「碧衣なの?」  

 

 初めての女子との試合を目前に控えてナーバスな面持ちになっていた碧衣は表情にその色合いを残したまま顔を上げた。どこか少しぽぅっとしていたその目に映ったのは見覚えのない黒髪が肩まで伸びたセミロングの少女だった。

 

「そうだけど……」  

 

 ナーバスだった心持ちは自然と言葉にも警戒が表れた。選手の控え室で長椅子に座っている碧衣に声をかけた少女は立っていたその身体を少し碧衣に近づけて、

「やっぱり碧衣だったんだ」  

 と言って、大人しそうなその顔に柔らかな笑みを浮かべた。そう言われても碧衣には彼女が誰だか分からなかった。彼女も碧衣と同じようにタンクトップとトランクスの試合着の格好をしている。おまけに両手には白いバンテージ。碧衣と唯一違っていたのは碧衣が上下が青色の試合着であったのに対して彼女の試合着は赤色で統一されていた。彼女もこの日の高校生の女子限定の全日本女子ボクシングアンダー選手権に参加する選手の一人であることは分かるけれど、そもそもボクシングをしている女子に碧衣は知り合いが一人もいなかった。ジムでも碧衣以外は皆、男の門下生なのだ。  

 

 自分だけ思い出せなくてバツの悪い顔を碧衣がしていると、

「ユリだよ。覚えてない?小学生の時一緒のジムだった」  

 とセミロングの彼女が言った。それで、碧衣はあっと声を上げて思い出した。

 

「ユリちゃんなのっ。全然分からなかったっ」  

 

 碧衣はびっくりして大きく口を開きながら右手の人差し指で彼女を差した。ユリは小学生の時はショートカットの髪型をしていたから、髪型と四年の歳月の変化で気付くことが出来なかった。ただ碧衣がびっくりしたのは彼女の外見の変化だけではなかった。  

 

 碧衣の中で昔の記憶が呼び起こされていく。小学六年生の時にボクシングジムに入門した碧衣は、その時にすでに一カ月早くユリが入門していて、ジムに女子はこの二人だけだった。同い年でただ二人だけの女子とあって二人はすぐに打ち解けて仲良くなっていった。  

 

 ある日、昼の時間帯にジムには珍しく碧衣とユリしかいなくて、スパーリングしてみないという話になった。言い出したのは碧衣の方だった。それまで碧衣もユリもスパーリングをしたことは一度もなくて、同年代の少女とスパーをすることで大人の世界に一歩足を踏み入れたいという誘惑が顔をのぞかせたのだ。 ユリも碧衣の提案に乗り気でうん、やろうっやろうっと無邪気に応えた。  

 

 それから、二人はリングに上がり、大人の見様見真似でヘッドギアを被り、マウスピースを口にはめた。  

 

 スパーはたった2Rだけだったけれど、碧衣がほとんど一方的に押してその時間は終わった。ダウンはなかったけれども、パンチが当たったのはほとんど碧衣で、力の差が大きく出てしまって、スパーが終わった後はバツの悪い思いだけが二人に残った。それから、碧衣とユリの間柄はどこかギクシャクしていって、段々と話をすることも減っていった。

 

 スパーをやろうなんて言うんじゃなかった。そんな後悔だけが碧衣の胸の中にずっと残り続け、半年後にユリは父親の仕事の都合で引っ越しをしてジムからいなくなった。ジムに女子は一人だけとなった碧衣は黙々と練習に打ち込み、次第にユリとのことも忘れていった。  

 そう、ユリとのことは心の奥に閉じ込めていた記憶だったのだ。だから、碧衣はユリとの四年ぶりの再会に心がすっかり動揺したけれども、でも、ユリはギクシャクしたまま別れたことなど気にもしてないのか、おっとりとした柔らかな目をして碧衣に話しかける。

 

「四年ぶりだよね。碧衣もボクシング続けてたんだね」  

 

 その言葉には感慨深げな色があった。そんなユリの姿に碧衣は昔のことを今も気にするなんて自分がどうかしてるって思って、明るく振る舞おうとした。そうしたら過去も振り払えるかもしれない。

 

「まぁね。なんかっあたし不器用だからさっ両手しか使わないボクシングが合ってたのかも」

 

 ちょっと自虐的なことも含みつつ右手で後頭部を抑えて、明るく言った。

 

「あ~それ分かる。わたしだって器用じゃないからボクシング続けられてるようなもんだもん」

 

 ユリも同調してフフっと口を横に広げる。それからも、碧衣はユリとの久々の会話を重ねた。碧衣はユリがボクシングを続けていて良かったと思った。スパーリングをしようと自分から話を持ちかけた碧衣の中にあった罪悪感が消えていくような感覚がした。

 

「そうだっユリも大会に参加するんでしょ。何級でエントリーしてるの?」

 

 碧衣はそう言って、隣に置いていたトーナメント表が書かれた白い紙を手にした。誰も知っている選手はいないからぱっとしか見ていなかったトーナメント表を碧衣は初めてちゃんと見る。

 

「フライ級だよ」

 

「へぇ、じゃああたしと同じだねっ」

 

 そう言いながら、トーナメント表に書かれた自分の名前を確認すると、ユリの名前は探すまでもなくその横に書かれてあったのだった。松原優鈴という名前が碧衣の名前の横にある。 その事実を知った時、碧衣は口を呆然と開いて、優鈴の顔を見た。

 

「びっくりしたでしょっ」

 

 優鈴は少し垂れ気味で切れ長のそのボクシングに似つかわしくない温和な目を変えずに言うのだった。

 

「わたしもねっ、碧衣の名前を見た時にまさかって思ったの」

 

 その時のびっくりした気持ちを伝えるかのように感情を込めて優鈴は言う。

 

「幹本碧衣なんて名前そうそうないもんねっ」

 

 びっくりしたその時の気持ちを全て吐き出すかのように一人で会話を続ける優鈴を見ているうちに、碧衣も心の整理が出来てきて、

 

「そっかぁ、優鈴とは一回戦で当たるのかぁ」

 

 とまたも右手を後頭部に当てて、にかっと笑顔を浮かべた。ちょっとぎくしゃした笑顔だと自分でも分かっていたけれども。

 

「勝ち続けたらどこかで当たるんだから、一回戦でも決勝戦でも同じもんだと思ってわたしはリングに上がるから」

 

 優鈴のその言葉は、確かにその通りで、碧衣はうんうんと頷いた。

 

「お互い頑張ろうね」

 

 優鈴はそう言って右手を差しだした。碧衣は立ち上がって、その右手を握った。白いバンテージが巻かれた右手と右手で握り合ったその感触は、碧衣にだいぶ成長した自分たちを実感させた。

 

「じゃあ次はリングの上でね」

 

 優鈴がそう言い残して、青コーナーの選手の控え室から出て行った。碧衣は立ったまま、優鈴が控え室から出て行くのを見送ると、右の掌に左の拳をぱすっと当てた。その仕草は闘志を高まらせるというよりも、いろいろとあって動揺した心の中を整理するためだった。  

 再び長椅子に腰を下ろして、トーナメント表の白い紙を手に取って眺めた。その視線は全8人の選手がエントリーされている中で、第三試合の碧衣と松原優鈴に注がれている。

 

「ユリはボクシングを続けてたのかぁ」

 

 碧衣が呟く。ただその事実に碧衣は安堵の思いを浮かべるのだった。そして、小学生の時のことを気にするのはもう止めようと誓った。当事者の一人であるユリが全然あの時のことを引きずっていないのだから。前を向くためにも優鈴との試合を全力で闘おう。すべて前向きな気持ちで塗り固めて試合に臨もうと碧衣は思った。

 

 そして、数十分後。係の者から出番を告げられて、碧衣は立ち上がった。高校一年生になって初めて臨む女子の大会にピリピリしていた神経は少し和らいでいた。それはこれから闘う一回戦の相手、優鈴に負けるなんて気持ちをこれっぽっちも抱いていないからなのだと、碧衣は気付いていても、その思いにはまったく目を向けていなかった。リングに続く細長い通路をセコンドの立村さんの後を歩き、碧衣は初めての女子同士の試合に臨もうとしていた。  

 

 

 グシャリッという鈍い音を立てながら、碧衣の顔面に優鈴の右ストレートが深く突き刺さっていく。碧衣の目と鼻を拉げさせて、深々とめり込まれていく優鈴の右拳は、鈍い音だけでなくボクシンググローブと碧衣の顔面の狭間から血を噴き散らせて、その強烈な衝撃は碧衣の身体から闘う力を奪っていく。碧衣が両腕をバンザイするかのように上げて派手な姿でキャンバスに沈み落ちていった。

 

「幹本選手がまたしてもダウン!!松原選手、この試合三度目のダウンを奪いました!!」

 

 リングの最前列に設置されている本部の放送席から選手と同じまだ高校生の男子生徒が興奮気味に実況の声を上げる。女子の試合では珍しいダウンシーン。それが三度も続いて起きたのだから、アナウンスする生徒の気持ちも高ぶらずにはいられずにいた。

 

 まるでぼろ雑巾のように碧衣は打ちのめされていた。優鈴から一方的にパンチを打たれ続け、何度もダウンをした。そして、最終ラウンドに三度目のダウン。尻持ちを付いて倒れた一度目、二度目のダウンと違い、両手を大の字に広げて仰向けに倒れている碧衣の姿からはKOのイメージしか感じ取れない強烈な敗者の惨めさが漂っていた。

 

 レフェリーがカウントを数え、碧衣は肘を付いて上半身を少しキャンバスから起こしたものの、鼻血で口元を赤く染め頬が丸みを帯びた形に変わり果てどんなに力を入れても虚ろで悲壮感でいっぱいのその顔はどうあがいても立ち上がるのは無理だと誰の目にも映った。

 

 上半身をちょっと起こしただけの碧衣の目に映ったのは、ニュートラルコーナーでロープに両肘を乗せて待つ優鈴の姿であった。その姿はとても逞しく、眩しくて、大人に近づいたのは優鈴だったのだとぼんやりとした意識の中で碧衣は羨ましく思うのだった。

 

 そして、テンカウントが数え上げられ、試合終了のゴングが打ち鳴らされた。碧衣は力尽きたように僅かに持ち上げていた上半身をキャンバスに沈ませて、遥か高く感じる体育館の天井に目を向けた。鉄骨のブレースが格子状に組み込まれた無機質な天井が照明の光も合わさって薄くぼんやりと映っていて、これがどこか夢の中の出来事のような現実感の無さを碧衣は覚えた。それはこれが夢であって欲しいという願望であったのかもしれなかった。しかし、セコンドに抱きかかえられて上半身を起こす碧衣の目に再び映ったセコンドの胸に飛び込み無邪気な笑みを浮かべて勝利を全身で喜ぶ優鈴の姿を見て、やっぱりこれは現実なんだと碧衣は再認識させられ、悔しさに身体を打ち震わせた。

 

 

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