五年ぶりの再会。いや、前日には会っているのだから、リングの上では、この日が五年ぶりとなる。赤か青のタンクトップを着て、両拳にはそのタンクトップと同じ色の、ナックルの箇所だけが白色のボクシンググローブをはめてリングに立っていたのが高校時代。プロボクサーとなった二人は、柚葉が黒色のスポーツブラに青色のトランクス、友加里が上下ともに赤色のコスチュームを身に付けている。肌の見える箇所が増え、鍛えられた腹筋が露わとなっている。それだけではなく、ガウンまで身に纏う柚葉と友加里の姿は、高校時代からは想像がつかないくらいにプロボクサーとしての風格を備える姿へと成長していた。しかし、その風格にも柚葉をずっと支えてきた立場の者なら凝視を避けたいほどの差がまだ二人にはあった。友加里の腰に巻かれている金色の輝きを放つチャンピオンベルトだ。チャンピオンとしてリングに立つ者とそうでない者。その二人の立場の差は腰に巻かれたチャンピオンベルトを見れば一目瞭然であった。高校時代、二年時にインターハイで優勝し、ディフェンディングチャンピオンとなって臨んだ三年の大会でも友加里は対戦相手と変わらぬ姿でリングに上がった。そして、決勝戦に勝ち上がった柚葉は前年度王者の友加里と闘うことになっても、二人の立場は対等に扱われていた。しかし、プロのリングではそうならない。王とそうではない者には明確な差がある。
そして、二人の立場の差は赤コーナーと、青コーナー。さらにコーナーの色と同色の赤色のボクシンググローブと青色のボクシンググローブと、ここでも二人の立場の差は明確にされていた。ただトーナメントにエントリーされた順にコーナーもボクシンググローブの色も指定されるアマチュアのボクシングとここでも違いが出ていた。
技術を競い合うのではなく、どちらが強いのかを決める。厳しさを増したプロのリング、そして日本のボクサーの頂点を決める舞台に、柚葉と友加里が立ち上がった。アマチュアの爽やかなものとは違う、緊張感が溢れ武骨な空気が立ち込めるプロのリングに立ち、そして、その最高峰のタイトルマッチの舞台で、青色のガウンを脱いだ柚葉は、やってやるんだと二つの拳を軽く振るいながら気持ちを奮い立たせる。そこにはチャンピオンとして目の前に立っている友加里を見続けていたくなかったというジレンマも心の奥底にあって、そう振る舞わせていた面もあるが、いずれにせよ柚葉の闘志は十分であった。
一方の友加里は、トレーナーの手でガウンを脱がれ、チャンピオンベルトも外されると、両拳を下げたままじっとその場に立ち尽くしていた。赤コーナーを背に真正面を向いているのだから、対角にある青コーナーの柚葉に目が向けられているようでもあったが、そうともいいきれない。この会場全体をその静かな瞳で捉えているとでもいうような、落ち着いた佇まいをしていた。
柚葉も拳を振るって身体の緊張をほぐしながらも、立ったままでいる友加里の姿を視界の端で捉えていて、余裕をかませているのか奢っているだけなのか分からない友加里の佇まいに、落ち着きを取り戻していた心が少し波立つものを感じていた。
リングコールを終え、柚葉と友加里がレフェリーに中央へと呼ばれる。そして、リングの中央で対峙する二人。
「覚えてる、五年前のインターハイの決勝戦?」
レフェリーから注意事項の確認がされるなか、柚葉が友加里に向かって言った。
「勝ったのはあたしだから。だから、チャンピオンに挑戦する気持ちなんて全然ないから」
柚葉がそう言いきると、それまで真正面から見つめていた友加里が目をすっと閉じた。そして、唇の右端が少し持ち上がり、かすかに含み笑いが作られていく。
馬鹿にされたと思った柚葉が「何がおかしいの!」と荒げた声をぶつけた。
友加里の顔が少し持ち上がり、目が開かれる。しかし、笑みは崩していない。
「誰もそうは観てない。ここにいる誰一人。柚葉も分かってるんじゃないの」
友加里がそう答えると、柚葉はぐっと言葉を飲み込んだ。レフェリーから私語を慎むようにと二人に注意がいき、柚葉と友加里の五年ぶりとなる会話が終わった。
青コーナーへと戻ってきた柚葉を可菜がたしなめる。
「何してるのよっ柚葉、試合前に言い争うなんて。らしくないじゃない」
柚葉はグローブを付けた右手で後頭部に触れ、ベロを出した。
「心理的に揺さぶってみようかなぁ、なんて思ったんだけど」
「逆に揺さぶられてるじゃない」
「まぁ、そうなんだけど、やっぱりらしくないことはしてみるもんじゃないね」
「もう」
五年前のインターハイの決勝戦。高校三年のあの夏、友加里と激闘を繰り広げた柚葉は3R闘い抜き、僅差の判定で勝利した。五人がジャッジする中、柚葉を支持した採点者が三人。友加里を支持した採点者が二人。どの採点も一点差という僅差の末に勝ち取った勝利だった。リングの真ん中でレフェリーを挟み、友加里と並んで立っていた柚葉は、自身の手がレフェリーによって上げられてもまだ勝利を実感出来なかった。それくらいに僅差の闘いだった。でも、勝ちは勝ち。二勝二敗で戦績は互角であっても、最後に勝ったのはあたしなんだ。それが柚葉の心の支えになっていたけれど、しかし、友加里に指摘されて、それに何の意味があるのだろうと、柚葉はここにきてそんな気持ちも強く思う。チャンピオンであるのは友加里。挑戦者であるのがあたし。そこに五年前の試合結果を持ち出してもどれほどの意味があるのか。勝機としては掛けたなら二十パーセント増くらいにはなるかもしれないけれど、その勝機自体が低ければ意味なんてほとんどなさない。
可菜となんとも締まらない会話をしながらも、柚葉は心を整理する。やはり、五年前の結果を心の拠り所にしていてはだめなのだと思う。
そこへ可菜も真摯な顔付きへと再び戻り、
「作戦は分かってる?」
と確認を取った。
「うん、アウトボクシングからでしょ」
「熱くなって忘れないでよね」
「分かってる」
柚葉が首を縦に振り、
「じゃぁ、頑張ってきて」
可菜が柚葉の口の中にマウスピースをくわえさせた。赤コーナーでは友加里もマウスピースを口にくわえ、こちらも試合の準備は万端となっていた。柚葉が左右のロープを掴んだまま立ち、友加里は両手を下げたまま立っている。二人が待機をする中、開始のゴングが打ち鳴らされ、ついにタイトルマッチが始まった。
カーン!
ファイティングポーズを高く取って、青コーナーを颯爽と飛び出て行く柚葉。対して、友加里はゆっくりとした足取りで赤コーナーを出ていく。対照的な二人の姿は、二人の性格をそのまま表していた。身体を動かすのが好きでじっとしていられない運動が何よりも好きな柚葉とピアノが趣味というボクシングから離れるとまったく別の顔をして日々を過ごしている友加里。だが、ファイティングスタイルはというと、二人の闘い方はだいぶ近かった。アウトボクシングもインファイトも両方こなせるボクサーファイター。技術を競い合うアマチュアボクシングで三年間も最前線で闘ってきたのだから、ボクシングの基本的な闘い方となるアウトボクシングは二人ともしっかりと身に付けている。そして、前に出て積極的にパンチを打つのが性に合う柚葉はインファイトの闘い方も身に付け、一方の友加里もハードパンチを活かすべくインファイトもこなせるようになった。
きゅっきゅっと上半身を小刻みに揺らしながら、柚葉が左ジャブを打っていく。しかし、友加里には当たらない。左のガードで簡単にさばかれる。次は友加里の反撃がくるかと柚葉は覚悟したが、そうならなかったから、もう一度左ジャブを打った。今度は三発。そのどれもが友加里に容易く対処される。ガードというよりも左腕で弾かれるといった表現がふさわしく、この段階では柚葉はパンチが当たる気がまったくしなかった。
成長した友加里のボクシングを一つ体感する柚葉。だが、それはまだ成長したという表現の範疇のもの。ここから友加里の王としてのボクシングを見せつけられることになるのだが————。
しかし、試合はまだ序盤が始まったばかり。柚葉は挑戦者らしく果敢にパンチを打って出た。柚葉が打ってもパンチは当たらないし、反撃のパンチもこない。タイトルマッチは静かな立ち上がりとなっていた。そして、試合開始から一分が過ぎた。ここで友加里がついに初めてのパンチを打つ。ぎゅんと唸るような弾道で迫る友加里の左ジャブ。柚葉は両腕でしっかりと前を固めてガードする。防御に成功し、柚葉はふぅっと息を付く。油断ならない左ジャブだったが、それっきりだった。初めてといっていい強さの圧力に肩に力が入り、身体が硬くなる柚葉だが、なんだっという気持ちになる。パンチ打たないの? じゃああたしの方から。そう思い、左足を踏み込んで左ジャブを放とうとした柚葉だったが、急にブレーキがかかる。打っちゃいけないという気持ちになる。次の瞬間、柚葉は自分の顔が弾かれる映像を目にした。それは脳裏に焼き付く映像が浮かんだだけであったが、今のは何?と柚葉は焦燥を覚える。友加里の姿を凝視すると、ファイティングポーズを力強く構える彼女の肩からなんだか湯気みたいなものが湧き立っているように見えるのだった。これが試合中じゃなかったら指で目をこすっていたかもしれない。なんだかよく分からないもの、それが友加里が放つ闘志だと気付かない柚葉は、このままいちゃいけないと咄嗟に前に出た。左足で踏み込んで左ジャブを放つ。そうイメージして動いて出たものの、そうとはならず、柚葉の顔面は激しく吹き飛ばされていった。
バシィッという乾いた音が生まれ、身体から汗飛沫が飛び散り、身体が屈むように、上半身が崩れながら一歩後ろへと下がっていく。友加里の左ジャブに柚葉の前に出て行こうとした力が加算され、強烈なダメージに柚葉は見舞われた。
慌てて体勢を立て直し、友加里の方を向く柚葉。再びファイティングポーズを取りながら、二人が対峙する。もう友加里の身体から湯気のようなものは見えてこない。でも、柚葉の身体は硬いままだった。ファイティングポーズを高く構える友加里の身体が強く強く見えてしまう。
じわりじわりと距離を詰めに出る友加里に柚葉の足が自然と下がっていく。それで、二人の距離は変わらないままだ。
いかなきゃ。こんな弱腰なボクシングじゃだめだと、柚葉は意を決して前に出ていく。しかし、踏み出そうとした瞬間、柚葉は咄嗟に両腕を身体の前に持っていった。次の瞬間、柚葉の両腕に友加里の左ストレートが打ち込まれる。柚葉の身体がガードをしたまま後ろへと仰け反った。またも体勢が崩れ、左足のシューズがキャンバスから離れ膝当たりの高さまで上がっていった。その左足が再びキャンバスに付き、柚葉はなんとか体勢を立て直したものの、友加里のパンチ力の凄さに場内からはどっと大きな歓声が沸き起こった。
カーン!
ここで第1R終了のゴングが鳴った。柚葉の身体からは汗が噴き出ていた。まだジャブを十発程度打っただけで、友加里のパンチも二発を対処しただけというのに、身体は異常な反応を起こしていた。友加里の身体がまだうっすらと汗を滲ませている程度に過ぎないだけに、柚葉の身体の消耗ぶりが際立って見えた。 青コーナーへ戻り、可菜が用意したスツールに座る柚葉は、可菜が手にしたタオルで汗を拭き取ってもらいながら、
「このままじゃダメだ。次のラウンドからインファイトでいく」
と彼女の方を見て言った。可菜の手の動きが止まる。
「序盤はアウトボクシングで様子を見るって決めたじゃない」
「でも、やっぱりアウトボクシングじゃ友加里の技術に敵わない。あの時だってそうだったんだから」
「あの時は————」
高校三年生のインターハイ。友加里との決勝戦で柚葉は序盤からインファイトで闘っていった。柚葉はアウトボクシングも出来るとはいえ、友加里の技術には及ばない。可菜と話し合った末にそう判断して、作戦を決めたのだ。徹底してインファイトに持ち込もうとする柚葉とアウトボクシングを軸に時にはインファイトにも応じる友加里。距離が離れたら友加里に分があったが、接近戦では柚葉の手数の方が勝っていく。そして、試合終了のゴングが鳴り、勝ち名乗りを受けたのは柚葉だった。
しかし、それは可菜も承知の上で、タイトルマッチの試合の作戦を決めている。柚葉と友加里の間にある明確な差がアマチュアのボクシングでは問題とならなかったから。
「あの時はアマチュアの試合だったから通用したのよ。安全性の高いアマチュアのボクシンググローブで試合をしたから」
アウトボクシングでは友加里の方が長けていて、インファイトでは柚葉に分がある。それはアマチュアボクシングの試合という条件の下ならだった。友加里には柚葉にはない大きな武器がある。それはパンチ力だった。フライ級の枠に収まらないほどの強烈なパンチ力を持つ友加里に対して柚葉のパンチ力はフライ級の平均程度に過ぎない。
10オンスと大きく綿がたっぷりと含まれたアマチュアのボクシンググローブでは、友加里のパンチといえども、相手との力量差がそれほどなければ決定的なダメージとまではならなかった。一方的にパンチを浴びるならともかく単発程度のパンチでは3Rまでなら十分に耐えられる。
そう、友加里と柚葉がプロになって、明暗が分かれた要因は、二人のパンチ力の差にある。離れて闘っても接近戦でもKOを量産してきた友加里に対して、柚葉はインファイトを主体に闘ってきたものの、KOで勝てた試合は、九つの勝利のうち三つにすぎない。これでも女子としてはKO率が十分に高い方なのだから、KO率が80%を超える友加里のパンチ力がいかに高いかが分かる。
柚葉のパンチ力が平均程度でアウトボクシングも出来るのならもっと距離を取った闘いをしてもという考え方も出来るが、しかし、柚葉は高校卒業後、1センチも身長が伸びることはなかった。高校時代はフライ級で平均的なリーチであった柚葉だが、プロになってからは2、3センチ下回る。だから、柚葉は高校時代の時よりもインファイターとしての闘い方に舵を取っていくことになった。そう柚葉を導いたのが一年前にトレーナーとして復帰した可菜だった。プロでの闘い方が明確なものとなり、柚葉は迷いのないボクシングを出来るようになり、試合でも結果が付いてくるようになった。
一方、友加里は高校を卒業して身長が2センチ伸びた。高校時代は柚葉より1センチ長い程度だったリーチは今では3センチも上回る。高校時代の時以上に距離を取った闘い方は柚葉にとって不利になる。それでも、可菜が序盤はアウトボクシングでいこうと決めたのは、初めからインファイトをして不用意にパンチをもらわないため。たった一発のパンチでも友加里が相手では試合を決める決定的な一撃になりかねない。だから、序盤は距離を取って闘い、相手のボクシングをよく観察し、中盤以降からインファイトに出る。疲労が出始めればパンチのキレも威力も落ちていく。相手のパンチも見えてきて、終盤戦にまで試合を持ち込める。最後は体力勝負で決着を付ける。インファイトが得意なのに相手の選手の方が遥かにパンチ力が高い状況の中で、苦肉の末に考え付いた作戦だった。
「友加里のパンチにプレッシャーを感じるのは分かるけれど、今はこらえて。友加里だってそれほどパンチ打ってきてないんだし、3Rまで凌げばいけるから」
可菜は柚葉の気持ちを落ち着かせようと、右手のグローブを両手で握りしめる。
「分かった。あたしがどうかしてた……」
柚葉は可菜に握りしめられていた右拳を持ち上げる。そして、頼りにするその右拳を見つめながら言った。
「あたし達の作戦を信じなきゃだね」
第2Rが開始される。可菜の作戦通りに友加里と距離を取りながら闘おうとする柚葉。
しかし————。
「ダウン! 町風がダウンしました!」
興奮を伴った声で実況を告げる放送席。大歓声が沸き起こる観客席。リングの中央では柚葉が大の字に倒れていて、友加里はニュートラルコーナーを背にしながら観客に向けて右腕を上げて声援に応えていた。よっぽどのことがない限り、試合中にパフォーマンスを見せないチャンピオン。それだけ会心の一撃を打てたのか、興奮冷めやまないのかは分からない。喜びというよりも乾いた笑みはむしろ拍子抜けのあまりという意味合いの方かもしれない。
試合は3Rを迎え、今だ顔にパンチを打たれた痕が見えない友加里に対して、大の字に両腕と四股を広げ倒れたまま動けずにいる柚葉の顔は変わり果てていた。頬がリンゴのように艶やかな赤い色を見せてぷっくらと痛々しく膨れている。打たれたパンチの数は20発程度なのにこの変わり具合がチャンピオンのパンチ力の桁違いの高さの何よりの証明であった。柚葉は倒れているというのに気持ちよさそうに笑みを浮かべているように唇が緩まっていて、それが痛々しい姿に拍車をかけていた。
カウントが5を過ぎてもぴくりともしない。
「立って! 立ってよ柚葉!!」
セコンドの可菜が涙を浮かべそうな顔をしながら叫ぶように声を上げるものの、柚葉はまったく反応しない。これで試合は決まったと誰もが思った。
しかし————。
カウントが6を唱えられたところで、柚葉はむっくりと上半身を起こし、そして、カウント9でレフェリーにすがるように二つのボクシンググローブで身体に触れながら立ち上がってきた。
「町風が立ち上がってきました! さぁレフェリーはどう判断するのでしょうか!?」
実況の声同様に場内にいる誰もがレフェリーの判断に注目したが、レフェリーは柚葉のグローブをシャツで拭き、それから試合再開を宣言した。
「ボックス!」
しかし、柚葉はファイティングポーズを取ってその場に立っているのが精一杯で、勢いよく距離を詰めに出て来た友加里の攻撃の前にたちまちロープまで追い詰められてしまう。ロープを背にする柚葉に非情にも友加里のハードパンチが何度となく放たれていく。柚葉はかろうじてガードで直撃を免れているものの、ガード越しでもロープと共に身体が揺れるその身体はいつ倒れてもおかしくなかった。
カーン!!
第3R終了のゴングが打ち鳴らされ、かろうじてゴングに救われた。先に赤コーナーに戻った友加里の後でようやく柚葉がよろよろと青コーナー付近まで戻ると、可菜に抱きかかえられる形でスツールまで移動して、座った。
「大丈夫なの柚葉!?」
悲痛な面持ちで状態を確認する可菜に、柚葉は前屈みとなった体勢のまま、顔を向けて、
「ぜんぜんだよっ」
と元気を装って言うのだった。唇の端が切れていて血が滲んでいる柚葉の顔を可菜は黙ったままタオルで綺麗にする。
「まだいけるからっ」
血と汗が拭き取れた柚葉は前屈みのまま、両拳を胸の前で合わせてばすっと音を鳴らす。
「止めないから体力の回復に努めて」
可菜の指示に従うように柚葉は「うん」と言って、その後は一言も発せずに可菜のケアを受けた。インターバルの終了が10秒前を伝えるブザーの音が鳴らされる。
柚葉はスツールから立ち上がり、可菜の手で口にマウスピースをくわえさせてもらう。右手ではまり具合を確かめると、柚葉は可菜を見て言った。
「次からインファイト行くから。見てて」
追い詰められたとは到底思えない柚葉のどこかおっとりとした声。可菜はもう作戦は通用しないからとは到底言えなかった。
第4R開始のゴングが鳴った。このRになって柚葉はまた勢いよく青コーナーを出て行く。もうリミットをかける必要はない。自分のボクシングを好きなだけ展開できる。その気持ちの表れが意欲的な足取りにも繋がっていたが、だからといってグロッギー寸前にまで陥ったダメージが急速に回復したわけではもちろんない。勢いはあってもどこか不安定な状態でキャンバスの上をステップしているように見える。
試合は中盤戦を迎え、相手のパンチに幾分慣れてきたとはいっても、深刻なダメージを抱えていては、むしろ試合開始の時よりもパンチは避けづらくなる。今の柚葉がまさにその状況で、可菜が試合開始前に立てた作戦はすでに打ち崩れていた。
しかし、柚葉は友加里に向かっていく。ダメージで頭が少しぼうっとしていてむしろ恐怖のタガは飛んでいた。自分のボクシングをするだけだからと、友加里の左ジャブをガードしながら、隙をうかがって飛び出して行く。勢いよく前足を繰り上げてしっかりと踏み込み、右ストレートをボディへと放つ。このパンチは友加里の腕でブロックされたものの、接近戦に持ち込めることが出来た柚葉はかまわず左右のパンチをボディへ集めていく。相手の懐に潜りこんでボディブローの連打。こうなると、身長が低い柚葉の方に分が出てくるが、しかし、一瞬の油断も出来ない。相手はハードパンチを誇る友加里なのだから。距離を詰めしつこくボディブローを続ける柚葉。そこにショートアッパーも交えていくと、友加里も完璧には対処が出来なくなっていき、幾つかパンチの被弾を浴びるようになる。
特攻の戦闘機のようにひたすらパンチを打ち続ける柚葉の姿に場内からも声援が所々で生まれていく。挑戦者も多少は善戦するかもしれないという空気が僅かながら生まれていく。その直後に、大きな打撃音が生じたのだった。
ズドォォッ!!
バスッバスッというそれまでの音とは明確に違う何かが壊れたようなパンチの音。赤色のボクシンググローブが返り血を垂れ落とすように纏いながら天井に向けて突き上げられていた。チャンピオンが装着する赤いボクシンググローブ。天井の光を受けて、煌びやかに光るそれは、赤い血も付いていて、残酷なまでにリングを支配するかのような存在感を見せていた。
友加里の右のアッパーカットの餌食となった柚葉は、そのあまりの衝撃に、グロッギーなように顔が力無い表情で歪まっていて、身体が宙へと浮き上がっていった。両腕を広げながら、身体がゆっくりと宙を舞いキャンバスに沈み落ちて行く。
ドスッという大きな音。恍惚としたような目をし、力無く打ちのめされた表情でキャンバスに倒れている柚葉の姿についに決定的な一打が捉えたのだと、観客の誰もが感じるのだった。
「ダウン!」
レフェリーの合図を皮切りに、観客席から割れんばかりの大歓声が生まれた。場内が揺れる程の波が生じ、それは試合が終了したのだという意味合いで送られた歓声であった。テンカウントが数えられるまで続くだろう大歓声。勝者となる友加里を祝福するためのその声は勝者が決定するゴングの音が打ち鳴らされるまで続くに違いない。
そんな熱狂が飛び交う中で、柚葉は大の字になってキャンバスに倒れ込んだままでいた。第3Rのように打ちのめされた姿を晒す柚葉。しかし、第3Rの時と決定的に違うのは、柚葉を捉えた友加里のパンチの衝撃であった。打たれたボクサーの意識まで吹き飛ばしかねないその強烈な一撃に、衝撃的なダウンとなった瞬間を目にした観客たちはそれだけでもう十分であった。これだけのKO劇を見ることは後にあるのだろうか。そう思わせる程に見事な友加里のアッパーカットであった。
しかし————。
観客の期待とは違う展開が起きた。柚葉がカウント9で立ち上がったのだ。衝撃的なダウンを目にして酔いしれていた観客たちが唖然とした表情で見つめる柚葉の立ち上がり。ロープを掴み、ロープを支えに立ち上がった柚葉はファイティングポーズを取って、レフェリーにまだやれると闘志を見せる。第3Rのダウンの時と変わらずに立っている柚葉を目にして、レフェリーは試合を再開した。
状況をまだ飲み込めずにいる観客たちをよそに、試合をする当人たちはファイティングポーズを取ってお互いに距離を詰めて向かっていく。
友加里のパンチが先に放たれ、かろうじてガードした柚葉は、しかし身体が吹き飛ばされる。ロープを背に受け止めてもらい、なんとかダウンを免れた柚葉。すぐに距離を詰めに来た友加里が放つ右フックをダッキングしてかいくぐると、両腕を友加里の腰に回してクリンチをした。
両腕に力を入れて離れないようにする柚葉をレフェリーが割って入り、それで二人の身体が離された。
また試合再開となる。中間距離からパンチを放つ友加里の攻撃を両腕でガードをして、その度によれよれと後退する柚葉。よれよれの挑戦者の姿を見て、KOの時間が少し延ばされただけにすぎないと観客たちは状況を整理するようになる。
友加里のパンチをかいくぐった柚葉が距離を詰め再びボディへパンチを放っていく。両拳で打ちながら前進し、至近距離の間合いが開かないようにする。時折アッパーを交えた柚葉の反撃に友加里はまたもやりづらそうに攻撃を対処していた。
格が違う。反撃に出ても友加里とではボクサーとしての格が違う。いくら反撃のパンチを当てたって王者の一発のパンチで逆転されてしまうのだ。挑戦者が勝てる可能性なんて1%だってない。観客たちは柚葉の反撃にもう期待せずに冷めた目で挑戦者の挽回を見ていた。
カーン!!
第4R終了のゴングが鳴る。ヒット数は柚葉の方が大きく上回っていたものの、このラウンドも友加里のものとなった。たった一発のパンチしか当てていないのにダウンを奪ったのだから。 青コーナーでセコンドのケアを受けた柚葉は、何一つ言葉を発せずにただ可菜の指示に黙って頷き、インターバルの時間をすごしていた。
そして、第5Rが開始される。これ以上の試合の続行は残酷なショーになりかねない。いや、もうすでにそうなっているとさえいえるような状況である。観客たちは早く試合が止められることを望んでリングに目を向け、もう好戦を期待する向きはない空気が場内を漂っていたが、このラウンドもパンチを当てていくのは、柚葉の方だった。相手の懐に潜りこんで、ボディブローとショートアッパーを散らして当てていく。ボディブローは幾つかヒットし、ここにショートアッパーが決まればもしやという期待も僅かながら抱かせる柚葉の奮闘ぶりであったが、友加里の右フックが柚葉の頬を捉えると、柚葉の身体が硬直し動きが止まってしまい、後は友加里の猛攻をガードで凌ぐ一方となった。瞬く間に後退してロープを背にして友加里のパンチの雨をガードで凌ごうとする。力強い友加里のパンチのラッシュの前に、両腕を顔の前で固めて防戦一方となる柚葉はいつ倒れ落ちてもおかしくない状況であった。そして、なんとかパンチをかわした隙にクリンチをしてロープ際のピンチを脱出するのだった。
またしても劣勢に立たされた柚葉だったが、しかし試合が再開されると、友加里の様子に異変が見られた。呼吸が荒々しく、ファイティングポーズを取ってはいるものの、だるそうに前に出て行こうとしない。
逆に柚葉の方が前に出て、近距離からいきなり右のショートアッパーを放った。このパンチが友加里の顎を捉えた。
ドカァッ!!
友加里の顎が跳ね飛ばされ、一歩あとずさる。すかさず距離を詰めて追撃のパンチを柚葉が放とうとしたところに、友加里の左フックが一閃のように迫ってきた。柚葉がガードしてパンチの被弾を避ける。パンチの衝撃に今度は柚葉があとずさる。友加里が追撃を打ちに出て行くことはなかった。
カーン!!
第5R終了のゴングが鳴った。観客席がどよめきの声が起こる。
「おいっ今の町風が取ったんじゃないか?」
「藍延、ばててるよな? 大丈夫か?」
チャンピオンを支持する者達が多くを占めているとはいえ、柚葉の挽回を認める反応が生まれていた。
青コーナーでも可菜が柚葉に「いけるっいけるよ柚葉」と素直な気持ちのままに鼓舞する声を送っている。頭がぼうっとしている柚葉は、自身の挽回を把握できていないのか、「うんそうだね」とどのような状況でも使える言葉を返すだけだったが、勝負の行方はまだ完全に決まったわけではなく、チャンピオンの体力の回復次第ではもしかしてという期待も生まれつつあった。
そして、第6R。運命のとまではいかずとも決定的な局面を迎えそうな予感が、なぜか可菜の胸の内で起きていた。まだ5Rが経過したに過ぎないのだ。それなのに友加里が失速し始めた。その要因が友加里のスタミナ不足とは思えない。柚葉が積み重ねたボディブロー。身体を十分に沈ませながら打ち込む柚葉のボディフックはやや打ち上げの軌道となっている。その少しの上昇となる軌道が相手の臓器を上に持ち上げる。ダメージはそこまでではなくても、身体の内側から小さな揺れが知らず知らずのうちに相手の体力を奪う。ここ数試合でみせた柚葉の得意のパターンに試合は展開していこうとしていた。危なげなく序盤が過ぎていったここ数試合とは違い、もう二度のダウンを柚葉は喫しているけれど、しかし、ガス欠の度合いでいえば、友加里だってこれまでの対戦相手と変わらない。絶対王者と呼ばれていてもスタミナだけは、平均レベルにあった。突破口が見えてきて、そして、柚葉の試合を何度も間近で見てきた可菜には、試合の流れは柚葉に傾いているように感じるのだった。
このRも勢いよくコーナーを出て行く柚葉に対して、友加里もまた一直線にコーナーを出ていた。スピードの面でいえば友加里の方が上で、一気に距離が縮まると、友加里から先に右ストレートを打って出た。
柚葉が両腕でパンチをブロックする。どんっという音がして、身体が揺れる柚葉にストレートの矢を一発、二発と放っていく友加里。手綱は決して握らせないという強い意気込みが彼女からはうかがえた。上目のようにぎぃっと相手を凝視し、感情を剥き出しにしてパンチを打ち込んでいくその闘いぶりは、チャンピオンになって以降一度も見せたことがない友加里の姿だった。
ダァンッダァンッと銃弾のようなパンチの音が柚葉のガードの上から起きていく。心臓に悪い音には違いないが、しかし、可菜には友加里のパンチが響かせる音ほどには脅威と感じなかった。見た目は派手だが、身体の芯まで響く種のものではない。やはり、柚葉のボディブローが効いている。友加里の左ストレートを柚葉がかいくぐると、すぅっと中に入り、ボディブローを突き刺していく。矢のような右ストレートが腹筋を貫くように決まり、友加里が「がはぁっ」と苦悶の声を上げて血反吐を吐いた。
その隙にさらに距離を縮めた柚葉が左、右と連打で追撃のボディブローを友加里に打ち込んでいく。
ドスゥッ!! ドスゥッ!!
柚葉の得意のパターンが始まった。ここからショートアッパーも交えてスタミナをさらに奪い取ろうとする。それはまさに蟻地獄。一度浸かった今、抜け出ることは容易ではない。下半身から奪われていくスタミナほど回復しづらいものはないのだから。
警戒すべきは、友加里のアッパーカットだけれど————ボディブローの合間に迫ってきた友加里のアッパーカットの反撃を柚葉はすぃっと流れるように身体を泳がせてかわしていく。深く沈んだ体勢から右足でキャンバスを力強く蹴り上げて、逆の方向へとエネルギーを生み出して、逆にボディアッパーを友加里の脇腹に突き刺した。
ドスゥッ!!
友加里の目が見開かれ、今にも胃の中身を吐き出しそうな苦しみをみせる。アッパーカットを打ったのに逆にアッパーカットを決められた。王者のプライドを傷つけられた友加里は、右拳をぎゅっと握り込むが、しかしパンチを打つことはならなかった。さらにドスゥッドスゥッと柚葉のボディブローが決まっていく。打たれても打たれても相手との距離が開くことはない。不思議なような、しかし悪夢そのものな感覚は、柚葉が踏み込んでボディブローを打っているからだ。地味ながらも嫌らしいこの攻撃を友加里はこれまで一度も経験したことがなかった。これまでの対戦相手は誰も友加里にしてこなかった。それは、友加里のハードパンチを恐れていたからだ。強打を誇る友加里を相手に至近距離でボディブローを打ち続けるなんて、並大抵の勇気では出来ないことだ。それを柚葉は第4Rからずっとしてきている。何度も友加里の強打を至近距離で浴びながらも諦めずにボディブローを打ち込み続けてきた。友加里は認めなければならなかった。柚葉のボディブローで倒されるかもしれないことを。高校三年の夏。決勝戦で柚葉に負けたのは、ボディブローの連打を攻略出来なかったからだ。だから、友加里はアッパーカットの練習を積み重ねてきた。ボディブローに対する唯一の攻略法。そして、対柚葉のために磨き上げていったそのパンチは、いつしか友加里のボクシングの代名詞ともなっていた。一撃必殺のアッパーカット。
一度かわされたくらいで鞘に納めてしまってはダメだ。ボディブローを続ける柚葉に対し、この泥に浸かったような状況を断ち切るべく友加里が再び右のアッパーカットを打って出た。
シュゥッ!
空を切る音がして、その直後にドスゥッという鈍い音が友加里の身体から起きていた。またしても決まったのは、柚葉のボディアッパーだった。柚葉と密着した距離で右拳が深く突き刺さる友加里の身体がさらに前へと傾き、柚葉の右腕にのしかかるような体勢となる。友加里の両腕はだらりと下がっていて、柚葉が彼女の身体を支えていた右腕をすぅっと引くと、友加里の身体は抵抗することなく前のめりに崩れ落ちていった。
「ダウン!!」
レフェリーがダウンを宣告し、柚葉がニュートラルコーナーに移動していく。頬がキャンバスに触れるように、そして、両腕もだらりと下がっている友加里のその姿に場内が静まり返った。尻が僅かに浮いていて、両腕がだらりと落ちたその姿はまるで屈服したかのような姿だ。
カウントを数えるレフェリーの声がして、場内がようやくチャンピオンのダウンを認識し、歓声がどっと沸き上がった。ずっと劣勢だった挑戦者が奪ったダウンでも、歓迎されないダウンはない。いや、この大逆転劇に柚葉を称える拍手すら起き始めている。
柚葉を称える声と友加里を応援する声とが幾つもキャンバスに向けて飛び交った。柚葉のボクシングが認められ、チャンピオンには励ましの声が送られている。時計の針は逆回転を始めようとしている。
友加里がカウント8で起き上がってきた。柚葉を見据えるその目もファイティングポーズを取るその構えも力強い。
「ボックス!」
試合は再開された。まだチャンピオンは一度倒れたばかり。顔に打たれたパンチはショートアッパー一発だけで顔は試合前と変わらずに綺麗な形をしている。それよりも挑戦者の頬も瞼も腫れ上がった顔の方がよっぽど深刻なダメージを抱えているようにみえる。
しかし、友加里はその場から動けない。力強く見えたのは強打を放てるその剛腕でどっしりと高く構えているからだ。柚葉がたたたっと一気に前に出て行った。あっという間に距離が詰められ、踏み込んでボディブローを放っていく。友加里がガードを下げて、柚葉のパンチを凌ぐ。一発、二発、三発。どれも友加里のガードに防がれている。柚葉は友加里のガードが硬いとみるや、顔面へと攻撃を切り替える。柚葉のフックが友加里の頬を捉え、往復した。友加里の両腕が上がるものの、柚葉のパンチは、ガードをすり抜けて当たっていく。巧妙な友加里のディフェンスが今ではざるな腕の壁にすぎない。それまでほとんど友加里の顔を捉えられなかった柚葉のパンチが嘘のように当たっていく。
「友加里! 防御だ! もっと防御を固めろ!!」
見るに見かねた友加里のセコンドから必死な形相で指示が飛ぶ。その指示はこのRを何とか凌げといってるようなものであった。始めて見る友加里の陣営の慌てふためく様子に、チャンピオンの窮地を観客たちは一層感じ取る。しかし、友加里は防御を固くするどころか、左のフックを打ち放ち、反撃に出ていった。柚葉がこのパンチをガードすると、さらに右のフックを上から叩きつける。血を鼻から吹きながら、何ふりかまわずにフックを連打する友加里のその必死な形相に、観客たちは食い入るように友加里の反撃のその先を目で追った。柚葉は友加里のフックを読み、下にもぐってボディブローを放つ。しかし、友加里も柚葉の攻撃を読んでいて、左腕でブロックする。柚葉はすかさず上へと右のショートアッパーを放った。これに友加里の左拳が応じていく。
グシャァッ!!
凄まじい音がして、血が飛び散っていく。二人が放ったショートアッパーはお互いの顔面にめり込まれていた。友加里の左拳が頬にめり込む柚葉の顔も柚葉の右拳が頬にめり込む友加里の顔も強烈な変形を遂げている。パンチのダメージに二人とも目を瞑り、押し潰された頬の肉に唇の形も歪んでいるが、それでも必死にダメージに耐えようとしていた。気持ちと気持ちが滲み出る二人の懸命な姿に観客たちは息を呑む。
先に次のパンチを放ちに出たのは、柚葉だった。左、右とフックを放ち、友加里はガードに追い込まれる。得意のボディブローでなく、顔面へのパンチを狙い、意識を奪おうと柚葉は勝ち気に向かっていく。
しかし、先にパンチを当てたのは、ガードから反撃に出た友加里の左フックだった。打たれた柚葉もすぐさま右フックを返していく。打ち合いが始まった。打っては打ち返され、打たれては打ち返す。意地と意地をぶつけ合うような激しいパンチの応酬が続く。友加里の強打を幾度となく浴びて、柚葉の身体が心配になる可菜だったが、柚葉は決して負けていなかった。どんなに友加里のパンチを打たれても怯まずにパンチを打ち続けていく。もっと下にパンチを打った方がという思いがよぎるが、しかし今はその流れではないのだと思う。友加里の強打と真っ向から打ち合うこの危うげな流れを突き進む柚葉を信じるしかなかった。
一発、二発、三発。柚葉のショートフックが続けざまに友加里の頬を捉えた。ついに柚葉が打ち合いを制した。そう思われた矢先、友加里のショートアッパーが柚葉の顔面に決まった。友加里が左拳を打ち上げると、追い払われたように柚葉の身体が吹き飛ばされていく。
どたどたと後退しながらも柚葉はなんとか踏ん張ってダウンを免れた。冷や汗がどっと落ちていくのを可菜は感じた。
ダメージはどうなの?
不安な面持ちで柚葉を見つめる可菜だったが、ファイティングポーズを構える両腕が下がっているのは、むしろ友加里の方だった。パンチのダメージで身体の自由が利かなくなっているのは彼女の方なのだ。いや、それはもしかしたら、演技なのかもしれない。ダメージが効いている素振りをみせて、柚葉をインファイトに招き寄せようとしているのかもしれない。どっちなの? 柚葉も友加里の様相が演技なのか、見定めようと離れた距離でファイティングポーズを取ったまま、じっと凝視している。
行っちゃいな、柚葉!
そう心の中で自分の声が聞えてきて、でも、可菜はその言葉をぐっと飲み込んだ。リングの中で最も近い位置で相手を見ている柚葉に判断を委ねるべきだと思ったのだ。
その瞬間、柚葉が前に勢いよく出て行った。その場で動けずにいる友加里と勢いよく向かっていける柚葉。大丈夫、柚葉の方がダメージは全然少ない。そう可菜は信じ込むしかなかった。距離を詰める柚葉に友加里の左ジャブが飛んでくる。友加里の牽制のパンチを、柚葉はすぅっと潜り込むようにかわす。その動きが見事だったから、友加里の左ジャブのタイミングはもう掴んでいるのかもしれない。そして、ボディブローの連打。左、右と続けてヒットし、友加里がガードを下げたところに、ショートアッパーを顎に決める。友加里の顎が跳ね上がる。もう何を打っても友加里にヒットするようにさえみえた。倒しに行ってと言えなかった可菜の思いを汲み取ったかのように猛攻をみせる柚葉。頼もしく、輝いてさえ見える。
柚葉の雄姿を見つめながら、このまま決めてと、可菜は強く願うのだった。柚葉に闘いの流れが傾いているうちに試合を決めて欲しい。友加里の強打は危険すぎる。その強打がスタミナ切れで色褪せていたとしたって、女子の選手を吹き飛ばす程のパンチを放つ選手なんて他にいないのだから。だから、だからこのラウンドが終わらないうちに……。
柚葉の猛攻は衰えることなく、友加里の身体を何度となく捉え、そして、とどめの一撃がついに決まった。
「町風の右のショートアッパーがチャンピオンの顔面を捉えた~!! これは強烈!!」
場内の実況は最高潮に達し、赤コーナーと青コーナーのセコンドたちは固唾を飲んで闘う二人の姿を見つめる。その中継の言葉は、まさに的確で柚葉のショートアッパーは友加里の頬を捉え、抉り込むように頬の肉を潰していた。返り血が柚葉のボクシンググローブに付着して、パンチの威力が一段と凄味を増す。柚葉が勝利を確信したように笑みを浮かべ、そして、友加里が力尽きたように前のめりに崩れ落ちていった。明暗を分けた二人の姿は、可菜の目にも柚葉の勝利が決まったと映らせるに十分だった。願いは適った。可菜はそう信じ、ぐっと握り拳を作る。だが、倒れゆく友加里のその瞳は闘志の光を失っていない。前に崩れていく友加里の身体がパンチを打ち放っていた柚葉の右腕に触れ————友加里はそれ以上落ちていかなかった。
「もう逃さないわ」
友加里が左腕を柚葉の右腕に絡めていく。彼女のその左腕はダウンを免れるどころか対戦相手の身体を引き寄せるのだった。柚葉の身体がさらに友加里の元へ近まっていき、友加里のパンチが始動していく。
空を裂くように上昇していくそのパンチは、右アッパーカット。相手を引き寄せながら迫っていくその右拳は、戦慄という形容さえ超えていた。試合に勝ったと確信をしていた柚葉は無防備であって、可菜が青ざめた顔で、「ダメッ」と震えるような声を上げる。
グワシャァッ!!
凄まじい音を立てて、決まった友加里の右アッパーカットに、場内の時間が止まったかのように静まり返った。力強く右の拳を天高くかざしている友加里。下へと引き寄せられた柚葉の身体が嘘のようにキャンバスから浮き上がっていく。両足がキャンバスから離れ、友加里の前で上昇していく柚葉の身体は、両腕がだらりと下がり、顔は天井に向けられていて、無力に倒れゆくボクサーの姿でしかなかった。力強くアッパーカットを打ち放ったままの友加里と、彼女の前で無力にも上昇していく柚葉のその二人の対照は、友加里の姿をどこまでも力強く観る者の目に焼き付かせるのだった。
友加里を前にして、その姿を目にすることも出来ずに、柚葉の視界は天井からやがて、観客席へと移り変わる。しかし、柚葉のその弱々しい視線には何も見えてなく、その背中を友加里に見せるように身体が反転して、胸を打ち付けるようにキャンバスに落ちていく。
どさりと音を立てたその衝撃に柚葉の両足がキャンバスから一度弾むように浮いて、地に付いた。しかし、柚葉の衝撃的なダウンの瞬間は、まだ終わらわない。マウスピースがぼとりと音を立てて、柚葉の顔のすぐ側に落ちてきたのだった。そのマウスピースは友加里のパンチの威力に柚葉の口から吐き出され、長い滞空時間の末にようやく落ちてきたものであった。
友加里が右拳を降ろし、力尽きたライバルの姿をじっと見下ろしている。精も根も尽き果てているはずなのに、柚葉を見つめるその顔は、汗と血を滲ませながら、やりきったような笑みを浮かべていて、艶やかで力強くもみえる、色香と凄味を発していた。
友加里の前でマウスピースと共にキャンバスに倒れている柚葉は、目の焦点が定まらずに揺れていて、友加里のパンチの威力に苦しみ、打ちのめされていた。頬をキャンバスに付けて、強烈に歪まった柚葉の顔は、友加里のアッパーカットの衝撃が残滓として観た者になおも伝わってくるかのようでさえあった。試合の続きを予測する者はもう誰もおらず、柚葉を応援していた観客も、そして可菜でさえも、柚葉にこれ以上の闘いを望む目を向けずに、ただ無事でいて欲しいと願う焦燥があった。
レフェリーはカウントを数える素振りさえ見せずに両腕を交差する。
カーン! カーン! カーン!
試合終了のゴングが高らかと打ち鳴らされ、この瞬間、友加里の勝利が確定した。今もなお倒れている柚葉を見下ろしながら、友加里の右腕がレフェリーによって持ち上げられた。
「勝者! 藍延友加里!!」
レフェリーの手で右腕が高々と上がりなら柚葉を見つめていた友加里は、それも一瞬で、すぐに振り返り観客席へと両腕を上げて、彼等からの拍手喝采に応える。勝者を称える時間が過ぎゆく中、試合に敗れた柚葉はセコンドたちの介抱を受けていた。可菜の手に抱きかかえられ、呆然とした目で天井を見つめる柚葉。天井の照明が眩しくて、周りは歓声と喝采で賑やかで、それは祭りのようで、しかし、自分だけはそこから置き去りにされた虚しさのようなものが浮かんでいた。やがて、視界を自分の意思で動かした柚葉は、チャンピオンベルトを腰に巻いて両腕を高々と観客の前で上げる友加里の姿をその目に捉え、羨望の眼差しを彼女に向けるのだった。
試合から一ヶ月が過ぎた。柚葉は十日間で練習の再開が出来るようになり、その間の休息の時間はすべて、パンチのダメージの回復に当てられ、幸いないことにそれ以外の大きな怪我は特になかった。柚葉が無事にタイトルマッチのリングから降りる。試合中に可菜が願った中で、唯一適った願いであった。
無事でいてくれたらいい。元気よくサンドバッグを叩く柚葉の姿を遠くから見ながら、可菜はそう思うのだった。タイトルマッチという特別な場所。そこから無事に戻ってこれたのだから、またその特別な場所に挑戦できるように頑張れば良いのだ。
それに一ヶ月前とは違うこともある。 可菜はジムの端に置かれた長椅子に座り、屈んでシューズを結んでいる少女の前に立った。シューズを結び終えて、顔を上げた少女に、
「準備はいい?」
と声も表情も柔らかく聞いた。
「ばっちしです!」
立ち上がり、両拳で小さく握り拳を作る少女の名前は結衣。まだ17歳の高校生、ジムには三週間前に入門してきたばかりだ。彼女の担当は、それまではジムで一番若い男性のトレーナーの真田だったが、先週から可菜が担当になっている。柚葉のタイトルマッチでの大善戦がジムの会長に認められて、可菜はジムのトレーナーとなったのだ。それで、可菜は柚葉だけでなく、プロ志望の結衣の指導も受け持つことになった。このジムにプロの女子ボクサーは柚葉だけで、もし結衣がプロテストに合格したら二人目となる。これまでボクシング経験は無いけれど、彼女なら一年後にはプロボクサーになれると可菜は考えている。筋は良いし、中学までバスケットボールをしていたから、運動神経も磨かれているし、平均以上のものがある。それに17歳でプロを志望するその気概がすばらしい。ボクシングに接せられる時間が長い分、チャンピオンになれる可能性は高まる。
ボクシングに接せられる時間。ジムにトレーナーとして雇われることになった可菜もこれまで以上にボクシングに時間を費やすことが出来るようになった。これまではアルバイトをして生計を立てていたけれど、その必要はなくなった。これからはボクシングだけに専念できる。それだけじゃない。結衣を新たに指導できるようになっただけじゃなくて、これからは 柚葉をもっともっとサポートすることだって出来る。
そして、タイトルマッチへの再挑戦。そのチャンスはそう遠くないうちに来てくれるかもしれない。柚葉のタイトルマッチでの健闘を称える声がインターネットの世界では、この一ヶ月にたくさん見られたからだ。現在の柚葉の日本ランキングは8位。タイトルマッチでどんなにチャンピオンを追い詰めることが出来ても、試合に負けたらランキングが上がることはない。そうはならず、一つ下がってしまった。でも、ボクシングのファンが集まるインターネット上のコミュニティでは、彼らが独自に作ったランキングでは、フライ級の一位は柚葉なのだ。チャンピオンに友加里がいて、その次に柚葉が位置している。高校時代から続く柚葉と友加里のライバルストーリーは、彼らの中でまた繋がったのだ。
だから、これからも柚葉と友加里の激闘は続いていくにちがいない。プロの世界でも彼女たちはライバルなのだから。
おわり
あなたもジンドゥークリエイターで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から