白いスポーツブラ、青のショートパンツを着て計量に臨んだ翠は二年ぶりの由香との対面を果たした。上下、黒のセパレート水着を着ている由香の身体は隆々と膨らんだ筋肉を身に付けていて、二年前とは比べ物にならない鍛えられた肉体に変わっていた。しかし、それは翠にも言えることである。一回り太くなった両腕と両足、腹筋が見事に六つに割れたお腹、努力を積み重ねたその結晶が翠の身体を一段と逞しくさせている。  

 

 翠も由香も計量を一度目でパスすると、計量器具から降りた由香に翠が近寄り、

「明日はよろしくね」  

 と右手を差し出した。これはリベンジマッチじゃない。いつもと変わらない試合なんだという気持ちを形として表したかった翠は同時に由香の自分に対する気持ちを確認したいとも思っていた。  

 

 由香はにこやかに笑みを浮かべて、「もうジムは違うんだから、明日の試合の結果に恨みっこなしだよ」と顔を近づけて言った。由香の不敵な物言いに翠は思わず、「別に恨んでなんかないしっ」と言い返した。「翠に恨まれてないなら何よりだよ」と由香は再び頬を緩ませて言うが、どこか冷めた物言いに翠の肌が凍り付く感触を覚えた。翠が呆然としていると、由香が「じゃあね」と言って手を離して踵を返して離れて行く。  

 

 失礼なことは何も言われてないのに、だからこそ余計に自分が由香の興味の対象にまるでなってないようで、翠は唇を噛み締めた。  

 

 明日はリングの上であたしのことをちゃんと見つめさせてあげる。

 

 

 そして、試合の日を迎えた。第6試合のリングに翠と由香が上がると、観客のリングに向ける眼差しに真剣みが一気に増し、これまでの試合とは比べ物にならない程に場内の空気は緊張感が増した。セミロングの由香もショートカットの髪型の翠も童顔で可愛らしい顔をしていてそれでいて戦績は全戦全勝と実力も備えていて人気者であった。まだ日本ランカーでないもののその人気はランカーをも凌ぐ程高い。女子ボクシング注目のホープである二人の試合が組まれ、その二人が元同門であったことが雑誌やニュースサイトなどのメディアで大きく取り上げられると、この試合への注目度は俄然高まっていったのだった。  

 

 リングの上では赤コーナーに由香が立ち、青コーナーに翠が立っている。赤コーナーを由香に充てられたことから由香の方が格上という認識になるが、実際勝敗は同じであってもその中身は大きな開きがあった。由香は6勝のうち5KOであるのに対し翠は6勝のうち1KOである。これは翠の数字が女子として平均的であって、由香のKO率が桁違いに高いのであった。プロコースの指導を受けて一ヶ月で翠をスパーリングでKOしたその実力は非凡なものであったことを彼女はプロのリングでKOの山を築き証明したのだった。

 

 得意のパンチはアッパーカットであり、拳を突き上げて対戦相手をマットに沈めていくその力強い姿は愛くるしい顔との不釣り合いさも相まって観る者の心を奪い、雑誌やネットニュースなどのメディアで取り上げられることも少なくない。それに対して、翠の得意のパンチはボディブローであり、相手のパンチをかいくぐってこつこつとボディブローを当てていくそのスタイルは泥臭く、顔面が空きやすくなるその闘い方は相手のパンチを被弾することも多く勝っても僅差の判定勝ちであることが多いことから地味な印象は拭えない。そのために美形ボクサー同士で勝敗は同じであっても、実力でも人気の面でも由香の方が翠を一枚も二枚も上回っているといってよかった。  

 

 レフェリーに呼ばれ、翠と由香がリング中央へ向かって行く。二人は対峙すると、翠が闘志に満ちた目をぶつけるのに対して由香は涼し気な目線で翠の視線を受け止めていた。試合に敗れた者と勝った者の温度差が如実に表れた光景だったが、赤コーナー陣営でむしろ気になる表情をしていたのは、由香の隣に立つ芦沢ジムの会長の方だった。眉間に皺を寄せ翳りのある目で翠を見つめている。芦沢もまた翠と由香のスパーリングが行われたその場にいた一人であり、だからこそその後の由香のプロのリングでの快進撃を間近で目にした彼が二人の再戦を望む気持ちなど全く持ち合わせているはずもなかった。日本ボクシング協会からの要請だからやむを得ず受けたのであって、これが翠陣営からの要望であったならば間違いなく断っていただろう。しかし、選手同士がリングに上がってしまえば情は一切挟むことは出来ず、赤コーナーに戻ると、芦沢は由香に対して翠をマットに眠らせるべく非情な指示を送るのだった。  

 一方の青コーナーでは会長ではなくミキオが翠に指示を送っていた。この三週間、ミキオは自分の練習よりも翠の試合のためにトレーニングに付き合うことを優先してきた。由香の試合の映像を穴が開くほど繰り返し見ては対策を練り、スパーリングでは由香の動きを再現しようと努めてきた。この試合に限っていえば由香のボクシングを身体で理解しているミキオこそが作戦の指示を出すのに相応しく、ミキオ自身も率先してセコンド役に名乗りを上げた。  翠はミキオの指示に何度もうんと頷き、二人の間に選手とセコンドの信頼関係があるのが見て取れる。そんな翠にミキオは指示を伝え終えると最後に「絶対に勝ってこいよっ」と激励を送った。  

 

 両陣営のセコンドがリングから降りて、リングの各コーナーは翠と由香だけになると、ついに試合開始のゴングが鳴った。

 

 翠と由香がリング中央に向かうと、翠が青色の由香が赤色のボクシンググローブを前に出してグローブタッチをする。それから二人は中間距離で見合い、左ジャブを出しながら牽制していく。静かな立ち上がりだった。だが、この牽制し合う僅かな攻防だけで二人の実力の差が観客の目にも見て取れた。由香が左ジャブを打つだけでシュッという空気を裂くような音が聞こえてくる。由香の左ジャブに翠は両腕を上げた固いガードでなんとか防御する。由香の拳が翠のグローブの上を叩く度に翠は顔をしかめ表情を硬くする。対して、由香は翠の左ジャブを頭を振りながら難なくかわしていく。表情も涼し気で余裕があるのは間違いなく、左ジャブを数発差し合うだけで両者の格の違いがまざまざと形になって表れた。  

 

 由香のボクシングには迷いがまったくなく左、右と直線的なパンチを打ちながら前へ前へと出ていく。真っ向からハードパンチを打ち込んでいく由香の重圧の前に翠はガードしながら下がるしかなかった。しかし、まだ翠もパンチはもらっていない。懸命に食い下がりノーダメージの攻防を続けている。  

 

 由香のパンチの回転がさらに上がっていく。ワンツー!ワンツー!

 

 翠がガードを顔の前で固めて防戦一方になる。ガードしながらじりじりと下がる翠に由香が左足をバンッと踏み込み重心を軸足に乗せながら力強い一撃を放つ。

 

 均衡がついに崩れた。  

 

 シュゥッと空気を裂き、鉤型の軌道で左のパンチが鈍い音を立てて突き刺さる。  

 

 ドスゥッ!!  

 

 パンチをヒットさせたのは翠であった。由香のストレートをかいくぐって左のフックをボディーに打ち込んだのだ。由香がすぐに反撃の右フックを打つが、翠はまたもパンチをかいくぐりボディブローをめり込ませた。  

 

 ドスゥッ!!  

 

 ビデオで再生されたかのようにもう一度翠の左のボディブローが鮮やかに由香の脇腹を捉えた。ボディブローの二連打をヒットさせて翠はすぐにさっと後ろに距離を取って離れていく。  

 

 場内が僅かにどよめいた。予想の外にあった翠の先制パンチ。しかもボディブローは二連打で鮮やかに決まった。勝負の行方はまだ分からないと認識を改めざるをえない。まだ由香に分があるとしても。  

 

 右拳にまだ身体を捉えた感触が残っている翠は僅かに頬を緩ませようやく表情から硬さが取れていく。  

 

 あたしのボディブローが由香に通用している。  

 

 不安しかなかった翠の心に勝利への道筋が光を射して見え始める。しかし、慎重な姿勢は崩さない。ガードを固めながら確実にボディブローを当てていく。  

 

 翠の作戦はその後もはまっていき、ボディブローを数発ヒットさせ、しかし由香のパンチは一発も食らうことなく第1R終了のゴングを聞いた。  

 

 翠にとって100点といっていい出だしだった。ダメージを相手に刻み込みポイントも確実にものにしている。青コーナーに戻った翠はミキオの差し出したスツールに座り、どさっと腰を下ろす。  

 

 その身体を投げ出すような座り方は試合の終盤を迎えたボクサーのようでいて、ミキオが翠の身体を見ると、翠の身体からは第1Rが終わったばかりとは思えない大量の汗が流れ落ちていた。由香の強打を避け続け、ボディブローを当て続けることがいかに大変であるのかをミキオは目の当たりにして、息を呑んだ。由香のパンチをかわし至近距離からボディブローを打っていく。その時、翠の顔はガードががら空きになっている。翠の攻撃は常に危険と隣り合わせなのだ。しかも、翠のボディブローはダメージが効いてくるのに時間がかかるのに対して由香には一発でノックアウトできるアッパーカットがある。割の合わない闘いを翠は続け、体力も精神力も削られている。  

 

 しかし、翠は荒げた呼吸をしながら、

「大丈夫っ、最後までかわしきるからっ」  

 と明るい調子で言った。

「ううん、途中で倒せちゃうよねこれなら」  

 とおどけた声の言葉も付けて。

 

「そうだなっ俺も倒せると思うっ」  

 

 ミキオも翠の言葉に乗って明るく言った。それからタオルで翠の身体から噴き出る汗を拭き取り、第2Rの指示を伝える。指示といってもやることは第1Rと変わらない。由香のパンチを避けてはボディブローを当てるという単純でありながら大変な作業。翠がデビュー戦の試合から続けてきたファイトを実行するだけで作戦というほどのものではない。しかし、この単純な動作を毎日何百回と翠は由香を真似てパンチを放つミキオに続けてきた。派手さはないが汗と涙を流し続けて磨き上げた魂のブローだ。そして、この試合でも由香に十分通用している。このまま当て続ければ由香だって……。

 

 作戦を言い終えて、翠が「うん」と頷くと最後に翠の口にマウスピースをはめ込んだ。  

 

 第2R終了を告げるブザーが鳴り、翠がスツールから立ち上がる。第2R開始のゴングが鳴り、青コーナーを出ていく翠の背中を見送った。  

 

 最後までいける……。無謀と思えるこの作戦をミキオは信じ続けなければとぐっと唇を噛み締めた。

 

 

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