※この小説はAzaSketさんのキャラクターであるナディアをAzaSketさんのご了承を得て書かせていただいたパラレルワールドストーリーです。公式のストーリーではないことをご了承ください。

 

 

 ナディアがボクシングジムに通うようになって3年になる。彼女は仕事を終えると、ボクシングジムに行き、汗を流す。そうしてから家に帰る。それが彼女の日課だった。ナディアは学生だった頃にテニスをしていた。彼女はとても運動が好きだった。しかし、高校を卒業して仕事に就くようになり、テニスをする機会を失った。彼女は身体を動かしたい欲求を発散するためにボクシングジムに通うようになった。ナディアはボクシングに強い関心を持っていなかった。しかし、身体を思いきり動かせるボクシングをすることを好きだった。ナディアは運動神経が良かったのでボクシングの技術がとても上達していった。ジムの会長からプロボクサーにならないかと勧められたがナディアは会長の提案を断った。ナディアはボクシングの練習をするのが好きだったが、プロボクサーになりたいと思うほどボクシングに情熱を持てなかった。そして、ナディアは旅行会社に勤めていて、プロボクサーになると仕事に支障が出ると考えたのだった。

 

 3週間前、ナディアのジムに一人の中学生が入門した。彼の名前はベルトラン。ジムの中学生の練習生は彼で三人目だ。このジムのトレーナーは中学生にはあまり熱心に指導をしない。彼らがまだ子供だからだ。しかし、すでに入門していた二人の中学生はジムの大学生の練習生と仲良くなり、ボクシングの指導をしてもらっている。だが、ベルトランは内気な性格でジムの誰ともほとんど話をしない。そのために中学生の三人の中で彼だけが大学生から指導を受けていなかった。だから、ベルトランは一人で練習をしていることが多かった。

 

 ナディアはベルトランのその姿に弟を思い起こされた。彼女の両親は数年前に離婚をしていて、ナディアは弟と別れて生活をするようになった。弟もとても内気で友達を作るのが苦手だった。だから、ナディアはよく弟と一緒に遊んだ。その弟とバートランドの姿が重なったのだ。

 

 ナディアはベルトランをほっておけなくなり、彼にボクシングを教えようかと提案した。しかし、ベルトランは女性に教わることを恥ずかしく思い彼女の提案を断った。ナディアはベルトランの振舞いに機嫌を損ねて、ベルトランの前でサンドバッグを打った。サンドバッグは彼の前で激しく揺れる。その光景を見て、ベルトランはナディアに謝って彼女からボクシングの指導を受けることをお願いした。

 

 一人で練習していたころはベルトランはなかなかボクシングの技術が上達しなかったが、ナディアが指導をしてからベルトランのボクシングの技術はどんどん上達していった。最初は大きく離れていた他の二人の中学生との実力の差も少しずつ縮まっているように見えた。ベルトランはボクシングをどんどん好きになり、そして同じようにナディアとも親しくなっていった。

 

 ベルトランはナディアにプロボクサーになりたい思いを持っていることを伝えた。世界チャンピオンになるんだと彼は言った。そう言う彼の姿は無邪気で男の子らしく、ナディアは彼の夢を応援したい思いを持った。それからはいっそうナディアはベルトランのボクシングの指導を熱心にした。あと2年もしないうちにベルトランはわたしよりも強くなるだろう。それまでの間にわたしはは出来る限り彼にボクシングの技術を教えてあげたい。そういう思いを抱きつつナディアはベルトランを見守った。

 

 

 ベルトランがジムに入門して半年が過ぎたころ、彼は初めてジムでスパーリングを行うことになった。彼の相手を務めるのはジムのプロのボクサーだ。もちろん、二人の間に大きな実力の差があるのでプロのボクサーは手加減をした。しかし、それでもベルトランのパンチは一発も当たらずにプロのボクサーのパンチを何発も浴びた。プロのボクサーはだいぶ手加減をしてパンチを打っている。それでも、ベルトランは第2Rになってプロのボクサーのボディブローを受けてキャンバスに膝をついた。ダウンするほどの強いパンチだったとは思えない。しかし、ベルトランは立っていられずにダウンをした。ジムのトレーナーはベルトランに立つように言うが、ベルトランは立ち上ろうとしなかった。ジムのトレーナーはベルトランの弱腰な姿に激高し、スパーリングを止めた。ベルトランの初めてのスパーリングを見ていた他の練習生たちは溜息を付いて自分の練習に戻っていく。そんな中でナディアだけはベルトランを心配に思い、リングから降りた彼に近づいた。ベルトランは今にも泣きそうな表情をしていた。ナディアはベルトランに言った。

 

「初めてスパーリングをした時はみんなそんなもんよ」

 

 ナディアはバートランドを励まそうとしたが、彼は何も言わずにジムを出た。それからバートランドはジムに来なくなった。ナディアは心配になり、バートランドの携帯電話に電話をするが、彼は出なかった。  

 

 

 ベルトランがジムに来なくなり、1ヶ月が過ぎた。今もナディアはジムに来ると真っ先にベルトランの姿を確認する。ベルトランがジムに来て欲しい。だが、ナディアの想いは適うことなく日々は過ぎて行った。  

 

 さらに2週間が過ぎ、ジムの会長がジム所属のプロの四回戦の女子ボクサーに試合の打診をした。対戦相手はこの試合がプロで初めての試合だが、彼女はアマチュアの全国大会で二年連続優勝をしているアマチュアで立派な経歴を持った選手だった。ジムの新人の女子ボクサーは会長の打診を断った。会長は他の四回戦のプロの女子ボクアーにも声をかけたが、他の女子たちも会長の提案を断った。負けることが分かっていて試合を受けるボクサーなどそういるものではない。  

 

 ナディアは会長が首を横に振る姿を見て一つの思いを抱いた。そして、ナディアは会長に近づき、言った。私がその選手の試合相手を務めますと。会長ははじめ驚いた表情をしたが、嬉しいが君はプロボクサーになることを嫌がっていた。本当に良いのかと彼女の気持ちを確認した。ナディアは力強い目で首を縦に振った。  

 

 それから、ナディアはプロボクサーのために練習メニューをこなすようになった。それはこれまでの練習よりも何倍もきつい練習だった。それでも、ナディアは弱音を吐かずに練習を続けた。  

 

 

 ベルトランの家にジムに通う一人の中学生が行った。ベルトランと会った彼は言った。ナディアがプロのリングに上がり、アマチュアでとても強かった選手と試合をすることを。その話を聞いて、ベルトランは驚いた表情をして彼に聞いた。

 

 なぜ、ナディアがプロのリングで強い人と試合をするの?

 

 彼は「それはナディアの意思だ」とだけ言って、帰って行った。ベルトランは家の中に戻って、自分の部屋に入りベッドの上で呆然としていた。

 

 なんで、試合をするのナディア……。

 

 

 翌日、ナディアは仕事を終えて家の近くの駅に着くと、改札を出たところでベルトランの姿を見つけた。ベルトランが近づいてきて、ナディアに言った。

 

「マイクから話を聞いたよ。プロボクサーにならないって言ってたのに何で試合をするのナディア?」

 

 ナディアは表情を曇らせる。

 

「僕のためだったら止めてくれよ」  

 

 ナディアは首を横に振った。

 

「あなたはスパーリングで痛い思いをしてボクシングを止めた。でも、わたしはリングの上で殴り合ったことすらないわ。だから、一度わたしも体験しておかなきゃって思っただけよ。パンチの痛みをね」

 

「何を言ってるんだよナディア。怪我をして会社の仕事に影響が出たらどうするのさ」

 

「その時はその時よ」  

 そう言って、ナディアは微笑み、右手を上げて彼に別れの挨拶をした。

 

 

 試合当日。リングの上で青コーナーに立つナディアの姿をベルトランは観客席の後ろの方から見ていた。この前は僕にいろいろと言ったけど、結局僕にジムに戻って欲しいからなんだろ。でも、ナディアが何をしようと僕はもうボクシングは止めたんだから。不貞腐れ気味にリングを見つめるベルトランだが、その一方でナディアが無事にリングから降りて欲しいことを願う思いも強く持っていた。二つの思いが彼の胸の中を支配して、辛い思いをしながらベルトランはリングの上のナディアを見つめる。  

 

 そして、試合開始のゴングが鳴った。対戦相手のアリスは軽快なフットワークを使ってリング上を動く。おそらくアリスはアウトボクサーなんだろう。一方のナディアも距離を取って慎重にアリスを見る。ナディアのボクシングスタイルをベルトランは知らないが、その姿を見て、ナディアもアウトボクシングをするのだと思った。  

 

 ナディアとアリスがミドルレンジからパンチを放つ。左ジャブを中心にし右のストレートを混ぜた基本に忠実なボクシングを行う二人。しかし、その実力の差は歴然だった。ナディアのパンチは空振りを続け、アリスのパンチだけが一方的に当たっていく。バートランドに自分がジムのプロボクサーと初めてスパーリングをした時のことを思い出させるほどに、二人のボクシングの実力差は離れていた。もちろん、アリスはジムのプロのボクサーのように手加減をしてくれるはずがない。アリスのパンチが当たるたびに激しい音がナディアの身体から生じる。その音を聞くたびにバートランドは目を背けたくなる思いになった。アリスがアウトボクサーでありながらも高いパンチの威力を持っていることはバートランドにもすぐに分かった。  

 

 やがて、ナディアのパンチが止まり、アリスだけがパンチを放つようになる。試合はますますアリスのワンサイドゲームに傾いていく。想像していた通りに試合は展開していき、もう勝負はついたものだと誰もが思うようになった。観客席の空気は緩まり、アリスがいつナディアをノックアウトするかに関心が移る。この試合の勝敗の行方を楽しむ者などもう誰一人いなかった。その中で、ベルトランは早く試合を止めてよと願っていた。  

 

 パンチが出なくなりアリスのパンチを中間距離からいいように浴び続けていたナディアが反撃に出た。右のストレート。ナディアの目にはまだ力強さが残っている。闘志に満ちた表情をしている彼女はまだ試合を諦めていなかった。  

 

 しかし————。  

 

 一際激しいパンチの音がリングの上から響き渡る。あまりに一方的になり緩慢な空気になっていた観客席から歓声が起こった。観客の目を釘付けにするほどの美しいパンチがリングの上では決まっていた。ナディアの右ストレートはかわされ、アリスの左ストレートがクロスカウンターとなってナディアの右頬に打ち込まれている。両腕がクロスして、アリスの左拳が頬にめり込まれているナディアの顔は醜悪に歪み、その目はもはや何も捉えていなかった。アリスが勝ち誇った表情を見せ左拳を引くとナディアは後ろへ派手に倒れ落ちた。背中から強烈な音を立ててキャンバスに倒れこむナディア。その光景はあまりに鮮烈で観客の予想を遥かに超える実力を見せたアリスに賛辞の拍手が一気に沸き起こった。  

 

 前評判以上の強さを観客に見せつけ、アリスは両肘を最上段のロープに載せて満足げな表情で自分のボクシングによって打ちのめされた対戦相手の姿を見下ろす。まだわたしと同じデビュー戦のリングなのにわたしの対戦相手になって可哀想よね。そう思うアリスだが、それは同情というよりもあなたごときの実力でリングに上がるべきじゃなかったのよという中途半端な実力でリングに上がった者への侮蔑の感情からであった。  

 

 ベルトランは下を向いて、早く試合を止めて欲しいと願った。そして、ナディアが無事であることをひたすらに願った。下を向くベルトランの耳に一層の歓声が聞こえてきた。何が起きたんだろうと顔を上げてリングを見るベルトラン。リングの上には立ち上がりファイティングポーズを取っているナディアの姿があった。  

 

 ナディア……。  

 

 レフェリーが試合を再開したところで第1R終了のゴングが鳴った。インターバルで顔が下を向き辛そうな姿を見せるナディアだが、セコンドの指示に弱々しく頷き、セコンドたちから試合を止める気配は伺えなかった。  

 

 第2R開始のゴングが鳴った。弱々しい足取りで青コーナーを出るナディアに対して、颯爽としたステップで赤コーナーを出るアリス。その対照的な姿が第2Rの展開でもリングの上で反映されていく。アリスの左ジャブをいいように浴びるナディア。一気に距離を詰めて攻めていけばすぐに試合を終わらすこともできるのに、アリスは自分のボクシングに徹して攻めていく。アマチュアのボクシングで染みついたスタイルなのか、それともいつでも決めようと思えば試合を終わらせられる余裕からなのか。どちらにしろ、アリスが中間距離から一方的に左ジャブを浴びせ続け、ナディアの顔面はますます悲惨な形に変わっていった。両方の瞼がぼったりと腫れ上がり、わずかに開くばかりになったナディアの目にはもう第1Rのころのような力強さは消え去っていった。弱々しい目は今にも崩れ落ちそうなそのファイティングポーズそのものであった。  

 

 グワシャアァッ!!  

 

 アリスの左ジャブの雨を浴び続けても立ち続けてきたナディアの顔面にアリスの右ストレートが非情にも突き刺さる。唾液にまみれたマウスピースを吐き出し両腕を広げて、後ろへ倒れ落ちていくナディア。 ばたんと派手な音を立てて大の字になってキャンバスに倒れこむ。レフェリーがダウンを宣告してカウントを取り始めるが、ナディアはぴくりとも動かない。口をだらしなく開け弛緩しきった表情で天井を見上げている。  

 

 天井のライトに眩しく照らされて、視界がぼんやりとしている。レフェリーのカウントまでもがぐにゃりと聞こえてくる。すべてが麻痺した感覚の中にいるみたい。

 

 わたしは十分にやったと思う。一ヶ月前までプロボクサーになろうとも思わなかったわたしがアマチュアでチャンピオンだった相手に2Rまで闘ったのだ。だからってバートランドに何かを言えるようなことは出来ていない。これがわたしの限界なのだ。わたしじゃ何も変えられない。でも……。心の奥底ではまだ試合を諦めたくない思いが強くある。このまま試合を終わらせたくない。こんなに痛くて辛い思いをいっぱいしたのに。なぜなの……。ベルトランのため? そうではない。わたしの両親はわたしが学生だった頃に離婚をした。そのために弟と離れ離れの生活になってしまった。大切なものが近くにいなくなった喪失感。あの時の虚しい思いをもう一度繰り返したくない。わたしが強ければわたしが強かったらわたしは大切な者をもう失わずにすむのかもしれない。だから、わたしはこのリングに上がったんだ。  

 

 ナディアが右手でマウスピースを掴み、口にくわえる。そのナディアの姿に場内がどよめく。ナディアがカウント9で立ち上がる。レフェリーが試合を再開した。ニュートラルコーナーで待機していたアリスが不快な表情を見せてダッシュして距離を一気に詰めてきた。弱々しくたったままのナディアにボディブローを打ち込み、そこから左右のフックを連続して叩き込んだ。睨みつけるような目でアリスが先ほどまでのスタイルを一変させて力強いパンチを何度も打つ。早く試合を終わらせるという強い意志をそこには感じられた。  

 

 その時、ナディアの右ストレートが当たった。パンチの音は軽くたいしたダメージは与えられていない。ナディアはさっと後ろへステップして安全な距離へ逃げた。だが、パンチのダメージからパンチの当たらない距離に離れるので精一杯だった。そこからフットワークを使って相手を惑わすほどの体力は残っていない。弱々しいファイティングポーズで相手を見つめ続ける。アリスの逆上した表情がさらに怒りで歪み、彼女は一気に前に出た。左のストレートを放つ。

 

 その瞬間、ナディアが右のストレートを放ち、アリスよりも早く相手の顎を打ち抜いた。カウンターとなった一撃にアリスの首がぐにゃりと曲がり、身体が反転してうつ伏せの体勢でキャンバスに崩れ落ちた。思いもしない展開に場内がしんと静まり返る。レフェリーがダウンを宣告し、ナディアにニュートラルコーナーに待機するよう指示した。場内がどっと沸き起こった。この日一番の大歓声となった中で、レフェリーがアリスの前でカウントを唱え続ける。先ほどまでの逆上した表所は消え呆然とした表情でキャンバスを見つめるアリス。戦意が喪失したかのように見えたが、アリスはカウント8で立ち上がった。ここで第2R終了のゴングが鳴った。  

 

 ノックアウト寸前まで追い詰めれたナディアの大逆転劇にベルトランの胸が高鳴っていく。どきどきと激しく打つ胸の鼓動を感じながら勝ってよナディアと願った。  

 

 そして、第3R開始のゴングが鳴った。ナディアもアリスも距離を取って相手の様子を見る。先にパンチを打って出たのはアリスだった。二発の左ジャブを打つ。ナディアはガードでしのぐ。まだ相手には多くのダメージが残っている。そう読み取ったアリスが強気に左のフックを打った。しかし、ここでまたもナディアの右のカウンターのフックが決まった。アリスが一歩、二歩と後ろへ後退する。  

 

 信じられないという表情で口を開けてナディアを見るアリス。カウンターパンチはアリスの得意のパンチだったが、ナディアも引けを取らないくらいにカウンターパンチを見事に決めてくる。だが、一方のナディアは試合前まで自分がカウンターのパンチを得意としていると思っていなかった。それどころかスパーリングでカウンターパンチを決めたことさえなかった。しかし、彼女は学生時代にテニスをしていてそれで動体視力の能力がとても高められた。そして、試合の最中にアリスにカウンターのパンチを決められたことで、カウンターパンチを打つタイミングを身体で覚えこんだ。それがきっかけでナディアの中に秘められていたカウンターパンチの資質が開花しようとしていた。  

 

 ナディアが左のジャブを放つ。このパンチもアリスの顔面にヒットした。ナディアの左ジャブのスピードはこの試合中に上がったわけではない。しかし、ナディアにカウンターパンチがあることが分かり、アリスのディフェンスに迷いが起き始め、他のパンチももらうようになっていた。

 

 ナディアもアリスも中間距離からジャブとストレートを打って出る。相手のカウンターパンチを警戒して、隙の少ないパンチで攻め合う。ダメージが身体に大きく残っている二人はパンチを避けきれずに共にパンチを浴びる。出せばパンチが当たるような中間距離での打撃戦。しかし、相手のカウンターパンチが脅威で大きなパンチを放つことは出来ない。だが、二人のパンチは次第に大きくなっていき、その距離も少しずつ縮まっていっていた。シャープなパンチを放とうにもその力さえ無くなっていき、段々とストレートよりも打つのが楽なフックを当てやすい距離へと身体が自然と反応して動いていった。お互いにダメージを抱えた中でも基本に忠実なボクシングをしていた二人がいつしか大振りなパンチの打ち合いへと変わっていった。相手のカウンターパンチを警戒する余裕さえ持てなくなり、ただ相手を倒したいためだけに今打てるパンチを打つ。技術を出せなくなり本能だけで闘い合うナディアとアリス。美しい外見を持ちながらひたすらに殴り合う野獣のような姿をみせる二人に観客は熱狂する。そして、その中でベルトランは心からナディアの勝利を願った。

 

 絶対勝って、ナディア。  

 

 足を止めて打ち合うナディアとアリス。もう目の前の相手がカウンターパンチを得意としていることすらも意識の中から消え、ただ目の前の相手を倒すためだけに一心不乱にパンチを放っている。何度も強烈なパンチの音が生じ、そのたびに呻き声、血、唾液が漏れた。高いカウンターパンチの能力を持った二人がそれを忘れて原始的にひたすら殴り合い続ける。しかし、勝負を決めたのはやはり二人が得意とするパンチ、カウンターパンチであった。  

 

 グワシャアァッ!!  

 

 この試合で一際激しい打撃の音がリングから響き渡る。激しい打撃の応酬が一転して止まった。リング上の静寂さは観客席にまで染まり、観ている者は表情を固まらせて激しい打撃戦の結末を物語る二人の姿を見続けた。ナディアの左頬にはアリスの右フックがめり込まれ、アリスの右頬にもナディアの左フックが打ち込まれている。両腕をクロスして、足を止めたまま相手の顔面へパンチをめり込ませたまま微動だにしないナディアとアリス。ナディアの頬は歪み大きく見開かれた右目は何も捉えておらず、一方のアリスもナディア同様に頬を歪ませて目は虚ろであった。  

 

 音は消え動きは止まり何もかもが固まった場内で一つの変化が起きる。 アリスのパンチが頬にめり込み大きく歪んでいたナディアの口からマウスピースが吐き出された。血に染まったマウスピースがぼとりとキャンバスに落ち、口の端から血がぽたぽたと垂れ流れるナディアの身体はやがて全身が痙攣を起こし始めた。口の歪みはさらにいびつになり、ナディアの顔面が一際醜悪に歪む。パンチが頬に食い込み苦悶の表情を浮かべながらもかろうじて立ったままでいられているアリスに対して、ナディアの方はパンチのダメージに完全に打ち負けていた。得意のパンチをお互いに相手に決め合った美しき光景は、わずかにアリスが上をいき、そして、打ち負けたナディアは散りゆく花のように両腕がだらりと下がりふらついた足取りで後退しながらキャンバスに崩れ落ちた。  

 

 仰向けに大の字にキャンバスに倒れ、身体がびくびくと痙攣を起こすナディアの姿にレフェリーは両腕を交差して試合を止めた。  

 

 カーンカーンカーン!!  

 

 試合終了のゴングが高らかと鳴る。満身創痍の姿でレフェリーに右腕を上げられて勝ち名乗りを受けるアリスに対して、拍手喝采が送られる中、ベルトランはセコンドから介抱を受けたまま動けずにいるナディアの元に駆け付けたい思いを堪えたまま不安な表情で彼女の姿をじっと見つめ続けていた。  

 

 

 一週間が経ち、ナディアはジムでの練習を再開した。試合でのダメージはもうない。顔を腫らした顔で職場に行って上司からはこっぽどく怒られたが、注意されただけに留まった。彼女の日常は元に戻る。そして、ジムの隅でサンドバッグを叩くベルトランの姿を見つけ、微笑みを浮かべて声をかけるのだった。  

 

 それから、一年が経った。空港のロビーには大きなカバンを足元に置いたベルトランとナディアがいた。

 

「日本でもボクシングを続けるの?」

 

「もちろん。世界チャンピオンになるって約束したじゃないか」

 

「どの口が言ってるのよ」  

 

 そう言ってナディアはベルトランの頭の上をげんこつで叩いた。

 

 ベルトランは両親の仕事の都合でフランスから日本に引っ越しをすることになったのだ。

 

「ナディアはこれからどうするの?またプロのリングに上がるの?」  

 

 アリスとの試合が終わってからナディアは一度もプロのリングに上がっていなかった。プロと同様の激しい練習を積む日々を送っているが、まだ試合には一度も出ていない。次、試合に出て顔を腫らして職場に出たら今度こそ仕事をクビになるにちがいない。次に試合に出るということはそういうことを覚悟しなきゃいけないことになる。

 

「そうね……」  

 ナディアはそう言ったまま黙りこくった。今の仕事をクビになってでも闘いたい、それだけの理由がないとリングに上がる気にはなれない。でも、自分のことではどうもそこまでのモチベーションを持てないようであることをこの一年間プロのリングにもう一度上がろうか自問しながらナディアは気付いた。もう一度リングに上がることになるとしたらまたベルトランが関係したことになるのかもしれない。でも、それはベルトランの生活にどうにもならないことが起きた時である。そんなことを期待したいわけがない。だから、わたしはこのままリングに上がらずにいるのが良いことなのかもしれない。でも、そうであって欲しいと願う気持ちになれない複雑な思いを抱く。もう一度、熱い思いをリングの上でぶつけてみたい。あの時の熱い思いをもう一度……。  

 

 ナディアは右手の人差し指を天に向けた。

 

「この先は神様だけが知ってると思うわ」  

 

 そう言って、ナディアは片目を瞑りにっこりと微笑んだ。

 

 おわり

 

 

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