今日が最後の日だった。いつものように夕方の4時にジムに着いてトレーニングウェアに着替える。白色のTシャツにサテン生地の赤色のトランクス。そして、両拳にはバンテージ。でも、拳はまだ使わない。外へロードワークに出る。早朝に8キロ走ってるから、夕方のロードワークはどちらかといえば土手沿いの道までの移動手段であって草だらけの平地をダッシュ走するのがメインであった。

 

 ジムに戻ったらまずはシャドーボクシングで身体をならす。それから、ようやくボクシンググローブをはめてサンドバッグ打ち。それが終わるとまたボクシンググローブを外して、パンチングボール、ロープ(縄跳び)、マスボクシング、ミット打ちとメニューをこなしていく。その多くが3分こなしたら1分の休憩をセットにしている。休憩の間でもボクシンググローブをはめたり外したり、縄を用具置き場から持ってきたりと準備しているから休憩というほどに休めずいつも身体を動かしている。だから、汗が止まるということはなく、練習の間は汗にまみれて髪の毛はべっとりと額に張り付いたまま整えることもできない。最後の日でもそれは変わりなく、身だしなみの乱れにもかまわずみずきは一心不乱に練習を最後までやり遂げた。

 

 リングの外から時計の音が鳴って、トレーナーの合図でみずきはトレーナーのミットめがけて打っていた両拳をすっと降ろす。はぁはぁと肩で息をしながら、「ありがとうございました」と言って一礼した。今日一日分だけでなくて今日までの二年間分の感謝も込めて。

 

 リングから降りると、みずきは両拳からボクシンググローブを外して用具置き場に並んでいるグローブの隣に戻した。皮の素材に汗がたっぷり染み込んだすえたグローブの匂いにみずきは辟易していたが、今日だけはボクシンググローブを手放すのが名残惜しく感じられた。練習の大半を共にした道具なのだ。染み込んでいるのは汗だけじゃなかった。置いたグローブの膨らんだナックルの個所を右手でポンッと触れて手を離すと、みずきはくるりと踵を返した。

 

「おつかれさまだね」  

 そう言って、みずきの前に立ったのはジムの会長だった。

 

「こちらこそ二年間お世話になりました」  

 

 みずきは深々と頭を下げる。

 

「みずきちゃんならプロでチャンピオンになれると思ってたんだけどな」  

 

 しんみりとした会長の言葉に顔を上げたみずきは、

「あたしもプロのチャンピオンを目指してたはずだったんですけど、夢が二つ出来ちゃって、もう一つの夢は高校でしか出来ないことだから」  

 と言って舌を出した。

 

「うん、良い選択だと俺も思う」  

 

 昔はボクサーだったとは思えない柔らかな会長の言葉にみずきはもう一度小さく頭を下げた。線のように細くやや下がり気味の目をした会長の顔は淡白で一見すると何を考えているのか分かりづらい。でも、その分一つ一つの言葉に重みと温かみが感じられる。

 

「名札はさ、外さずにそのままにしておくよ」  

 と会長は言った。

 

「会長っ、そういうの重いっすよ」  

 

 近くでシャドーボクシングをしていたまさきがにやついた顔で言った。

 

「戻ってくるかなんて分からないっすから」

 

「何言ってるのまさきっ。あたしそんな薄情じゃないからっ」  

 

 みずきがまさきに向かって、ベロを出した。みずきとまさきは同じまだ15歳の中学生だ。入門はまさきのほうが若干早いが二か月も変わらない。そのため、ジムのある地域に住んでいながら小学校も中学校も違っていた二人だったが、今日のように冷やかしてじゃれ合うことはこれまでに数えきれないほどあった。

 

 みずきは会長に顔を戻して、

「インターハイチャンピオンになって、あたし絶対戻ってきますから!」  

 と快活な笑顔で言った。別れの日と感じさせない、春の季節に溶け込む爽やかな彼女の笑顔にジムの中に太陽に包まれたかのような空気が流れた。  

 

 

 三日後、高校生になったみずきは登校二日目で初めて六時間目までの授業を受けた。帰りのホームルームが終わると、一目散にボクシング部の練習場に向かった。しかし、練習室の鍵はかかっていてあかず、中も灯りは点いていなかった。早く来すぎたかなとみずきは扉の前で20分待っていたがそれでも誰も来ず、仕方なく職員室へと向かった。

 

 ボクシング部顧問の先生は真垣といって、まだ三十歳くらいの年齢で髪を真ん中で分け、細くて若干垂れた目をしていてその雰囲気はどことなくジムの会長を連想させた。武骨さからは遠い雰囲気であるが清潔感のあるその身だしなみは教師として見れば違和感はまったくなかった。しかし、その身体はスーツ姿からでも引き締まった肉体であることが分かり、やはりボクシング経験者なのだろうかとみずきに思わせた。

 

 みずきが入部希望を伝えると、真垣は「おぉっそれはありがたい」と言ったものの、すぐに両腕を組んでふぅっと息を付いた。

 

「君で一人目なんだよ」 

 

「新入部員がですか?」  

 

 みずきの確認に真垣は首を横に振る。

 

「全部員数がだ」  

 

 真垣が両腕を組んだまま、唸るように言った。みずきは目を大きく開いて、

 

「じゃあっ二年生も三年生もいないんですか!?」  

 と言った。みずきの驚きの声に真垣は、

「三年生が卒業してゼロになった。一年生も二年生もいなかったんでね」  

 目を瞑り首を振って答える。

 

「星乃空高校ってボクシングは強豪校でしたよね!?」  

 

 まだ現実を受け入れられないみずきの確認の言葉に、真垣は、

「それは十年も前のことだ」  

 と言葉を返して、 「最近は部活よりもジムの方が良いって子ばかりでね。これも時代ってやつかねぇ」 とどこか他人ごとのように言った。そんな半ば諦めたような真垣の態度にみずきはじれったさを感じて、両拳を強く握りしめた。先生、もっとしっかりしてよと言いたくなる。すると、真垣がみずきの顔を見て、

「ところで君はボクシング経験はあるのかい?」  

 と聞いた。

 

「はいっ、ボクシングジムで二年間」  

 

 真垣の口調は相変わらず淡々としているが、みずきの声はよく通り快活だった。一年生らしいやる気に満ちた声だ。

 

「素晴らしい」  

 そう言って真垣は柏手を打った。素晴らしいというほどのことでもないし、まして、柏手を打つものでもない。その声も抑揚のない平坦なものであった。真垣の大袈裟で感情の伴ってない言動にみずきは嬉しがるどころかあまりの違和感に戸惑いを見せる。眉をひそめたその表情に浮かんでいるのは不信の色といってもよかった。

 

「では君に早速、指示をしよう」  

 

 ほらっきた。指示という真垣の言葉にみずきは身構える。

 

「部員を五人集めてくれたまえ」

 

「えっあたしがですか!?」  

 

 みずきは自分を指差して聞き返した。

 

「そうだっ君しか部員はいないんだから」  

 

 一年生に対しても真垣は平然と言う。

 

「まあ君は一年生だから気張らないでいいからと言いたいところだけど、そこはしっかりとやってもらいたい」  

 

 ちょっと待ってとみずきは言いたかった。一年生で入学してまだ三日目。高校のこともボクシング部のことも右も左もよく分かってないのにあたし一人で部員を集めなさいと言われても困る。しかし、みずきが意見を申し出る隙を与えず、真垣は言った。

 

「五人集まらないと部として認められないからね」  

 

 それは決定的な一撃だった。 みずきは真垣の指示を受け入れ真垣から部室と練習場の鍵を渡され、職員室を出た。はぁっと項垂れてこの調子で大丈夫かなぁと声を漏らした。しかし、二三歩廊下を歩くと不思議と気持ちは前に向こうとしていた。頬を左右の手で張って、下を向いていた顔を上げる。あたし一人しかいないんだからあたしがやるしかないじゃない。気持ちを持ち直したみずきは両拳を握り胸元まで上げてファイティングポーズを構えると、この難題にも負けないぞと心の内で呟きながら右ストレートを空に疾らせた。  

 

 

 みずきは毎朝、30分早く学校に来て校門の前でボクシング部部員募集のちらしを生徒に渡した。放課後も週に二度練習の前の30分間で再び校門の前で帰宅する生徒にちらしを渡した。放課後ならまだしも朝の登校時までというドラマや漫画のような勧誘の仕方を実行する生徒はみずきだけだった。部員は一年生の自分一人しかいない。廊下の掲示板にもポスターを貼って待ってるだけじゃとても五人集まるとはみずきには思えなかった。  

 

 その涙ぐましい努力もあって、一週間でなんとか二人の部員が加わった。二人とも一年生の女子生徒だった。吉見ユウナと時野しずる。ボクシングの経験は二人ともないが、練習にも積極的に出てくれて、校門前での部員勧誘も手伝ってくれた。

 

 しかし、その後は入部希望の生徒は一人も現れなかった。もう一週間が過ぎた。部員数の期限は四月いっぱいまでである。四月はゴールデンウィークの連休があるのだから残りは七日しかない。練習が終わった後、みずきたちボクシング部の三人は緊急会議と銘打ってマクドナルドに寄って話し合った。お題目はもちろんどうしたら五人の部員を集められるかだ。

 

「ねぇ、どうしたらいいと思う。この二週間、ずっと部員集めのこと考えてたけど、あたしじゃチラシ配りと掲示板のポスターくらいしかアイデア出なくてっさ」  

 

 二つのテーブルを付けて両隣に並ぶユウナとしずるを前にしてみずきが言った。

 

「そう言われてもねぇ」  

 

 両手を後頭部に回してガサツにもリラックスしているようにもみえる仕草で言ったのはユウナだった。

 

「わたしだって頭使うより身体動かす方が好きだから女子ボクシング部に入ったくらいなんだからさぁ」

 

「だからこうして集まってるんじゃない。三人集まって話していくうちに何か良いアイデアが出るんじゃないかってさ」

 

「そうは言ってもねぇ」  

 

 ユウナがまた同じような台詞を言ってポテトを一つ口にくわえる。

 

「アイデアがまとまらないかぎり今日は帰さないからね」  

 

 みずきが声を大にして言うと、ユウナがポテトを口にくわえながら出がらしの出きったお茶を飲んだように渋い顔をした。

 

「こういう場合、みずっちの勧誘で誰が入部したかというところに着目した方が良いと思うんすよ」  

 

 開始早々にアイデアがないと行き詰まりかけた中で新たに発言したのはしずるだった。しかし、まるでビジネス会議のようなしずるの言葉になんだかよく分からずみずきとユウナが首を捻る。二人とも難しい説明は苦手だった。

 

「入部したのはわたしとゆっちんじゃないっすか」  

 

 そこは分かるので二人ともうんと頷いた。

 

「つまり女子がボクシング部の勧誘をしても男子生徒は入ってくれないってことになるかと思うんす」  

 

 うんうんと二人は再び無言で頷く。

 

「だったら女子生徒だけに狙いを定めて、もういっそのこと女子ボクシング部にしちゃった方が確率は上がると思うんすよ」  

 

 みずきとユウナがお互いの顔を見合った。目を丸くした顔を見続けてから、みずきがその目をさらに大きく見開いて口も大きく開けてしずるを人差し指で指差した。

 

「それだっ」  

 

 翌日、みずきは職員室で真垣に女子ボクシング部への変更の相談を持ちかけた。みずきの説明を聞いた真垣は「これも時代の流れってやつかねぇ」とまたしても他人ごとのように言うのだったがみずきの顔を真面目な顔で見ると「いいよ」と意外にもすんなりと了承してくれた。一歩前進と喜ぶみずきだったが真垣は「ただし」と言って、「女子ボクシング部は一年限定、翌年にもう一度ボクシング部に戻すべきか検討するからね」と条件も課せられた。仮の段階であるものの女子ボクシング部になったみずきたちは改めて入部の勧誘の活動を再開して、ついに二人の部員を集めることに成功した。期限まで残り二日、4月27日となっていた。こうして日本で初めての女子ボクシング部が誕生したのだった。  

 

 

 女子ボクシング部が正式に認められてから三週間が経った。みずき以外の四人の部員もほぼ毎回練習に出てくれて、顧問の真垣も熱心にボクシングの指導をしてくれた。真垣は元ボクシング選手だったらしく、指導の仕方はみずきのジムのトレーナーと比べても全く見劣りしないほどだった。女子ボクシング部員はみずき以外は初心者だったものの熱心に取り組んでくれて真垣の指導の上手さもあって着実に実力をつけていた。部の活動は順調に進んでいるといってよかった。それでみずきは前々から考えていたことを行動に移した。部員が自分一人だった頃から五人集まったらやろうと決めていたこと。ボクシング部の練習場に部員が全員揃うと、みずきは壁に垂れ幕を貼った。白くて長い紙には黒文字で目指せインターハイ優勝!という文字が書かれていた。

 

「やっぱりモチベーションを上げるには目標が大事じゃない。そう思ってさ昨日書いたんだ」  

 とみずきは言って振り返り、皆の反応を確かめた。

 

「大きく出たねぇ」

 

「インターハイかぁ。ロマンってやつっすねぇ」

 

うわっこれ以上練習ハードになったらどうしよう」

 

 前向きな声も気後れする声もあるけれど皆の表情は明るい。やっぱり、書いて良かったとみずきは思う。そこに声が挟まれた。大人の男の声の、それは真垣の声だった。

 

「盛り上がってるところ悪いんだが————」  

 

 女子部員たちの後ろに立つ真垣に視線が集まる。

 

「ボクシング部の女子にはインターハイがないんだよ」 

 

「えっえっえっ・・・じゃあわたしたちは大会には出られないってことなんですかっ?」  

 

 ユウナが戸惑いながら尋ねた。

 

「インターハイにはね」

 

「じゃあ他の大会はっ?他の大会も無理なんですか?」

 

「高校ボクシングには大きく三つの大会がある。夏のインターハイ、10月の国民体育大会、3月の選抜大会。全ての大会を優勝すると高校三冠と呼ばれるんだがね」  

 

 真垣は右手で頭部を抑える。それから、

 

「しかし、それはどれも男子しか出られなくて女子は出場できなくてね」

 と言った。

 

「じゃあやっぱりわたしたちは出られないってことじゃないですか」  

 

 ユウナが大袈裟にがくっと顔を下げる。

 

「そうでもないさ」  

 

 ユウナだけでなくて他の女子部員たちも意気が下がった反応を表していたものの、再び真垣の言葉に耳を傾けた。

 

「全日本女子ボクシング選手権がある。これはアマチュア選手のための大会だが、男子と違い女子は高校生の部もある。これまでうちの女子部員たちはこの大会を目標に頑張って来た。だから、君たちも悲観することはないってことだ」  

 

 ユウナが「なんだぁ」と言い、皆がほっとする反応をみせる。しかし、みずきだけは真剣な眼差しを真垣に送り続けたままでいる。

 

「知ってました……」  

 

 みずきがぽつりと言い、それから

「インターハイに女子は出られないってことをあたし知ってました」  

 と強い言葉で言った。その声には切実な色が伴っていた。みずきは続けて言った。

 

「それでも出たいから、だから、垂れ幕に書いてきたんです」  

 

 強い意志をにじませるみずきの言葉に和らいでいた場の空気が一転して固まる。そんな状況でも真垣は飄然とした様子で、

「女子の歴史は浅いとはいえ全日本ボクシング選手権も立派な大会なんだがねぇ」  

 と言った。

 

「インターハイじゃなきゃ…インターハイじゃなきゃダメなんですっ」  

 

 みずきは引き下がらない。変わらずに強い意志をぶつけていく。そんなみずきの姿を目にして真垣は髪の毛をまさぐりやれやれとでも言うような表情をみせる。

 

「中途半端な気持ちで言ってるわけじゃなさそうだ」  

 

 一見理解を示しているようにもみえた。

 

「だがねぇ────」  

 

 真垣が真剣な眼差しをみずきに向けた。

 

「女子ボクシングの歴史はまだ浅い。インターハイに女子の部門が出来るのはまだまだ時間が必要とされるだろう。君が高校生でいる間に実現する可能性は極めてゼロに近い。個人の意思にとやかく言うことはしないが、女子ボクシング部全体の目標として現実的でない目標を掲げるわけにはいかない。申し訳ないがその垂れ幕は外させてもらうよ」  

 

 真垣が毅然と言い、壁に向かう。

 

「先生、垂れ幕くらい別にいいじゃんかっ」  

 

 ユウナが真垣の前に立って、機嫌を取るような明るい声で言った。

 

「そういうわけにはいかない。中途半端な気持ちで君たちを指導しているわけじゃないんだ」  

 

 真垣はユウナの身体を左腕で除けて壁に貼られている垂れ幕を取り外した。そして、その紙を二重三重に折りたたんでみずきに差し出した。 

 

 ずっとずっと心の内に秘めていた思いはあっさりと却下された。目の前に戻された垂れ幕が、自分の思いが無下に扱われたようでみずきは悔しくて唇を強く結んで下を向いた。受け取れるものか。紙にこめた思いが蘇ってきて、身体が震え出した。みずきは真垣に背を向けて練習室を駆け足で出て行った。

 

 

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