ワァッという歓声が鳴る。翠の左ボディブローが由香の身体を捉えた。これでこのラウンド三発目。1Rから数えれば七発になる。まだ翠は一発もパンチを受けていない。第1Rの翠の攻勢が第2R中盤に差し掛かっても続いていた。  

 

 ドスゥッ!!  

 

 また翠のボディブローが由香の身体を捉える。これで八発目。一発当たるたびにヒットしたボディブローの数を心の内で声に出さなければ気持ちがもたないと翠は思う。

 

 離れなきゃ……。

 

 そう思うものの、翠は足の重たさが気になり、中途半端に離れるよりもと身体を由香に寄せて、両腕を彼女の背中に回した。クリンチに成功して、由香に身体を預けながら翠はハァハァっと乱れた息を漏らす。

 

 あとどれくらいボディブローを当てたら由香の足が止まるかな……。由香の足が鈍ればラッシュをかけたりあるいは足を使って判定まで逃げたりだいぶ有利に試合を進められるんだけど。

 

 由香の肌との触れ合いは翠の身体をさらに火照らせ、ぼうっとする意識を先へと向かわせた。

 

 すると、くすっという声が聞こえてきた。聞き間違えとしか思えないこの状況で、でもその声は由香の声に他ならなかった。

 

「何笑ってるのよっ」

 

「もうボディブロー打つのは止めた方がいいんじゃない?」

 

「馬鹿言わないでっばかすかパンチもらってるじゃない!」

 

「良いパンチだとは思うけど」  

 

 勿体ぶった由香の物言いに翠の苛立ちはさらに募る。

 

「でも、威力が低すぎるかな。馬鹿の一つ覚えみたいに打ってたらタイミングも分かるでしょ。もう見切ったから打たない方がいいんじゃない」

 

「強がりは一発パンチを当ててから言いなよ!」  

 

 ボクシングのリングの上とは思えない言い合いを続ける翠と由香。見かねたレフェリーが二人の身体に割って入り引き離す。まだ呼吸が整っていない翠は前に出ていきたい衝動を必死に抑えて由香の顔をきっと睨みつける。  

 

 虚勢に決まっている。ボディブローを見切るなんて漫画じゃないんだから。 翠は早くその虚勢をはっきりさせたかった。しかし、無理な攻めをしてはそれこそ由香の思うつぼになる。  

 

 翠は逸る気持ちを抑えながら慎重に由香の挙動を注視する。  

 

 先に前に出たのは由香の方だ。左ジャブをガードの上から当てると踏み込んで右ストレート。  

 

 馬鹿の一つ覚えはそっちじゃない。翠は上体を左に傾けてパンチをかわすとそこから踏み込んで左のボディブローを放つ。タイミングも体重の乗せ方も完璧だった。  

 

 しかし、これまでのような肉が潰れていく手応えが拳に伝わることなく、翠のパンチは空転していく。由香は一歩下がりながら上半身を後ろに反らしてパンチを避けていた。  

 

 やばっ! 

 

 翠が心の中で叫ぶと、由香の右ストレートが打ちおろし気味に放たれ、翠は首を捻らせて間一髪避けることが出来た。  

 

 ボディブローをガードではなくかわされたことなど翠にとって一度もなかった。それどころかこれまでボクシングの試合で目にしたことすらあったかどうか。翠は信じ難い出来事を目にして呆然とする。  

 

“もうボディブローは打たない方がいいんじゃない“  

 

 由香の高慢な物言いが蘇って、翠はすぐさま首を横に振った。  

 

 偶然に決まってる。翠は迷いを振り切ってボディブローを決めるべく上半身を揺らしながら由香へ向かって行った。しかし、その後も翠のボディブローは空振りが続いていく。ボディストレートにはサイドステップ、ボディフックにはバックステップ。その見事な由香のディフェンスに翠のパンチを避けるだけで場内からはおぉっと高揚した歓声が漏れる。  

 

 ボディブローまでもが空振りするようになり、翠は体力が底を尽いたように顔を歪め口を苦しそうに開けていた。

 

「ハァハァ……ハァハァ……」  

 

 相手のパンチが当たらないのはお互い様。形勢は互角のままじゃない。  

 

 まだ翠の気持ちは前を向いていた。だが、翠と由香、二人の姿を見ればどちらが優勢であるのかは一目瞭然であった。だるそうに両腕を上げ肩で息をしている翠に対し由香はすぅっと両腕を上げ凛全と構えているファイティングポーズは覇気を纏っているかのように力強さに満ち溢れている。  

 

 平常時であれば翠は危険信号を感じ取っていただろう。しかし、集中力が切れかかった翠は不用意に前へ出た。  

 

 ズドンッ!!  

 

 弾丸が打ち込まれたかのような衝突音がリングから響き渡った。右のグローブの角が斜め下を向いているところで翠の右腕の動きが止まっていた。翠の顔面を埋め尽くす赤のグローブ。翠のパンチよりも遥かに速く、由香の右ストレートが翠の顔面を打ち抜いている。両足がキャンバスを踏んだまま動きの止まった翠の顔面には依然として由香の右拳が埋まったままで場内がしんと静まり返る。翠の顔面から由香が右拳をすぅっと抜くと、鼻が潰れ目元まで涙目に潰られた翠の顔面が露わになり、場内の沈黙は一際重たさを増した。たった一発のパンチで翠の目は宙を泳ぎ、全身の力が抜け落ちたように前のめりに崩れ落ちていく。だが、由香の左腕に当たるとその左腕を引かなかったために由香の左腕に支えられる格好になった。まだ倒れてないことを自覚した翠が残された力で左腕だけを由香の腰に回す。「うぅっ…」と苦しそうに声を漏らす翠は、由香の左腕で支えられて立っていることにパンチのダメージだけでなく耐えがたい悔しさも同時に味わっていた。  

 

 ここで第2R終了のゴングが鳴った。

 

「ゴングに救われたね」  

 

 勝ち誇ったように顔を近づけて言う由香に翠はとろんとした目を向けて精一杯睨み返そうとしたが、その時にはもう由香は翠の身体を放し赤コーナーへ戻ろうとしていた。翠もふらふらとした足取りで青コーナーへ戻っていく。倒れ込むようにスツールに腰を下ろした翠はぐったりと両腕も頭も下げる。

 

「声は聞こえてるか翠?」  

 

 ミキオの問いかけに翠は黙ったまま首を縦に振って頷いた。それから、ミキオの方に顔を向けて、

「ねぇ、どうしたらいい…」  

 とすがるような表情で助けを求めた。しかし、ミキオは唇を真一文字に結んだまま黙りこくる。二人で何千と練習を繰り返し由香のハードパンチに対策してきたウィービングからのボディブローをこうもあっさりと打ち破られたのだ。全てを賭けた戦法に代わる策などあるはずがない。だが、手がないわけではない。ミキオが翠に伝えるべきか思いあぐねているのはけっして推奨できるものではないからだった。  

 

 インターバル終了の時間が刻一刻と迫る。悩んだ末にミキオは、

「もっと踏み込むんだ」  

 と唯一の手を翠に伝えた。

 

「もっと踏み込んでボディブローを打てば由香もかわせない」  

 

 しかし、ミキオの指示を聞いた翠の表情は浮かないままであった。

 

「でも……」  

 

 踏み込みを増せばその分反撃を受けるリスクが高まる。状況はむしろ悪化するかもしれない。いや、その可能性の方が高いとしか翠には思えなかった。自分にとって理想的な踏み込みの距離を変えるのだから。

 

「カウンターが……」  

 

 翠がミキオの顔を見る。ミキオは翠の視線を受け止めたまま頷いた。

 

「あぁっ……。でも、それしか手はないんだ」  

 とミキオは答える。

 

「それとももう棄権するか?」

 

 翠は首を横に振った。

 

「分かった、一か八かに賭けてみる」  

 

 翠はそう言うと背筋を伸ばし、胸元で両拳をばすっと合わせた。それが覚悟を決めたかのような振る舞いにミキオには映った。インターバル終了のブザーが鳴り、ミキオは水で綺麗に洗ったマウスピースを翠のグローブに渡した。それから、リングの外に出るとミキオも肩にかけているタオルをぐっと右手で握りしめる。そうして、第3R開始のゴングが鳴り、青コーナーを出て行った翠の背中を見送った。

 

 翠と由香がリング中央で向き合うと、由香はかまわずに前へ出て行く。ガードを高く上げたまますり足で一歩ずつ距離を縮めてくると、翠は後ろに下がってパンチの射程の範囲外まで逃げる。第2Rまでのように積極的に前に出る由香だが、パンチは一発も打たない。相手がパンチを打った隙こそが最もボディブローを当てるチャンスである。翠にしてみると、むしろ積極的にパンチを打ってきてくれたこれまでの闘いの方がやりやすかった。パンチを出さずに圧力をかけてくる由香に得も言われぬ恐怖を感じ、翠の足が後ろへ下がってしまう。

 

 由香の周りを逃げ惑う翠に由香が呆れ気味に笑みを浮かべて、

「逃げ回ってたらボクシングにならないよ」  

 と言った。  

 

 わかってるわよと翠は心の中で言い返す。いつまでもこうしてるわけじゃない。でも、下手に前に出てパンチを受けるわけにもいかない。自分に向かって風が吹いていない流れの中で攻めることに翠は躊躇いがあった。  

 

 しかし、翠の逃げ腰なボクシングに観客席から罵声が飛び始める。

 

「打ち合え~!!」

「逃げるな~!!」  

 

 そうなると、翠としても攻めないわけにはいかなくなる。由香だけでなく観客にまで非難されてはプロとしての矜持がこの状況を許せなくなる。  

 

 行くわよ、行けばいいんでしょ。  

 

 活路が見えない中、翠が前に出ると、その瞬間、スパーンという高らかな音がして、翠の身体が後方に吹き飛んだ。どさっという音を立てて背中からキャンバスに倒れ込む。右拳を真直ぐに突き伸ばしている由香と仰向けの体勢でぐったりとキャンバスに倒れ込んでいる翠。大砲のような由香の右ストレートだった。これほどまで二人の実力の差が離れているとは観客も思ってもいなくて場内に重苦しい空気が流れる。

 

 だが、翠はまだ試合を諦めていなかった。カウント8でかろうじて立ち上がる。レフェリーが試合を再開すると、翠は上半身を小刻みに揺らし始めた。由香の右ストレートを警戒して的を絞らせないために。そうして前に出る翠に対して由香は左ジャブを打って出た。

 

 バシィッ!!

 

 翠の頭が後ろに弾かれる。翠が打って出た策はまたもそしてあっさりと由香に打破されたのだ。それでもなお上半身を揺らして前に出ようとする翠の顔面を由香はことごとく打ち返した。やがてその足も止まった翠を由香はなおも左ジャブで打ち続け、正確に翠の顔面を捉えるその様はパンチングボールを打っているかのようであった。

 

 もはや翠は反撃はおろかボクシングすら出来ずにいる。ライバル対決を期待して会場に足を運んだ観客の大半は由香の勝利で決まったと冷めた目で見るようになり、興味の対象は勝敗の結果からいつ由香のKO勝利が決まるのかに移り変わっていた。しかし、由香は観客の期待に反して左ジャブに徹した。盤石の攻めで翠の身体に着実にダメージを刻み込んでいく。由香の左ジャブの速射砲を浴び続けた翠の顔面は完全に原型を失っていた。ぷっくらと腫れ上がった瞼は右目を塞ぎ左目も僅かに開くだけになり、頬は水膨れしたように痛々しく膨らんでいる。

 

 由香の左ジャブの連打を止めたのは第3R終了のゴングであった。ゴングが鳴ると、由香はその場に立ち尽くす翠にまったく関心を示さずにすぐに赤コーナーへ戻っていく。一方の翠はミキオに抱きかかえられなんとか青コーナーに帰った。

 

 しかし、ミキオは翠をスツールに座らせると、「もう止めにしよう」と翠に向かって言った。翠は下を向いたまま首を横に振り受け入れようとしなかった。

 

 ミキオは翠の左右の肩に両手を置いて顔を近づける。

 

「もう十分だ。翠はよく闘ったよ」  

 

 だが、翠は顔を強張らせて、

「何がよく闘ったのよ。あたし納得いくパンチをまだ一発も当ててないんだよっ」  

 と言った。

 

「だとしても、次があるだろ」  

 

 ミキオも引き下がらない。

 

「次なんてどうでもいいのよ!!」  

 

 翠が大声で言い放つ。それから睨むように鋭かった眼光に憂いが宿り、

「あたしはこの試合で完全燃焼したいの」  

 と言った。その表情は渇望とも切願ともいえるような覚悟が滲み出ていて、ミキオは翠の思いを受け止めずにはいられなくなった。

 

「分かった…でも、次のラウンドでちょっとでも危なくったら止めるぞ」

 

「うんっ」  

 

 翠は表情をかすかに和らげて頷いた。

 

「よしっだったら一つだけ指示を出すぞ」  

 

 翠が再びミキオに顔を向ける。

 

「上半身を揺らすのはもう止めろ」

 

「なんでっ」

 

「あれじゃパンチを避けてもボディを打つのが僅かに遅れるだろ」  

 とミキオは言い、

「ピーカブースタイルだ」

 握りしめた両手を顎の前でくっつけ、ピーカブーのファイティングポーズの形を取ってみせた。

 

「ピーカブーでいつもの闘いを貫け、いいなっ」

 

「なんでピーカブーなのっ?」

 

「説明してる時間はない、俺を信じてくれいいなっ」

 

「分かった、ミキオ君を信じる」

 

 

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