翠がサンドバッグを小気味よく叩いているとストップウォッチがビビビッと鳴った。揺れ動いていたサンドバッグを両手で止め、ふぅっと深く息を吐き出す。ストップウォッチを手に取ってその場を離れる。ストップウォッチは2分ごとに鳴るようにセットされている。一分の休憩を取っての計六セットのサンドバッグ打ち。それは翠の次の試合の6Rを想定したものだった。壁の長椅子に置いておいたタオルを手に取って顔から水玉のように噴き出る汗を拭き取る。拭ってはまた流れ出てくる汗を何度も取ってようやく落ち着いた頃、翠はジムの風景を見渡し、ジムの端にある別の長椅子に座っているミキオを見つけた。ミキオは携帯電話を両手で持ってまじまじと画面に見入っているようだった。

 

 なんだろう……。

 

 汗とワセリンとマツヤニの匂いがするボクシングジムに不釣り合いなミキオの姿に翠は何気なく近づいて行った。

 

「ミキオ君何見てるの?」  

 

 翠がそう話しかけるのと携帯電話の画面を見るのはほぼ同時だった。横から携帯電話の画面を見た翠は奪い取り「なっ何よこれっ!」と大声を張り上げる。

 

 携帯電話の画面には由香の姿が映っていた。翠の次の試合の対戦相手だ。あろうことか敵のバストアップの顔写真をじっと見てるなんて。翠はきっとミキオの顔を睨みつけた。

 

「なに鼻の穴を伸ばして見てるのよ、この裏切り者ぉぉっ!!」  

 

 ものすごい剣幕の翠にミキオは気圧されながらも、

「ちょっと待てっ、なっ」  

 と両手を前に出してなだめ、

「ちゃんとページを読もうぜ、なっ」  

 と言った。  

 

 翠はむすっとしたまま画面をもう一度見る。人差し指でページをスクロールさせると、由香の大きなバストアップの写真の下には文章が書かれていた。どうやらこれはスポーツニュースサイトの記事のようだった。記事の内容は次戦に向けたインタビューが主だ。つまり翠との試合に向けた抱負を語っている。しかし、その内容は翠にとって読んでいて気持ち良いものではなかった。「負ける気はしない」「彼女が相手だからっていつもと変わったことは特にしていない」といった強気なコメントが並び、丁寧語で答えているものの、翠は眼中にないと言っているようなものであった。翠は最後まで読むのを止めて無言で携帯電話をミキオに返した。さっきまでの威勢は消え翠は下を向き、表情には陰が射していた。  

 

 由香とは元ジムメートであった。記事も二人の関係を踏まえて、翠についての質問を何度もしていたが、由香の返事はどれも元ジムメートという配慮がまったく見受けられないものであった。この場合、元ジムメートのよしみから嘘でもよいから相手の強さを上げる、警戒しているといった旨の言葉を言うものである。女子選手ならなおさらだし、由香はビッグマウスを売りとしている選手でもない。それだけにこの記事の由香のコメントがボクシング関係の者なら違和感を覚え、翠にとっては心を揺さぶらすものであった。  

 

 何よ、何もここまで言わなくたっていいじゃない……。  

 

 翠が下を向いたままでいると、

 

「なぁ…お前ら何かあったのか……?」  

 

 ミキオが慎重な物言いで尋ねた。

 

「言いたくない」  

 

 翠はミキオに目を合わせずに顔を背けて言う。

 

「やっぱり何かあったんだな」  

 とミキオは再度尋ねるが、

「だから言いたくない」  

 翠は相変わらず顔を背けたまま拗ねたように言う。

「そうかっまぁ無理にとは言わないけどさっ……」  

 ミキオがそう言って、二人の間に暫くの沈黙が出来ると、

「やっぱり言う……」  

 と翠は下を向いたままであるもののようやく思いを打ち明けようとした。

 

「おしっ聞くから言ってみろ」  

 

 ミキオはそんな空気を吹き飛ばそうと元気よく言ったが、翠はそれから黙ったままであった。翠が話し始めたのはそれから二分の沈黙が経ってからだった。

 

 それは二年前に話は遡る。その頃、翠は前のジムの芦沢ボクシングジムに入門して一年が経とうとしていた。プロ志望だった翠は週に六日のペースで練習に出ていてその熱心な姿が認められたのかある日ジムの会長がスパーリング大会への参加の話を持ちかけた。翠は二つ返事で「やります!」と言ったのだが、そこに偶然近くでシャドーボクシングをしていた由香も「あたしも参加していいですか?」と聞いてきたのだった。

 

 会長は後頭部に手を当てながら「気持ちは嬉しいがスパーリング大会は一つのジムで一人までなんだよ」と温和に言った。会長が断った時点で普通であればそこで話は終わる。しかし、由香は「だったらあたしか翠ちゃんのどちらかが出れるってことですよね」と諦めようとはしなかった。会長はまいったなといった素振りで軽く首を捻った。

 

 由香は翠と同い年の17歳だったが、ジムへの入門は翠より半年遅くプロコースでの練習にいたってはまだ一ヶ月しか経っていない。入門早々にプロコースに切り替えた翠とでは10カ月以上の開きがある。翠は一通りの基本的なパンチの技術を身に付けスパーリングもしているのに対して、由香はジャブとストレートしかパンチは本格的に教えてもらっていない。もちろんスパーリングの経験などなかった。まだそのレベルの由香を他所のジムの選手とのスパーリング大会に出せるわけもなく、会長は「由香はまだスパーリングもしてないしなぁ」と諭すように言った。しかしそれでも由香は納得がいかない様子で「じゃあ翠ちゃんとスパーリングして会長が決めるのはいかがですか? それならあたし納得します」と言うのだった。

 

 それまであくまで温和な表情で対応していた会長も由香のこの我儘な要望には真面目な顔で「いやいや、それはダメだ」ときっぱりと跳ね除けた。会長の態度の変化にも由香は不服そうに「えぇっ」とまだ諦めずにいたが、会長は「ダメなものはダメだ」と強く断った。それで流石に由香も口を噤んだが、その唇をすぼめていて不満を露わにしていた。

 

 そんな由香の態度を間近で見ていた翠は、彼女がボクシングを舐めているように受け取り、「会長、いいですよあたしは。スパーリングして勝った方が大会に出るで」と言った。翠の言葉に初めは「ダメだ」と断っていた会長だったが、翠だけでなく由香も「やらせくださいよ」と言ってきたものだから、最後はやれやれといった風に首を横に振りながら「分かった分かった」と根負けした。  

 

 ルールは2分3R。ボクシンググローブのサイズは試合用より大きい10オンスだったが、ヘッドギアはなしだった。  

 

 スパーリングが始まると、大方の予想を裏切り由香が善戦し、二人のパンチは同じくらいヒットし、互角に打ち合った。左ジャブとストレートを主に打ち放つ中間距離でもフックやアッパーカットで攻め立てる近距離でも二人は打っては打たれてというまだまだ拙い技術の攻防をしていた。

 

 2Rが終わり、翠も由香も自軍のコーナーでスツールに座りはぁはぁと息を大きく荒げて身体を休ませた。由香はもちろん翠にとっても勝敗を競う真剣なスパーリングは初めての経験だった。技術の向上のためのスパーリングとは疲労の度合いが全然違い、わずか2Rだというのに疲労いっぱいに顔を歪ませる。翠も由香もヒットさせたパンチの数もダメージも差は見られなかった。当初の見立てと違い、これなら由香がスパーリングに出ても良いんじゃないかという考えが出てくるほどの由香の善戦ぶりであったが、しかし、スパーリングを始める前の由香の我儘な態度はやはり印象が悪く、互角なら経験が上の翠をスパーリング大会にという空気がやはり変わらずにあった。

 

 しかし、翠はプロコースに転向して一ヶ月の由香と互角の試合をしている現実に胸が張り裂けそうな悔しさを感じていて、次の3Rで絶対に差を見せるんだと意気込んでいた。試合前の余裕は吹き飛びなりふり構わずに大きく息を吸い込んでは吐いて体力を回復させようと努めている。

 

 そして、第3Rが開始されると、初めは中間距離からパンチを打ち合っていた二人はやがて闘志を剥き出しにした表情に変わっていき、距離も至近距離へと移り、足を止めての打ち合いを始めた。疲労困憊の中、感情を剥き出しにしてパンチを打っていく二人はもうガードさえ意味をなさず相手の顔面にパンチを打ち込んでいった。ただひたすらにパンチを出していき、どちらがより速くパンチを出せるかという意地の勝負になっていた。

 

 そして、翠と由香の右のフックがグシャッという音を立ててお互いの顔面に打ち込まれた。お互いに右腕が伸びきらずに相手の顔面に拳がめり込んでいる。翠も由香も顔が潰れ、顔とグローブの隙間から血がぽたぽたと垂れ落ちていく。しかし、身体を仰け反らせ相手のグローブから離れていったのは翠の方であった。意地と意地の打ち合いを制したのはまだフックもアッパーカットも教えられていない由香であり、そのまさかの展開にリングに目を向けていた者たちは思わず表情を硬直させた。しかし、信じがたい現実を見たジムの者たちはその直後、受け入れざるを得ない展開を目にする。後退する翠を由香は攻め立て、ロープを背負った翠にラッシュを打ち込んでいった。サンドバッグのように由香に滅多打ちされる翠の姿は人形のように打たれるがままでもう見てはいられなかったレフェリーが慌てて二人の間に割って入る。

 

 レフェリーが翠から由香を離すと、翠は頬も瞼もパンパンに腫れた顔面から鼻血をぽたぽたと垂れ流しながらその瞳は何も映さず無力な姿を晒しながら前に崩れ落ちていった。うつ伏せにキャンバスに這い、ボロボロに打ちのめされた翠の姿に、レフェリーは試合終了の合図も見せずに倒れている翠の身体を身に駆け寄った。元々勝敗を決めるという取り決めもせずにお互いの技術の確認をする意図で始められたスパーリングなのだから勝敗をきっちりと伝えずに終わったのは当然の流れではあるのだが、周りが心配で翠に目を向ける中、由香だけが「やったぁ!」と両腕を上げてガッツポーズをしてはしゃいでいるその光景は、逆にきちんとした試合形式で勝敗を付けた方がまだ良かったようにも目にする者の印象に残した。

 

 この後スパーリング大会に出られたのが由香であるのは言うまでもなく、由香にスパーリングでノックアウトされた翠はジムで再び練習する気持ちにもなれず、ジムを止めた。そして、3か月が経ち、またボクシングをやりたいという思いを持てるようになった頃、木田ボクシングジムに入門し直した。翠は以前と変わらずにプロ志望で練習を続け、やがてプロボクサーになった。

 

 一方の由香は翠が3か月ボクシングから離れていたこともあり、4カ月早くプロのリングに立ち、一足先にプロボクサーの道を進んでいた。由香も6戦6勝、翠も6戦6勝で無敗のままであり、そしてついに二人がプロのリングで再び拳を交えることになったのだ。  

 

 翠から由香との間に合った過去を知らされたミキオははじめ言葉を失って顔を硬直させていたが、

「そっか…、じゃあ、今度の試合は絶対に負けられないな」  

 と翠に力強く言った。  

 

 翠は「うん」とだけ言って小さく頷いた。由香との試合は翠にとってはリベンジマッチになるが、それでも翠はできるだけ平常心でいたかった。あくまで普通の試合として臨みたかった。だから、絶対に勝つとか誓いの宣言みたいな重い振舞いはしたくなかったけれど、ミキオの力強い振舞いは翠にとって嬉しかった。

 

「じゃあ、明日から朝のロードワークは一緒だな」  

 

 ミキオがそう言うと、翠は「へっ?」と声を漏らした。

 

「特訓だよ、特訓。朝の特訓。絶対に勝たなきゃだろ」

 

 翠はいやそれはっと一瞬思ったけれども、何が何でも由香に勝ちたい思いがすぐに心の奥底からがっと出てきて、

「わかった、特訓だね」  

 と頬を緩ませてミキオに言って握り拳を顔の前に掲げた。

 

 

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