-プロローグ-

 

 煌めくような輝きが青コーナーから放たれていた。筋肉質ではなく柔らかみのある肉体はまだ発育途上なのだと一目で分かり、凄味はないもののみずみずしさに満ちていた。18歳、高校三年生。女子高生が日本王座のタイトルマッチに挑戦するという触れ込みは、今だマイナーな扱いをされている女子ボクシングにおいて世界タイトルマッチよりも多くのマスコミをこの会場に引き寄せた。試合開始のゴングは鳴ってないのにリングサイドでは挑戦者にレンズが向けられたカメラマンの姿が何人も目に付き、カメラマンの数は男子のタイトルマッチとも引けを取っていない。

 

 挑戦者の名前は碧原柚葉。耳が見えるが前髪は眉を隠す長さのショートカットの髪型をしていて整った顔立ちをしている彼女はボーイッシュな雰囲気があり、服装がスポーツブラではなくジャージであるならば遠くからなら少年のようにもみえる。美形であることに変わりないが中性的な雰囲気を持った少女だった。ルックスだけなら同年代でもっと華やかな選手は他にもいる。しかし、18歳という若さで日本ランカーたちを次々と倒し同年代の選手の中でいち早くタイトルマッチ挑戦の権利を得た輝かしい活躍が同世代を牽引するボクサーとして柚葉に並々ならぬ注目を集めさせる。さらにはこの試合に勝てば最年少の日本チャンピオンという記録までが付いてくるのだ。

 

 チャンピオンの松本エミカは、プロ五年目の選手であり、戦績は14勝2敗。目下ベルトを四度防衛中であり、世界ランカーでもある彼女はこの試合に勝てば次は世界タイトルマッチに挑戦するという噂も上がっている。実績からみればチャンピオン有利と見る向きが多いのは当然であり、柚葉の不利は否めない。それでも柚葉に向けられる熱視線はチャンピオンに向けられるそれを上回り、挑戦者がベルトを巻く未来への期待の高さが表れていた。  

 

 場内は新世代のスターの誕生を待ち望む空気で満ちている。それは青コーナーで待機している柚葉も肌で感じ取っていた。これまでの試合と比較にならないほどの数の観客の視線、カメラマンのレンズが自分に向けられている。それらが柚葉に大一番に臨もうとしている現実を嫌でも突きつける。胸の鼓動は高まるばかりであった。

 

 そして、タイトルマッチのゴングが鳴った。柚葉は若い挑戦者らしく勢いよく青コーナーを飛び出て行った。

 

 

 韓国のカンナム・アリーナではメインイベントの試合が始まろうとしていた。収容人数2000人規模のホールを満杯に埋め尽くす観客たちの視線は一様に赤コーナーに向けられていた。選手の名前はチェ・ハユン。前WBCフライ級チャンピオンであり、現世界ランク7位。前回の試合で失った世界のベルトを取り戻すべく再起戦のリングに臨もうとしている韓国女子ボクシング界を牽引する実力者である。WBCのベルトを失った前回のタイトルマッチの試合も僅差の判定負けであった。会場がアウェイのフランスでなく韓国で行われていたのなら勝っていたのかもしれない。それくらい僅かな差の敗北であった。世界のベルトを五度も防衛した彼女ならまた世界チャンピオンになれるだろう。多くのボクシングファンがそう信じて会場に足を運んだ。再起戦でまだまだやれる彼女の雄姿を確認するために。

 

 青コーナーに立っているのは日本人選手であった。自身への歓声を期待出来ない完全なアウェイのリングに立つ彼女はまだ18歳の少女であり高校生であった。戦績は6勝1敗。戦績としては悪くないが、20戦19勝1敗のハユンの前ではたいしたレコードにはならない。韓国女子ボクシング界の女王の復帰戦として確実に勝てる安牌として選ばれたのは誰の目にも明らかであった。国内の選手ではハユンの復帰戦の相手を誰も受けたがらずにハユンも国内の若い選手の目を摘むことは望んでなく、日本の選手に声がかけられた。韓国人でなく戦績がそこそこの選手であれば誰でもよかったのである。

 

 噛ませ犬の立場でリングに立つ日本人の少女の名前は万城優里花といった。彼女は柚葉と同じ高校の生徒でありクラスまでもが一緒であった。そして、奇しくも柚葉の日本タイトルマッチのゴングが鳴るのと同時刻に彼女の孤独な闘いのゴングも鳴ったのだった。  

 

 

 

 第1話

 

 女なのにボクシングしてる。  

 

 そんな数奇な目を向けられ、顔が合うと腑に落ちた顔をされる。そういう嫌な思いを柚葉はボクシングジムに通い始めてからの二年間で何度もしてきて、その相手の大半は同じ学校の男子生徒だった。だから、柚葉はこの二年間で男子生徒が嫌いになったのだが、それは高校生になっても変わりはなかった。自分から話をしたことはないのに、なぜかボクシングをしていることが広まって、その確認のためにクラスメートの男子が声をかけてくることが高校一年生になったばかりの四月の三週間で二度もあった。その原因は柚葉と同じ川村第三中学出身の生徒たちにあるのだろうが、それはともかく三度目の確認の声がかけられた時の柚葉の振り向いた表情は、ゴシップを求めて追いかける週刊誌の記者を見るかのようなふてった目をしていた。

 

「碧原、おまえボクシングやってるってマジ?」

 

 クラスメートの声かけに柚葉は、

「なによ、悪いかよ」

 と男のような言葉遣いでぶっきらぼうに返した。柚葉の話し言葉は普段はそこまで男っぽくはないのだけれど、馬鹿の一つ覚えみたいに聞いてくる男子生徒たちが彼女の態度を天邪鬼にさせた。

 

「おいっまじかよ。まいったなぁ」  

 

 何がまいったなんだ。珍種扱いされてるかのような牧野の反応に、柚葉は頬杖を付いたままぷいっと顔を背ける。

 

「じゃあさっプロでも目指してるわけ?」  

 

 牧野は柚葉の素っ気ない仕草に気付かずになお質問をぶつけてくる。学校の教室でボクシングの話なんて一秒もしたくない。教室中の生徒が自分に好奇の目を向けてくるような錯覚を柚葉は覚えてくる。

 

「そんなのまだ分かんない」  

 

 それでも柚葉はいちおうの返事を返す。でも、嘘だ。柚葉はプロボクサーを目指してボクシングジムで練習を積んできていた。まだ15歳でプロボクサーのライセンスを持つことは出来ないが、16歳になる二か月後にはプロテストの試験を受けに行くつもりだ。

 

「せっかくなんだからプロ目指したらどうなんだよ」  

 

 何が楽しいのか牧野は嬉々とした反応をみせる。居心地が悪い。柚葉にとって中学時代に散々体験してきた会話だ。耐性は出来ているはずだった。しかし、高校では向けられる好奇の目には中学時代にはなかったものが混ざっているかのように柚葉には感じられるのだ。  

 その時、教室の外から、

「えっ、来月プロボクサーになるのっ!?」  

 驚きの反応を上げる少女の声がした。柚葉の顔が思わず廊下へと向けられる。教室には二人組の少女たちが入って来た。セミロングの髪型をした一方の少女が廊下側の席に着き、もう一方の驚きの声を上げた少女がその席の横に立つ。

 

「プロボクサーになるってまだ決まったわけじゃないよ。プロテストを受けるだけなんだから」

 

 席に座る少女、優里花が顔を上げながら言った。

 

「でも、優里花の実力ならもう合格したも同然でしょ」  

 

 立ちながら話す美津乃の声は変わらず声のトーンが高い。

 

「そんなことないよ。テストなんだから何が起きるか分かんないんだから」  

 優里花はそう言うもののその表情には不安は微塵も感じられない。そして、教室内でボクシングの話をする気後れは彼女からは全く感じられない。今流行のドラマや音楽アーティストの話題をするのと同じようにごくごく普通な振る舞いで話す。  

 

 クラスメートである優里花もボクシングジムに通う少女であった。クラスメートに自分と同じボクシングをしている女子生徒がいることを入学して三日目に知った柚葉だったが、優里花に話しかけたことは一度もない。

 

 ショートカットの黒髪である柚葉は凛々し気に引き締まった顔付きをしていて運動が得意だと一目で分かるボーイッシュな雰囲気をしている。それに対して優里花は肩までかかるセミロングの髪は綺麗な栗色をしていて、ふっくらと柔らかそうな頬は透き通るような赤みを帯びていて果実のように初々し気な可憐さがあった。ボクシングをしていることが一見似合わなそうな彼女だが、それでいて一挙手一投足に落ち着きと自信が可憐さに混じり合うそのたたずまいに、ボクシングもまた彼女の魅力に繋がっているようにも思えてくる。ボクシングをしているのに女性としての魅力がまったく失われずに強さも美しさも高めようとしている優里花。そんな彼女を見ていると柚葉はボクシングをしているために周囲の好奇な目に悩んでいる自分が馬鹿らしく感じてしまうのだった。

 

 優里花みたいに堂々としていればよいのについ卑屈になってしまう。それは柚葉が女性としての美しさに関心を持てないためである。昔からそうだった。お人形で遊ぶことよりも外で男子と運動をして遊ぶことが好きだった。思いきり身体を動かしたい衝動がいつもあって、だから中学二年生になった時にボクシングジムに通うようになった。黙々と一人がむしゃらに身体を動かす自分をイメージした時にとてもしっくりとくるものを感じたのだ。

 

 ジムに通い始めてから柚葉は充実した日々を過ごすようになる。自分が求めていたものはこれだという実感があった。しかし、一方でボクシングを始めたために周囲が好奇な目を向けるようになり、学校生活は逆に居心地が悪くなっていった。そして、高校では自分と同じくボクシングジムに通う女子生徒がクラスメートになった。女性としての魅力も兼ね備える優里花と否応にも比較してしまい、またクラスメートも優里花と柚葉を比較して見ているように感じられ、柚葉はますます学校生活が居心地悪くなったのだった。

 

「ちょうどいいや。なぁ万城」  

 

 牧野が優里花の名前を呼んで、柚葉はぎくっとした。余計なことをしないで欲しいと柚葉が思う側から、牧野は、

「お前と碧原、二人ともボクシングしてるんだろ。だったら試合してみりゃいいじゃん」  

 軽い口調でそう言うのだった。軽々しく試合なんて言うなと柚葉は叫びたいところだったが、余計に目立つことを恐れてその衝動を喉元でぐっと飲み込んだ。だが、優里花は毅然とした表情で牧野を、

「牧野君。ボクシングの試合はそんな軽いものじゃないんだよ」  

 とたしなめるように言った。

 

「なっなんだよ。そんな睨まなくてもいいだろ」  

 

 牧野は動揺した口調で、自分は何も悪くないと言いたげに言うのだが、バツの悪い思いをしたようにすぐに廊下へと出て行った。牧野が自分の側から居なくなって柚葉はほっとするものの堂々とした態度でをたしなめる優里花の対応が頭の中から離れずに残った。柚葉もまた教室に残る気持ちになれずに少し時間を置いて席を離れ廊下へ出た。  

 

 廊下を歩いていると、

「ねぇ、碧原さん」  

 と後ろから声をかけられた。思わぬ声に柚葉はびくっと肩が持ち上がりそうになった。柚葉は嫌々にゆっくりと見たくないものを見るように振り返る。優里花が距離を詰めて、顔を近づけて柚葉の耳元で囁くように言った。誰にも聞こえないようにという風に。

 

「さっきはあんなこと言ったけれど、わたしたちスパーリングしてみない?」

 

「えっなんで…」  

 

 柚葉がびっくりして小さな声で呟いた。まさかの優里花の誘いかけだった。

 

「さっきそんな軽いもんじゃないって言ったじゃん…」

 

「うちのジムで時々同年代の子たちを集めてスパーリング大会やってるの。碧原さんもよかったらって思って」  

 

 柚葉は優里花の本心が掴めずに返事をためらう。

 

「周りの男子から囃し立てられてするもんじゃないとは思ってる。でも、せっかく高校でお互いボクシングしてるって知り合ったんだし、碧原さんを次のスパーリング大会で誘おうと前から思ってたの」  

 

 なんとも屈託のない優里花の行動である。柚葉はこのスパーリング大会に少し関心を持つようになり、

「何人くらいくるの?」  

 と尋ねた。

 

「いつも六人から八人くらいかな。今回は碧原さんがきたら六人になると思うよ。女子は今回まだわたしだけなんだ。だから碧原さんにもぜひ来てもらいたくて」  

 

 優里花が中心となってスパーリング大会を開いているのだろうか。彼女の口ぶりだとそんな気がして、優里花の秘密の城に行くようで柚葉はあまり乗り気になれなかった。一方で人数が揃わずに困ってるようで断るのも気まずい。同世代の少年少女だけが集まるスパーリング大会にどこか爽やかな雰囲気が感じられてどんなものか見てみたい気持ちもある。 

 

 行きたくない思いと行きたい思いが心の中でせめぎ合い、結局、柚葉は行くと返事をした。優里花はすごく喜んだ反応をしてくれるものの、柚葉は待ち遠しいという思いまでは持てそうになかった。  

 

 

 スパーリング大会はその週の土曜日に行われた。太陽が燦燦と照り付ける真昼間の時刻、優里花の所属する元村ジムに柚葉は着くと、ジムの中には四人の少年と優里花がいた。他にはジムのトレーナーらしき三十代から四十代の男性が四人。ジムにいるのはそれだけであった。まだジムで練習出来る時間帯ではなくて、少年少女のスパーリング大会のためにジムが開けられているのかもしれない。

 

 トレーナーも同伴してかまわないと優里花は言っていたが、柚葉がジムのトレーナーにスパーリング大会の話をすると参加の許可はもらえたものの時間の都合が付かずにトレーナーは一緒に来られなかった。優里花はトレーナーがいなくても他のトレーナーがセコンドに付いてくれるから大丈夫と言ってくれていた。しかし、よそのジムに一人というのはやはり心もとない。  

 

 柚葉はよそよそしくジムの中に入っていった。優里花が柚葉に気付き、「碧原さん」と言って右手を上げた。柚葉が優里花の元へと行く。初めての参加で何をすればよいのか戸惑う中で、親切な優里花の振る舞いを柚葉はありがたく思った。優里花は「来てくれてありがとう」と言って、それからスパーリング大会の説明をしてくれた。一通りの説明が終わったところで、優里花に促されて柚葉は更衣室へと向かおうとした。

 

 その時、「碧原だろ」と声をかけられた。振り向くと、声の主は先ほど見かけた四人の少年のうちの一人だったが、柚葉はその少年を知らなかった。

 

「どこかで会ったことあったっけ?」  

 

 柚葉は上目遣いによそよそしく聞いた。

 

「あれっ俺のこと知らねえの?」  

 

 少年は調子っぱずれな声を上げて頭を掻いた。

 

「違うクラスなんだから知らなくて当たり前じゃない。まだ高校生になって一ヶ月も経ってないんだよ」  

 

 柚葉の隣で優里花がくすっと笑った。

 

「そうか? 俺は碧原のこと知ってたけど」

 

「やっぱり女子でボクシングしてると有名になっちゃうのよねぇ」  

 

 優里花が顎に手を当ててしみじみと言った。二人の会話は親し気で長く知り合っているように柚葉にはみえた。優里花が柚葉に振り返り、

「陸人君は私たちと同じ高校なんだよ。陸人君は一年五組」  

 同じ学校らしい少年を紹介する。

 

「スパーリング大会にはよく参加してくれてるの。分からないことあったら陸人君にも聞いてね」  

 

 そうは言われたものの、柚葉は陸人に聞く気にはなれなかった。優里花の所属するジムで開かれるこのスパーリング大会にどうにも馴染めそうにないと思うのだった。  

 

 

 スパーリング大会は男子同士から始まった。このスパーリング大会に参加出来るのは、15歳から17歳の年齢でまだプロのリングで試合をしたことが無い練習生に限られている。ジムの垣根を超えた若手の交流戦という名目なので、優里花の所属する元村ジムからは二人だけで他の練習生たちはそれぞれ別のジムだった。ルールは4R制でボクシンググローブは10オンス、ヘッドギア着用だ。男子同士の試合は1R3分で女子同士の試合は2分になる。

 

 リング上で闘っている二人の年齢はどちらも柚葉と同い歳か一つ上の年齢に見えたが、実力は高く感じられた。防御も攻撃も足さばきもどれも十代としてみたら良く出来ていて今すぐプロの四回戦で試合をしても通用しそうであった。男子と女子の差を考えたら当たり前だが、柚葉よりもボクシングの技術は高い。

 

 二試合目も同様だった。特にこの試合でリングに立った陸人は、他の男子たちよりさらに一段階上のボクシングをしていた。スピード、パンチの威力共に迫力が一人だけ違うとリングの側から見ている柚葉にも分かる。おそらく本気を出せば陸人は相手の男子を倒せたと思う。でも、陸人は手数をそれほど出さずにあくまでパンチの差し合いの練習に徹していた。相手の身体を配慮してのことだと思う。スパーリングは大きな展開はなく終わった。でも、陸人が第1Rから第4Rまで終始優勢であった。判定の結果を付けるなら、フルマークが陸人に付いていただろう。

 

 思っていた以上に参加している男子たちのレベルが高くて、柚葉は身構えるような面持ちになっていた。これだと優里花のボクシングの実力も高いにちがいない。優里花はこのスパーリング大会の幹事を務めているくらいなのだから間違いなくそうなのだろう。優里花にスパーリングで負けるつもりはなくこの場に来た柚葉は否応にも身体に力が入る。

 

 陸人と相手の男子がリングから降りると、優里花が、

「じゃあ次はわたしたちやろうか」  

 と柚葉に声をかけた。柚葉は「うん」と頷く。柚葉と優里花がボクシンググローブとヘッドギアを着用してリングに上がる。優里花のセコンドはもちろん柚葉にも元村ジムのトレーナーが付いた。  

 

 柚葉は優里花に対して、

「全力でやっていいの?」  

 と尋ねた。これまでスパーリングは二試合とも4Rまで行われた。二試合目と違い一試合目はお互い全力だったように思えたけれど、ダウンは一度もなかった。一定の配慮があったのかもしれないと柚葉は思ったのだ。だが、優里花は、

「もちろん」  

 と笑みを浮かべて言った。これから殴り合いをするというのに恐怖心というのが微塵も見られない。明らかな余裕が優里花から感じられた。恐怖心をまったく持たずというようには柚葉には出来ないが、優里花はスパーリング大会に何度も参加しているからなのだろうと柚葉は思うことにした。ゴングが鳴ればその余裕をなくしてやると柚葉は胸の内で誓い意気込む。  

 

 カーン!!  

 

 スパーリング開始のゴングが鳴った。コーナーを出た柚葉と優里花がお互いのグローブを合わせた。試合開始の合図を済ませて、二人が足を使って、リングを動き回る。優里花の足さばきが跳ねるようなステップなのに対して、柚花の足さばきはべた足に近い。軽やかさはないが重心がしっかりとした移動だ。二人の足さばきには差があるものの、共に中間距離という間合いを崩さない。  

 

 先に手を出したのは柚葉だった。左のジャブをガードさせてから右のストレート。こちらもガードの上であったが、激しい衝撃に優里花の身体が僅かに揺れるように振動する。柚葉のパンチにリングを見つめていた少年たちがおぉっと声を上げた。思いがけない光景を目にした反応であった。柚葉は右ストレートには自信があった。めったに褒めないジムの会長も柚葉の右ストレートだけは褒めてくれる。プロボクサーになろうと決めたのも会長が柚葉の右ストレートを何度も褒めてくれたからだ。しかし、赤コーナーと青コーナーの元原ジムのトレーナーたちはその表情を変えずにいる。落ち着いた顔でリングの中で闘う二人に目を向けている。肝心の優里花はスパーリングが始まるとすぐに笑みを消して険しい目つきになっていてそれは今も変わらない。だから、柚葉のパンチをどう感じたのかは彼女の様子からは読み取れなかった。  

 

 柚葉は気にせずにまたパンチを打っていった。左ジャブを弾幕にして右のストレート。またもガードの上であったが、確かな衝撃が柚葉の右拳に返ってくる。パンチの威力を殺せてないのだから優里花は柚葉の右ストレートに反応出来てないのだろう。柚葉は気をよくして攻め立てていく。三度目の右ストレートもガードする優里花の身体を揺さぶらせた。もっと追い詰めようと柚葉が左ジャブを打ちに出る。  

 

 しかし、その瞬間に優里花が前に出てたちまちに至近距離まで距離を詰めた。虚を突かれて目を見開く柚葉の頬を優里花の左右のフックが捉えた。慌てて柚葉が両腕を上げて頭をガードする。優里花が連続してフックを打ち放っていく。防戦を強いられた柚葉が後ろにステップするも優里花がその動きに連動するように前に出て、二人の間に距離を作らせない。至近距離の闘いを強いられ、柚葉がパンチを返して応戦に出る。しかし、優里花は柚葉のパンチを二つとも両腕でブロックする。そして、パパン!!とまたも高速のフックを連打で柚葉の頬に打ち込んだ。  

 

 密着した距離でお互いがショートフックを打つ泥臭い攻防が展開された。こんなに近い距離では柚葉の強打の威力が十分に発揮出来ない。得意の右ストレートを打つこともままならない。柚葉の長所を消す闘いを一分も経たないうちに優里花は見出し実行しているのだった。

 

 対戦相手が肌が触れ合う位に積極的に身体を近づけてパンチを打ってくる闘い方をこれまで柚葉は経験したことがなかった。スパーリングでは対戦相手はいつも年上の男性で柚葉が闘いやすいようにと中間距離での闘いをしてくれた。接近戦といってもここまで近い距離で長時間打ち合ったことなどない。

 

 柚葉は遠慮なく何度も肩をぶつけてくる優里花にかっとなってパンチを打ち返す。しかし、パンチを打ってもかわされるか当たっても単発のパンチに終わり、優里花の鋭いパンチが連続して柚葉の身体に突き刺さっていく。防御と攻撃の連携に無駄が無く連動していて少々無理な体勢からでもすぐにパンチが出る。至近距離での闘いを熟知している優里花の動きであった。強引でありながらも高い技術をディフェンスと攻撃に発揮する優里花を前にして柚葉はやりづらそうにパンチを打つ。やがてロープ際まで追い込まれて、ロープを背負わされた柚葉はさらに窮屈にパンチを打ち返す。優里花の攻勢はがぜんと高まり、優里花のパンチの衝撃音が増していっていた。  

 

 ドカッ!!バキィッ!!ズドッ!!  

 

 右フック、左フック、右ストレート。優里花の三連打が柚葉の顔面にめり込むようにヒットし、血がキャンバスに吹き散っていく。顔を強烈に吹き飛ばされ戻ってきた柚葉の顔は鼻血が垂れていて、目は早くも朦朧としていた。  

 

 優里花がまたしても強打を放とうと左腕を引いたところで、ゴングが鳴り、レフェリーが二人の間に割って入った。  

 

「第1R終了だ!」  

 とレフェリーが優里花に顔を向けて言う。それで優里花は頬を上気させた顔からふぅっと息を吐いて、爽やかな風を吹かせて赤コーナーへ戻って行った。一方の柚葉はロープにもたれたままで、レフェリーが「まだやれるのか」と確認を取った。柚葉はファイティングポーズを取ったまま、ロープから上半身を離し、「まだやれますから」と弱々しい声で返して、レフェリーの返事を待たずに青コーナーへと辛そうに息を吐きながら戻って行った。  

 

 青コーナーに戻った柚葉にセコンドも

「もう止めておくか」

 とレフェリーと同じことを聞いてきたが、柚葉は、

「まだまだいけますから」  

 とレフェリーに対して言ったことと同じような返事をした。セコンドはスツールに座る柚葉の鼻血をタオルで拭き、鼻血止めのケアをしながら、

「もっとガードを固めたないと」  

 とだけ指示を柚葉に送った。セコンドとしては物足りない指示であったが、赤コーナーでスツールに座り休む優里花もセコンドから特に指示を受けていない。赤コーナーも青コーナーも元村ジム所属である。公平を期してあまり指示を出さないようにしているかもしれない。  

 

 ともあれ、柚葉は自分のジムでないセコンドの指示に耳を傾ける気はなかった。わずか1Rでここまで劣勢を強いられるとは思っておらず、柚葉の頭の中はわぁっと渦巻いて混乱していたが、このままじゃ終われないという思いが強く湧いている。まだ強気で柚葉は試合に臨めていた。  

 

 第2R。柚葉は距離を詰められないよう早く早くにパンチを出す。左ジャブと右ストレートのコンビネーションでガードの上からでもいいからと優里花に向けてパンチを放つ。しかし、優里花のガードの牙城は崩せない。そして、単調になった動きが命取りとなった。柚葉の右ストレートを優里花が左拳でパリングすると、電光石火のような右ストレートを柚葉の顔面に打ち込んだ。ズドォォ!!と剛速球がミットに収まったかのような衝撃音が響くと、柚葉の身体が派手に後ろに吹き飛ばされた。マウスピースが口から吐き出されるほどの凄まじい優里花の一撃であり、柚葉は大きな音を立てて背中からキャンバスに倒れた。  

 

 レフェリーがダウンを宣告する。柚葉は両腕をバンザイするように倒れていた。スパーリングはおろかプロの試合でもめったに見られないようなダウンシーンである。ジムのスパーリングでダウンをしたことなんて一度もない。両腕を上げながら倒れた状態でレフェリーが数えるダウンカウントを間近で耳にし、柚葉は震えるような屈辱を味わいながらなんとかカウント9で立ち上がる。  

 

 レフェリーが柚葉の両拳を合わせて掴み、闘う意思を確認してると、血が再び鼻から垂れていることに柚葉は気付いた。血が柚葉の白いTシャツに赤いシミを作る。柚葉は「大丈夫です」と言って闘いの意思をレフェリーにみせた。先ほどのダウンの衝撃で吹き飛ばされていたマウスピースをレフェリーは拾い上げて、柚葉の口にくわえさせる。  

 

 レフェリーが試合再開の合図を出した。

 

「ボックス!!」

 

 まだあたしは負けていない。そう意気込んで立ち上がったものの、ファイティングポーズを構えて近づいてくる優里花を目にすると、柚葉の身体が硬直していき、手が出ていかない。優里花の身体が力強さに満ち溢れているように柚葉には見えるのだ。

 

 優里花の接近を簡単に許して、優里花の左ボディが柚葉の腹を捉えた。「がはぁっ」と呻き声を上げ、身体がくの字に折れ曲がる柚葉に優里花が攻め立てていく。

 

 一発、二発、三発。優里花の放つパンチ全てが柚葉の頭を強烈に吹き飛ばした。柚葉がロープを背負い、さらに優里花のフックが柚葉の顔面を右、左、右と豪快に吹き飛ばすと、優里花がそこでパンチを止めた。彼女はもう分かっていたのだろう。これ以上パンチを打つ必要が無いことを。柚葉の目は白目になっていて、「ぶふぅっ」と唾液にまみれたマウスピースを吐き出した。そして、糸の切れたマリオネットの人形のようにぐにゃりと前に崩れ落ちた。

 

 うつ伏せに倒れた柚葉をセコンドとレフェリーが慌てて近寄り状態の確認を取る。口からマウスピースを外してもらい言葉をかけられても反応しない柚葉の様子を優里花もボクシンググローブを付けたまま心配な面持ちで見つめていた。  

 

 

 柚葉が目を覚ましたのは十分後でジムの壁付近にある長椅子に柚葉は寝かされていた。柚葉が上体を起こすと、すぐ側に座っていた優里花が 、

「碧原さん、大丈夫?」  

 とやはり心配な表情で声をかけた。

「うん」  

 とだけ柚葉は答えた。

 

「ごめんなさい、スパーリングなのに」  

 と気遣う優里花の言葉を柚葉は複雑な思いで聞いた。結局、柚葉は何も答えず黙っていた。

 

「頭は痛くない?」  

 と優里花は再び確認するが、柚葉は「うん、大丈夫」とだけ答えた。それから、元村ジムのトレーナーが来て、柚花の状態を確認しようと話しかけられ、優里花が「じゃあまたあとでね」と言って、この場から離れて行った。  

 

 スパーリング大会はそれから二十分後に参加した皆が集まって、優里花が「みんな、今日も来てくれてありがとうね」と幹事らしく終わりの挨拶を始めた。

 

「わたしは来月プロテストだからもうスパーリング大会に参加できないけれど、残ったメンバーで続けてもらえたら嬉しいな」と言った。優里花の言葉を聞いて、もうこのスパーリング大会で優里花と闘うことはないのだと柚葉は理解する。しかし、スパーリング大会で優里花ともう一度闘える機会があったとしてもそうしたいかというと柚葉には分からなかった。少なくとも今はそんな気持ちを抱けていない。  

 

 優里花が「それじゃあみんなお互い頑張ろうね」と言って、スパーリング大会は終わりとなった。解散となり、それぞれジムから出て行く。その姿を見て、柚葉もジムを出ようとしたところで、優里花が、

「陸人君。最寄り駅は上茶野だよね。碧原さんを近くまで送っていって」

 と言った。

 

「えっ別にいいよ」  

 と柚葉は断ったが、陸人は、

「俺は別にいいよ」  

 と柚葉と同じ言葉ながら反対の意味を言って、結局、一緒に帰ることになった。

 

「それじゃあね碧原さん」  

 と後ろから優里花に声をかけられ、柚葉は振り向いて「うん」と小さく答えた。  

 

 

 ジムを出て駅までの道をしばらくの間、無言で歩き続けた。こういう沈黙が嫌で断ったんだけどと柚葉は胸の内で思う。

 

「あいつ強かっただろ」  

 陸人が、前を向いたまま話しかけた。言われるまでもないと柚葉の顔は一層むくれる。しかし、次に出た陸人の言葉は、

「でも、あいつ小学生のときいじめられたんだよ」  

 と意外な事実で柚葉は目を見開いて陸人の顔へ振り向いた。

 

「あいつ可愛い顔してるじゃん。だからいじめっていうよりも気になる子にちょっかい出してる感覚だったんだと思うからいじめってほどじゃなかったのかもしれないけどな。でも、優里花はすごく嫌な思いでしてて学校に行くのも嫌になってたんだ」  

 

 いじめられたことはないが身に覚えを感じるような体験を優里花がしていて、柚葉はますます呆然とした顔になる。

 

「それで、優里花の叔父さんが元ボクサーで元原ジムでトレーナーをしてたから冗談半分で優里花にボクシングしてみるかって言ったんだよ。でも優里花は状況が状況だったから、ジムに行ってみたんだ。そしたらすごいはまったみたいで、いじめられるのとか関係なくボクシングにのめり込んでいって、気が付いたら男たちからちょっかい出されることもなくなってた。叔父さんは8回戦止まりのボクサーだったんだけど、優里花は叔父さんにすごい感謝してるから、それでプロボクサーになってチャンピオンになることをめざすようになったんだよ。同世代のスパーリング大会を開かこうと思ったのも、強くなるためにという一心からだったんだろうな」  

 

 陸人は長い話を終えて、

「まぁ、そういうわけだ」  

 と締めくくった。だから、スパーリングで負けたから気にするなと言いたかったのだろうと柚葉は受け止めた。  

 

 柚葉は「そうなんだ」とだけ答えた。“分かった“とまでは言えない。その言葉を出したら、二度と優里花に勝てない気がした。でも、彼女との実力の差はとてつもなく大きい。今はとても彼女ともう一度試合をしたいとは思えない。でも、プロボクサーになるのだから、彼女をいつか超えなきゃいけない。  

 

 あたしはいつか優里花に勝てるのだろうか?  

 

 柚葉は自問しても勝てるという言葉は出てこなかった。

 

「碧原はプロになるつもりなの?」  

 

 陸人の問いかけに柚葉は、

「うん」

 と答えた。相変わらず短い返事だけど、先ほどよりも声の音色が柔らかくなっている。

 

「そっか。プロテストはいつ頃受けるつもりなんだ?」

 

「再来月に16歳になるからその月に受けようと思ってる」

 

「あぁ、女子は16歳になったらプロになれるんだったよな」  

 

 男子は17歳にならないとプロテストを受けられないが、女子は16歳からと規定がなっている。これは女子ボクシングがJBCで統括される前の時代に大会を開いていた女子ボクシングの協会が16歳からと決めていた名残であった。

 

「碧原ならプロでもやっていけると思うぜ」  

 

 柚葉はぱっと陸人の顔を見つめた。

 

「お前の右ストレート良いもんな」  

 

 柚葉の頬が仄かに朱色に染まる。頬のあたりがじんわりと温かくて、地面に目を向けた。同年代の男子からボクシングをしていて肯定的な言葉を言ってもらったのは初めてのことだった。ボクシングをしていて馬鹿にされるのは嫌だけれど、肯定されるのはすごく嬉しい。柚葉はこれまで経験したことのない不思議な感触を覚えた。

 

「あれなら女子に脅威になるぜ」  

 

 陸人がさらに太鼓判を押してくれて、

「そうかなっ」  

 と声が裏返りそうな高い声で返した。

 

「篠見は……」  

 

 柚葉は陸人に何か聞きたいことがあったのだけれど、 

「何組?」  

 出てきた言葉は、何言ってるんだろうと自分でも思うもので、

「学校のクラスの」  

 と慌てて補足した。

 

「一年五組だよ。さっき優里花が言わなかったっけ」  

 陸人が不思議そうに答えた。

 

「あぁそうだったね……」  

 

 篠見もプロになるの? そう尋ねようとして、なぜかクラスを聞いてしまった。同じ学校に陸人がいることをあたしは喜んでいるのだろうか。柚葉はよく分からずにいる。でも————。  

 

 柚葉はオレンジ色の夕日を見上げた。優里花に完敗したけれど、陸人の言葉を信じて頑張っていこうと柚葉は誓った。

 

 

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