つばさがボクシングを始めてもうすぐ一年になる。ボクシングを始めたきっかけを考えればよく続けているものだとつばさは思う。中学生の三年間では部活でサッカーをしていた。女子サッカー部だ。高校でもサッカー部に入部したものの、先輩との上下関係が厳しくて二か月で止めてしまった。部室のロッカーが二年生と三年生は一人ずつ割り当てられているのに対して一年生は全員で一つとかグラウンドの整備は必ず一年生だけが行うとかそういう理不尽な不文律。極めつけは一年生はレギュラーで試合に出れることはなくて、どんなに下手でも先輩が優先されることに我慢できなくて、退部届を出した。

 

 中学時代はポジションはフォワードでエースストライカーだった。二年生の時から守備的ミッドフィルダーでレギュラーだったから高校でもどこかのポジションで一年でレギュラーになれる自信はあった。かといって、プロになれるほどの才能はなかったから、部活を辞めてまでサッカーを続ける気にはなれなかった。そもそもサッカー部に入部したのも特に入りたい部があったわけじゃなくて身体を思いきり動かしたかったからだった。

 

 身体を動かすのが好き。サッカー部を辞めてから自分の内にある衝動につばさは初めて知った。悶々とした日々を送っていると、一学期の試験が終わって夏休み前の日曜日に母が母の姉の家に行くことになってつばさも付いて行った。

 

 母の姉にはつばさと同じ年齢の娘がいる。名前も同じつばさ。三日違いで生まれたから母の姉たちはつばさが生まれたことは知っていても名前だけは把握していなかったために起きた従妹が同じ名前。それに下ってこんな偶然あるのって思う。しかも同じなのは名前と学年だけじゃなくて、つばさとつばさは顔もうり二つなくらいに似ていた。ちょっと勝ち気そうな目も口から覗く八重歯もそっくりだ。つばさがショートカットなのに対して従妹のつばさは首筋までかかっていて、髪型まで同じだったら誰も見分けがつかないくらいにつばきとは似ていた。

 

 彼女と会うと自分に双子の妹がいるみたいな気がしてしまう。性格までも似ているから波長もあって彼女と話をするのは楽しい。考え方も嗜好も似ているから学校の友達と話をするのとはまた違った楽しさがある。この日も高校生になったお互いの近況を報告しあった。とはいっても、つばさはサッカー部を止めているのだから、話といっても部活をしていた時の不満をこぼすくらいしかなかった。

 

 従妹のつばさは中学時代は陸上部に所属していて、走り高跳びの選手だった。顔だけじゃなく性格も似ているけれど、唯一違うと感じるのは彼女が融通が利かないくらい物事に一途な面があるところだ。だから、高校でも陸上部を続けていると思っていたら、そうではなかった。

 

 従妹のつばさはボクシングジムに通っていた。しかもプロを目指している。 彼女の口からそう教えてもらった時、急にその場が現実感を失ったような錯覚に陥った。

 

 つばさちゃんがボクシング?しかもプロを目指している?

 

 日常からものすごく遠いところにあると思っていたプロスポーツ選手を彼女が目指しているとつばさが知って、やり場のない複雑な思いが胸に沸き起こった。すごいという感情ではない。悔しいという嫉妬でもない。それはたぶん焦燥感に違いなかった。自分は何をしているんだろうと。身体を動かすのが好きなのに部活を簡単に止めてしまって、止めた後もサッカーを続けない。代わりのスポーツを見つけようともしないで、部活に入部していた時の先輩からの理不尽な仕打ちを思い出しては苛々することを繰り返しているだけ。自分は燻っている。そのことに気付いて、家に帰るとつばさは居ても経ってもいられなくなって、パソコンを使ってボクシングについて調べた。プロボクサーってどうしたらなれるんだろう。案外、簡単なことが分かった。プロテストに合格すればプロボクサーになれる。なんだ、車の運転免許を取るのと同じじゃない。

 

 その事実を知ってから、つばさの中でボクシングを始めたい思いがどんどん高まっていった。たぶん、ただプロボクサーになれる条件を知っただけだったらそうは思わなかった。従妹のつばきがしているから、無性に自分もしたくなってしまった。クラスメートが携帯電話を持っているから自分も欲しくなるのと理由は似ているかもしれない。ともかく一度火が付いた思いは動き出さないと収まらない。翌日、つばさは母にボクシングジムに通いたいと頼み込んだ。どうせつばさちゃんに影響されたんでしょう。母は呆れ気味な顔をしてそう言った。母もつばきのことを知っていたのだ。でも、母は渋々という風には見えたけれど、ボクシングジムに通うことを許可してくれた。

 

 次の日からつばさは家の近くのボクシングジムに通い始めた。

 

 プロコースでお願いします。入門初日にそう頼んだのはつばさが初めてだと、指導を担当するトレーナーから教えてもらった。他の女性はみんな初めはボクササイズ目当てで入門する。その中の内の少数がそのうちプロボクサーを目指すようになる。少なくともつばさが入門したジムはそうであった。そういう女子のボクシングの事情を知った時は、なんだみんな気合が足りないじゃんとつばさは思い、思っていたよりも楽にプロになれるかもという思いを抱いた。

 

 つばさ以外にプロコースで練習をしている女子は他にいなかった。一年前までプロボクサーだった女性が一人いたが、引退して今はジムにも来なくなっている。戦績は2勝4敗。他にも二人今までにプロになった女子がいたが戦績は似たようなものだった。

 

 ひょっとしてこのジムって駄目なところだったのかなとつばさは不安を抱いたものの、男子ではこれまでに日本チャンピオンを二人輩出している。ジムの会長もジムも有名ではないけれど、実績はちゃんと残しているのだった。

 

 つばさはこのジムでボクシングを続けることを決めて、夏休みの間、毎日のように通い続けた。外では蝉がみんみんと煩く鳴いている真昼間につばさは窓を閉め切っていて冷房も付いてない熱気の立ちこもるジムの中で黙々と汗を流す。会員の多くは社会人だから昼間から練習をしているのはつばさと後は二人位であった。広々としているのは良いけれど、練習は泣きたくなるくらいにハードだった。中学の部活時代のサッカー部の練習が朝飯前と思えるくらいに負担のかかる練習をし続けた。つばきもプロボクサーを目指して練習している。その事実を知っていなければすぐに止めてしまっていたかもしれない。いや、そうじゃない。最初はボクササイズで初めて徐々にボクシングの練習に体を慣らしていけばこんなに辛い思いはしなかったと思う。でも、プロコースでと言ってしまったからには、ボクササイズにコース替えしますなんて言い出せない。言ってしまったらそのうちプロボクサーになったとしても大成はしないように思えた。

 

 だから、意地で練習を続けた。つばさちゃんだって頑張ってるんだからわたしだってと。従妹のつばさのことをライバル視していたことはなかったけれど、でも同じことを始めたらついつい意識してしまう。負けず嫌いな性格だとは思う。従妹にまでライバルとして見る視線を送らなくていいのにと自分に対して呆れてしまうけど。それとも、従妹だからライバルと意識してしまうのか。どちらにしろ、従妹のつばさが続けていて自分だけすぐに止めるのは恥ずかしくて誰にも泣き言も言えず我慢して耐えて練習を続けた。そうして、三週間が経つ頃には段々と練習にも耐性が付いてきて、ボクシングが面白く感じるようになってきていた。

 

 ボクシングの練習は走ることが多い。ジムに行かない時も自主的にロードワークで一時間走るし、ジムに行っても外に出て土手で短距離走をよく行う。元々走るのは好きだったからと走る練習自体は苦じゃなかった。その量とペースが尋常じゃなければだけど。

 

 でも、ボクシングの練習のメインはやっぱりパンチを打つことだ。ボクシンググローブを両手にはめてサンドバッグを叩く。パンチングボールをリズムカルに左右の拳で交互に叩く。トレーナーがはめているミットにめがけて叩く。それらのパンチで叩く練習はとても気持ち良かった。パンチで打つたびに身体の肉が解きほぐされていくような感覚を覚える。パンチを打った衝撃が身体に伝わり、内側から肉がほぐされていくような感覚だ。それはまるで炭酸飲料を飲んだときの気持ち良さに近いかもしれない。炭酸飲料は身体に悪いからほどほどにしときなさいと母親に何度か言われたことがあるけれど、ボクシングの練習では叩けもっと叩けと言われる。それもまた気持ち良い。自分は縛られない。縛られないんだと思うと。何も考えずにとにかく走って叩いてという日々をつばさは送った。

 

 そうして、夏休みが終わりに近づいた頃、ジムに同年齢の少女が入門した。肩までかかる髪を栗色に染めていて目が気になるくらいにぱっちりとしていた。よく見るとつけまつ毛をしていた。ノースリーブの白いTシャツに目がチカチカするくらいに鮮やかなオレンジ色のスリムなズボンを履いている。どう見てもボクシングジムの中で異質な格好をしていた。少なくともボクササイズコースでもそんなにファッションにものすごく気を使っている女子はいない。学校のクラスには何人もいるけれど、サッカー部でもそんな女子はいなかった。

 

 運動する場所と似つかわしくない空気を漂わせていた彼女の名前は森月まきといった。初めは同年齢の彼女が気になったけれど、彼女はボクササイズコースで、夏休みが終わって二人とも夕方からジムに顔を出すようになって、同じ時間に練習している人の数も増えると、彼女のことを意識しなくなっていった。

 

 でも、森月まきがジムに入門して二週間が経つと、その状況は一変した。森月まきがプロコースに転向したのだ。トレーナーから説明を聞かされた時は、げげげっという思いが起きた。水村コーチがつばさと森月まきと指導を担当する。まだつばさは教えてもらうことがたくさんあった。だから、自主的にトレーニングという割合はそう多くはない。水村コーチが二人まとめてパンチの打ち方、ディフェンスの仕方を教える。二人の身体を動かす姿を同時に見る。それはまるで二人きりの部活動のようでもあった。

 

 だから、ついつい森月まきのことを意識してしまう。彼女には負けたくないというライバル心に駆られてしまう。そう思うのは彼女が同年齢の女の子だからか、自分にはない異性としての魅力を放っているからなのか。つばさは森月まきを意識しすぎないように練習の時間を遅らせようかとも思ったが、夜の八時までには帰るようにと母と約束していたから、結局は森月まきと共に水村トレーナーから指導を受ける日々を送るのだった。

 

 そうして、森月まきがプロコースに転向して一か月も経った頃、つばさは自主的な練習が認められるようになり、指導もマンツーマンに変わった。そうなって、つばさはようやく一人前として認められたような気分になった。それと同時に森月まきよりも先に進んでいるのだという実感も起きた。一時期よりも森月まきへの意識は薄れていき、つばさは自分の練習に集中するように努めた。

 

 森月まきがジムに入門してからの二ヶ月間、つばさは彼女に話しかけようと思ったことが何度かあった。同年齢なのだからやっぱり仲良くした方がという思いがあったからだし、ライバル視を続ける自分が嫌だという思いもあった。

 

 でも、中学生の時から部活動中心の生活を送っていて仲良くしていた友達も運動部系の子たちばかりだったつばさは森月まきとどう接してよいのか分からず、一度も話しかけることが出来なかった。森月まきは無口でジムの中で誰かと話をしているところを見たことがない。誰とも仲良くせず同年齢のつばさに話をかけてくることもなかった。

 

 二人で外の土手で短距離のダッシュを繰り返す練習をしていた時に、休憩時間で土の上に腰を下ろして休んでいてすぐ隣に彼女も同じように休んでいたから、「しんどいよね」と話しかけてみたけれど、彼女は「うん」と小さく言ったきり、それで会話は終わってしまった。気を使って話しかけて虚しくなって、それっきり彼女に話しかけようという思いを持つのは止めてしまった。自分の練習に集中だ。つばさはそう思うことにした。

 

 そうして、つばさがボクシングジムに入門して一年が経った頃、水村トレーナーからプロボクシングの試合に出る気はあるかと尋ねられた。二か月後の田ノ宮ジムの興行で女子の四回戦の試合を一つ組む必要があって、協力関係にあるこの三田川ジムに話がきたのだそうだ。相手はこれがデビュー戦だとも説明があった。対戦相手との条件は一緒。元々、プロボクサーを目指していたつばさが断る理由は何もなかった。すぐにやらせてくださいと返事をした。すると水村トレーナーは「そうか」と言い少し首を捻り黙っていた。喜んでくれると思っていただけにつばさは戸惑い気味に水村トレーナーを見続けた。暫くして水村トレーナーは「いやな、森月にもこの話をしたんだ。彼女もやりたいと言ってな。どちらかやりたい方をと思っていたんだが、二人とも積極的だったからな」そう言うのだった。

 

 水村トレーナーは会長の元に言って、暫くその場で話を続けた。その様子をつばさは息を呑んで見続けていた。森月まきにも同じ話?だったら、絶対にわたしにやらせて。わたしの方がジムに入門したのは早いんだから。そう願って話が終わるのを待っていると、水村トレーナーがこちらに戻ってきて説明を始めた。つばさと森月まきで4Rのスパーリングをして、会長が判断を下す。そう説明を聞いた途端、つばさの中でどくんどくんと心臓の鼓動が脈打つのが聞こえてきた。森月まきとスパーリング……。これまでスパーリングの練習をしたことは何度もあった。でも、その相手は男のプロボクサーの先輩たちか他の若いトレーナーであって、森月まきとスパーリングをしたことは一度もなかった。その理由を聞かされたことはなかったけれど、たぶん気を使っていてくれたのだと思う。同年齢の少女がスパーリングをして関係がこじれることにならないようにと。

 

 でも、ついに森月まきとリングの上でスパーリングをする日が来た。いつかそういう日が来ると心の準備をしてはいなかった。いや、しないようにしていた。彼女は同じジムにいるのだからプロになっても闘うことはない。一度も闘わないでいられるのならその方がいい。同じジムの娘に複雑な感情は抱きたくなかったから。

 

 森月まきに負けたくない。胸にしまい込むことが出来ていた感情が抑えきれなくなっている。つばさは頭につけていたヘアバンドを外して、両拳に赤いボクシンググローブを付けてリングに上がった。ボクシンググローブは試合用より一回り大きい10オンスだけど、ヘッドギアは付けていない。プロに向いているか二人の根性を試す意味合いがあるのだと水村トレーナーから説明された。

 

 つばさと森月まきがリングに上がる。コーナーポストを背にしていたつばさは胸元で左右のボクシンググローブを合わせてばすっと音を鳴らした。スパーリングの時は一度もしたことがない動作を無意識にしていた。それはつばさの中でこのスパーリングが試合と同等のものだと意識している表れだった。

 

 スパーリングの開始を告げるゴングの音が鳴った。つばさと森月まきがコーナーから出ていく。つばさが左拳を差し出して森月まきが右拳を合わせた。グローブタッチ。ボクシングの試合の動画で知っていたこの行為をつばさはこれも無意識にしていた。

 

 そして、一度後ろに離れると、両足でステップを踏み、森月まきとの距離が縮まると左ジャブを打った。左ジャブは森月まきのボクシンググローブの上に当たる。ヒットはしてないけれどかわされてもない。つばさは気にせずに中間距離から左ジャブを打った。森月まきも同じ間合いから左ジャブを打っていく。水村トレーナーから教えられた基本に忠実なボクシングを二人はリングの上で実践していた。そのうちの何発かが相手にヒットしていく。つばさのパンチも森月まきのパンチも当たった。その数の差はほとんどなかった。ダメージの差も見受けられずイーブンと言っていい内容が続いた。

 

 第1R終了のゴングが鳴った。つばさも森月まきも大きく息を荒げてその場で足を止めた。お互いが口を開けながら相手をじっと睨み、それから自軍のコーナーに戻っていく。つばさの顔は頬が少し腫れてきていた。左のジャブを十発近く、右のパンチも二発はもらっている。お世辞にもプロレベルとは言い難いレベルであった。しかし、青コーナーに座る森月まきも似たようなものであった。左右の頬が少し赤く膨らんでいて、口から荒い呼吸を吐き出している。パンチを受けた数はつばさと大差ない。二人とも技術はプロレベルにないということになる。しかし、デビュー戦を迎える女子ボクサーの多くの技術はそんなものである。大事なことはパンチを受けることを嫌がらない気持ちの強さだ。そういう点では二人とも今のところ、合格のラインに達しているのかもしれない。しかし、プロのリングに立てるのは一人だけだ。お互いが強い視線を対戦相手に向けながらインターバルの一分間が過ぎた。

 

 第2Rが始まった。つばさは一直線にコーナーを飛び出して行く。何発もパンチを浴びて技術を出すよりも気持ちが前に出ている。二人とも技術はまだまだなのだからそれは効果的に働く可能性は十分にあった。しかし、森月まきの動きはつばさと違い円を描くようにリングを周っていく。第1Rでも森月まきは円を描くフットワークを随所に見せていた。ただ第2Rになって初めてその動きを見せたように感じられたのは、彼女のフットワークが様になってきているからであった。硬さが取れて彼女の本来のボクシングが出来てきているのかもしれない。つばさのパンチはことごとく空を切った。そして、森月まきの右のストレートが何度もつばさの顔面を捉える。空振りして隙が出来てしまえば左のジャブはおろか右の強打さえも容易く当てることが出来る。ディフェンスが何より大事なのだ。それがボクシングという競技である。そのディフェンスの差が明確に表れてきて、試合は一方的なものに傾倒していった。

 

 

 

 

 第2Rの終盤に差し掛かり、森月まきの強烈な左がつばさの頬を捉えると、その衝撃に耐えきれずつばさの身体が大きく仰け反りふらふらと後退していき、ロープに背中が当たりダウンを何とか免れた。つばさの顔からは鼻血が出ていた。左目はその周辺が丸い痣となって赤く変色していて、頬も痛々しく膨れ上がっていた。つばさが着ている白色のTシャツには自身の血の跡がいくつも出来ている。つばさはまだ両腕でファイティングポーズを取っている。頭が下がり気味で呼吸を苦しそうに吐き出しているがその目にはまだ闘志が宿っていた。

 

 ここで第2R終了のゴングが鳴った。つばさが赤コーナーに戻り、セコンドが用意したスツールにどさっと座り身体を休めていると、水村トレーナーが赤コーナーサイドのリングの下からから「もう終わりにするか?」と聞いてきた。

 

 つばさはパンチのダメージで顔をしかめながら「最後までやらせてください」と言った。水村トレーナーは「分かった。勝つことを意識するな。練習してきたことを出そうと思え。いいな」と言った。つばさはぼんやりとしてきている意識の中で水村トレーナーの言葉を反復する。

 

 練習でしてきたことを出す……。勝とうと思っちゃダメ……。

 

 インターバル終了を告げるブザーが鳴り、つばさは立ち上がる。その間も水村トレーナーの言葉を心の中で反復する。

 

 わたし、逆のことばかりしてたかな……。第3R開始のゴングが鳴った時、つばさはようやく自身の気持ちに幼さに気付いた。森月まきに勝つことばかり考えていた。そうじゃないだろ、わたしがボクシングを始めたのは彼女に勝つためじゃない。プロのリングに上がって、充実したいから。高い目標に向かって頑張りたかったから。

 

 つばさはべた足ながらも上半身を揺らして森月まきに向かって行く。森月まきが自分よりも綺麗なフットワークが使えることをつばさは試合前から自覚していた。フットワークが上手だとボクシングがだいぶ上手に見える。そんな思いが心の奥底にあってステップを踏もう踏もうという気持ちになっていたのかもしれない。ボクシングでフットワークは大事だ。でも、ボクシングはそれだけじゃない。フットワークで劣っているならべた足で足を付けて闘うことだって大事な戦法だ。たとえパンチ力が平均レベルであっても相手によってはインファイトが有効にもなる。

 

 つばさはそう信じて森月まきに向かって行った。つばさは森月まきの左ジャブを何発も浴びた。ステップワークで勝る相手の左ジャブが一方的にヒットするのは当然のことといえた。しかし、つばさは左のジャブを出すのを止めていたために右のパンチは一発ももらわずにいた。両腕でしっかりとガードを固めて上半身を揺らしていく。つばさの上半身が回るたびに赤い水滴が宙に散っていく。いつしかまたつばさの顔から鼻血が出るようになっていた。顔の腫れも一段と酷く変形してきている。それでもつばさは上半身を揺らして前に出ることを止めなかった。絶えず動いていた森月まきの両足がその場に止まる。彼女は背中にコーナーポストを抱えていた。動きたくても動けない状況になっていた。森月まきを執念で追い詰めたつばさは左のボディブローを彼女の腹に打ち込んだ。

 

「がはぁっ」という苦悶の声が森月まきの口から漏れる。もう一発つばさのボディブローが森月まきに打ち込まれた。森月まきが苦痛に顔を歪めながら両腕でつばさの身体を付き放とうとする。しかし、つばさはさらに前に出て森月まきの身体に密着する。そうして、お互いの肌が触れ合った距離からまたボディブローを打ち込んだ。一発、二発、三発と密着した距離からつばさがボディブローを森月まきに当てていく。その距離からでは十分な威力は出ない。それでも、連続してパンチを打たれるのは嫌なものだ。森月まきは必死になってつばさの身体を離そうとしている。コーナーポストに挟まれていてパンチのダメージを充分に逃しきれないというのも森月まきに必死の行動を取らせる要因になっていた。

 

 つばさが森月まきをコーナーポストに追い詰めて十秒以上が経過して第3R終了のゴングが鳴った。ゴングが鳴り、レフェリーに背中から止められると、つばさは項垂れるように下を向き肩で大きく息をしながら赤コーナーへ戻っていった。 第3Rは有効打の面でもダメージの面でもつばさが勝っていた。コーナーで体を休めるつばさと森月まきは、つばさの顔は醜く変わり果てているのに対して森月まきは少し頬が赤く腫れている程度であった。表情もつばさは目が虚ろなのに対して森月まきは苦痛で顔を歪めているもののその目には力強さがある。森月まきがだいぶ優勢なのに変わりない。しかし、つばさには第3Rを取った勢いがある。技術ではなく執念で取ったものかもしれないがそれでも第3Rをつばさは取った。ダメージの量で負けても最終ラウンドも取れば判定でつばさの勝ちになる。プロとしての適性を見極めるスパーリングテストなのだから勝ったとしても試合には出してもらえないかもしれない。それでも試合形式のスパーリングで対戦相手に勝つことは大きな意味がある。疲労で一杯の二人がそこまで考えているのかはその姿からは読み取れない。しかし、最終ラウンドを絶対に取るという思いだけはつばさも森月まきからも滲み出ていた。

 

 最終ラウンドが開始された。前のラウンド同様に上半身を揺らしながら前に出ていくつばさ。一方、森月まきはフットワークを使い円を描くようにリングを周る。こちらも前のラウンドと同じ闘い方だ。

 

 一発、二発、三発。前に出るつばさに森月まきが左ジャブを打つ。すべてつばさはガードで防いだ。三発目の左ジャブがガードの上に当たり、つばさがまた前に出ようとした時、森月まきのファイティングポーズに変化が起きた。顎のあたりまで高く上げられていた彼女の左腕が下がっていったのだ。ハーフパンツのベルトラインまで下がると彼女の左腕が小刻みに上下して揺れていく。幻惑的なその動きはつばさにとって初めて目にするものであった。プロボクシングの試合の動画でも観たことがない。もちろん、水村トレーナーから教えてもらってもいないし、森月まきだけが特別に教えてもらっているところも見たことがない。彼女がその動きをどこで学んだのかつばさには知る由もない。その幻惑的なモーションはつばさの心を動揺させ、攻撃を躊躇わせた。様子を見るべきか迷わず前に出ていくべきか。スパーリングの残り時間があまりない中で試合に出るためには確実にこのラウンドを取る必要がある。その状況がつばさにかまわずに前に出る選択を取らせた。十分な考えからの決断ではない。焦りから前に出る考えしかつばさは持てなかったのだ。結果的にはこの選択が試合の命運を握ることになった。

 

 前へと重心を預け一歩踏み出したその瞬間、森月まきの下に位置していた左の赤いグローブがつばさの視界から消え、つばさの顔面から高らかな打撃の音が響き渡った。後ろへ吹き飛んでいくつばさの顔面はひしゃげ潰れた鼻から血が散っていく。まるで会心の右ストレートを打たれたかのようなつばさのダメージの受け方であった。

 

 血の糸を引いた左のボクシンググローブを引いた森月まきは再度その腕を上下に揺らしていく。鞭を投げては戻して再び手にしたかのように森月まきの動きは思わせる。彼女の左腕の幻惑的な動きはもうつばさに対処できるものではなかった。森月まきが様々な角度から放つ左ジャブにつばさの顔面が乱れ飛んだ。森月まきに会心の笑みがこぼれていく。海外の世界チャンピオンのボクシングを参考に密かに練習していた変則的な左ジャブ。自分一人で練習していたこのボクシングがこんなにも上手くいくとは思っていなかった。これなら自信を持って1Rから使っていればよかった。そうすればつばさのパンチを一発も受けることもなかった。わたし、こんなに強かったんだ。いける、わたしはチャンピオンになれる。パンチを打つごとに自信を得ていく森月まきは最高の結果を手にしようとしていた。それはプロの試合に出場する権利ではない。プロボクサーとしてやっていける自信。森月まきは上体を沈ませて下から伸び上がるように右の拳を突き上げていく。下から突き上げるパンチを散々浴びてきたつばさはもう戦意を喪失していた。目で捉えられない軌道。ストレートを打たれたかのようなダメージ。その二つを合わせ持った森月まきの左ジャブに対抗する気概はリングの上で無情にも吹き飛んでいた。ガードでパンチを防ぐことさえままならず滅多打ちのごとく左ジャブを浴び続けたつばさの顎を森月まきの右拳が捉える。

 

 グワシャァッ!!

 

 森月まきの右アッパーカットが天に向かって昇っていく。拳を高々と突き上げた森月まきの姿は彼女の自信を象徴するかのように力強くリングの外から観る者たちに思わせた。 

 

 血とマウスピースが上空へ飛んでいく。両足がキャンバスから離れ両腕を広げながらキャンバスに倒れ落ちたつばさ。二度その身体が弾み、そして、大の字になって動かなくなると、それはスパーリングの決着を意味していた。

 

 レフェリーが森月まきの勝ち名乗りをする気さえしなくなるほどに衝撃的なノックアウトをされたつばさの姿に歓声はおろか拍手を鳴らす者も誰もいなかった。

 

 

 

 

 水村トレーナーが急いでリングに入った。勝者ではなく敗者となったつばさにトレーナーとレフェリーが駆け寄っていく。意識がかろうじて残っていたつばさは悔しさのあまり瞳から涙を零しながら水村トレーナーの介抱を受けた。試合に勝ってトレーナーから優しくされたい。トレーナーから声をかけられながら返事すら出来ずにいたつばさは敗北の悔しさを味わいながら強くそう思うのだった。

 

 これ以降つばさと森月まきのスパーリングがジムで行われることはなかった。二人が再び拳を交わすのはプロのリングの上になる。

 

 

 

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