ワァワァッと観客の大歓声が鳴る後楽園ホール。みさおは決死の表情でパンチを打って出る。ぷくっと膨らんだ右の瞼は視界が半分閉ざされ、左右の頬も赤く腫れていた。顔へのパンチの被弾は五十発をゆうに超えている。顔は痛々しく変わってしまったが、しかし、みさおは劣勢を強いられているわけじゃない。日本王座のベルトを賭けて挑戦者と8Rと長きに渡って繰り広げた激闘の証だ。挑戦者の原田千優(ちひろ)もまたみさお同様に瞼も頬も腫れ上がり痛々しい顔になっている。

 

 18歳のチャンピオン咲坂みさおと19歳の挑戦者原田千優。まだ十代とフレッシュな二人による日本タイトルマッチはお互いに得意の中間距離を闘いの場に積極的にパンチを打ち合って出た。若さ溢れる一進一退の攻防が続くが、3Rと7Rは明確にみさおがラウンドを取ったと分かるほどクリーンヒットが何度となく千優の顔面を捉えた。7Rを終えて採点の面で若干リードされていると自覚した青コーナー陣営は、8R開始のゴングが鳴ると同時にこれまでの中間距離の闘いをがらりと変え、接近戦での打ち合いに打って出た。千優がなりふり構わずに前へと出て左右のフックを打って出て、みさおも足を止めてパンチの打ち合いに応じた。

 

 みさおと千優の顔が何度となく汗飛沫と一緒に弾け飛ぶ。それでも二人は打ち合うことを止めない。みずみずしさに満ちた二人の少女の大迫力のパンチの打ち合いに場内は大歓声に包まれた。パンチの応酬が続く中、ゴングの音が高らかと鳴った。勝負に出た千優だったが、結局このRもポイントを取れたとはいえなかった。精々採点はイーブンといったところだ。

 

 赤コーナーへと戻ったみさおは会長が用意したスツールにどさっと座った。両腕はロープの上へと肘を下ろす。行儀はよくないが、それだけ疲労困憊なのだ。顎は上がり気味で視線は自然と天井に向かい、水玉のような汗が全身に噴き出ている。

 

 8Rを闘い終えさらにインターバルを迎えるのはみさおにとってこれが二度目だ。その一度目となったのはこの前の試合で、みさおが初めて挑戦した日本王座戦だ。その試合でみさおは10R闘い抜き、僅差の判定で念願のベルトを手にした。すでに一度体験しているからこの先の闘いも体力の面で不安はないがだからといって気を抜けるような状況ではない。

 

「よく打ち返した。3ポイントはリードしているぞ。原田はまた打ち合いに出て行くはずだ。この調子で打ち返していけ。いいな!」  

 

 会長がぐっと左拳を握りしめ力強い声で激励といえる指示を出す。公平な目で見ればみさおの2ポイントリードといったところで、会長も冷静にそこは読み違いしていないにちがいないはずだが、1ポイント上乗せしてみさおに予測を伝えたのは、時折気弱な面をみせるみさおに自信を持って終盤戦も闘ってもらいたいという狙いがあったからだろう。  

 

 みさおは「はいっ」と一言だけ、しかしその声は威勢が良く、大きく首を縦に振って元気な姿勢を会長にみせた。それで次のラウンドへの指示は終わり、みさおは引き続き、タオルで身体を拭いてもらったり、スポーツボトルのストローを口にくわえさせてもらい水を口に含んだりと身体のケアを受けた。身体の熱が若干取れていき、ぼうっとした表情となるみさおは視界をふいに右の観客席へと移した。だが、無意識に求めていた姿は観客席のどこにもなかった。  

 

 みさおは寂し気な瞳をみせたが、インターバル終了10秒前のブザーが鳴り、会長からマウスピースを口にくわえさせられると、左右の赤いボクシンググローブを打ち合わせて、闘志を目に宿らせ赤コーナーを出て行くのだった。  

 

 

 肌寒い夜気がまだ試合の熱が身体に宿るみさおに心地よい刺激を与える。みさおの頬と右の瞼には白いガーゼが貼られていて、暗い夜道でも彼女を目立たせていたが、住宅街の細い道にはみさお以外に誰も歩いていなかった。静寂な夜の路地を一人で歩くみさおは口元をかすかに緩ませている。  

 

 最終ラウンドを闘い抜いて、判定の結果をアナウンスされた時、レフェリーに右腕を挙げられたのは、みさおだった。97-95、96-93、98-96。2~3ポイント差でレフェリーは三者ともみさおを支持した。接戦ではあったが、終盤にラッシュをかけに出た千優に負けじと打ち合いに応じ、互角の打撃戦を最後まで繰り広げ中盤までのリードを保って逃げ切れることが出来た。  

 

 四度防衛中だったチャンピオン村中エミに勝利し、初防衛戦の相手となった千優は一歳年上だが、みさおと同じ2021年にプロデビューしている。この年にプロデビューした同期の中で、無敗で勝ち続け日本ランカーになったのはみさおと千優だけであった。マスコミや周囲は二人をライバル関係とことある毎に煽り立てるものの、当のみさおは千優をライバルだと思ったことは一度もなかった。もちろん、歳は近いから意識することはあっても特別な感情なんて持っていなかった。彼女とは試合が決まるまで一度も話したことすらなかったのだから。  

 

 日本王座の防衛に成功し、控室に戻ると、会長はみさおの肩を軽く何度も叩きながら、破顔した表情で「村中に続いて原田に勝ったからこれで当分は安泰だな」と嬉しそうに言った。みさおは物事を強気に言うのは苦手だったからなんと言っていいのか困って、笑みを浮かべて誤魔化した。フライ級の階級で国内最強の選手だった村中に勝利し、みさおと並んで次世代のエースと期待されていた千優にも勝ったのだから、これ以上の対戦相手と試合をすることは当分ない。だから、暫くは防衛回数を伸ばすことが出来る。会長が言いたいことはそうなんだろうとみさおは読み取った。

 

 会長の言葉には対応に困ったものの、もちろんみさおもベルトを長く防衛したいと思っている。会長が思うほど上手くいくとは思ってはいないけれども。強い相手と試合をしたいという漫画の主人公みたいな思いは持っていない。誰が相手でもいいから少しでも多くの数チャンピオンとして防衛戦をしていきたい。それがみさおの望みだ。  

 

 微かに傾斜している道を上りきると、右に曲がった。右側の家の塀からは金木犀が見事に咲き誇っていて、まだ距離があるのに甘くてふくよかな香りが鼻をくすぐる。  

 

 金木犀のある家を通り過ぎて、それから60メートル先にみさおの家がある。しかし、十歩歩いたところでみさおは立ち止まった。左の一軒家を見上げると、二階の窓からは明かりが点いている。白いレースのカーテンの奥には机に座って何か本を読んでいるかのようなシルエットの薄い黒色の人影があった。みさおは足を止めてじっと見つめながら、

「ばかっ」  

 と呟いた。 そして、また自分の家へと向かって行った。  

 

 

 翌日、みさおは右瞼と両頬に白いガーゼを貼った痛々しい腫れ顔のまま学校に登校した。一日経っても顔の腫れは少しも引いていない。むしろ一日経って頬や瞼の膨れ具合は増したようにみえる。そんな顔なのだから、みさおは顔を伏せ気味に恥ずかしさから頬を赤く染めながら教室に入った。その途端、「おめでとう、咲坂!」という声が男女限らずいくつも送られてきた。  

 

 みさおは教室の入り口で立ち止まって、頬を一層赤く染めた。それから、「ありがとう、みんな」と小声で言った。恥ずかしくて大きな声が出なかった。たしか日本チャンピオンになった時も、教室に入ったら同じように祝福されたんだっけとみさおは思い返したが、祝福の声はチャンピオンになった時よりも増えているような……。そんなことを思いながら、みさおはささっと教室の奥の窓際の席に座った。  

 

 一日の授業が全て終わって放課後、みさおはすぐさま教室を出て、二つ隣の教室3年D組に着くと、ちょうど3年D組もホームルームが終わったところで扉から生徒がぞろぞろと出て行くところだった。教室を出て廊下を歩く生徒の中の一人を見つけ、みさおは駆け足気味に向かって、その背中をばんっと叩いた。  

 

 強烈な音がして、その少年、ユメトは背中を丸めて悶えると、みさおに振り向いて

「痛いじゃないかよっ!!」  

 と大声で抗議した。しかし、みさおは、

「なんで試合観に来てくれなかったのよっ!!」  

 とユメトに負けじと大声で言いたかったことを言うのだった。目を見開いて強く見つめてくる彼女の剣幕に押され、ユメトは背中を強く叩かれた痛みも忘れ、しかし、

「だって、みさおなら絶対勝つだろ。俺が観に行かなかたって関係ないだろ」  

 とそっけなく言った。

 

「接戦だったんだから。危なかったんだからねっ」  

 

 みさおはユメトの反応に不満をいっぱいにこめて言う。

 

「それでも勝ちは勝ちだ。良かったじゃないかみさおが勝ったんだから」  

 

 ユメトはみさおの肩をぽんぽんと叩いて、再び前へ進んだ。

 

「ちょっと誤魔化さないでっ」  

 

 みさおは駆け足でユメトに追いついて彼の隣を歩きながら、

「これからジム行くんでしょ?」

 と尋ね、

「あぁっこれでもジム生だからね」  

 とユメトは淡々と言った。

「じゃああたしも」  

 みさおがそう言うと、ユメトは頭一つ分身長が低い彼女の顔をじっと見た。

 

「なにっ…?」  

 

 まじまじと見られて、みさおが口を手で隠しながら言う。

 

「いや、今日は休んだ方がいいんじゃないかって思って」  

 

 自分の顔が腫れていることを思い出したみさおはユメトに長く顔を見つめられて頬を赤くしたが、すぐに心を落ち着かせて、

「今日は会長に挨拶するだけ」

 

「律儀だなぁ。会長の顔なんて見ないですむなら俺はそうしたいよ」

 

「何言ってるのよ、会長のおかげで昨日の試合も勝てたんだから。それにユメトもやる気出してるか見とかなきゃね」  

 

 みさおは意地悪そうに言ってから、ユメトの顔を見て反応を確かめてみたものの、ユメトは面倒臭そうに息をついて、

「俺はいつだって真面目だよ」  

 と言うだけだった。歩く速さが増すユメトの背中を見て、みさおはもうっと内心思いながら、ユメトの後を付いて行った。  

 

 

 みさおがユメトと初めて出会ったのは、小学生を卒業した五日後のことである。卒業式を終えた翌日にみさおは父の仕事の都合で東京都の西から東へと引っ越しをした。新しく住むことになった新房町の家に住むようになってから三日後にみさおは早朝の日課となっていたジョギングを再開した。前の町でみさおは小学五年生の時から早朝にジョギングをするようになった。身体を動かすのが好きだったし、早朝のまだ冷たい空気が漂う中、走るのは眠っていた身体の細胞が少しずつ目覚めていくのが強く体感できて、なんだか生きている実感が沸いてくるからだった。毎日欠かさずに走り続けて、おかげで学校のマラソン大会では五年生と六年生の時に二年連続で優勝出来た。  

 

 この日もまだ知らない道を手探りでいながらもスピードを緩めることなく走っていると、後ろから少年に走り抜かれた。その少年はみさおと同じ上はジャージに下はハーフパンツを履いた格好をしていて、背はそれほど差がなくて同年齢か差があっても一つ違いにみえた。

 

 早朝のジョギングで同年代の子に走り抜かれたことなんてこれまで一度もない。

 

“よぉしっ負けられないんだから“  

 

 みさおの負けん気に火が付いて、走るスピードを速めたものの、少年との差は縮まるどころか開くばかりだった。少年の背がどんどん遠ざかりついには見えなくなった。少年の背中を追うことだけ考えて走っていたのに途中から自分で走るコースを考えなきゃいけなくなり、知らない道に動揺しながら家に戻ってきてその日のジョギングを終えた。ぜぇぜぇと息を切らして、背中を丸めて両膝に手を付いていると、50メートル先に少年の姿を見つけて彼は家の門に入って行くところだった。後でその家の門の前に行き、少年の名字が町本だと知った。  

 

 次の日もその次の日もみさおは少年に追い抜かれ、背中を見失う悔しさを経験した。七日目、その日も少年に後ろから追い抜かれると、みさおはまたも走るスピードを上げたが距離はどんどん離されていく。しかし、30メートルほど二人の距離が離れたところで少年は足を止めてその場に立っていた。みさおが少年に追いつくと、吸い込まれるようにその場に足を止めた。

 

「君も毎日俺の後を付いて行こうとするなんてたいした負けず嫌いだね」  

 

 少年が右手を腰に当てた格好で言った。話しかけられて、みさおはどきっとしたものの、少年の偉そうな物言いに腹を立てて、

「そんなんじゃないわよっ」  

 と目を背けて言った。

 

「ただ君があたしの走るコースを先に走ってるだけだから」  

 

 みさおの取ってつけたような理由に少年は頭を搔いて、

「まぁそれでもいいけどさ」  

 と言った。

 

「でも、俺に付いてくるのは無理があるぜ」

 

「なんでなの。あたし二年も毎日走ってるのよ」

 

「俺が走るのは朝だけじゃないんだ。夕方はダッシュ走だけどこれがきついんだ」  

 

 少年は思い出したかのように口元を苦々しく変える。興味を惹きつけられたみさおは、

「君、何やってるの?」  

 と少年に尋ねた。

 

「ボクシングだよ」  

 

 少年の返事にみさおは目を白黒させる。

 

 ボクシング?まだ子供なのに?少年がボクシングをしていることが信じられないとみさおが困惑していると、

「まぁ君には関係のないことだ」  

 と少年は言って、

「そういうことだから、俺のことなんか気にしないで自分のペースで走れよな」  

 そう言い残して、また走って行った。毎日追い抜かれた少年と交わした会話にまだ現実感を持てずにいたみさおは、小さくなった少年の背中を見ながら、

「ボクシングかっ」  

 と呟いた。  

 

 あたし、負けっぱなしなんて嫌だからなぁ……。みさおがその少年、町本ユメトのいるボクシングジムに入門したのは一週間後のことだった。  

 

 

 二人が校門を出て左の道を進んでいると、「ユメトっ」と明かるげな少女の声がして、みさおが振り向くと、突然、ユメトの右腕に両腕を絡ませて身体を寄せている制服姿の少女がいた。大胆なその少女の振る舞いにみさおが目と口を大きく開けて固まり、驚いたのはユメトも同様で、「わっ!」とびっくりした声を出して、大きく仰け反った。それで絡まっていた少女の腕がほどけた。ユメトはなおも驚いていて、彼女に指差して、「おまえはっ!」と言った。しかし、その後の言葉がなかなか出てこず、散々待たせた挙句に出た言葉は「誰だ!?」だった。  

 

 ユメトが知らず、みさおの濃紺とは違うえんじ色のブレザーの制服を着たこの生徒はみさおの知り合いでもない。けれど、みさおにはこの少女の顔にどこか見覚えがある気がした。金色のように明るい栗色の髪に帯状の赤いリボンを左右の頭部に付け、ちょっと吊り目に鼻も口もキュっと整ったその華やかな顔は一度見たら忘れなさそうだけれど……。

 

「もう嫌だなぁ、わたしのこと分からないの」  

 少女はそう言いながら、両手を腰に付けて顔をユメトに近づけた。ユメトはぽかんとした顔をしたままだ

 

「でも、仕方ないか六年ぶりだもんね」  

 

 少女は顔を戻して、一人納得してその細い顎に右手を当てた。

 

「神崎菜音(なお)。これで思い出せた?」  

 

 少女は笑顔を見せて名前を告げる。

 

「あっあぁぁ、神崎菜音かっ」  

 

 彼女の記憶を思い出せたユメトは先ほどとはまた別の驚いた顔をする。

 

「昔とだいぶ変わったなぁ。前はショートカットだったもんな」

 

「小学生のころだもん。そりゃ変わるわよ」  

 

 六年ぶりの再会を懐かしむ二人の雰囲気にみさおはその場にいるのが居心地悪くなって、

「あたし先行ってるよっ」  

 とつっけんどんに言って、ユメトの返事も待たずに歩き出した。

 

「えっあっあぁ……」  

 

 ユメトの煮え切れない返事を背中越しに聞いて、みさおの苛立ちがいっそう募る。

 

「待ってよ、咲坂みさおさん」  

 

 思いもよらず菜音に名前を呼ばれてみさおは「えっ」と声を出して振り向いた。

 

「なんであたしの名前を知ってるの……」

 

「女子ボクシングの日本チャンピオンだもん」  

 

 菜緒が当然のように言う。マイナー競技である女子ボクシングの国内王者というだけではみさおが通う一の谷高校の生徒ならともかく他校の生徒にまで名前が知られているものではない。日本王者にもなると試合結果はインターネットのニュースサイトには掲載されるものの、トップニュース扱いにはならないのだから偶然記事を目にすることはまずないし、日本チャンピオンの名前と顔を知っているのはよっぽどのボクシングファンくらいなものだ。まして、彼女はボクシングファンとはまったく無縁そうな女子高生だ。みさおが怪訝に思っていると、

「昨日の試合テレビで見させてもらったよ。流石チャンピオンって試合するんだね」  

 と菜緒がみさおについての知識をさらに披露してみさおはますます困惑した。なんだか選手みたいなことを言うと思って、それでみさおは一つの憶測が芽生えた。ひょっとして、彼女も———

 

「菜音もボクシングしてるんだよ」  

 

 みさおの憶測を読み当てたようにユメトが菜音の素性を明かした。

 

「だよな」  

 

 ユメトは確認するように菜音の方を見た。んっ?ユメトも菜音のことを詳しく分かってないの?みさおが不可思議にユメトを見て、それから二人の関係性がますます気になってユメトの視線の先にある菜音に顔を向ける。

 

「プロじゃないからボクサーって名乗っていいのか分からないけどね」  

 

 菜音が舌をぺろっと出して言った。初めて彼女がみせた謙遜した振る舞いに、でもユメトは、

「よく言うよ」  

 やってられないといったような表情で、明後日の方へ顔を向ける。  

 

 その時、みさおは菜音に関する記憶を思い出した。そして、大きな声を上げて

「あなたってアマチュアの世界大会で優勝した…神崎菜音さん……?」  

 と聞いた。

 

「プロのチャンピオンに顔を覚えてもらえてるなんて光栄ね」  

 

 菜音は両手を腰に付けて、首をちょっぴり傾げながら唇に笑みを作って答えた。一年前にドイツで開催された女子ボクシングのアマチュアの世界選手権で日本人で初めて優勝した選手がいた。みさおと同年齢のまだ高校生の少女で、しかも日本代表でなくアメリカの代表選手であった。それが神崎菜音だった。アメリカに住んでいてアメリカ代表なのに、日本人として初めて女子ボクシングの世界選手権に優勝したこの出来事を日本のメディアの多くがニュースとして報じた。その中には夕方や夜の時間帯のニュース番組も幾つかあったのだから、菜音はみさおよりもよっぽど多くの日本人に知られている女子ボクサーになる。

 

 謙遜しているのか、それとも余裕の表れなのか、どちらにしろ、彼女から光栄と言われてもみさおは少しも嬉しくなかった。アマチュア選手らしく礼節ある謙虚な言い方をしていたらまた違っていたかもしれないけれど。

 

 しかし、そんなことよりも気になって仕方ないのは世界選手権の優勝選手である彼女がユメトに会いに来たことだ。小学生の時の知り合いだと言っていたけれど、なんでアメリカに住んでいる彼女がユメトに会いに来たんだろう。みさおがもやもやした思いで菜音とユメトの顔を見比べていると、

「ユメトっ、わたし、また日本で暮らすことになったのよ」  

 と菜音がユメトに向かって言った。

 

「へぇ、そうだったのか。どおりで日本の高校の制服着てるはずだよなぁ」

 

 ユメトが少し驚いた顔をして、それから両手を後頭部に回すと呑気な声を出した。

 

「まぁね。来年の春には卒業だから日本の学生でいられるのはちょっとだけだけどね。パパもこんな時期に日本のジムでトレーナーするようになるんだもん」  

 

 菜音は困ったもんねと気持ちを表すように大袈裟な仕草で息を付いた。でも、ユメトは「ふぅん」と生返事をするだけで、彼女の家庭のことまで詳しくないからか、それともここ数年のボクシングの話題になるとつれない反応しかしなくなるにユメトに戻っただけなのかみさおには分からなかったけれど、菜音は気にする様子を見せずに、

「アメリカも日本もボクシングが盛んな国だからどっちでもわたしはかまわないんだけどね」  

 とボクシングの話を続ける。ユメトは何の反応も示さず、みさおも彼女とは初対面で相手の事情もよく分かってないのだから話を聞いているだけでいると、

「でも、日本にいてももう公式戦でユメトと試合することができないのは残念よね」  

 と菜音が言ったから、

「えっ」  

 と声を出さずにはいられなかった。ユメトと試合をしたことがある女子がいたなんて思いもしなかった。まして、彼女はユメトと今も試合をしたがっていることをほのめかしている。驚いているみさおに菜音が振り向いた。顔が合って、

「ユメトと試合をしたことあるの?」  

 とみさおは思わず聞いた。

 

「うんっ、小学五年生と六年生の時に二度、アンダージュニアの大会でね」

 

「そうなんだっ」  

 

 菜音がユメトに会いに来た理由がだんだんと見えてきた気がしてくる。小学生の時の同級生とかジムメートとはまた違う絆が結ばれているから彼女はこうして会いに来たのだ。

 

「どっちもわたしの負けなんだけど、小学六年生の時は決勝戦であと一歩で勝てそうだったんだけどなぁ」  

 

 勝ち気なことを言っても片目を瞑った菜音の顔は魅惑的な雰囲気に満ちていた。その魅惑的な雰囲気を顔に残したままに、

「ねっユメト」  

 菜音がユメトに確認を求めた。

 

「どうだったかな。もう覚えてないよ」  

 と返事するユメトはまた明後日の方に目を向ける。

 

「ダウンまで奪われてて何言ってるのよっ」

 

「俺だってダウン奪っただろ」

 

「やっぱり覚えてるんじゃない」  

 

 呆れたように菜音が言ってから、彼女は馬鹿なことを言い合ったみたいにふふっと笑った。

 

「ユメトからダウンを……」  

 

 みさおがぽつりと呟く。男子と女子の体力差がまだ少ない小学生の時だったとはいえ、むしろあの頃のユメトだからこそダウンを奪う女子がいたなんて信じられないことだった。  

 

 菜音がまたみさおの顔を見て、

「だからね、」  

 と言い目を一段と光らせて、

「ユメトはわたしのライバルなの」  

 とはつらつとした顔で言った。みさおにとってユメトはボクシングを始めるきっかけとなった人で、試合をすればあっさりと相手を倒してしまったユメトは目標であって、憧れの存在だ。憧れなのは今だって変わらない。でも、菜音はユメトをライバルとして見ている。ボクサーであるユメトに自分とはまた違う特別な感情を持つ彼女を見ていると、みさおは胸が早鐘のように鳴り出して冷静でいられなくなる。  

 

 そんなみさおをよそに菜音がユメトに顔を向ける。

 

「だから、これだけはユメトに言っておきたいんだけど」  

 

 さきほどまでの楽し気な顔から一変していた。その後の言葉で菜音がユメトに会いに来た本当の目的をみさおはようやく理解した。彼女はきりっと睨み付けるような目で、

「なんで、プロになってもう二回も負けてるのよバカッ!」  

 とユメトに怒鳴りつけたのだ。  

 

 

 そう、菜音の言うように子供の頃のユメトはボクシングの大会に出れば必ず優勝する神童のような少年だった。小学五年生、六年生とアンダージュニアの大会で二年連続優勝。全部の試合をKOで勝っている。その時のユメトをみさおはまだ彼と出会っていなかったから、これらはジムのトレーナーから聞いた話だ。でも、それ以降の活躍ぶりはみさおも直に目に焼きつけている。中学生になってもアンダージュニアの大会で一年時から優勝した。自分よりも明らかに骨格がしっかりとしている三年生たちを相手にまったく寄せ付けないボクシングでKOで勝ち続けるその姿はボクシングを始めたみさおの目には眩しすぎるくらいに煌めいて映った。ジョギングでユメトを追い抜くためにボクシングジムに通い始めたのに、その思いがユメトのような試合をしたいという思いに変わるのはそう時間はかからなかった。ユメトの背中を追いかけてみさおもボクシングにのめり込んでいくようになった。そしてみさおも中学二年生になって初めてアンダージュニアの大会に参加し、三年生の時に準優勝するまで強くなっていった。  

 

 しかし、その大会でみさおの記憶になによりも焼き付いているのは、自分の試合ではなくユメトが負けたことだった。決勝戦でアンダージュニアの大会に初参加の少年にKO負けしてしまった。3R途中まで互角の勝負をしていたからユメトの実力が大きく劣っていたわけではなかった。運悪く良いパンチをもらって倒れてしまったのかもしれない。その時はみさおはそう思おうとした。  

 

 その試合はユメトにとってボクシングを始めて以来初めての敗北で、ユメトは期する思いを胸に翌年の高校のジュニアの大会に臨んだ。ユメトを倒した少年小村ユウもその大会に参加していて二人は決勝戦で拳を再び合わせることになった。ユメトにとって雪辱戦となったその試合は、わずか57秒で終わってしまった。二度のダウンを奪われて一方的な敗北をユメトは喫したのだ。全く言い訳の立たない完敗だ。  

 

 それ以降、ユメトは気が抜けたように覇気を無くしてしまった。ちょっと生意気なところがあったのに物事を一歩引いて見ているかのように何においても他人事のようであった。それが日常だけならまだしも肝心のボクシングでも覇気が無くなってしまった。練習中も試合においてもだ。 

 

 元々プロ志望だったユメトは17歳になってプロのリングに立つことになった。しかし、プロボクサーになったユメトのボクシングは新人離れした高い技術を持っていたもののどこか物足りない。何が何でも勝ってやるという勝利への執着というものが決定的に欠けていて、そのために手数とクリンチを多用する巧妙な闘い方をする対戦相手やレフェリーの死角を突いて頭突きをしてくる対戦相手に負けてしまった。どちらの対戦相手よりもユメトの方がボクシングの技術は高いのに、相手のペースを崩すのに長けた相手の術中にはまってしまい、最後までペースを掴めずに判定負けを喫した。つまらない負け方であるけれど、以前のユメトであったなら、どうにか突破口を見出して勝つことにこだわった相手のボクシングを粉砕して勝っていたはずだ。高い技術に臨機応変な対応力があったからこそ、アンダージュニアの試合でユメトは勝ち続けていたのだ。

 

 しかし、今のユメトにはリングの上でどんな事態にも臨戦出来るいわば殺気というものがない。それはボクサーとして致命的な欠点であり、そのために五戦してもう二度も負けている。三勝二敗二KO。それがユメトのプロでの戦績であって今も四回戦ボクサーのままだ。 

 

 以前のようなリング上での煌めきを失い、プロのリングでもがくユメトをみさおは何とかしてやりたかった。ユメトは自分がボクシングを始めたきっかけを作った人物であって憧れの存在だったのだ。ユメトがいたからボクシングの楽しさを知れて夢中になってのめりことが出来た。  

 

 でも、ユメトに対してしてあげることなんてみさおにはほとんどない。技術的なアドバイスだって出来ないし、女子だから試合前のスパーリングに付き合ってあげることも出来ない。そもそもボクシングの技術では今もみさおよりもユメトの方が遥かに高い。これだって男子と女子との差が大きくてどうにもならないことだけれど、ともかくみさおが考え抜いた末に決めたことは、自分がプロのリングで勝ち続けることでユメトに刺激を与えることだった。

 

 そうした決断もあってかみさおはデビュー以来無敗で今は日本チャンピオンだ。8戦8勝3KOを記録して日本王座のベルトを一度防衛している。女子とはいっても同じジムの中に日本チャンピオンがいればユメトだって少しは気持ちに火が付くかもしれない。俺だってやってやるってと。そう願いつつ、二度の日本タイトルマッチに挑んだ。どちらの試合も接戦の末に判定で勝利することが出来たが、ユメトには何も変化が起きない。そもそも初防衛戦の試合にいたっては会場に観に来てもくれなかった。あんなに応援しに来てって声をかけたのに。

 

 自分がタイトルマッチの試合に勝つ姿を見せればユメトのやる気にも火が付く。それは安直な考え方だったのだろうかとみさおは度々思うことがある。しかし、みさおには他にユメトのためにやれることが思いつかず、もっともっと日本タイトルマッチの大舞台で勝つ姿をユメトに見せようという思いに戻り、日々の練習に取り組むのだった。  

 

 

 菜音がみさおの前に再び現れたのは初めて会った時からちょうど一週間が過ぎた頃だった。初防衛戦の試合の疲れがすっかり取れてジムでの練習を再開して二日目。まだ練習を再開したばかりだから早めに切り上げて、ジムを出ると入り口の横に菜音が立っていたのだ。またしても突然現れて、みさおはびっくりしたけれど、菜音から「やあ」と手を上げて挨拶されて、みさおも「うん」と小さな声で頷いた。それから、そわそわとジムの方に顔を向けて、

「ユメトならまだ練習してるよ」  

 と菜音に向けて言った。しかし、菜音は窓から離れてみさおと同じ方向に身体を向ける。

 

「もういいの。ユメトの練習も見れたし」  

 

 菜音の真意がよく分からなかったけれど、みさおは「そう」とだけ言って帰りの道を進もうとした。もう少し菜音がジムまで来ていた理由を尋ねたかったけれど、アメリカでの生活の影響か積極的な菜音がみさおは苦手で話をしたい気になれなかった。けれど、菜音もみさおの後を付いてきて、戸惑いながらみさおは帰宅の歩を進める。  

 

 みさおの横に並んで歩いている菜音がやがて、

「ユメト、案外悪くないんじゃない。プロの試合の映像見てみたら、酷い動きだったからびっくりしたけれど」  

 と再び話しかけた。ユメトの練習を見た菜音の感想がみさおが抱いていたものとまったく同じだったから、

「うん、練習だとね。前みたいに気迫はないんだけど、動きは悪くないとあたしも思うんだ。でも、試合になっても気迫が乗らないままだから、相手の手数に負けたりつまらない負け方するようになっちゃって。たぶん、技術的なことじゃなくてメンタルの問題なんだよね」  と菜音の目を見て、共感するように感情を込めてみさおは言った。長いこと胸の内に留めていたものを吐き出すように。

 

「目的がなくなったからじゃない」

 

「目的? 目的だったらプロのチャンピオンになることが夢だって前からユメト言ってたけど……」

 

「でも、小村君に負けてからそれが変わっちゃったのよ。プロのチャンピオンになることよりも小村君の存在の方がユメトの中ででっかくなっちゃってるんじゃないかな」

 

「小村君か……」  

 

 もし菜音の推測が当たってるとしたら、ユメトがプロに転向したのは間違った選択だったのだろうか。アマチュアの試合で小村ユウに勝ってからプロに転向すべきだったのかな。でも、小村ユウと次また試合をして勝てるかは分からないし、小村ユウがいつまでアマチュアの試合に出続けるかも分からない。そんな状況ではやっぱり17歳になると同時にプロに転向したユメトの選択が間違いだとは思えない。どちらにしても、ユメトはプロボクサーになって小村ユウはアマチュアのボクサーでいるのだ。二人が闘うことは出来ない。  

 

 みさおの横を黒色のタクシーが夜の街に同化する静かなエンジン音を鳴らして通り過ぎて行った。あと70メートルも歩けば駅に着く。みさおの家は駅を過ぎて裏に出ると途端に歩く人が少なくなる道のずっと先にある。

 

「でも、いずれ小村君とまた闘う日がくるわよ。オリンピックが終わればプロに転向するんじゃないかな彼は」  

 

 みさおは菜音の方を振り向いた。たしかに菜音の言う通りかもしれない。それはユメトにとって望ましいことなのかもしれない。でも、小村ユウというボクサーを考えるとすぐに不安になってくる。

 

「でも、今のユメトなら小村君と闘っても歯が立たないよ」

 

 思わずみさおは胸の内に芽生えた消極的な思いを漏らした。でも、菜音もみさおと同じ思いを持っていたのか、

「そうね。以前のユメトに戻れたくらいじゃ話にならないくらい差があるわね」  

 そう言って顎に手を付けて考え込むようにして歩く。今日菜音が初めてみせた真剣な表情だった。それくらいユメトとユウとの間に実力の開きがあるのだとみさおは改めて思った。

 

 しかし、それにしても———。唇をきゅっと結んで下を向いて考え込む菜音のその姿は一途なまでにユメトのことを思っているみたいにみさおの目には映って、つい言わずにはいられなかった。

 

「ねぇ、神崎さんはユメトのことばかり気にしてていいの?来年は神崎さんだってオリンピックでしょ」  

 

 ユメトのことより、自分のことをもっと考える時期なのじゃないかと。

 

 菜音が顔を上げて、みさおを見る。真剣さは消えて明るい表情に戻っていた。

 

「う~ん、わたしオリンピック目指すか決めかねてたんだよね」  

 

 菜音のその返事はみさおにとって思いもしないものだった。みさおは「えっ?」と声を上げた。

 

「アメリカでアマチュアの試合に出続けてたのは、あっちだとフライ級の選手って全然いなかったから世界大会を標準にしてただけだし。だから日本に帰って来てからこれからどうしようかなってずっと考えてたの」  

 

 菜音はアマチュアのボクサーだという認識でいたから、みさおは困惑を募らせた。オリンピックの金メダルだって狙えるっていうのに、オリンピックにあまり興味ないの?自由奔放な彼女の考えに戸惑うみさおを菜音がしっかりとした眼差しで捉える。

 

「でも、これからどうするか今決めたわ」  

 

 その眼差しは力強く変わっていた。

 

「わたし、プロに転向することに決めた」  

 

 菜音がその薄く鴇色に輝く唇の両端をきゅっと上げて、強い意志を漲らせた目でみさおの目を捉え続ける。菜音の真意が分からずにみさおは呆然と立ち尽くしていた。

 

「次会う時はリングの上になるわね」

 

「うっうん……そうなるのかな」  

 

 菜音の突然のプロ転向宣言をみさおはまだ受け止めきれずにいて、煮え切らない返事になる。世界選手権を制したのにオリンピックを目指さないという菜音の考えをみさおには理解できなかった。やっぱりアマチュアボクシングの最高峰の舞台はオリンピックだ。その舞台が来年に迫っているというのに簡単に投げ出すなんて。  

 

 それにみさおは菜音と闘いたいという思いを持ち合わせていなかった。強い相手と闘うことよりも日本王座の防衛の回数を多く伸ばしてユメトの闘志に火を付けることしかみさおは関心を持てずにいた。アマチュアの世界チャンピオンを相手に防衛戦を行いたいなんて願望はまったく湧いてこない。  

 

 みさおが複雑な表情を浮かべていると、菜音は片手を上げて「じゃあねっ」と言い残してその場を走って去って行く。しばらくその後ろ姿を見続けていると、店の看板が並ぶ商店街のネオンの光に吸い込まれるように彼女の背中はその賑やかな街並みに溶け込んで消えていった。  

 

 次会う時はリングの上で———。  

 

 菜音が最後に言い残したその言葉を何度も半濁しているうちに、みさおには菜音の真意が少しだけ分かる気がしてきた。

 

「ユメトのためにプロに…」  

 

 そうぽつりと呟くと、みさおは彼女が消えた駅前の街並みをもう一度だけ見つめ返した。

 

 

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