第4R開始のゴングが鳴った。翠は両拳を顎あたりで合わせ慣れないピーカブースタイルで直進していく。すると、由香の表情から余裕の笑みが消えて、鋭い眼光へと変わった。由香の表情の変化を見逃さなかった翠は不思議であったものの、ミキオの言葉への信頼を強めてピーカブーのまま前へ出た。  

 

 由香から右ストレートは飛んでこず、打ってきた左ジャブも翠は頬の皮一枚で避けながらパンチの始動が若干遅く感じていた。  

 

 全身の感覚が麻痺しているように鈍くなっていても翠は必死になって傾けた上半身をしっかりと下半身で支えながら左のボディブローを打ち込みに出た。しかし、由香にバックステップでかわされてしまう。  

 

 由香のパンチは対処出来るようになっても肝心のパンチが当たらない。  

 

 踏み込みが足りないんだ。  

 

 翠はミキオの指示を思い返し、左腕が空振りし泳いだ身体を立て直して、さらに前へと踏み出す。四股を広げ右足で力強く蹴り上げ着地した左足がめり込むようにキャンバスを踏みしめると、右のボディブローを打ち放った。  

 

 右拳への力の伝導が十分でないと翠は感じ取っていった。このパンチじゃ由香には当たらない。それどころか必ず反撃を受けてしまう。焦燥する翠は由香の顔を視界に捉える。三日月のような形をしたその目はパンチはあたしには通用しないとでも告げているようだった。余裕を含んだ由香のその表情を打ち消したくて、翠は「あぁぁっ」と気勢を上げた。横軸に曲線を描いていたパンチの軌道が斜めに直線して伸び上がっていく。身体ごと飛び込んでいった翠のパンチが由香の頬を捉え、身体ごと吹き飛ばす。由香の両足がキャンバスから離れ、背中からキャンバスに倒れ込んだ。一方の翠も踏ん張りきれずに膝をキャンバスに付ける。

 

 翠はすぐに起き上がることが出来ず、レフェリーは由香と翠の二人にダウンを宣告した。翠は膝を付いただけだが、由香は仰向けの体勢で両手を広げ大の字に倒れている。翠はだるそうにゆっくりとカウント5で立ち上がると、由香はまだキャンバスに寝たままだった。ファイティングポーズを取りながら倒れまま動けずにいる由香の姿を見て、翠は「勝てるかも……」と小さく呟いた。だが、次の瞬間、由香の上半身がすくっと起き上がった。由香はカウント8で立ち上がり、レフェリーが翠と由香の状態を確認すると、試合が再開された。  

 ダウンから起き上がった二人の位置はあと三歩も出ればパンチが届くほど近く、その距離での試合再開は接近戦へと二人の闘志を駆り立てた。お互いが同時に一歩前へ出てあと一歩の距離で由香の膝ががくりと笑い、彼女の上半身が前のめりになる。顔が前に出た由香に対して、翠が一歩踏み込み、その顔面をフックで右に左に吹き飛ばした。見事な捉え方だった。もう翠の攻勢は止められない。由香は手負いの獅子となっている。右、左、右。フックの三連打が由香の顔面を往復し、彼女の膝が再びがくがくと震えた。翠は得意のボディブローを由香にねじ込み、突き出される拳の圧力に負けて由香の上半身が折れ曲がる。由香の頬が膨らみ、

 

「ぶはぁっ」  

 

 大量の唾液と共にマウスピースが吐き出された。これまでのボディブローと違い、由香にとって身体の芯までダメージが浸透した一撃となった。苦悶に満ちた由香の顔面に再び翠の右拳が打ち込まれ、由香の身体が後ろへ吹き飛ばされていく。翠の勝利が寸前まで来ていた。すかさず翠が距離を詰め、右ストレートを放つと、大歓声が上がった。

 

「わぁぁぁっ!!」

 

 強烈なパンチをヒットさせ、逆転勝利を手繰り寄せようとする。だがそれは翠と由香、どちらの手のものなのか。

 

 リングの上では壮絶な光景があった。由香の頬には翠の右ストレートが、翠の頬には由香の左ストレートが打ち込まれている。執念と言っていい由香のパンチを頬にめり込ませ、翠は頬が醜悪に歪みパンチのダメージに身体がぷるぷると打ち震えていた。

 

「ぶほぉっ」  

 

 口からマウスピースが吐き出された。  

 

 だが、由香もパンチの圧力で片目が閉ざされ、もう片方の目も明後日の方向を向いていて、戦況を把握しているとは見えなかった。  

 

 お互いの拳が顔から外れ、二人の身体が前のめりになり密着する。肌と肌と触れ合い、相手の拳が眼前にある距離。だが、二人ともパンチを打てるような状態ではなかった。翠も由香もハァハァと息を漏らし、乱れた呼吸を整えようとし静かに時間が過ぎていく。

 

 膠着を破ったのは由香であった。肩と肩が当たっている二人の身体の僅かな間から右フックをねじり込み翠の頬に打ち込んだ。

 

 しかし、翠もすぐに左フックを打ち返し、試合の主導権を握らせない。翠と由香の足を止めての打ち合いが始まった。お互いの顔面、お腹へとパンチが次々と当たっていく。

 

 カーン!!  

 

 お互いが一歩も退かず、第4R終了のゴングが鳴った。自分の足でコーナーに帰って来られた翠にミキオが安堵に満ちた表情で迎えスツールを用意した。翠はどさっと倒れ込むようにスツールに腰を下ろして、疲れ切った表情で両目を瞑り、天井を見上げる。  

 

 一時は由香をKO寸前まで追い詰め、その後も互角の打ち合いをしてきた翠だが、その身体は満身創痍で多くの指示を伝えることが望めるような状況ではもはやなかった。このインターバルで説明するつもりでいたピーカブースタイルが有効となる理由を伝える必要はないと判断して、ミキオは翠の血が付いている顔をタオルで拭う。由香のパンチの当て感の良さは相手の唇の動きから読み取っていることにあった。だから、ピーカブースタイルで口元が拳で隠れて見れないようにしたのだ。次のラウンドももちろんピーカブースタイルで闘ってもらう。ピーカブースタイルで近づいて接近戦に持ち込めば勝機は十分にある。

 

「ミキオ君…指示は?」  

 

 翠が目を開けていた。弱々しい声でぼんやりとしたとした目をしていたけれど、その目には勝利を渇望する力強さが秘められていた。

 

「あぁ…そうだったな」  

 

 こんな翠の身体の状態ではもう作戦は意味をなさない。

 

「思う存分パンチを打ってきてこい」  

 

 だから希望を伝えた。こんな翠の姿を見たいと。

 

「分かったよミキオ君……」  

 

 翠の頬が微かに持ち上がる。翠もそうしたいと思っていたのかもしれない。  

 

 赤コーナーでは由香が首をだるそうに下げながらもセコンドの芦沢としきりに言葉を交わしていた。まだまだはっきりとした意識が由香には残っている。第4Rでは翠が優勢であったけれど、まだ余力は由香の方に多く残っているのか。  

 

 例え作戦を打ち立ててきても凌駕して欲しい。気持ちで打ち勝って欲しい。  

 

 第5R開始のゴングが鳴ると、翠は一直線に向かって行った。  

 

 翠と由香の気持ちが応じ合ったのか、距離はするすると近まり、第4Rの打撃戦が再開されたように二人はパンチを打ち合った。  

 

 だが、インターバルを挟み仕切り直しされたことで観客を熱狂させた夢の時間の続きとはならなかった。由香の猛打が復活し、翠の顔面を右に左に吹き飛ばしていく。二人の間に大きな地力の差があったことを思い起こさせる一方的な攻防。一度追い詰められたからといって作戦を立て直すまでもないほどに由香のボクシングは力強く、でも、翠には気持ちで挽回して欲しいとミキオは願った。第4Rの時のように。そうして劣勢を強いられる中、翠が左のボディブローを一発由香の脇腹にヒットさせた。もう一発左のボディを打ち込むと由香の身体がくの字に折れ曲がり、歪んだ口からマウスピースが顔を覗かせた。  

 

 ボディへのダメージだけは由香の身体に確実に蓄積されている。まだ翠に十分な勝利の可能性があることをこの光景が知らしていた。

 

「翠いけっ!!もう一発ボディだっ!!」  

 

 ミキオは大声で叫ばずにはいられなかった。あと一発ボディブローを打ち込めば由香を倒せる。

 

 由香が左右のフックを翠のガードの上から当てると、後ろに大きく下がった。翠はすぐさま追いかける。だが、由香は左のジャブを連続して放ち、翠の接近を拒む。ボディを嫌がっているのは間違いなかった。左のジャブを数発被弾しながらも、翠が由香の懐に飛び込むことに成功した。左ボディを放つ。だが由香はそのパンチを右腕で弾き、逆に左のボディブローを翠に突き刺した。今度は翠の上半身がくの字に折れ曲がる。さらに由香は右のアッパーカットを放った。翠が寸前で左手で顎をカバーする。それでも、由香の右拳が打ち抜かれて翠の顎が上へと激しく突き上げられた。  

 

 グシャァッ!!  

 

 翠の口から血飛沫が飛び散りながら、身体が後ろへ吹き飛ばされていく。翠の身体がロープまで飛ばされ、左腕をロープに絡ませてかろうじてダウンを免れる。もし、左手で顎をカバーしていなかったら今のアッパーカットで間違いなくノックアウトされていただろう。由香にはまだフィニッシュブローのアッパーカットが残っている。それに対して翠の得意のパンチであるボディブローは今しがた打ち破られたばかりだ。

 

 今度こそ追い詰められた中、翠が左腕をロープから解き前へと出て行った。もうダッシュすら出来ないほど、翠は消耗していて、ゆっくりと一歩ずつ前へ出て行く。対して由香は両足が回復してきていて、キャンバスを軽く跳ねながら、翠の右側に周り左ジャブを打ち込んでいく。翠の顔面が右に左に飛んだ。一発のパンチさえも翠は避けられず、サンドバッグのようにパンチを浴びた。血飛沫が霧状に舞い散り、キャンバスに赤いシミが幾つも幾つも出来上がる。悲壮な翠の姿だった。もう策も反撃出来るほどの体力も残されていない。ミキオが肩にかけていた白いタオルを右手に掴んだ。だが、翠の目にはまだ勝利を諦めてない闘志が灯されていた。あたしのボディブローはまだ破られてない。次は絶対に決めてやるんだから。  

 

 それは偶然だったのかもしれない。しかし、翠は由香の左ジャブを避けると、距離を詰めて彼女の懐に飛び込んだ。これが最後のチャンスになる。翠はそう覚悟を決めながらパンチを放つ。

 

 左のボディフック。寸前で翠はそのパンチを止めた。またもパリングしてパンチを跳ね除けようとした由香の右腕を翠の左腕が逆に跳ね除ける。  

 

 やった!   

 

 まさに狙い通りの展開だった。あとは由香の顔面めがけてパンチを打ち込むだけ。これであたしの勝ちだ。翠ががら空きとなった由香の顔面に右のストレートを放つ。しかし、次の瞬間、翠の青いボクシンググローブの先には由香の顔はなかった。膝を屈め、翠の右ストレートをダッキングしてかいくぐる由香。パンチが虚しく空を切った翠に対して、万全の体勢でパンチをかわしている由香は翠の攻撃を全て見越していたように満足げな笑みを浮かべる。

 

 由香の左拳が下から後ろへと引かれるとそこからアッパーカットがうなりを上げて上昇していく。大振りなパンチのモーションは、渾身のパンチをかわされ呆然と虚脱する翠の顎を捉えるに十分であった。

 

 グワシャァッ!!

 

 翠の顎を叩き上げた由香の左拳は勝者のように伸び上がり、返り血を含んだ赤いボクシンググローブを天に突きかざす。パンチの凄まじい衝撃に翠の背中が弓なりにのけ反り、衝撃に歪まった顔は上空へ向けられていた。両腕がだらりと下がりもはや闘える状態ではない翠の口からマウスピースが吐き出され、幾つもの血の筋を作りながら虚しく舞い上がっていく。マウスピースは上昇を続け、しかし翠は血飛沫を噴きながら泥酔者のようにリングを後退し顔からキャンバスに沈み落ちた。キャンバスに倒れてもなお由香のアッパーカットの威力は翠の身体を微動し両足が浮いてはまたキャンバスに落ちた。衝撃的な倒れ方をした翠の顔のすぐ側にマウスピースがようやく落ち、凄惨な光景に一層の衝撃が加わる。

 

 左拳を突き上げていた由香は裏返っていた拳を正面に戻し、翠を見下ろしながら、レフェリーから勝ち名乗りを受けるよりも早く勝利を悦楽しようとしていた。

 

 力強さと美しさに満ちた由香と儚く打ちのめされた翠。あまりに鮮明な両者の対照は観客と両陣営のセコンド、レフェリーまでも凍り付かせ、場内は暫く時間が止まった。リングの外からレフェリーに早くカウントを取れと促す声が叫ばれ、ようやくカウントが開始された。しかし、動転していたレフェリーは反射的にカウントを取っただけで、すぐにカウントを取る必要がないことに気付いた。身体をぷるぷると震わせて白目を向いている翠に必要なのはカウントではなくてセコンドの介抱であった。

 

 レフェリーが両腕を交差して、試合終了のゴングが高らかに打ち鳴らされ、翠と由香の死闘は幕が下ろされた。

 

「勝者、倉沢由香!!」  

 

 レフェリーが由香の左腕を再び上げ、勝ち名乗りを告げると静まり返っていた観客席から割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。

 

 メインイベントの試合でも起きないだろうその大声援は、死闘の末にもたらされた劇的なKO劇に、まだ20歳に満たないこの少女が数年のうちに世界チャンピオンになるであろう予感を観客たちは得てもたらされたものであった。

 

 会心の勝利と観客からの厚い支持を得た由香がリングの上で満面の笑みを浮かべ、両腕を掲げて観客たちの声援に応える。一方で翠はキャンバスの隅で倒れたままミキオに抱きかかえられていた。何度も何度も叫ぶように名前を呼ばれ、翠の瞳がゆっくりと開いた。

 

「翠!!」  

 

 翠の名前を呼ぶミキオの声が一際大きくなり、翠は今にも泣きそうで顔をくしゃくしゃに歪ませている大好きな人の顔をぼうっと見つめた。段々と意識がはっきりしてきて、翠はミキオの表情から状況をようやく把握した。ミキオに右手で支えられている後頭部を動かしてキャンバスを見渡してから一点に視線を留めた。観客席に向けて両腕を突き上げている由香の背中を翠は哀しげな目で見つめた。目にしたくなかった対戦相手の勝ち姿。でも、彼女の姿が眩しく見えるのはその勝利が限界を超えて打ち合った死闘の末に手にしたものだからだろうか。  

 

 翠はミキオに向かって、

「ごめん、手を貸して」  

 と言って立ち上がろうとした。

 

「おいっ無茶するなよっ」  

 

 ミキオが止めようとするものの、それでも立ち上がろうとする翠に肩を貸して、それで立ち上がれた翠は由香の方へ向かう。翠の存在に気が付いた由香が振り向く。腫れ上がった顔を向け合って二人は対峙する。

 

「少しは負けそうだと思った?」

 

「負ける気がしなかったら最後まで接近戦に付き合ってたよ」

 

「そう……」  

 

 翠は下を向くと目を閉じて唇を仄かに緩ませた。それからまた由香を見つめて、

「次もまた闘ってくれる?」  

 と聞いた。  

 

 由香も僅かに視線を下に向けて目を閉じて頬を緩ませる。

 

「次はタイトルマッチなんてどう?」  

 

 そう言って、由香は右手を差し出した。

 

 その死闘がどれだけ苦しいものだったのかをあたしと由香だけが分かっている。

 

 翠は「うん」と言って由香の手を握りしめ、二人は笑顔をかわし合った。

 

 

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