暗転する会場から無数のライトに照らされているリングに菜音が上がると、白色のエナメル生地で赤い装飾が煌びやかに輝くガウンを羽織ったまま両腕を高く掲げ、その美しく堂々たる姿は演劇の舞台に立つヒロインであるかのような魅惑的な色彩を放っていた。暗転が消え観客席にも光が戻る。そして、リングの上には二人の女子ボクサーと彼女たちを囲う二人ずつのセコンドが立っていて、彼らから滲み出る張り詰めた空気がこの一戦の重みを物語っていた。

 

 プロ転向第一戦にしてメインイベントのリング、女子フライ級日本3位と闘うという強気のマッチメイクに挑む神崎菜音。そして、プロデビュー戦にしてメインイベントのリングの主役となったアマチュアの世界チャンピオンの相手を務める原田千優。それぞれが青コーナー、赤コーナーで待機する二人のボクサーの姿はまだ十代の少女であるというのに、大舞台を経験してきた落ち着きと風格に満ちていて、後楽園ホールのメインイベントのリングを飾るに充分であった。

 

 青コーナーには神崎菜緒が立ちコーナーの色に合わせた青のグローブを両拳にはめていて、赤コーナーには原田千優が立ち対照的な赤のグローブを両拳にはめている。それらの色は両者の現時点のプロでの格を表していたが、しかし菜音が白いエナメルのガウンを羽織い、鮮やかな栗色の髪型に赤いリボンを付けてアマチュアでの輝かしい実績も相まって華々しさがあるのに対して、オレンジ色のTシャツを着て、髪も黒色の髪を三つ編みにして左右に束ねている千優はまだこれといったボクシングの勲章も手に出来てなくどうしても地味な印象が拭えなかった。菜音の方が格が上の選手に観客の目には映るが、しかし千優は元々中学まで空手をしており、童顔で黒色の瞳がくりくりとしていてリスのような可愛らしい顔をしているのに精悍さがある凛とした武道家特有の気も備えているように感じられ、日本ランク3位に恥じないボクサーの風格が彼女にはある。

 

 その日本ランク3位の千優をプロデビュー戦の対戦相手に選んだ菜音陣営が次戦で日本王座を視野に入れているのは明白で、千優は日本チャンピオンのみさおに挑戦して敗れているのだから試金石としてこれ以上ない相手といえた。その構図も現時点での菜音の実力を計り知れる観客の興味の対象となっていたが、それは観客席に座り観客の一人となっているみさおも同じだった。

 

 ユメトと並んで観客席でリングの上に目を向けるみさおは、初めてプロのリングに立つ菜音の方に関心がいきがちで、白いエナメルのガウンを着て観客にも堂々と両腕を掲げて自身の存在をアピールする菜音にはプロデビュー戦のボクサーとは思えない華々しさがあって、軽い嫉妬も覚えるのだったけれど、そうした気持ちも収まっていくと、関心の対象はやがて千優へと移っていった。

 

 肩の筋肉が盛り上がり、引き締まった両腕の先にある赤いボクシンググローブ。あの拳の硬さをみさおは身に染みて体感している。10Rに渡って闘い抜いて何十発と千優のパンチを浴びて腫れ上がったみさおの顔は内側から灼けるような痛みが発散していた。千優の光沢を帯びた赤いボクシンググローブを見ているだけであの時の痛みが生々しく蘇ってきそうだった。

 

 みさおは千優に勝って欲しいと心の中で思った。それは素直な応援の気持ちであって、日本王座のベルトを賭けて、10Rに渡って汗と血飛沫を跳ね飛ばしながら闘い抜いた体験を共にリングの上でして、そして、今日再起戦に上がった千優の姿を見るとどうしてもそういう気持ちを抱くのだった。でも、出来るだけ客観的に試合を観なきゃと、みさおは隣の席に座るユメトに

「ユメトはどっちが勝つと思う?」  

 と勝敗の予想を聞いた。

 

「菜音じゃないか」  

 

 ユメトは顎に手を付けながら、菜音の試合だというのにあまり興味がないのかぽつりと答えた。ユメトが一言で済ませたままでいるから、みさおはちょっとムッとして頬を膨らませて、

「なんでなのっ?」  

 と突っ込んで尋ねた。

 

「別に理由なんてないけど、試合したことあるからさ」  

 

 ユメトの理由は単純明快だった。ユメトから男ならではの理論的な分析を聞きたかったのに、単に選手への思い入れに過ぎない理由にみさおはやっぱり不満があったけれど、それは自分も同じなのだからこれ以上聞くのを止めた。隣同士の席で試合を観に来たのにお互い応援する選手が違う一体感のなさが物足りなさを覚えたものの、みさおは視線をユメトからリングに戻し、みさおは自分と年齢が近くライバルといっていい選手同士の一戦に集中することにした。

 

 両者の名前を告げるリングコールが終わり、菜音がガウンを脱ぎ、赤いスポブラに白いトランクスのコスチュームをみせ、千優もTシャツを脱ぎ、上下ともに白いコスチュームをみせる。試合開始の時が迫ろうとしている。レフェリーのルール確認も済み、菜音と千優は再び自軍のコーナーへと戻り待機する。

 

 そして、ついに試合開始のゴングが打ち鳴らされた。

 

 カーン!!

 

 コーナーから出て行った菜音と千優はお互いに青と赤のグローブを突き出して、グローブタッチすると一度距離を取った。それから、菜音は周回するようにステップを刻み、千優は前後への移動と対照的な距離の測り合いをしながら、あと一歩踏み込めばパンチが当たる中間距離まで近づくとお互いを見合った。

 

 まずは千優が左ジャブを打って出る。左ジャブを一発、二発。ガードの上だが彼女は臆せずにさらに左ジャブを二発。二発ともガードの上から鈍い音を立て、さらに右ストレートをガードさせると一段と鈍い音が生じた。

 

 元々は空手の選手であった千優は直線的な攻撃を得意としている。攻撃の大半がジャブとストレートで占められていて、中間距離から打ってくるそれらの攻撃は単調であったが、パンチのスピードは迅速で、拳は鉛のごとく硬さがあった。目にも止まらぬ速さに避けるのも厄介なのにガードの上からでも容赦ない痛覚が襲い掛かってくる。それは鈍器で殴られているかのような痛みで、千優のパンチをガードし続けていたらその両腕は瞬く間に使い物にならなくなってしまう。

 

 だから、相手の選手は千優の得意の距離を外して、フットワークを駆使して機動力で彼女の直進力に対抗しようとする。まだボクサー特有のリズムカルなステップを充分に使いこなせていない千優の弱点を突く手段だが、みさおも彼女との試合では千優との距離に細心の注意を払い前後のステップの動きで千優を惑わしながら闘っていった。パンチのヒット数の多さで優り僅差の判定で試合には勝ったものの、ダメージの面ではおそらく五分五分。そして、試合後の姿はみさおの方が千優よりもだいぶ顔の腫れが酷かった。それはパンチ力の差というよりもパンチの質の差であって、拳の硬い千優とフルラウンド戦い抜いた選手はどの選手も顔が酷い有様になるのを避けられなかった。

 

 だが、この試合はそれとはまったく別の様相を見せていく。試合が始まって30秒が経過し、ようやく身体が温まってきた菜音は、自ら千優の得意とする間合いに足を踏み入れた。そして、ストレートが十二分に威力を発揮する千優の間合いで両足を止める。菜音の大胆な行為に千優の目にぐっと力が込められ鋭い視線に一層の険しい光が宿る。千優が左ジャブ、右ストレートを打って出た。菜音が首を動かして二つのパンチを難なくかわす。二発目のストレートをかわした際に菜音が右のストレートを軽く千優の顔面に当てた。力感のないパンチだったが、それでもカウンターで打ち込まれたパンチの威力に千優の顔面が苦痛に歪む。だが千優は臆せずに左ストレート、右ストレートを打つ。菜音がすぅっと音のしない上半身の連動でそこにパンチが来るのが事前に分かっていたかのように意図も容易くパンチを避ける。そして、また二発目のパンチの終わりに菜音は右ストレートを軽いモーションで千優の顔面に打ち込んだのだった。

 

 パアァッンと乾いた音がして、パンチの衝撃に頬の肉が波打つ千優が視線が揺らぐように呆けた目をする。これだけ綺麗に相手の顔面を打ち抜けるボクサーがどれだけいるだろう。まるで演舞の部門に出たボクサーのように美しいモーションで千歳の顔面を的確に捉え、力が込められてなくても相手に十分な威力を与える菜音のボクシングは不思議なまでに観る者の心を惹き込ませる魔力があった。観客たちは菜音のボクシングに釘付けとなって視線を向ける。  

 

 菜音が千優の間合いのまま上半身をリズムカルに動かす。そして、右ストレートを放った。そのパンチは千優の顔面を捉え、千優はすぐさま右ストレートで反撃に出る。菜音は身体を沈みこませてパンチを避けると、千優のパンチの下の位置からその腹に右フックを打ち込んだ。ズドンッという音がして、千優が「がはっ!」と呻き声を漏らす。千優が再び右ストレート。しかし、菜音はサイドステップでまたも難なく避けて左フックを千優の顔面に打ち込む。  

 

 菜音が一方的にパンチを打ち込んでいき早くもアマチュアの世界チャンピオンの実力を発揮していくが、目を見張るべきは、千優のパンチを全てガードすることなくかわし続けていることだった。パンチをかすらせもしない。それは千優の拳の硬さを活かした直線的な攻めのボクシングに対抗するこれ以上ないボクシングだった。  

 

 パンチが当たる間合いにいるのに難なくパンチをかわせるディフェンスの技術の高さも相手の身体を的確に捉える美しいパンチもこれまで千優と闘ってきた選手とは別の世界のボクシングがそこにはあった。静かで心地よいリズムのフットワークとしなやかに伸びていく躍動感のあるパンチ。それはリング上でワルツを踊っているかのように美しい。しかし、そのワルツはべた足の動きをみせる千優の武道的なボクシングをも呑み込み、菜音にパンチを打ち込まれ右に左に振られる千優の姿は美しいワルツの代償であるかのように凄惨でもあった。  

 

 試合が第3Rに入った頃には、千優の顔面は直視できないほど酷く醜く変わり果てていた。頬も瞼も赤色に痛々しくぷっくらと腫れ上がり、その顔は千優とフルランド闘い抜き負けていった敗者たちの顔よりも酷く腫れている。まだ試合は第3Rだというのに、それだけ試合が一方的であることを告げていた。

 

「ぶふぅっぶふぅっ…」  

 

 鼻血が垂れ流れ乱れた千優の呼吸の音さえも痛々しく聞こえる。それでも、千優はパンチを打つのを止めない。どんなにダメージが蓄積されても自分から先に先にとパンチを打って出る。それが千優のボクシングであり、彼女はそれ以外のボクシングを知らなかった。空手の素地を活かし、ボクシングのチャンピオンになれると信じて磨き上げてきたボクシング。日本チャンピオンのみさおを追い詰め、あと一歩のところまでいけた千優のボクシング。しかし、アマチュアで世界チャンピオンになった菜音には全くといって通用しない。非情な現実に千優は耐え続け、自分だけがパンチを打たれる展開でありながらも自身の勝利を信じてパンチを打っていく。  

 

 しかし、菜音のワルツの舞は激しさを増し、ついには千優の手が完全に止まってしまった。菜音のパンチの連打を千優は無防備に浴びる。菜音のパンチの滅多打ちを浴びる千優の顔が一段と酷く腫れていき、瞼がさらに腫れた千優の瞳はもう何も映してないのかもしれなかった。何も抵抗出来ずに汗と血飛沫を上げてサンドバッグのように打たれ続ける千優。千優の攻撃が完全に止まったその時、もう彼女の勝利の芽は完全に潰えていた。菜音がリングの上を完全に支配して自分の色に染め切ったこの時間に幕を下ろしたのは赤コーナーから投げ込まれた白いタオルだ。  

 

 レフェリーが二人の間に割って入り、菜音の怒涛のラッシュを身体で止める。菜音のパンチが止まった瞬間、千優の両腕がだらりと下がり後ろに崩れ落ちていく。その背中をレフェリーが両腕で受け止める。レフェリーの両腕に抱き支えられて力尽きたように動けずにいる千優の姿と、観客の大声援を受けて両腕を高く上げて歓喜の笑みをみせる菜音の姿をリングの中の一つの光景として見たみさおは、

 「嘘でしょっ…」  

 と言葉を漏らした。それがみさおの嘘偽りのない本音であった。日本王座のベルトを賭けて10R闘い抜いたライバルが完敗した現実と、みさおたちが繰り広げてきたボクシングとは別世界の次元の違うボクシングを見せる同年齢の少女が現れた現実をみさおは受け止めきれずに、見たくもない夢の中にいるかのような感覚を覚えた。  

 

 

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