ゴングが鳴った。綾花は赤コーナーに戻り用意されたスツールに腰をかけ両腕をロープに乗せた。行儀が悪いと分かっているけれど8R戦い抜き疲労困憊の身体を楽にさせたい気持ちが勝る。開放感が身も心も緩ませてくれるようなのだ。

 

 セコンドのみのりがタオルで左腕を拭いてくれる。会長は腫れ上がった右瞼を氷枕を当てて癒しスポーツボトルのストローを口にくわえさせる。綾花は水を口に含みバケツに吐き出した。水を飲みたいと心から欲しているけれどそういうわけにはいかない。水を口に含むだけでも乾ききった身体に潤いが戻ってくる。

 

 たった1分間のインターバルは慌ただしい。タイトルマッチでは殊更セコンドのケアが欠かせない。汗を拭き取り水で口の中をゆすぎ痛めた個所を癒して10Rという長丁場を戦い抜ける。インターバルの時間も懸命なのだ。

 

 それは青コーナーも変わらない。挑戦者の高東ユカもセコンドのケアを受けながら疲労で一杯の顔をしながら身体を休ませている。右の瞼は閉じ左の目も半分塞がっているのにその目は試合に勝とうと必死な思いで満ちている。8R彼女はロープを背負い綾花の猛攻を20秒以上晒されたというのに。

 

 このタイトルマッチで初めてといっていい場内が沸き上がったシーン。行け!倒せ!というコールが何度も聞こえてきた。観客が求める者が背中越しに浸透してくるかのようだった。

 

 スツールに座っているとリングの外は暗くてよく見えない。観客席からはかすかなざわめきが8Rの見せ場の余韻のように聞こえてくる。場内の照明はすべてリングの上だけを照らしている。このインターバルという時間さえも闘い合う二人の姿は勇ましく観客の目には映っているのではないか。見栄えなんて気にしていられない。休む時間さえも僅かな時間で懸命に身体をケアして次のラウンドに備えなきゃ対戦相手に倒されてしまう。このリングは技術を披露する場ではなくて倒しあう場。スポーツではない見せ物。それがプロボクシングなんだという思いが試合を重ねていくごとに綾花の中では強まっている。プロのリングに立てば立つほど求めているボクシングと剥離していく。立ちたかった舞台はタイトルマッチではない。

 

 ブザーの音が鳴り、綾花は立ち上がる。会長からマウスピースを渡されてありがたい気持ちと申し訳ない気持ちを抱きながら口にくわえる。

 

 高東ユカはおそらく最後まで立ち続けるだろう。8Rのロープ際のラッシュもほとんどがガードの上だった。あと2R。早く終わって欲しいという思いを胸に秘めながら綾花は赤コーナーを出て行った。

 

 

 家のドアを開けると弟の奏太が玄関まで駆け足で迎えに来てくれた。「おめでとうあや姉」奏太は笑顔で祝福の言葉をかけてくれた。綾花は奏太の背中に両腕を回し抱きしめた。

 

「そんなにつっ疲れてるのあや姉?」  

 

 奏太は恥ずかしさと驚きの混じった声を出す。そうじゃないと心の中で首を振りながら綾花は、

「ちょっとね……」  

 と胸の内とは正反対の言葉を言った。そう言うと奏太の抵抗はなくなった。30分に及んだ殺伐とした時間を戦い抜いて、家庭という場を心の底から求めていたのだ。大切な弟のぬくもりに包まれなければどうにかなりそうなほどに身も心も疲れ切っていた。試合の一ヶ月前から自分を追い詰めそして激しい打ち合いを10Rに渡り繰り広げベルトを守ることが出来た。右の瞼は腫れ上がり視界を塞いでいる。ふっくらと腫れた左右の頬も骨に染み入るほどの熱を帯びたままだ。本当はこんな醜い顔を奏太には見せたくないけれど、ほっとした顔で迎えてくれる奏太の顔を見るとまぁいいかという気持ちになる。  

 

 奏太に手招きされるように居間に行くと、テーブルにはサンドイッチがお皿に乗っていた。

 

「無理しなくていいのに」  

 

 テーブルに目をやりながら綾花は言った。

 

「たいした時間かかってないよ」  

 

 サンドイッチは奏太が作ったものだ。試合を終えて帰って来る綾花のためにいつも奏太が用意してくれる。綾花は夕食を済ませてから試合に臨むものの試合に影響しないように夕食は軽めのメニューにしている。だから、試合を終えて夜食が用意されているのはとても助かった。綾花が注文したことは一度もなく奏太が自発的にしていることだ。高校三年生になって受験を控えているというのに貴重な時間を割いて作るだけにありがたさはひとしおだった。  

 

 着替えを済ませてサンドイッチを一口食べると、綾花は奏太に親指と人差し指で輪っかをみせた。笑顔になった奏太を見て綾花も頬を緩ませる。  

 

 つい二時間前までリングの上で殴り合っていたのが嘘のような時間だ。この時間を守り抜かなくてはいけない。綾花は胸の内で改めて誓う。

 

 あと二試合負けるわけにはいかない……。

 

 

「いよいよだね」  

 

 みつかが綾花の拳にはめたボクシンググローブの紐を結びながら言った。そのみつかの言葉に綾花は口を閉じたまま頷く。いよいよだとみつかの言葉を心の中で反復する。ボクシングの全日本選手権。この大会に優勝するとオリンピックのアジア・オセアニア予選への種上の権利を得られ、予選の五位までがオリンピックを得られる。ずっと目標にしていたオリンピック。その第一歩がこの全日本選手権だ。去年の大会の覇者である綾花は今年の大会の大本命と目されていた。綾花自身も優勝出来る自信があった。去年の今の時期よりもコンディションも良いし満足いく練習も出来た。去年よりもずっと強くなっているという自負もある。

 

「はいっこれでおしまい」  

 

 みつかがそう言って綾花のボクシンググローブをぽんと叩いた。

 

「ありがとうみっちゃん」  

 

 綾花はお礼を言ってグローブを胸元でばすっと合わせた。そうしているうちに控室の入り口のドアが開いた。会場を見ているはっちゃんが出番だと呼びに来てくれたのかな。そう思い振り向くとドアに立っていたのは大会のスタッフ証を胸に下げた30代らしき男性だった。

 

「三海さんいますか?」  

 

 自分の名前を呼ばれ、綾花は立ち上がると、スタッフの男性の緊迫した雰囲気に嫌な予感が胸をよぎる。

 

「至急大会本部まで来てください。あなたのお父さんとお母さんが————」  

 

 

 病院に着いた時、父も母もすでに命を失っていた。二人とも大手チェーンの家具屋がある郊外まで車を運転して向かっていた時に起きた事故だった。トラックと衝突し病院に運ばれてから間もなくして亡くなった。

 

 五歳年下の奏太と二人だけになった綾花は推薦入学が決まっていた大学への進学を諦め就職した。全日本選手権を棄権した綾花は北京オリンピック出場への道がその時点で閉ざされた。四年後のリオオリンピックに向けてまた頑張るという選択肢もあった。大学のボクシング部でなくてもジムでもオリンピックに向けたボクシングの練習は出来る。しかし、綾花が選んだ道はプロへの転向だった。

 

 ボクシングはアマチュアだけと決めていた。オリンピックで金メダルを取ることを一番の目標に取り組んできた。技量の成果を見せる純粋な競技であるアマチュアスポーツの範囲でボクシングに取り組んでいたかった。プロは相手を倒すことを前提にしたもので別物だと綾花は興味を示さなかった。

 

 しかし、両親が亡くなり、綾花は奏太を育てる義務を負った。父の兄の家族が奏太を高校卒業まで養ってくれると言ってくれた。綾花はその申し出を断った。奏太との生活を続けることを綾花は望んでいた。二人で生活するだけじゃない。自分の手で奏太が大学卒業するまでの学費を稼ぐのだ。そのためにオリンピック出場への道を諦めるとしても自分の手で奏太が大人になるまで育てる方がよっぽど意味があると綾花は思った。自分と違って奏太は勉強ができる。ボクシングを続けるために自分が大学に通うことよりも奏太が大学を卒業することの方がよっぽど意義がある。だから高校卒業だけでなく大学卒業までの学費を自分の手で稼ぐのだと綾花は誓ったのだ。

 

 そのためには会社からもらえる給料だけでは全然足りない。会社の給料だけでは二人で生活していくことで精一杯。高校の学費だけなら両親が残してくれたお金である程度賄える。でも大学の入学金や毎年の学費となるとさらにお金を稼ぐ必要がある。そのために綾花はオリンピック出場の夢を諦めてプロボクサーに転向したのだ。

 

 プロのリングに上り二年でフライ級の日本チャンピオンになった。それから六度の防衛を果たしている。プロといってもファイトマネーは大したことない額だが、日本チャンピオンとなるとその額は違ってくる。通常一試合に付き20万円。綾花の場合はその女子ボクサーとは思えない童顔で可愛らしい顔が人気を呼び、30万円を手にしていた。ここまで六度の防衛をし、会社からの給料の貯蓄と合わせると、あと100万円をボクシングの試合で稼げば大学卒業までの学費を稼いだことになる。その目標を達成すれば、日本王座を失ってもかまわない。世界チャンピオンになりたい思いもなく許されるならその時点で引退したいという思いすら綾花は抱いていた。綾花にとってはより多くのファイトマネーを得られる代わりに日本王座を手放し試合に負けるリスクが高い世界王座への挑戦よりもそれなりのファイトマネーを勝ち続ける限り得られる日本王座のベルトを守る方がよっぽど大事であった。目標の額を手にするには防衛戦をあと三試合こなす必要がある。最後の試合は負けたっていい。でも、次とその次の二試合は絶対に負けることが出来ない。

 

 

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