上がった。

 

 試合が再開と同時に薫はキョウコのサンドバッグとなった。

 

 バキッ!!グシャッ!!ドガッ!!バキッ!!

 

 「ぐふっ!!ぶほっ!!がはっ!!ぶふっ!!」

 

 良いように右手一本でいたぶられる。

 

 それでも薫はまだ闘おうとする。逃げずにそして、殴られる。コーナーにはりつけにされて殴られる。

 

 英三は歯を食い縛って薫が殴られる姿を見続ける。

 

 もういいじゃないかよ薫・・

 

 

 

ゴングが鳴り、薫はこのRもなんとか生き延びれた。

 

 コーナーを背にしていた薫の体が下にずり落ちる。代わって顔を返り血に染めているというのに眉一つ動かさないで薫を見下ろすキョウコの姿が現われた。その姿は雄爽としていた。力強さと威厳に溢れ出ている。

 

 キョウコがグローブで血を拭う。血の取れたキョウコの顔は無傷で試合前とほぼ変わらぬ美しさを保っていた。キョウコの顔は適度に流れ落ちる汗が輝きを放ち、充実に満ちていた。

 

 キョウコが背を向けコーナーに戻ると、英三は慌ててリングの中に入った。ついさっきまでキョウコのサンドバッグにされていた薫は尻餅を付き、両肘を最下段のロープに載せている。

 

力なく下に伏せている薫の顔を覗き英三はたちまち顔が青ざめた。もはや、薫の顔は原型をなしていなかった。紫に変色した瞼が左目を塞ぎ、右目も半分ほど潰れている。頬だけでなく、唇も厚ぼったく腫れ上がり、鼻は両穴から血が流れている。

 

キョウコの顔がまだ頭に残っているだけに余計、薫の顔の変わり様が心を鬱にさせるのだ。

 

無傷で試合前と変わらぬ綺麗な顔を保つキョウコと顔面を醜く崩壊させられた薫。もはや薫の役目はキョウコの引きたて役でしかないっていうのか。

 

 

 

 

 「英三・・そんな顔するなよ」

 

 薫は無理して笑みを見せるが、それが余計痛々しく感じさせた。

 

「オレは・・まだま・だやれるんだ」

 

 途切れ途切れになりながら薫は精一杯の強がりを言った。

 

 英三は親父の顔を見たが、親父は英三の視線にも気にせず薫に指示を送る。止めようという気配は見当たらなかった。

 

 英三はうがい用の瓶を薫の前にもっていった。薫から受け取る仕草は見られなかったので口まで持っていき、うがいをさせた。もう薫は瓶を受け取ることさえおっくうになってしまっている。

 

 受け渡しで英三はふと前から気になっていたシーンが頭の中で蘇った。睦月がキョウコに缶を受け渡したシーンだ。思い返せばおかしな行動だ。わざわざゴミ箱に捨てた缶を拾って渡したのだから嫌がらせかと思いきやそれを睦月は否定した。

 

睦月は確認したいと言った。

 

 何を確認したかった?

 

 英三は赤コーナーに目をやった。

 

 キョウコは右手で自らドリンクを口に含んでいる。毅然とした姿に英三は見るべきではないと後悔した。あまりに対照的な薫とキョウコのインターバルの光景は見比べても惨めになるだけだ。

 

 英三は目を戻し、右手にある瓶をマウスピースに持ち替えた。

 

 「あっ・・・」

 

 英三は自分の右手に目を向けた。 

 

 「どうした英三?」

 

 親父が訝しげに訊いた。

 

 ─────そうか、そうだったんだ。

 

 「和泉が右のパンチにこだわる理由がわかった。右にこだわるのは余裕があるからじゃない。左は右よりもパンチの威力が落ちるからだ」

 

 「ど・・どういうことだよ・・英三?」

 

 「和泉は左利きじゃなくて右利きだ」

 

 

 

 

 

第10話

 

 

 

 「右利きのサウスポーということか」

 

 親父が納得したように言う。

 

 「合同スパーで睦月の和泉への空き缶を渡す行動がずっと気になってたんだ。おそらく睦月は合同スパーの時の和泉の振る舞いに違和感を持っていた。実は和泉は右利きなんじゃないかって。だから睦月は確信が得たかった。人は利き腕を主に、もう一方の腕を補助的な役割として使うだろ。もしかしたら、左利きは、利き腕じゃない腕を使う機会が多いのかもしれない。それでも、とっさの時は、空き缶を目の前で差し出される意図せぬ出来事が起きた時は、無意識に利き腕が反応するんじゃないかって睦月は思ったんだよ。睦月は空き缶を渡すことで試したんだ。和泉が右利きのサウスポー。ありえるか親父?」

 

 「稀だが、右利きでもサウスポーにするボクサーはいる。サウスポーは数が少ないから苦手としているボクサーは多いからな。ただ、一発も左のパンチを打たないのは異常だ。打たないんじゃなくて打てないと見るべきか」

 

 「怪我してる?」

 

 「その線だろう。左はないと見ていい。右だけに意識しないとあの右は避けられるものではない。ジャブの刺し合いにもこだわらない方が良いな」

 

 「でも、ジャブは・・・オレのボクシングの中心です・・」

 

 薫の表情は弱々しくどうすべきか悩んでいるようだった。

 

「アキラへのこだわりか」

 

 薫は頷いた。

 

 「薫、アキラのボクシングは左のジャブだけじゃない。晩年のインファイトを観ただろう。アキラのボクシングは融通が効かない幅の狭いボクシングじゃないぞ」

 

 薫が考え込む。

 

 「そうですね・・オレが間違ってた。オヤジのボクシングはもっと奥が深いんだ」

 

 自分の言葉に薫は自ら頷く。

 

「何がなんでもオレ勝ちます」

 

第3Rが始まる。

 

薫はジャブを打たなくなった。

 

ガードに専念し、キョウコの右へと回り込もうとする。右のジャブを打たせないようにするためだ。

 

薫が右のジャブを避けて懐へと潜り込んだ。接近戦なら右腕一本の闘いは出来なくなる。両腕の総合力で薫が勝てる可能性は十分にあるはずだ。

 

薫のパンチを2、3発ガードすると打ち合いには付き合わず、キョウコはバックステップで再び距離を取った。徹底的にアウトボクシングということか。左腕を使わないのならアウトボクシングをするしかキョウコにはない。

 

 薫が追い掛けてキョウコが距離を取るという攻防に変わる。だが、キョウコの右ジャブを避けて近づくのは至難の行為だった。マシンガンのように速いキョウコのジャブの連打は一瞬でも気を抜くと蜂の巣にされてしまう。

 

 第3Rでも薫は逆転どころか、細かいパンチを浴びてじわじわと少ない体力を削り取られていた。

 

 やがて、薫の足が止まった。鼻血がまた流れ出ており、肩で呼吸をしている。

 

 「はぁっはぁっ・・」

 

 辛そうに呼吸をする薫にキョウコが言い放った。

 

 「作戦を変えても無駄なことです。所詮は悪あがき、KOされる時間が延びるにすぎないのですよ」

 

 キョウコは踏み込みを一段と強くして右のジャブを放つ。薫の顔面に深々と刺さったその一撃は薫の頭を後ろに吹き飛ばし、薫を後退させる。退いた薫にキョウコが右ジャブの連打で攻めたてる。薫は身動き取れずに亀のように体を丸めるしかない。KOも秒読みに入ってしまったかと思わせるほど、薫が手も足も出せないキョウコのラッシュである。

 

 ガードの上から血がキャンバスに降る。

 

 足元が不安定な薫はいつ倒れてもおかしくなかった。

 

 また、ジャブが薫の顔面へと入った。膝が大きく曲がり、そこへまたジャブで顔面を狙われた。

 

 突然、薫の姿が目の前から消える。キャンバスに沈んだのではない。薫は左にパンチを避けている。左斜めにステップを刻んだ薫はキョウコめがけて体を大きく傾けて反動を効かせたフックをぶち込んだ。

 

 薫の得意とするシフトウィービングだった。相手のパンチを避けながら攻撃に移り、しかも、体の反動を利用するのだからダメージは大きく攻防逆転するのに有効なテクニックだ。

 

 その手があったかと英三は思い出した。シフトウィービングは睦月戦でも逆転の糸口となった技だ。

 

 初めて掴んだ攻勢に薫が一気にラッシュをかけた。キョウコのガードは固く、全て両腕に阻まれている。それでも、薫は構わずここが勝負どころとパンチを連打する。たまらず、キョウコがバックステップで距離を取る。

 

 「えっ・・」

 

 キョウコの眉が持ち上がった。背中がコーナーポストにぶつかったのだ。

 

 「これで逃げ場はない」

 

 薫は言い放つと飛び込んでいく。キョウコの右ジャブを避けると大振りのフックをぶちかます。

 

 グシアァッ!!

 

 「ぐはあっ!!」

 

 シフトウィービングで反動の効いた左フックだった。薫が連続してパンチを叩きこむ。ガードする暇を与えずにパンチを次々と顔面へとめり込ませていく。

 

 今までの苦戦が嘘のように薫のパンチが当たる。

 

 距離を取れなくなったキョウコはとてつもなく弱かった。キョウコは片腕でしか闘えないと英三は予測したが、それはまず間違えのない事実だと思えてきた。もし両腕が使えるのなら少しは反撃に出るはずだ。薫はそれまでノックアウトされる寸前だったのだから逆に倒せるチャンスでもあるのだから。

 

しかし、キョウコは必死になってガードを固めている。鬼神のごとき強さを見せたキョウコが今では可哀相なくらい貧弱に見える。

 

 

 

 

ゴングの音が鳴り薫の連打が止められた。英三はくそっと声に出して残念がる。

 

逆転KOへの千載一隅のチャンスだった。
次のR、キョウコはまた鬼神の強さを取り戻してくるのだろうか。それとも、また何も出来ずにガードに撤するのだろうか。

 

英三は椅子に座る薫を見下ろす。コーナーポストに背中をもたれかけ、顎が上がり天を見上げていた。目を瞑っていて、薫は気持ち良く眠っているかのように思えてくる安らかな表情だ。

 

ボクサーとして致命的な弱点を露呈したキョウコだったが、薫の体力も限界まできている。

 

 勝負はどちらに転ぶか分からなくなっている。おそらく、精神力が勝敗を分けるはずだ。英三は薫の顔を見つめながら頑張れと声に出さず呟いた。

 

 

 

 

 

第11話

 

 

 

 「左が使えないとばれてるわね」

 

 「今までどおりで問題ありません。もうへまは踏みませんから」

 

 「右のタイミングに慣れられてきてるわ。フェイクでも良いから左を使うべきよ」

 

 「ただの偶然です。大丈夫です」

 

 ───────ただの偶然なのだ。私の右が見切られるはずがない。

 

 キョウコは頼りにする右拳に視線を向けた。右のパンチで次のRこそ水野薫をノックアウトすると意志を込めた。

 

 第4Rが始まり、ゆっくりとキョウコはコーナーを出た。

 

 足にはさほどダメージがきてなかった。これなら薫の攻撃をさばくのに支障はきたさないだろう。 

 

 数十秒後、キョウコは自分の読みの甘さを痛感することになる。

 

 グシャァッ!!グシャァッ!!

 

 キョウコは再びコーナーを背負い薫のラッシュを受けた。逃げられない中、ガードを固めてパンチの的となる。これでは薫のためのサンドバッグでしかない。

 

 4R序盤から薫のシフトウィービングに対処が全くできず、良いように懐へと入れられラッシュを食らった。突き放そうと執拗に右のジャブを放っても左から攻められて簡単に中へと入られる。

 

 ─────分かっていたことではないか。左からの攻めに弱いことは。そして、弱点を突かれた時のための対策も十分にやってきたではないか。

 

 しかし、変則的な薫のウィービングに反応が思うように出来なかった。しかも、左へのステップの幅が広すぎてこれでは右のパンチを当てられない。 

 

 薫を止める術を失ったキョウコが薫のサンドバッグとなるのはもはや避けられない運命だったのだ。

 

 ドガアァッ!!

 

 顎を突き上げられ、キョウコの膝ががくっと笑う。 

 

細い顎はキョウコのもう一つの弱点である。そこにもう一発顎へ左フックを打ち込まれ、体が右に左にふらついた。

 

 世界が揺れている。いや、揺れているのはキョウコ自身である。そのことに気付いたキョウコは意識をしっかり持とうと歯を食い縛るのだが、パンチの雨を次から次へと浴びせられ意識はさらに朦朧とするばかりだ。

 

 汚い唾液を垂らす彼女から毅然とした姿は消えている。

 

 虚ろでとろんとした瞳に口も力なく開けられていた。

 

 その間の抜けたキョウコの顔が突如、苦痛で歪められた。

 

 薫のアッパーカットが顎を吹き飛ばしたのだった。

 

 グワシャアァッ!!

 

 顎を跳ね上げられ、上を向いたキョウコは上空へと血を噴き上げた。血飛沫は滝の逆流のごとく勢いで上がっていく。

 

 蝦反りに体を吹き飛ばされ、ロープに跳ね飛ばされた。内股になっていた両足にはもはやダウンを凌げるほどの力は残っておらず、キョウコは両腕が下がり薫の横を前のめりに崩れ落ちていく。

 

 ────左腕さえ使えればあの程度の未熟な相手に苦戦するはずがないというのに。左腕さえ使えれば・・・

 

「キョウコ!!あなたのボクシングへの思いはこの程度なの!!」

 

 麗奈の怒鳴り声がキョウコの闘争本能に響く。長い左腕を咄嗟に薫の胴体に巻きつかせてクリンチに入った。

 

 「はぁっ!!はぁっ!!」 

 

 キョウコは血走った目で唇を尖らす。少しでも多くの酸素を体内に取り入れようと務める。負けるわけにはいかないのだとキョウコは心の中で叫ぶ。

 

──────絶対に負けられない

 

 

 

 

「キョウコ、剣道にはもう戻らないのか?」

 

 すすったコーヒーをテーブルに置くと、

 

 「戻らないわ」

 

 キョウコはきっぱりと言った。

 

 「御前なら全日本のチャンピオンにもなれる・・」 

 

「剣道は好きよ。強さだけでなく、心も鍛えられるスポーツなんてそうそうないわ」

 

「なら・・」

 

 「前にもいったはずよ。剣道では私の目的は適えられない」

 

 「そんな時代じゃない。もう・・」

 

 典史は首を振った。

 

 「たしかに、今の時代男女の不平等はなくなっているわ」

 

 キョウコは目を瞑る。

 

 「表向きはね。まだまだ日本は男尊女卑の社会なのよ。仕事に就いてよく分かった」

 

 「・・・・」

 

 「ボクシングなんてまさにそのとおりの世界だわ。女はボクシングなんてやるものではない。可笑しいと思わない?どうしてそう言い切れるの。剣道は認められてなぜボクシングはダメなの?」

 

 「・・・・」

 

 「女子ボクシングをプロとして認めてもらうまで私は闘い続けるわ」

 

 沈黙が続く。元々、典史は寡黙で口数が多い方ではない。キョウコももうこれ以上特に言うべきことはなかった。

 

 「先週の試合観たよ」

 

 典史が重く口を開けた。

 

 キョウコは言葉の続きを待った。

 

 「俺はまた観たいと思わない」

 

 「そう・・さようなら」

 

 キョウコは立ち上がった。

 

 「待てよ」

 

 「これ以上話しても無駄でしょ」

 

 「剣道じゃ駄目なのか?」

 

 背中を向けていたキョウコは顔を振り向かせた。

 

 「駄目なのよ・・・。剣道にはもう闘う目的がないの」

 

 店を出た。

 

 自分がしていることを他人から理解してもらえるとは初めから思っていない。特に男に分かるはずなんてない。

 

 男女不平等は何処の社会にもある。それは永遠になくならないことかもしれない。だからといって何もせずに傍観していることなど自分には耐えられない。

 

 ある格闘技の雑誌でたまたまキョウコは元女性ボクサーの記事を観た。女子ボクサーが存在していること事態キョウコにはちょっとした驚きで興味を惹かれたのだが、記事を読むに連れて興味はやがて憤りに変わっていた。

 

 その女性はアメリカに4年ほど在住しており、その間にボクシングジムに通うようになり、ついにはプロのボクサーになった。アメリカでは女子ボクシングもプロとして認められており、男子の興行の中に女子の試合が組まれることもあるのだという。その女性は4年の間アメリカ生活で3回プロのリングに上がり、日本に帰ってきた。その後、日本のボクシングジムで練習をするようになり、女子ボクシングの試合が出来るよう、ジムに懇願したらしいが、JBCから許可は下りなかった。

 

 結局、彼女は日本では試合をするチャンスがなく引退をし、今ではジムのインストラクターとして女子の指導を行っているというのが記事の内容だ。

 

 許せなかった。何故、男性が良くて女性が試合するのは駄目なのだ。女性にだってボクシングは出来るはずだ。剣道が出来るのだから。これは男達の傲慢さが一人の女性の可能性を奪ったのだ。

 

 男女の不平等が消えたとよく言われるがそれはまやかしだと16歳だったキョウコは痛感させられた。

 

 次第にキョウコの怒りは私が不平等を変えてみせるという決意に変わっていく。記事を見た3週間後、その女性インストラクターがいるジムにキョウコは入門したのだった。あれから7年が過ぎた。JBCは女子ボクシングを公認し、合同の興行を行うようになった。しかし、その記念すべき1回目の合同興行の試合に声がかけられたのは日本の女子ボクシングの第一人者であるキョウコではなく、水野薫というまだ一度もプロのリングで試合をしたことがない弱者だった。これまで闘い続けてきた日々はなんだったのだろうか。はたして自分が女性としてリングに上がり続けてきた意味はあったのだろうか。自分が存在していなくても水野薫という存在だけで女子ボクシングはJBCに認められることになっていたのではないか。

 

 そう思うだけで自分の7年間が否定されているようでキョウコを苛立たせた。

 

 世間は分かっていない。実力もないボクサーを有名な世界チャンピオンの娘というだけで評価しようとしている。 

 

 キョウコには真実を伝える義務があった。そうでなければ女子ボクシングは廃れていく。現にJBCからもあっさりと見捨てられたではないか。

 

 賑やかな繁華街が余計に神経を苛立たせる。

 

 新宿という街は嫌いだった。新宿には意志のない人間が多すぎる。人に呼び出されなければ自分からこの街に訪れることはまずない。

 

 人ごみを避けるために路地裏へと回る。       

 

 そこで、女性の声がかすかに聞こえた。その方向へ足を進めてからすぐにキョウコの顔に修羅の形相が浮かび上がる。

 

 「止めなさい。人を呼びますよ」

 

 チンピラ風の男二人組がこちらを向いた。ポケットに手を突っ込んだまま一人がこちらに向かい、無防備に顔を突き出した。

 

 「よお、ねえちゃんも犯られたいのか?」

 

 下品な笑いだった。シンナーの吸いすぎか歯が隙間だらけになっている。

 

 「あん?可愛げのねえねえちゃんだな。本当は怖がってるんだろ」

 

 頬を軽く叩かれた。

 

 軽くでも攻撃すれば怯えるとでも思っていたのだろう。

 

 しかし、キョウコは厳しい視線を向けたままだ。

 

 これで準備は整った。正当防衛は成立したのだ。 

 

 バシィッ!!

 

 その醜い顔面にキョウコは左のジャブを当てた。

 

 チンピラは背中を丸め鼻を抑えた。 

 

 がら空きの顎にアッパーを突き上げた。チンピラは後ろへ崩れ落ちる。完璧に顎をとらえた。男から立ち上がる気配はない。 

 

 視線を代えると、服装が乱れていた女性の姿はなくなっていた。上手く逃げることが出来たようだ。

 

 あとは自分も逃げるだけだ。幸い、後ろの道が大通りに繋がる道である。

 

 しかし─────

 

 キョウコは視線をもう一人のチンピラへと向けた。

 

思い上がった男は征伐する必要がある。もうこれ以上の犠牲者を出させないためにも。

 

そのチンピラは身長185センチ相当、体重では80キロを軽く超えるだろう大男だった。

 

 果たして相手になるのか自信のほどは分からなかった。

 

 キョウコはダッシュして向かっていく。

 

 無防備な顔面に左のジャブを2発打ち込んだ。

 

 相手が打った大振りのパンチは避けて、また2発。とどめの右ストレートも顎を綺麗に打ち抜いた。

 

 だが、大男は倒れなかった。表情を変えずにこちらを睨む。

 

 右腕を掴まれた。掴まれながらもキョウコは左ジャブを顔面に何度も当てた。大男は鼻血を出すも顔色が変わりはしない。

 

 その瞬間、大きな衝撃がキョウコの頭を走った。

 

 足腰の力が抜けて、尻餅をついた。

 

 大振りのフックを顔面に打たれたのだった。

 

 力が違い過ぎる・・逃げないと・・。

 

 立ち上がろうにも体に力が入らない。尻を地面に付かせたままどうにもならなかった。

 

 「ちょっとボクシングを習った程度で男に勝てると思い上がったのが間違いだったな」

 

 顔面を蹴られて地面に背中を激しく打ちつけた。

 

 「ぐはあぁっ」

 

 キョウコが悲鳴を上げた。左腕を強く踏まれたのだ。

 

 「危険な左腕だな。ジャブってやつか」

 

 ぐりぐりと踏みつける。

 

 「ぐああぁっ!!」

 

 「手グセの悪い腕は使え無くしたが方がいいな」

 

 大男は腰を屈めてキョウコの左手を掴んだ。人差し指の第2関節に逆の方向へ力を入れる。

 

 「ちょっ・・ちょっと!!」

 

 力がさらに入り、関節が悲鳴を上げる。

 

 「止めて!!お願いだから止めて!!」

 

 大男の表情はけっして変わらない。

 

 グギィッ!!

 

 激痛が襲った後に見た人差し指はありえない角度に曲がっていた。ほぼ直角に近いほど反りかえっている。

 

 「いやあぁ!!」

 

 「まだだ。あと4本残っている」

 

 涙が止まらなかった。泣き叫び大男に懇願した。

 

大男が止まることはない。

 

 指折りが終わったのは、警察が駈けつけてからだった。 

 

 その時にはもう手遅れだった。キョウコの左手は5本の指が全てが直角以上の角度に反り曲げられていた。

 

 

 

 

 

 「キョウコ・・」

 

 驚きを隠せずに麗奈はキョウコの名前を口にした。麗奈と顔を合わせるのは半年ぶり、最後にジムを破門にさせられて以来である。

 

 「まだボクシングが諦められないの?悪いこと言わないわ、ボクシングは忘れなさい。あなたの左指はもう自由に動かすことはできないと医者に言われてるのでしょ」

 

 「無理ではないことを証明しにきました」

 

 「ちょっとキョウコ!!」

 

 静止を振り切って中へと入っていく。

 

 キョウコはボクシンググローブをはめてサンドバッグの前へと立つ。体の右側をサンドバッグに向ける。

 

 ジャブをサンドバッグに当てた。左ではなく右の拳だった。右のジャブを立て続けに打ち、その強烈な威力と連打の回転数にサンドバッグが飛ばされっぱはなしであった。

 

 キョウコは右のジャブだけを連打で1分以上を続ける。

 

 右腕でサンドバッグを受け止めて麗奈を見た。

 

 「これでもボクサーとして通用しませんか?私は右腕だけで人を倒してみせます」

 

 

 

 左腕が使えればなんて弱音を吐いた自分にキョウコは恥じた。左腕が使えなかったからこそ右腕を誰にも負けないと言い切れる域にまで鍛え上げられたのだ。

 

 ───────私の右腕はジャブだけで相手を倒せる

 

 レフェリーがキョウコの体を引き剥がし、試合を仕切り直しさせた。再開と同時にジャブをヒットさせたのは薫だった。

 

 薫のジャブがキョウコの顔面に何度も突き刺さり、確実にキョウコの体力を奪い取る。

 

 体が思うように反応しなかった。

 

 ジャブを出したくてももはや体がままならないのだった。闘争心を裏切る自分の体にキョウコは苛立ちとダメージを募らせる。

 

 やがて右フックからまためった打ちが始まり、キョウコの頭が右に左に吹き飛ぶ。唾液やら血やらと液体が激しく振り撒き、悲壮な醜態を大勢の観客の前に晒し上げる。

 

 またもゴングがキョウコを救った。

 

ラッシュが止まったと同時にキョウコは両腕を垂らし、ロープに体をもたらせた。照明の光が身動き取れずグロッギーとなっているキョウコの痣だらけの体を照らす。

 

薫が青コーナーに戻っていくとレフェリーがキョウコの容態を訊いた。

 

「まだやれるのか?」

 

「ぶふぅ・・ばだ・やればす・・ぶふぅ・」

 

 鼻血で息をするのさえ困難になっており、喋るどころか正確な発音さえままならなくなっていた。さらにはキョウコの顔面は赤紫色に腫れ上がり、醜く崩壊している。キョウコの悲壮な姿にはレフェリーも顔色を青白くさせた。もはや、キョウコは立ってることも喋ることも自由にできないノックアウト負け間近のボクサーでしかない。

 

 それでも一人でコーナーへと帰っていったのはボクサーとしてのキョウコの意地だった。

 

 

 

 

 

第12話

 

 

 

 前のインターバルと同様、薫は椅子に倒れ込むように座るとすぐにコーナーポストに体を預けて目を瞑った。

 

 そのまま眠りについてしまうのではないかというくらい疲れ切った表情でぐったりとしている。試合の主導権は薫が支配していても体力はもう限界まできている。第3R中盤から第4Rまで薫はパンチを打ち続けていたのだから腕を上げるのさえ辛いのではないか。

 

英三は紫に変色した薫の顔にべたりと付く汗を白いタオルで優しく拭き取る。頬のあたり拭いていると薫が目を開けてこちらを見つめた。

 

 英三はタオルを離す。

 

 「どうした?」

 

 「あれだけパンチを当ててるのに倒れないよ・・」

 

 薫の右拳を持ち上げて見つめた。

 

 「オレのパンチじゃ駄目なのかな・・」

 

 弱々しい表情に弱々しい声だった。

 

 薫が自身のパンチ力に自信を持てなくなっている。第3R中盤から第4Rまでの約3分間相手の顔面にパンチを打ち込み続けた。その数は50発をゆうに超えているだろうに未だダウンすら奪えていないのだから自信を喪失するのも無理のないことなのかもしれない。

 

 けれど、もう少しでキョウコは倒れるのだ。あと少しだというのに気落ちしている薫に英三は少しばかり苛立った。

 

 右腕をがっちりと握り薫は拳から視線を外さない。

 

「そこまでパンチ力にこだわる必要があるのか?薫のボクシングはスピードとテクニックだろ?」

 

「英三は倒し屋専門だから分からないんだ。ダウンするのがどんなに悔しいことなのか。オレだって・・」

 

 悔しさを噛み絞めた表情だ。

 

 すでに薫はキョウコによって2度もダウンさせられている。いや、薫のダウン経験はそれだけではないことを英三は思い出した。睦月との試合で薫は一つのダウンさえも奪えず、同じ時間の中で一人だけ五回ものダウンを奪われた。だから、薫はパワー不足を補うためにこの数ヶ月間筋力トレーニングを積んできたのだと英三は今になって気が付いた。

 

薫はキャンバスに這いつくばるという耐え難い屈辱を何度となく味わってきた。キャンバスに倒されるたび、7年間築き上げてきたボクシングへの自信を壊されてきた。

 

 薫はダウンを欲しがっている。自信を欲しがっている。  

 

 気落ちしていても薫の闘争心は尽きていない。

 

ただ一つ危惧しているのがダウンへの焦りが生む最悪の結末だ。

 

「薫、焦るなよ。相手の顔見ろよ。ボッコボコだろ。効いてるんだよ、薫のパンチは」

 

 英三は声をかけ、落ち着かせようとした。

 

 「薫、大振りだけは禁物だぞ。小さく、コンパクトに基本を守るんだ」

 

 親父も指示を出す。

 

 薫は声に出さずに頷いた。その顔はまた闘志に満ちた表情に戻っている。

 

 

 

第5Rが始まり、開始早々に薫がキョウコを捕らえた。キョウコのジャブを避けるタイミングを薫は完全にモノにしている。あとは、連打で打ち倒すのみ。

 

 薫がラッシュをかけた。両腕の壁を作るキョウコだが、徐々にガードが甘くなり薫のパンチが当たり始める。

 

 やがて、ガードはガードをなさなくなり、飾りとなった両腕を弾き飛ばし薫がパンチを当てていく。

 

 薫が何度となくパンチを当てた。サンドバッグと化したキョウコをひたすら殴りつける。片腕のボクサー相手に非情の連打を浴びせ、相手は顔から血を壮絶な量噴き上げていく。

 

 それでもキョウコは倒れない。だが、倒す以前にここまで一方的な展開が続いてはレフェリーが試合を止めるのではないだろうかと英三は期待を抱いた。

 

 キョウコに逆転の芽はもうないだろうし、ふらつき方も危ない。

 

 同じペースでパンチを放っていけばダウンを奪うにしろ、レフェリーストップにしろ結末はどうあれ薫のKO勝ちは時間の問題だ。

 

 レフェリーがついに動いた。キョウコが両腕をだらりと下げたのだ。薫はさらにパンチを打ち込んでいく。

 

次の瞬間には試合は終了を迎える。

 

そう誰もが思っていた。

 

薫のTKO勝利だと。

 

誰も次の展開を予測できた者などいなかった。

 

戦慄の光景を作り上げるキョウコを除いては。

 

 グッグワシャアァッ!!

 

 重い音が重なり合って場内を響き渡る。

 

 レフェリーが足を止め、キョウコの顔を見た後で薫の顔を見る。

 

 英三も同じだった。キョウコの顔を見た後に薫の顔に目を向ける。

 

 そして、言葉を失った。

 

 「あがががっ」

 

 声にならない声を吐き出し体を震わす薫がいる。

 

 薫の勝利を信じていた英三にとってそれは悪夢といえる光景だった。とどめを刺そうとしていた薫がグロッギーな姿にさせられているのだ。

 

薫とキョウコの交錯したパンチは十字を作り相打ちを生んでいる。

 

 二人のパンチがお互い相手の顔面に決まっている。それなのに闘争心に満ち溢れたキョウコの視線に薫は反応すら出来ずグロッギーとなった顔を相手に晒し、つまりは完全に打ち負けていた。

 

とても相討ちとは言い難い威力の差。

 

苦痛に顔を歪め、体をぷるぷると震わせているのは薫だけ。

 

薫はキョウコの体にパンチの雨を浴びせレフェリーストップを呼び起こそうとしていた。実際にレフェリーは試合を止めようとしていた。

 

しかし、薫の勝利が確定しようとしたまさにその瞬間にキョウコの起死回生となるクロスカウンターが薫の頬を打ち砕いた。

 

結末はそれである。

 

「ぶわはあぁっ!!」

 

 薫の歪み切った口からマウスピースが吐き出された。静まりかえった場内の中、血の降り注がれる音と供にキャンバスの上を跳ねて転がった。

 

グロッギーとなっているのが薫だけならマウスピースを吐き出したのも薫だけ。

 

薫だけがキャンバスの上を血に染めて、キャンバスの上をふらつき、薫だけがキャンバスの上に力尽きた。

 

 

 

 

 

 

 

第13話

 

 

 

 スパーリングでノックアウトされた時も一方的に攻めときながら最後の最後でクロスカウンターの相討ちを受けて薫は逆転KOをされた。スパーリングの時と全く同じである。クロスカウンターはお互いがダメージを食らうはずなのに倒れるのはいつも薫だけだ。薫のパンチ力はたった一発の相討ちで試合をひっくり返されるほど貧弱だというのか。

 

 相討ちに打ち負けた薫は尻餅を突くようにキャンバスに崩れ落ちスイッチの切れた玩具のように微動だにしなかった。背中を丸めだらりと下げた両腕も頭が傾いて何も捕らえてない瞳も薫のなにもかもがキョウコのパンチによって壊されてしまったかのような姿だった。  

 

レフェリーのカウントが開始されようとした頃、薫の体がようやく動く。

 

しかし、それは立とうとする意思ではなく完全なる屈服だった。薫の体は後ろへと崩れ落ちた。両腕と股を広げて、リングの中央に大の字となる。口元と目元が弛緩しきった薫の顔は昇天しているかのようなしまりのない顔だった。薫の体が苦痛を超えて快楽が襲っているのだとしたら、もはや薫が立つ可能性はゼロに等しい。体が麻痺し自由を奪われているからだ。それ以前に意識すら断たれていることだって充分にありうる。むしろ、失神していると考えるほうが妥当だ。

 

 カウントが3となっても薫は身動き一つ取れなかった。

 

その光景はあまりに残酷だった。

 

一人の女性が変わり果てた顔面を大勢の観客の前でさらしたまま動くことさえ出来ない。十秒の間惨めな姿を晒し続けなければならない。

 

セコンドがタオルを投げないかぎり。

 

英三は目を細め切なげな顔をしてリングを見つめる。心臓を鷲掴みされたかのような息苦しさが英三を襲う。

 

大の字となったままぴくりともしない打ちのめされた薫の姿が世界戦で派手に散った親父と被るのだ。

 

怖い世界だった。

 

弱すぎた敗者は惨めに打ち負けた姿を晒さなければならない。

 

だから、言えなかった。まだ子供だった英三は震え上がりキャンバスに沈んだ親父に力を与えてやることができなかった。

 

 でも、今は言わなければ。

 

 もう後悔なんてしたくはない。

 

 英三は大声で薫の名前を叫ぶ。

 

立て薫!!!

 

立つんだ薫!!

 

いったい何度薫の名前を呼んだだろう。緊迫の糸が張り巡らされ静寂した場内に響く音はレフェリーのカウントと英三と親父の叫びだけだ。

 

 薫は打ちのめされた姿のままであり、いくら英三が叫ぼうが薫が大の字になって打ちのめされている現実を動かせやしない。むしろ、青コーナー陣営の悲壮感、ひいては薫の悲壮感を増長させている。

 

しかし、叫ぶことしか出来ないのなら叫ぶしかないのだ。

 

 声が薫に届いてないとしても英三は何度も叫ぶ。

 

 薫の左腕が持ち上がった。ゆっくりと反動を効かせてうつ伏せへと体勢を変えた。両腕で体を支えて上体を持ち上げようとする。カウントは5。

 

 英三は叫ぶ。薫は歯を食い縛って力を振り絞る。

 

 レフェリーがカウントを9数えたところで止めた。薫は立ち上がったのだ。ファイティングポーズを取る薫の顔はとろんとし、クロスカウンターを受けた左の頬は瘤となって赤紫色にぷっくらと大きく脹らんでいる。

 

薫が立っているだけで奇跡だといえた。薫はファイティングポーズを取るので精一杯で、試合再開後動いたのはキョウコだけだ。

 

 薫のパンチの射程外からキョウコは右のジャブを放ち、形だけのガードでしかない両腕をいとも簡単に貫きパンチが顔面にめり込んだ。

 

 ジャブは一発では止まらない。そこから2発、3発、4発と続けて発射されその全てが薫の顔面へとめり込む。 

 

 5発、6発、7発。

 

 薫の頭は右に左に良い様に飛ばされ、拳圧で豚のように歪み続けるその顔面からは血飛沫やら汗飛沫やら、唾液やらあらゆる液体が霧上に噴かれ舞う。

 

 ドボッ!!グシャっ!!グシャアァッ!!

 

 ジャブだというのに打撃音が次第に骨を砕くかのような鈍さにまで増す。もはやキョウコの放つジャブはストレートと化していた。  

 

 「ぶぼっ!!ぶぼぉっ!!ぶぼぉぉぉっ!!」

 

 薫の呻き声も打撃音に呼応するように苦しみが増している。顔面は血に塗れて、痣だらけとなった異様な形に変形している顔面は瞳の輝きさえ閉ざされようとしている。

 

 ブシュウッ!!

 

 薫の顔面の真ん中に突き刺さったキョウコの右拳が薫の顔から鼻血のシャワーを噴き上がらせた。

 

 口が開き、目は何も捕えてやしない。

 

 意識を失った薫が前のめりに崩れ落ちていく。薫の倒れゆく儚げな姿が何もかもの終わりを告げている。

 

 しかし、フィニッシュブローはまだ放たれていなかったのだ。

 

 崩れ落ちてくる薫の顔面へキョウコの非情な一撃がぶち込まれ、薫の体を逆に後ろへと吹き飛ばした。

 

 キョウコのアッパーカットに薫の両足はキャンバスから離れて宙を舞った。薫は背中からキャンバスに落ち再び大の字となって打ちのめされている。

 

 僅かな希望もすぐさまに砕かれ、英三は力が抜けていき両膝をつき、下を向いた。親父のタオルを投げる姿が目に入る。

 

 英三はリングへと顔を向けて最後の瞬間を見つめることにした。その瞬間に反射的に投げられたタオルを英三は掴んでいた。

 

 薫が立ち上がろうとしているのだ。

 

 クロスカウンターから立ち上がった時が奇跡だったのではなかった。奇跡は今この瞬間なのだ。

 

 薫が立った。それだけでもう英三には充分だった。原型を留めていない顔、止まらない鼻血、くしゃくしゃになった髪形。何を考えているのかさえ読み取れなくなった奪われた顔の表情。これ以上闘わせるのはもう無理だ。

 

次、殴られたら今度こそタオルを投げようと英三は決意をする。

 

試合が再開され、予測どおり、動いたのはキョウコだけで立ち尽くしている薫の顔面に問答無用の右ストレートを放った。後ろはロープ。薫に逃げ道はない。

 

キョウコのパンチに薫の左腕が動いた。二人の拳が交錯し、お互いにパンチが決まる。クロスカウンターの相討ちは薫が最後に見せた意地だった。

 

しかし、相討ちではパンチ力の無い薫には分が悪い。しかも、今回は薫がノックアウトされる寸前まで打たれていたのだ。

 

「ぶぼおぉっ!!」

 

 薫の口からマウスピースが吐き出され、リング上を跳ねた。薫が前のめりに崩れ落ちていく。

 

 薫の体がキャンバスに触れた瞬間に試合は自動的に終了となる。薫のダウンは3度目になるからだ。

 

 崩れ落ちた音が響いた。

 

 レフェリーが確認し、カウントを取る。

 

 倒れたのはキョウコの方だった。薫は両足で踏ん張り止まっていた。薫がゆっくりと青コーナーに辿り着き、背中をコーナーにポストにもたらせた。

 

 英三は呆然とした表情をしていた。薫が相討ちに打ち勝てたことに納得のいく説明がつかない。

 

薫が打ち勝てたのも奇跡の一つなのか?

 

 「奇跡じゃない。パンチに耐えることにおいて重要なのは予測だ」

 

 親父の声に英三が反応する。振り向いた英三に親父が目を合わせる。

 

 「声が漏れてたぞ」

 

 そう言って親父はリングへまた顔を戻す。

 

「パンチが当たると覚悟していれば力を入れて衝撃にこらえることができる。逆に予測していなかったパンチは威力に抵抗できずに脳が揺らされることになる。結果的に二人がパンチを食らう結末になっても相討ちを仕掛けた方と相討ちに持ち込まれた方とでは食らうダメージに差が出るということだ」

 

 親父の言うことが正しいのなら薫にパンチ力が無いわけではない。相討ちで倒されていたのは相手の罠にははまったから。そして、今は逆に相手を罠にはめてダウンを奪ったということだ。

 

 しかも、2試合目にして薫がプロのリングで初めて奪った待望のダウンだった。

 

 このまま寝ててくれと祈るも、キョウコは立ち上がってきた。

 

 最後になるだろう攻防が始まった。

 

 薫だけでなく、キョウコの足もスピードがなくなっている。泥酔者のようにふらふらと頼りない足つきで距離を詰めた二人が拳を振った。薫のパンチは闘争本能に任せたかの大きな振りを作る。闘争本能だけが反応をしていたのはキョウコも同じだった。体が前に突っかかりながらガムシャラと言っていい大振りのパンチを打って出る。

 

 お互い相手に勝ちたい気持ちだけで放ったパンチが交わった次の瞬間、キョウコのパンチが振り抜かれて、薫が吹き飛ばされていた。

 

 英三は口を大きく開けていた。頭が真っ白になりながら青コーナーに戻ってくる薫の背中を目で追った。

 

 コーナーポストに体がぶつかり、またも滅多打ちが開始されるのだった。薫のパンチの射程外からジャブが何度となく薫の顔面を打ち抜いた。

 

バシィッ!!バシィッ!!

 

 脅威的なスピードだったキョウコのジャブは今や見る影もなくなっているというのに、それでも薫は避けることが出来ずに百発百中でジャブをもらい口から苦悶の声を漏らす。

 

 13発目のジャブが薫の顔面を打ち抜いた時、鈍い音が響くと同時に一斉に鼻血が激しく噴き出た。

 

 ブシュウッ!!

 

 パンチの威力にとうとう耐え切れずに薫は両腕をだらりと下げて前のめりに崩れ落ちていく。血を撒きちらしながら散っていく薫にたいし、キョウコが取った行動が英三の青白い顔色をさらに悪化させた。

 

 とどめのとどめになるアッパーカットが薫の顔面を襲う。

 

 「やめろ!!!」

 

 英三の声に止まるはずもなく、キョウコのアッパーカットが薫の顔面に当たった。しかし、英三の声に反応したボクサーが一人いた。

 

 それは薫だ。

 

意識を取り戻した薫が両腕で受け止めていたのだ。薫は右のパンチを振り抜いた。キョウコの頬にぶち込まれ口元を醜く歪ませた。

 

 グワシャアッ!!

 

 「ぶへえぇっ!!」

 

 醜悪な表情から出た醜悪な声が響くと、口から飛び出たマウスピースと仲良くキョウコの体は宙に舞っていた。

 

 キョウコを吹き飛ばしたパンチは力強さに満ち溢れていた。薫が強く欲していた相手の意識さえも断ち切るだろう強烈な一撃。

 

長い滞空時間の後にキョウコが背中からキャンバスに落ちた。

 

 大の字となったキョウコはぴくぴくと震えて身動き一つ取れない。

 

 レフェリーが身を屈めてキャンバスに血反吐をぶちまいているキョウコの顔を見つめる。カウントを数え始めるものの三つ数えたところで両腕を交差して試合を止めた。

 

 ゴングが3度続けて打ち鳴らされこの瞬間、薫のプロ初勝利が決まったのだった。

 

 

 

 

 英三はリングへと入った。

 

 薫が体をくるりと赤コーナーへと向けた。喜びの零れた笑みを英三達に送る。

 

 力尽きたように薫が前へ崩れ落ちる。咄嗟にダッシュした英三は薫の体を抱き止めた。

 

 「やったよ・・英三・・」

 

 英三の胸元で薫は目を瞑って呟いていた。

 

 「ああ。薫の勝利だ」

 

 薫から反応はない。体の方も力がまったく伝わってこない。

 

「薫!!」

 

 

 

 

 

最終話

 

 

 

Epilogue

 

 

 

 薫はにやけた顔でテレビを見ていた。見ているといっても内容はほとんど頭に入っていないに違いない。初勝利の味に今も酔っているのだ、きっと。

 

英三が御見舞いに病室へと訪れた後、薫は体を前に乗り出して機関銃のごとく勢いで昨日の激戦を熱く語り始めた。試合で味わった苦しみや初勝利を得た喜び。要は自慢話というやつだが、ボクシングを熱く語る薫の顔は良い表情ではあった。

 

薫は一通り喋り終えると前のめりになっていた体をまた壁に預けた。昨日のも疲れもまだ残っているのだろう。何百発とパンチを受けた薫の顔面は昨日以上に腫れが酷くなり、瞼も頬もぱんぱんに腫れあがり、湿布と絆創膏があちらこちらに貼られている。

 

 それでも体はどこも異常がなく、大きな白い絆創膏が貼られ見てるだけで痛々しい鼻も骨は折れていなかった。明日には退院もできることになっている。

 

 薫のにやけた顔がぽかんと口を開くようになり、途端すぐに眉が釣り上がった。

 

 英三は後ろを振り向く。そこには和泉キョウコの姿があった。

 

 薫同様に腫れ上がったその顔は試合の時と変わらず厳しいものだった。

 

 「体は大丈夫でしたか?」

 

 「大事にはなってないよ。そっちこそどうなの?」

 

 「ご心配なく」

 

 「そう・・」

 

 それで二人の会話は止まった。重い空気に英三は早くも息が詰まりそうになった。

 

 またキョウコが切り出した。

 

 「私はこれまでに6人のボクサーをKOしました。昨日の試合あなたには私が倒してきたどの相手よりも遥かに多くのパンチをその体に打ち込んだつもりです。それなのにあなたは何度も立ち上がってきた。あなたを立ち上がらせるものとは何なのですか?」

 

 「昨日の試合が自分にとって最後の試合になるかもしれなかった。次があるなんて保障はないだろ、特に女子ボクサーは。そう考えたら簡単には負けられないよ。一戦一戦を悔いのない試合にしなきゃ」

 

 「私は思い違いをしていたようです。あなたのことを2世ボクサーだからと苦労を知らない温室育ちの人間だと決め付けていた。しかし、あなたと私は似た者同士なのかもしれない・・・」

 

 キョウコは頭を下げた。

 

「私はあなたにお詫びしなければならない」

 

 「頭上げてよ」

 

 薫の言葉にキョウコは反応し二人は再び対面した。試合の時のような緊張感がお互いの顔に含んでいる。

 

 「オレだって和泉が譲れない思いを胸に秘めて試合に挑んでいたことは分かってた。パンチを当てても当ててもなかなか倒れてくれない。逆にちょっとでも気を抜くとこっちがダウンを奪われてた。あれだけの打ち合いをしたんだ。試合の途中から憎い気持ちなんてどうでもよくなってたよ」

 

 薫が壁に寄りかけていた体を立てた。

 

 「だから、さっ」

 

 薫は右手を差し出した。

 

 「試合の後はこれだよね」

 

 と言って笑みを浮かべた。

 

キョウコの氷のような表情が熔け、笑顔がこぼれる。キョウコの右手も右手を差し出した。

 

 薫とキョウコはがっちりと握手をする。

 

 

 


 薫が手を離した。

 

 「左拳の状態は?」

 

 「これですか」

 

 キョウコが左手を顔の前に持ってきた。

 

「御承知のとおり、使い物になりません。今後も試合で使うことはないでしょう。それでも、私はリングに上がり続けます。片手しか使えないからといってチャンピオンになれないと思ったことは一度もない」

 

「ボクシングが好きなんだね」

 

 キョウコは表情を忘れた。ふっと笑う。

 

 「人から聞かれたのは初めてです。意識したこともなかったですね。ただ・・」

 

 キョウコが背中を向けた。

 

 「ボクシングを続けるにおいてもっとも大切な思いなのかもしれませんね。では私はこれで失礼します。お大事に」

 

 キョウコはそう言い残して病室を出た。

 

 薫の方を見てみると充実した表情に変わっていた。

 

 「左手が使えないのにボクシングするんだもん。すごい奴だよ」

 

 「そうだな」

 

 「初めは憎らしい奴だと思ってたけど、闘えて良かったよ。それと」

 

 薫が英三の方に顔を向けた。

 

 「英三にも感謝してるよ」

 

 「なんだよ急に」

 

 「立てっ!!!!」

 

 薫が大声で叫んだ。突然のことに英三はびくっと心臓が跳ねた。動揺した英三の顔を見て薫は嬉しそうに笑った。

 

「って叫んでくれたろ。何度もさ。英三の声が聞こえてなかったら立ててなかったよ。あの時、意識が朦朧としててほとんどなかった。夢の世界から英三の声がオレを引っ張り出してくれたんだ」

 

 「大げさな奴だな」

 

 「ホントだって英三。それから、和泉がとどめで出したアッパーカット。あれも英三の声がなかったら気付けてなかった。あの時も恥ずかしいけど、意識が飛んでたんだ」

 

英三は頭を掻く。そうしながら感謝して嬉しそうに喋る薫の腫れ上がったアンバランスな顔をちらりと見つめ英三は複雑な表情を浮かべた。

 

 身近な人間がリング上でボコボコにされる姿を見ることほど辛いものもない。親父が現役時代に体験し、そして、薫がプロボクサーになり再び味わうはめになった。

 

 ただ、当時と違うことが一つだけある。

 

 親父の試合は観客として見守ることしかできなかった。リングが遠い存在だった。しかし、今はセコンドとして薫の側にいてやれる。声を出して少しでも力になってやれるのだ。

 

 英三は唇をすぼめた。

 

 「またセコンドについてやるか」

 

 「英三・・・」

 

 薫が英三の顔を見つめる。眉が下がり、顔が汐らしくなっていく。

 

 と思ったのは気のせいだった。

 

薫は胸を張って言った。

 

 「何言ってんだよ。当たり前だろ」

 

肩透かしを食らったような気分だ。

 

 「そうなのか」

 

 「世界チャンピオンになるまでずっとね」 

 

 「ながっ」

 

 「目標はでかくないとね。英三だって世界チャンピオン目指してるんだろ」

 

 自分は世界チャンピオンを目指しているのだろうか?

 

 薫の言葉に英三は真面目に考えた。前も薫に同じことを聞かれいい加減に頷いた。しかし、今は僅かな可能性に賭けてみるのも悪くない気がした。無謀だと思われた試合に勝った奴が目の前にいるのだから。

 

 「そんなところだなぁ」

 

 少し間を空けて英三は続けた。

 

 「なあ前に夢があるって言ったろ。あれって世界チャンピオンになることか?」

 

 「それもあるんだけどね。女子ボクシングをメジャーな競技として世間から認知されたいんだ。リングに上がりたくても上がれない悔しい思いは自分たちだけで十分だからね。そのために少しでも自分が頑張れたらって思ってるんだ」

 

 「良い心がけだね」

 

 年のいった女性の言葉に英三は病室の入口を振り向いた。

 

 日本ボクシング協会会長の下山媛子と下山睦月が立っていた。英三も薫も暫しの間ぽかんとしていた。キョウコそうだったが、この二人も意外といっていい来客であった。

 

「薫さんおめでとう」

 

睦月も痣が多少残っており左の瞼の上に絆創膏を張っているとはいえその柔らかい笑顔はまさに祝福に相応しいものがあった。辛気臭い病室の中だからこそ余計に眩しく感じられる。

 

「睦月こそおめでとう。すごい勝利だったって聞いてるよ」

 

「薫さんほどじゃないよ」

 

謙遜をした態度をみせる睦月だが、昨日の試合当人は5RでKO勝利を奪った。お互いがハードパンチャー同士で息の詰まる殴り合いだったらしい。序盤は手数で互角もパンチ力の差が出始めた3R以降、相手の選手は睦月のサンドバッグとなり下がりボコボコに打ちのめされたとは親父から聞いた話である。

 

 英三は椅子を二人に差し出して、媛子と睦月が椅子に座った。

 

 「睦月っ、一つ確認しておきたいことがあるんだ」

 

「なに薫さん?」

 

「オレ達が試合をした週に発売された雑誌のインタビューでまたオレと試合をしたいと言ったよね」

 

 薫の送る目線に睦月は頷く。

 

「その記事を見たとき、すごく嬉しかったんだ。でも、本気に受け止めちゃっていいのか?」

 

 「もちろん、そのつもりで受け止めてもらわないと」

 

 睦月はにこっと笑う。薫はそれには応えず頭を下げた。両手でシーツを握り締めている。

 

 「理由をさ・・教えて欲しいんだ。あの試合はっきりいってオレの完敗だったよ。オレはダウンを五度もしたのに睦月は最後まで立ち続けていた。決着は完全についたと思う。もちろん、オレはもう一度睦月と試合をして今度こそ勝ちたいと思ってるよ。でも、睦月にしたらそこまでオレにこだわる理由が分からないんだ。勝者は前へ進むもんじゃないか」

 

 「数字だけ見たらそうかもしれないけど、でも、あたしはシフトウィービングを破っていないから。もし、10R制で薫さんが強引に打ち合いにこなかったらまた違った結末になってたかもしれない。あたしはシフトウィービングを破って薫さんに勝ちたいんだよ」

 

 「そっか・・シフトウィービングかあ」

 

薫が顔を上げた。

 

「あれは親父のテクニックなんだ。だから、ちょっとやそっとじゃ破らせないよ」

 

 薫が笑顔を返した。

 

 「お父さんの・・・。それを聞いてなおさら、破りたくなってきた」

 

 「再戦の日までにシフトウィービングにもっと磨けをかけるよ。もっともっとボクサーとして成長するよ絶対に」

 

 「今度は8回戦じゃなくて10回戦で試合をしたいな。ベルトを賭けて」

 

 「いいね、それ。タイトルマッチじゃ負けないよ」

 

 「ううん、次もあたしが勝つ」

 

 「盛り上がってるね、2人とも」

 

 媛子は満足そうに言った。

 

 「二人とも良い勝利だったよ。また次の試合も期待してるよ」

 

 恐縮して薫は頭を下げた。

 

 「さてと、例の約束は覚えているかい?」

 

 薫はこくりと頷いた。

 

 「試合に勝てたら女子ボクシング協会を作ろうとした経緯を教えてくれる、ですね」 

 

媛子が頭を下げて頷きを見せる。戻された顔からはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 

「戦後間もない頃の話さね」