“湯沢くんのこと大好きだったのにぃ~”


“トオコ、あんなやつのことなんて早く忘れちゃいなよ。男なんて他にたくさんいるんだからさ”

 

“そうそう。それにしても湯沢のやつ、女がいるなら早く言えってんだよね。思わせぶりな態度取ってさぁ”

 

“ホント、あれじゃ誤解するに決まってるよねぇ”

 一人の娘の席を囲んで慰め合う女子生徒だけのトーク。目の前の席で行われているそれはあたしにとって遠い世界。もう長いこと関わらなくなっていたクラスの女子の連帯。だから油断した。その世界はちょっとしたことで入り込んでしまう。あたしも女なのだから。

「咲坂さんもそう思わない」

 

「えっ…ああ…うん…まぁ、男の見極めって大事だよね」
 

 放課後を迎え帰り支度をしていたら、話をふられてきた。トイレなんかに行かずに早く帰っとくんだったと後悔する。硬い笑顔を浮かべながらとっさに答えて、そして前を見る。
 

 一瞬にして壊れたキャンキャンとした空気。あたしに向けられるしらけた目。

 あぁ・・・またやってしまったんだ…。
 

 

 

 ブラジャーを外して代わりにスポーツブラを付けているその時に記憶はフラッシュバックしてきた。更衣室で服を脱いでいると自分が女であることを意識しなくても実感する。だから教室での嫌な出来事を思い出してしまったのかもしれない。ボクシングジムに着いてこれで気分転換出来ると思ったのに練習を始める前からこけてしまった。
 

 元ボクサーでありボクシングジムの会長を務める父親の娘として産まれて、自然と自分もボクシングをするようになった。男ばかりの世界が目の前に当たり前のようにあってそんな日常を過ごしていたら気付いたら普通の女の子とだいぶ違っていた。女の子同士で話をしている時も自分の思いをストレートに伝えてしまう。それで何度クラスメートの女子から距離を置かれたことか。そういう体験を繰り返しているうちにいつしかクラスの女子のグループに入ることを止めてしまった。
 

 でも辛いと思ったことは一度もない。クラスに一人は自分と似た娘がいるものだ。無理して仲良くする必要なんてなくて自分と波長が合う娘と仲良くしてればいい。今はクラスに美結という気兼ねなく話せる友達がいて、ボクシングという打ち込むものもある。日常は十分に充実しているのだ。
 

 でも別にクラスの女子のグループに入って仲良くしたいとは思わないけど、話すのを避けてる自分はなんか嫌だ。今日だって机の中の荷物を早くまとめてそそくさと帰ろうとしてしまった。そもそもああいうシチュエーションが苦手なのだ。彼女たちはふられた娘に同情しながらも恋愛話を楽しんでいるようだったけど、あたしは複数の娘で恋愛話をする気にはなれない。いやそれ以前に男子と付き合いたいという気すらないのだ。あたしって女としておかしいのかな…。
 

 こんなこと流石に美結にも相談出来ないしましてジムの男共なんてもってのほかだ。誰かあたしの気持ちが分かってくれる人が一人でもいたら…。
 

 シューズの紐を結び終えたみさおはバンテージを手にして更衣室を出た。ドアノブにかけられていた「乙女着替え中。絶対開けるな」の札を外して中に置く。さあ気持ちを切り替えなきゃ。自分の気持ちを分かって欲しいとか弱い気持ちを持ってボクシングの練習は出来ない。

 

“分かって欲しい”
 

 あぁ・・あそこで求められていたのは共感だったんだ…。
 

 今になってようやくあの時何を言えば良かったのか分かった。でも分かっていてもあたしには出来そうにないな。自分の気持ちを偽ってまでうんうん頷くなんて。
 

 練習室に入るとトレーナーの白川さんしかいなかった。まだ夕方四時過ぎの時間帯だと誰も練習してなくても別に珍しくはない。同じ高校生の丸山君が練習しているかどうかだ。
 

 プロボクサーが自分を含めて四人しかいない小さなボクシングジムなんてこんなものだ。その三人の男たちも六回戦と四回戦のボクサーで女子の日本チャンピオンであるあたしが一番の出世頭。自分が頑張って早く世界チャンピオンになってジムを盛り立てていかなければと思っている。父はジムの経営が経営が…と常日頃こぼしてるし、一二年でジムの運営がやっていけなくなるとは思わないけどこのままだとそのうち閉鎖も考えなければならない時がきてしまう。つまり、あたしがジムを背負っているのだ。だからまだ高校生といっても一試合一試合にかけている。けっして負けるわけにはいかない。
 

 でも、女子のあたしがどんなに頑張ってもジムの名を広げるには限界がある。やっぱり男がチャンピオンになってくれないと練習生の数はなかなか増えてくれない。だから最近は父の頼みもあって男の練習にも付き合うことにしている。三人のプロである男たちはもう七戦以上しているから伸びしろはあまりないと思うけど、プロ志望の丸山君は高校生と若いから可能性があると思っている。才能の方は突出した何かがあるってわけじゃないけど線は悪くないからまだ若いんだし磨けばぐんぐん伸びていってくれるはずだ。でも、そういえばその丸山君を今週になってみかけない。

 

「ねぇ、丸山君、最近見ないけど、白川さん知ってる?」
 

 道具の片づけをしていた白川さんがこちらを見る。その表情はどうもぱっとしない。もっともいつも眉が下がっていて冴えない表情をしているけど。

 

「…辞めちゃいました」

 

「はあ~!?」
 

 思わず甲高い声が出てしまった。

 

「だって今度プロテスト受けるんだったんでしょ」
 

 そう言って白川さんの方へと距離を詰めた。

 

「みさおさんがスパーするからですよ。みさおさん一方的に攻めるから」

 

「だって合格してもらわないと困るじゃない。うちのジムじゃあたしが一番強いんだからあたしが相手しなきゃ強くならないでしょ」

 

「そうなんですけど、やっぱり女性にボコボコにされたらまぁ…気落ちするのも…」

 

「そんな根性無しじゃプロになったってやっていけないでしょ」

 

「そうなんですけどそれでも辞められたらうちも苦しいですから、そこはみさおさんが上手くスパーの相手を…」

 

「あれ以上どう手加減しろっていうの。パンチだって半分くらいしか力出してないんだよ」

 

「だからまぁ…そこは加減の仕方を覚えるか、スパーの相手するのを…」
 

 白川さんが上目遣でこちらをちらりと見る。

 

「控えるか」
 

 カチンときた。

 

「もういい。せっかくこっちの時間割いて相手してるのに文句言われたらたまったもんじゃないもん。あたしは他の男の人の面倒見るのいっさい辞めるから」

 

「そんな…困りますよ、六回戦の光山の相手はみさおさんじゃないと務まらないですから」

 

「しらない。あたし手加減下手だし」

 

「そんなこと言わないでくださいよ」
 

 その時、ジムの入り口の扉が開いた。中に一人の少年が入ってくる。その少年はブレザーの制服を着ていてぼさぼさの髪型をしている。見たかぎりは高校生。目つきが悪い顔をしていていかにもボクシングジムの門を叩いてくる男の子といった感じだ。

 

「咲坂会長います?」
 

 ぼさぼさ頭の少年がぶっきらぼうに言った。

 

「今出てるけど何か用ですか?」
 

 扉の近くにいたから自分が答えた。

 

「入門したから練習に来たんだけど」

 

「ふ~ん、そうなんだ。プロ目指すの?それとも運動目的?」
 

 みさおは少年に近づきながら聞いた。身長は170センチくらい。胸元を見るかぎりしっかりとしていてけっこう鍛えているようにみえる。

 

「まぁ、プロだけど」
 

 少年は変わらずに愛想無く答える。みさおはふと閃いた。その閃きを試してみるのも良いかもしれない。

 

「じゃあリングに上がりなよ。あたしがテストしてあげる」

 

「はぁ?テスト?」
 

 少年が目を丸くした。

 

「つか、あんた女だろ。俺とって冗談だろ」

 

「本気よ。いいからあがんなさいよ。ここで話してたってお互いの実力は分からないでしょ」

 

「とんだじゃじゃ馬だな。おりゃぁ女を殴るためにボクシングしてるんじゃねぇんだよ」

 

「なにがじゃじゃ馬よ。あなた人相も悪いけど口も悪いわね」

 

「あんたに言われたかねぇや」

 

「なんですって」

 

「ちょっとみさおさん、まずいですよ。入門希望者を勝手にテストしちゃ」
 

 白川さんが取り乱した表情で話しかける。

 

「彼、プロ志望なんでしょ。いいじゃない、いずれあたしとスパーリングすることになるんだから。せっかくいろいろ教えて途中で辞められるくらいなら今相手の根性試した方が良いでしょ」

 

「怪我させちゃまずいですし」

 

「彼、さっきの言葉だとボクシング経験してるみたいだし大丈夫よ。ねぇ君、ボクシング経験あるんでしょ?」

 

「あぁ」
 

 少年は面倒臭そうに返す。

 

「ほら」
 

 白川さんにそう言ってまた少年にみさおは顔を向けた。

 

「じゃああたしに一発でもパンチ当てられたら合格よ」

 

「一発ね…。へいへい分かりました。やりゃぁいいんだろ」
 

 少年は不貞腐れ気味に言って更衣室の場所を聞いて向かって行った。
 

 Tシャツにジャージのズボンの姿で戻ってくると一足先にリングに上がって待っているみさおに

 

「あんた、ヘッドギアは?」
 

 と聞いてきた。

 

「気にしないで。あたし日本チャンピオンだから。プロでもない相手ならパンチなんて受けないから」
 

 みさおがそう答えると少年はむすっとしたまま見続ける。

 

「なによ、女のくせにとか思ってんの」
 

 少年は頭を掻いて、

 

「ホント面倒くせぇな」
 

 と言って首を捻る。

 

「わかったよ。じゃあ俺も付けなくていいよな」

 

「付けてって言っても付けなさそうね。良いわよ、手加減して打ってあげるから」

 

「そうかい。まさか女からそんなこと言われる日が来るとはね」

 

「女、女ってうるさいわね。女だからって油断してると痛い目見るわよ」

 

「強い女なら知ってるよ」
 

 少年は顔を横に反らしながら言った。

 

「ふ~ん…誰の事言ってるの?」

 

「いいからとっとと始めようぜ」
 

 少年はそう言ってリングに上がった。みさおから投げ渡された赤いボクシンググローブを両腕にはめる。

 

「君、名前は?」

 

「タケル」
 

 それまで相手に言葉をぶつけるように話していた少年が急にぼそっと答えた。

 

「苗字は?」

 

「胡桃沢…」
 

 さらにぼそっとした声で答えたのでみさおは思わず笑った。

 

「可愛いらしい名前なのね」

 

「うるせぇ」

 

「じゃあ胡桃沢君」

 

「タケルでいいよ。周りはみんなそう呼んでる」

 

「タケル君、テストは1Rね」

 

「いいよ」

 

「準備はオッケイ?」

 

「あぁ…いつでもいいよ」

 

「白川さん、ゴングお願い」 
 

 白川はしぶい顔のままゴングを鳴らした。
 

 みさおが軽快なステップで赤コーナーを出ていく。一方のタケルはベタ足でじりじりと青コーナーを出た。
 

 インファイター?それともインファイター、アウトボクサーのスタイルにも達してないレベル?

 

「タケル君、ボクシングはどれくらい?」

 

「三年だよ」

 

「そう、じゃあ結構楽しめそうね」
 

 ファイトスタイルはインファイターかな。あたしもインファイターだけど流石にインファイトが得意の男と同じ土俵で勝負するわけにはいかない。
 

 みさおは中間距離から左のジャブを放った。タケルはヘッドスリップでパンチをかわす。ガードならともかく避けるなんてやるじゃない。
 

 でも、これならどう。みさおは左のジャブを連続して放った。その数五発。手加減はいっさいなしで打った。しかし、タケルはそのすべてをヘッドスリップでかわしきる。
 

 嘘…?あたしのジャブが一発も当たらないなんて…。
 

 呆然としたところにタケルがダッシュして中に入ってきた。
 

 しまった…。
 

 タケルの左のボディブローがみさおのお腹にヒットする。ずしりとした衝撃が走りみさおの身体がくの字になる。とっさに後ろに退いた。
 

 たった一発のパンチなのにマウスピースが吐き出そうになった。

 

 うちのジムの男たちとは威力が全然違う。こんなパンチ1Rも受けきれない…。

 

「なぁ…」
 

 タケルの呼びかけにみさおが乱れた呼吸がばれないように意識して口を閉じながら相手の顔を見つめる。

 

「一発当てたけど、これで合格だろ。まだ続けるのか」

 

「当たり前よ。まだ始まったばかりなのに判断なんて出来るわけないでしょ」
 

 みさおは取り乱した口調で返した。余裕を持った相手の態度についかっとなってしまった。

 

「俺はべつにいいけどさ…あんた、身体もたねぇんじゃねえの?」

 

「うるさいわね。いいから続けるわよ」
 

 感情を抑えられないまま言い放った。

 

「そうかい」
 

 試合の続行を受け入れたのにタケルは自分からは攻めてこない。肩を小刻みに揺らしてリズムを取っているけれど中間距離を保ったままだ。その距離はインファイターの距離じゃない。パンチを誘ってる?それともやる気がないだけ?
 

 相手の気持ちが全然読めなかった。ひょっとしてあたし動揺してる?
 

 みさおは慌てて首を振った。
 

 まだ一発のパンチを受けただけじゃない。勝負はこれからなんだから。左のパンチだけじゃダメ。右のパンチも混ぜないと。
 

 みさおは左のジャブを二発続けて放つ。二発ともタケルにスリッピングでかわされた。みさおは左足で一歩踏み込んで右のフックを放った。そのパンチはタケルにガードされた。これも当たらないなんて。だったら左のフック。
 

 みさおの左の拳に衝撃が伝わる。タケルの首が飛んだ。思わずよしっと心の中で叫んでいた。しかし、それも束の間だった。みさおのお腹を凄まじい衝撃が貫いた。タケルの左のボディブロー。
 

 みさおの口が膨れ上がる。涎がぬめりついたマウスピースが口元からはみ出た。悶絶したように目が上を向き、身体がぷるぷると震える。
 

 がくっと膝が折れ曲がる。
 

 しかし、みさおはこらえて左のフックをタケルの顔面に当てた。意地で返した一発。これでダメージが効いてないならダメかも…。パンチを振りきったままでいるみさおは心の中で願った。
 

 しかし、みさおの思いは願望で終わった。
 

 ズドオォッ!!
 

 タケルの左拳がみさおのお腹を下から突き上げた。
 

 ボディアッパーにみさおの身体がくの字に折れ曲がり、両足がつま先立ちになった。

 

「ぶはあぁぁっ!!」
 

 みさおがマウスピースを吐き出した。みさおの身体が沈み落ちていく。タケルの腰に両腕を回して抱きついてダウンをかろうじて免れた。
 

「はぁはぁ…」
 

 荒い息を吐きながらみさおは乱れきった頭の中で想いを巡らした。
 

 たった三発のボディブローで足にくるなんて…。三発のボディブロー…。受けたパンチは全部ボディブロー。しかも左。もしかしてあたしが女だからって顔を避けてるの?しかも利き腕じゃない腕でパンチを打ってる?手加減されてるのはあたしの方じゃない…。
 

 完敗だ。この男一体何者なの?日本チャンピオンのあたしが手も足も出ないなんて…。
 

 みさおはタケルが自分が勝てる相手じゃないことを悟ったもののそれでも1R闘い抜こうと決めた。
 

 あたしにもチャンピオンの意地があるんだ。

 

「おい大丈夫か?」
 

 密着距離からのタケルの問いかけに

 

「だっ、大丈夫に決まってるじゃない!」
 

 ダメージを悟られないようにみさおは強い口調で返した。でも、もうダメージを隠しようがないほどに息は乱れている。
 

 同情でされてるようで悔しさを覚えながらもみさおはこのクリンチの状況に意識を集中させた。
 

 押される前に先に押さなきゃ…。
 

 みさおは両腕に力を入れようとしたものの足が言うことを利かなかった。膝が折れて前のめりになり結果的にタケルの身体を押した。

 

「おっ…ちょっちょっと」
 

 タケルが体勢を崩して慌てて言葉を発する。どたどたと押されたタケルの背中がロープに当たる。その反動で押し出す力が今度はみさおに返ってきた。みさおにその力に耐える力など残っているはずがなかった。
 

 二人の身体が密着したままみさおの身体が背中から倒れ落ちた。
 

 キャンバスから激しい音が生じた。
 

 後頭部を強く打って鈍ったみさおの意識が少しずつ戻っていく。みさおは強い違和感を覚えた。それは口元から――――。
 

 生暖かい感触…。
 

 みさおははっと目を開けた。みさおの目が大きく開いたまま硬直した。目の前はタケルの顔で覆われている。そして、みさおの唇はタケルの唇と触れあっていた。
 

 みさおの身体にのしかかっていたタケルが慌てて後ろに仰け反るようにして離れていった。

 

「わざとじゃねぇ、わざとじゃねぇんだ!」
 

 動揺して話すタケルの声にみさおは反応せずグローブで唇に触れた。
 

 あいつの唇があたしの唇に触れた…。
 

 ようやくことの状況を理解して、タケルの弁明が耳に入ってきた。

 

「なぁ、分かるだろ。今のは事故だって」

 

「うるさい…」

 

「あっ…?」
 

 みさおが右のグローブを外してタケルの顔面に投げつけた。グローブが当たりタケルの顎が上がる。

 

「あたしに話しかけないで!!」
 

 みさおはそう言って、リングから下りて駆け足で練習場を出て行った。

 

「おい待てよ!!誤解だって!!」
 

 みさおは更衣室に入り扉をしめた。その場にしゃがみ込む。
 

 心臓がどくんどくん動いている。頬が上気したようにほてっている。立ち上がり、壁に付いている鏡を見た。自分の顔は真っ赤になっている。視線が自然と唇にいった。
 

 みさおは右手で唇に触れた。
 

 あんなのとしかもリングの上でキスするなんて…。
 

 みさおは何度も首を横に振った。今あったことを忘れようとしたのに、唇の感触だけはなかなか消えなかった。