その試合は智子にとってプロ二戦目のリングだった。二度目ともなればデビュー戦よりも多少なりとも落ち着きがでるものだが、智子の顔にはデビュー戦とはまた違った硬さがあった。それは緊張というよりも気負いがひしめいていて、智子の目はぱちっと見開き気味で口元は下唇にぐっと力がこもっている。赤コーナーに赤いグローブに覆われた両拳を下げて立つ智子は力みがいっぱいの顔を青コーナーに向けている。その視線の先にある少女は年輩の男と20代後半と思われる男に囲われるように真ん中に立ち両肩を揺らしながら青いグローブに覆われた左右の拳を軽く振るう。黒髪の先を細く左右でおさげに束ね、青いスポーツブラ、白いトランクスを着た少女の名は黒崎はつみという。年齢は智子と同じ17歳だが、黒いスポーツブラに赤いトランクスを着た智子とはボクシンググローブの色も含めて対照的な色合いをしていた。軽く体を動かすはつみの視線はキャンバスに向けられているがその表情はだいぶ硬く意図的に視線を合わせないようにしているようにも見えた。  

 

 智子がはつみと顔を合わせるのはこれが初めてではない。九カ月前に後楽園ホールで行われたプロテストに二人は参加し、女子のフライ級の参加者が二人だけだったために智子ははつみと実技テストでスパーリングをしたのだ。ヘッドギアと14オンスのだいぶ大きめのボクシンググローブを身に付けた智子とはつみは中間距離で足を使いたえずリングの上を動きながらパンチを出していった。左ジャブで牽制しながら時折右のストレートを放ち、審査する者が求める教科書通りの基本に忠実なボクシングを行った。お互いにまだプロではないボクサーの卵でありながら鋭いパンチを出すものの共にディフェンスもしっかりとしていて、2R通して数発のジャブをもらう程度でスパーリングは終わった。どちらが攻勢だったともいえない内容で智子も勝ったとも負けたとも思えずにいた。だから、テストの結果を見るまではどきどきした心境で発表を待ち続けた。

 

 翌日、合否の結果が張り出される後楽園ホールの四階の控室通路に行くと掲示板の前に一人の少女が立っていた。その少女ははつみで青色を基軸として白色がアクセントで織り交ぜられているワンピースの服を着ていて、リングの上の姿とは一転してその清楚な顔とよく合ったおしとやかで可愛らしい恰好をしていた。智子が隣に立ってもはつみは気付かずに掲示板を見たままで智子も声をかけずに掲示板に目を向けた。昨日リングの上で拳を交えたテストの相手のことよりも合否の結果の方が気になってしかたなかったのだ。掲示板には合格者に智子の名前があった。智子は思わず「やった」と声を出して両拳を握って小さくガッツポーズした。その「やった」の声ははもっていて、智子は喜びを忘れてぱっと横を見た。はつみが目を丸くして智子を見ている。すぐに彼女の頬がかっと赤くなった。その顔を見つめる智子の頬も赤かった。

 

 智子は「ねぇ」と切り出そうとして、その声もまたはもって響き、目を大きく見開き閉じた唇を横に伸ばす。智子とはつみがぷっと笑い声をこぼし、二人はしばらく笑い合った。噛み合うのはリングの上だけではないようだった。

 

 笑い終えて、智子は言った。

「ライセンスもらって終わりじゃないんだよね?」

「うん。なんで分かるね?」  

 はつみが不思議そうに聞く。その言葉には九州のなまりが含まれていた。

「だって、記念にライセンスを取ろうとした人のパンチじゃなかったもん」

「ありがと。でも、あなたのパンチにもわたし、びっくりしたとよ。すごい子相手にしてまずかねって」  

 清楚なはつみの口から九州弁が出ることに初め智子は驚いたけれど、でも人懐こいその響きもまた彼女に似合っていることにすぐに気付いた。

「じゃあ、次はプロのリングの上でだね」  

 そう言って、智子は右手を差し出した。はつみがその手を握ると、彼女は「うん、楽しみね」とにっこりと笑って言った。  

 

 それから、五か月後、智子はプロのデビュー戦のリングに立った。試合は3RTKO勝利し、大手のインターネットニュースサイトでも取り上げられた。女子高生のプロボクサーというだけでも珍しいのにデビュー戦で女子ではきわめて少ないKO勝利だったのだから話題性としては十分だった。  

 

 その二週間後にはつみもプロで初めての試合を行った。結果は4R判定勝利。KO勝利でなかったからかそれとも福岡の会場で行われた試合だったからか大手のネットニュースサイトでは記事にならず、西日本の地元の新聞紙がネットニュースでこの試合を取り上げた。詳しく試合内容が書かれていたわけではないが3Rにはつみがダウンを奪いそのポイント差を守り3-0で判定勝利したという内容だった。その記事を智子ももちろん目にした。プロテスト以降一度も会ってなくそれどころか電話番号の交換もしてないのだからメールのやり取りすらしていない。あの時は和気あいあいとした雰囲気からもう一度闘おうねって約束したけれど、彼女の試合を終えたその日のうちにネットニュースで試合結果を確認しているのだから、これってライバルという関係なのかな?と智子は記事を見終えて独り言のように言った。彼女の勝利に喜びながらも試合内容は判定であることに安堵もしているのだから、彼女には負けたくないという意識を持ってしまっていることを智子は自覚した。  

 

 プロでまだ一戦しかしてないのにライバルがいるってなんだかむず痒い。それは身の丈に合ってないという思いや漫画みたいだという青臭い状況に対する恥ずかしさなのだけれど、自分がそこにいるこの世界が少し厚みを増したような不思議な感覚もしたのだった。  

 

 そのライバルと二戦目で早くも試合をすることになるなんて運命の神様は粋な計らいをしてくれないなぁと智子は不満を漏らしたものの彼女との試合に向けた練習を取り組み始めるうちにこの試合には絶対に負けられないという思いが強く心の内側に芽生えていった。だって、同じ日にプロテストを受けて実技テストのスパーリングは互角に終わって二人は同じ日にプロボクサーになって、スタートラインの位置はまったく同じところなのだからその彼女とプロのリングで試合をして負けたら彼女の方が成長しているってことになる。それってすごく悔しいことだと思う。はつみを想定して練習をすればするほど智子は負けたくないという思いを内側に抱えていった。  

 

 そうして、今日という日を迎え、智子ははつみと同じリングの上に立った。プロテストの時はTシャツを着ていたけれど、スポーツブラで露わになった彼女の肩や腕の筋肉は逞しく膨らんでいてそのおとなしそうな顔とは不釣り合いに立派な肉体をしていた。けれど、少なくとも身体付きでは負けてないと智子は思っていた。身長もほぼ同じ高さで共に細すぎずがっちりしすぎずバランス良く筋肉の付いた身体付きで二人の体格はよく似ていた。でも、はつみがどんなボクシングをするのか智子は知らない。スパーリングではミドルレンジから左ジャブを主体としたオーソドックスなボクシングをしていたけれど、審査ではそういう基本に忠実なスタイルが好まれるものだから、その闘い方が彼女のファイトスタイルとは一概に受け取れない。一方で智子の試合は後楽園ホールで行われたものだから前座であっても映像として残っていてはつみの元にも届いているに違いない。ミドルレンジから左ジャブと右のストレートを主体に攻める智子のボクシングはプロテストの時と変わりないものである。自分のスタイルをプロテストの場でも実践し、ベストを尽くしたのだ。そして、はつみとはお互い優勢な時間を迎えることなく、互角のままにスパーリングが終わった。でも、はつみの本当のボクシングスタイルは中間距離から積極的にパンチを出して攻めるボクサーファイターではないのかもしれない。だとしたら、自分のスタイルではない闘い方をしたはつみと智子は互角の闘いをしたのだから地力ははつみの方が上ということになる。その一点が気になって仕方ない智子だったが、相手のボクシングが分からない以上対策を取るにもプロテストの時に見たボクシングからしか立てられないのだから、相手を想定した練習よりも自分のボクシングを磨くことに多くの時間を割いた。一方のはつみは映像で智子のプロの試合を観ることが出来るのだから、情報戦では智子よりもだいぶ優位に立てる。「あ~、もうあたしの方が不利だよぉ」智子が練習中にそう不満を漏らすことがあったが、会長はお互いまだ一試合しかしてないひよっこ同士なのに情報も糞もあるかと一喝して智子の口を黙らせた。智子も叱られてしゅんとしながらも、そうだよねと自分に言い聞かせて練習を続けたのだった。  

 

 九か月ぶりにリングの上で再会した智子とはつみはレフェリーに呼ばれリング中央に向かい、対峙したが二人とも視線を合わせることなく下げてキャンバスに向けていた。そして、レフェリーの注意事項の確認が終わると、智子とはつみはグローブを持ち上げて、智子が上からはつみのグローブとぽんと合わせた。智子がグローブをはつねより上に上げたのは自分が赤コーナーだからという意識が無意識に働いたからだった。智子もはつみもプロの戦績は一戦一勝。智子の方がKO勝利を収めているとはいえ、対戦相手は一戦一敗のボクサーだったのに対してはつみの相手は二勝二敗。対戦相手の実績を考慮したら差があるとはいえない。智子に各上のボクサーに充てられる赤コーナーを用意されたのは、単に後楽園ホールという会場が智子のホームであるからにすぎなかった。福岡のジムに所属するはつみにとってはアウェイであり、彼女の名前がリングコールされた時も拍手がまばらに起きただけで彼女への声援は一つも起こらなかった。智子は同じ高校の友達を何人か呼んでいるからリングコールの時には智子を応援する女の子の声がいくつか上がった。智子には応援してくれる友達が会場に来てくれている。リングコールされて右腕を上げた時に友達の声援が聞こえてきた時は、心強く闘志が一段と沸き上がるのを智子は実感した。  

 

 情報という面でははつみが有利だが、ホームの会場で試合をするという点では智子の方が有利になる。そういった諸々の思いがリングに上がり、試合開始に向けて進んでいく中で智子の心の内に起こるものの、レフェリーの注意事項の確認が終わって赤コーナーに戻ると、やるしかないという単純な思考で智子の心は埋め尽くされた。不安と緊張と高揚とが混ぜ合わさり、複雑なことを考えられない。とにかく力一杯やるしかない。頭が回ってないようにも思えるけれど、でもデビュー戦も同じような心持ちでゴングが鳴るのを迎え、結果的にはKO勝利で勝てた。大丈夫、今日もいける。そう智子は自分に言い聞かし、会長からマウスピースを口にはめてもらい右手ではまり具合を整える。そして、試合開始のゴングが鳴り赤コーナーを出て行った。  

 

 滑るように両足でステップを踏み、きゅっきゅっとリングシューズでフェルト地のキャンバスを蹴り上げる音が鳴る。時計回りにリングの上を動く智子に対してはつみもまた時計回りに動き、相手の正面に立たないように優位な位置の取り合いをする。ステップインしてからの左ジャブ。打ち終えたらすかさず左に回り、パンチの間合いの外に離れ、有利な位置を取ろうとリングの上を動く。ここだというタイミングを感じたら迷わずに左ジャブを打つ。フットワークを使っても左ジャブで相手を突き放し遠距離でのボクシングに徹するアウトボクシングでなく、中間距離から積極的にパンチを放つ攻撃的なボクサーファイターのファイトスタイル。智子の目の前で見せるはつみのボクシングはプロテストのスパーリングの時と同じものであった。そして、はつみのフットワークやパンチのスピード、威力はもちろん以前の時に比べ高まっているが、それは想定した範疇のもので智子は安堵する。自分の方が上だと感じたわけではないけれどけっして劣っているとも思えない。あのスパーリングの時の延長戦が始まったかのような感覚を智子は覚えるのだった。実力が互角の相手にどうしたら勝てるのか。デビュー戦の時にはなかったひりひりとした空気を智子はパンチを打ち合いながら感じ始めていた。  

 

 左のジャブが当たったと思えば左のジャブを打ち返される。中間距離で位置の取り合いをしながら左のジャブを当て合う一進一退の攻防が続く。パンチの牽制では差が出ない。身長もリーチもほぼ同じでフットワークもパンチのスピードも同じレベルで二人の実力は拮抗している。  

 

 左のジャブは時折当たるものの右のパンチは二人ともまだ一発も当たっていない。中間距離からダメージの大きいパンチを当てられるほどに防御を崩せずにいる。距離を縮めればその均衡は崩せるかもしれない。でも、安易に攻め込んでは自分がパンチを受けるリスクの方が高まってしまう。 中間距離から左のジャブの差し合いが続き右のパンチを当てられずもどかしい思いを抱くものの、いつものボクシングという会長から練習の度に口酸っぱく言われ続けた言葉を智子は心の中で何度も呟いた。自分のボクシングをしなきゃダメなんだ。そうして、お互いに右のパンチのクリーンヒットが出ないまま拍子木の音が鳴り1Rも残り10秒を切ったことを知らされた直後、場内から大きな歓声が起こった。

 

 はつみが尻持ちをついて倒れたのだ。はぁはぁと息を荒げなら智子は倒れているはつみを見下ろしていると、レフェリーからニュートラルコーナーへと指示を出されその場を離れていく。智子は左拳を見つめながらその拳に残る感触に意識を向けていた。左のカウンターパンチが当たった。一瞬のことで実感は薄いけれど、左手に残る感触が確かに起きたのだと智子に告げていた。  

 

 左のジャブは当たるものの、右のパンチまでは当たらない。そうした緊張感の張り詰める時間が過ぎていく中、はつみが智子の左側の位置からステップインして放った右ストレートに智子は左のフックをカウンターで合わせた。左のフックははつみの頬にぐしゃっとめり込んでいき、そして、拳を振り抜くととはつみはその場に尻持ちを付いて倒れ落ちたのだ。  

 

 プロテストの時には出来なかったカウンターパンチをこの九か月間で智子はスパーリングの時に度々当てることが出来るようになっていった。時間を重ねるごとにその頻度は上がっていったものの、まだ自分の得意のパンチと言えるほどには精度は上がっていなかった。スパーリングでは当てられても実戦で当てることが出来るかは分からない。プロデビュー戦では当たることはなかった。それでも、プロテストの時にはなかった武器を一つ持っているのは智子にとって嬉しいことで、そしてついに試合でヒットさせることが出来、智子はアドレナリンが身体中から漲り高揚しきっていた。はぁはぁっという自分の呼吸音が生々しく聞こえ、そして天井のライトが眩しく目を瞑りたくなるほどに強く自分を照らしているように感じられた。  

 

 1R終了のゴングが鳴るものの、カウントは続行している。カウント8が数え上げられたところではつみが立ち上がってきた。レフェリーがはつみのグローブを服に当て汚れを取ると、彼女の目を確認し試合続行の宣言がなされ試合はインターバルに突入した。  

 

 赤コーナーに戻った智子は用意されたスツールに腰を下ろし、身体を休ませる。会長はタオルで顔の汗を拭いてくれながら、「よくやった」と褒めてくれたり、「ダメージはたいしたことねぇ。油断はするな」と警戒を促したりと興奮した様子で熱のこもった声で指示を言った。智子もまたカウンターパンチを決めた興奮が冷めずに会長の言葉に「はい」と大声で返事するもののその言葉を充分に認識しきれていなかった。それでも、スツールから立ち上がりラウンド開始のゴングが鳴るのを待つ頃には次のRも第1Rのままでいくんだと会長の指示を整理出来ていた。  

 

 一方の青コーナーでは、若い男のトレーナーの強い口調の指示にはつみが「はい」とはっきりとした声で指示の度に頷きながら返事していた。トレーナーからはダウンしたはつみを鼓舞する意図が伺え、またはつみのはきはきと返事するその様子からはダウンのダメージを身体も心の面でも大きくひきずっているようには見えず、気迫が前面に出たその姿は劣勢をひっくり返す流れに結び付けたい気持ちの表れのように見えた。  

 

 カーン!!  

 

 第2R開始のゴングが鳴った。コーナーを出る智子とはつみの表情は目が釣り上がり気味で口元にもぐっと力が入っていて1Rのダウンシーンは二人の闘志を一段と高まらせたかのようであった。智子もそして1R終盤にダウンを喫したはつみも積極的に中間距離から左ジャブを打っていく。ガチガチにガードを固めるでもなく技術を疎かにしてむやみに大振りのパンチを打っていくでもなく、ステップを刻みながら中間距離から左のジャブを主体にして攻めていく。基本に忠実に積極的にパンチを打っていく新人のボクサーらしい清々しいファイトを智子とはつみは繰り広げる。はつみからは1Rのダメージの後は伺えなかった。主導権を握ろうとする左のジャブの差し合いがこのRも行われていく。  

 

 徐々にはつみの左ジャブのヒットが目立ち始める。そして、智子のパンチの空振りも増えていた。はつみのボクシングに翻弄され右のパンチも浴びるようになり、智子の心の内に焦りが芽生える。1Rでダウンを奪ったのに何でなの?智子は焦燥感に駆られながら挽回しようと懸命に左ジャブを打つものの、はつみは上体を巧みに動かしパンチをかわす。一発二発三発。三度続けて打った左ジャブは全てはつみのウィービングによって対処された。上体を低くし右に左に揺らしながらパンチをかわしていくはつみの姿に智子の顔がひきつる。自分じゃこんなパンチの避け方出来ない……。パンチもフットワークもディフェンスも何もかも互角だと思っていた相手に自分にはできない高度なディフェンス技術を見せつけられ、智子の中で試合に勝てる自信が瓦解の音を立て始めた。  

 

 そこにはつみの左のボディブローが智子の腹に突き刺さった。頬が膨らみ白いマウスピースがもこっと顔を覗かせる智子の顔面に今度ははつみの右ストレートが炸裂した。「ぐはぁっ」という呻き声を上げ智子の顎が上がった。たまらず智子は両腕を頭の前にがっちりと合わせてガードを固める。そこで第2R終了のゴングが鳴った。  

 

 赤コーナーに戻った智子はスツールに座り、セコンドのケアと会長の指示を受けるものの、消えぬ焦りに引っ張られるようにどうにかしなきゃという思いが慌ただしく心の内を駆け巡った。今のRポイント取られたかな……。でも、そうだとしてもまだあたしの方が1ポイントリードしている。有利なのはあたしの方なんだ。そう自分に智子は言い聞かせるが、すぐに第2Rの光景がフラッシュバックした。左ジャブをいくら打ってもはつみにウィービングでかわされる情景。一発もパンチが当たらなかった……。その事実が智子の覇気を萎ませる。次のラウンドからは防御を優先しようかな……。そんな弱気の虫が顔を覗かせ、すぐにいけないと智子は首を横に振った。それで1ポイントの差を守りきって判定ではつみに勝ったとしてもその次また彼女と試合をして勝てるわけない。残るのは試合に勝ったっていう事実だけ。そんなの全然嬉しくない。1ラウンド劣勢だっただけじゃない。1Rはあたしがダウンを奪ったんだ。次のラウンドも攻めていかなきゃ。智子は迷いを吹っ切ろうとするかのように両拳を胸元でばすっと合わせ気持ちを鼓舞させた。  

 

 青コーナーでは前のラウンドのインターバルと違い落ち着ついた様子でセコンドがはつみの身体をケアしていた。若い男のトレーナーがはつみの身体の汗を拭きながら「やっと調子出てきたな」と言った。

「全然そんなことなか。全然余裕ないですもん」  

 はつみは照れたように頬を火照らせながら慌てて否定する。

「まぁこの調子でいけば安心だ。次のRもミドルレンジからいけよ」  

 若い男のトレーナーの指示にはつみは「はい」と元気よく返事しポイントでまだ不利でありながらも活気のある空気に包まれている。はつみがスツールから立ち上がり、若い男のトレーナーがリングの外に降りると、第3ラウンド開始のゴングが鳴った。若い男のトレーナーははつみが軽快な足取りでコーナーを出て行く背中を見つめながら呟く。

「全然余裕ないか。お前の実力はまだまだこんなもんじゃないってのにな」  

 若い男のトレーナーの視線はもっと遠くを見ているかのようであった。  

 

 第3Rになると、智子とはつみの実力の差がさらに明確に表れるようになっていった。智子の左ジャブをはつみがことごとくウィービングでかわす。はつみの強打が何度となく智子の身体を捉える。

 

 ついにはつみの右フックが頬を捉え智子がキャンバスに崩れ落ちた。尻持ちを付いてのダウン。智子は反射的にすぐに起き上がる。ダメージはたいしたものではない。タイミングが合って思わず倒れてしまったんだ。でも、これでポイントでのアドバンテージは完全に消えてしまった。それどころか、2Rもポイントを取られているのなら逆転されたことになる。智子は気が気でなく試合が再開されるとすぐに前に出た。ポイントを奪い返さなきゃ。しかし、両足で踏み込んだ智子のステップは自身が意図したよりもだいぶ前に出れていなかった。智子は足の力の入らなさにぎょっとする。そこへはつみがさっと距離を詰める。勢いよく放たれたはつみの右ストレートが智子の顔面を吹き飛ばした。グワシャァッという鈍い音を立て、智子の顔面から血飛沫が舞い散った。智子の潰れた鼻から血が吹き撒かれていく。赤い液体が玉のように散って煌めきを発しながら落ち赤いシミとなってキャンバスに残り、スポーツの華々しさを奪いリングの上は凄惨な色が落とされた。

 

 ひざががくがくと揺れる智子の懐まではつみは距離を詰め、左右のフックで智子の画面を打つ。反撃はおろかガードもままならない智子をはつみが滅多打ちする。もはや勝敗は決したといっていい決定的な場面であった。KOが秒読みとなったリング上の光景に、だが場内からは歓声が上がらず観客たちはハラハラと見つめる。まだデビューしても間もない新人のしかも女子とあっては、一方的な攻防が長く続くことは望まれるもなかった。まして、一方の少女がロープを背負いサンドバッグのように打たれていてはその痛々しい姿に胸を痛めずにはいられない。「早く止めてやれよ!!」という声が観客席から上がる。その声に動かされたのかレフェリーが動く。試合がついに終了を迎える。しかし、はつみのラッシュを止めたのは第3R終了を告げるゴングだった。

 

 ゴングの音が鳴り、はつみのパンチの連打がぴたっと止まる。流石に全力のパンチを打ち続けたためかはつみの呼吸は荒げていてはぁはぁと息を吐く。ややあってから、はつみがくるりと背を向けて青コーナーへと戻っていく。智子は背中をロープに預けていてまだ動けずにいる。ファイティングポーズを取っているもののロープに背を預けて辛うじて立っているという状態であった。はつみのパンチの連打をロープを背負い防戦一方となって打たれ続けた。時間にして10秒。そのわずかな時間で智子の顔面は観客が息を呑むほどに変わり果てていた。童顔で可愛らしかった智子の顔は柔らかく形の良い輪郭を失ってぷっくらと腫れ上がり、赤紫色に変色した頬の色は悲壮感に満ちた印象を観る者に与えた。

 

 セコンドの肩を借りてようやく赤コーナーに帰れた智子に会長とレフェリーが試合続行の意思を確認する。智子は小さな声で「まだやれます……」と答えた。会長は「うちの選手がまだ試合を諦めてませんから」と智子の意思を後押しするようにレフェリーに言いレフェリーも「危なくなったらすぐに止めるからね」と言い試合を止めることをしなかった。試合は続行となり最終ラウンドへ備えて赤コーナーと青コーナーは選手の身体のケアに努めるが、智子がボコボコに腫れ上がった顔を垂れるように下げ今にも倒れそうな姿でセコンドのケアを受け悲壮感を漂わせているのに対し、はつみがセコンドの指示に活き活きした表情で返事し活力に満ちていた二人の対照は観客たちの同情をひかずにいられなかった。もはや勝負は決したも同然で最終ラウンドを待ち望まず、早く試合が終わることを願うのだった。しかし、智子はまだ自身の勝利を諦めずにいた。ディフェンスの技術で大きな差があることは身を持って思い知らされた。でも、智子にはまだカウンターのパンチがある。第1Rではつみからダウンを奪ったこのパンチに智子は一縷の望みを託し最終ラウンドに臨もうとしていた。

 

 そして、最終ラウンドが開始された。力無い足取りで赤コーナーを出た智子はガードを固めて防御に徹する。これまでの攻撃的な姿勢を捨ててカウンターパンチ一本に狙いを定めていた。しかし、はつみは前のラウンドで智子をダウン寸前まで追い詰めたのに中間距離から左のジャブを出して様子を伺う。10秒、20秒と時間が経過してもはつみは距離を取って左ジャブで攻撃するだけであった。その慎重な姿勢は智子のカウンターパンチ狙いという策を見通しているかのようである。KOしなくてもこのまま左ジャブを放っているだけでも智子はまったくパンチを打たずに防御に徹しているのだから最終ラウンドのポイントはこのままいけばはつみのものになることは間違いなかった。KOを狙って攻めてくると予想していた智子は、憎たらしいくらいにクレバーに徹する青コーナー陣営の策に焦りを募らせる。ダメージで身体は思うように動かないけれど防御に徹しているからはつみの左ジャブ一辺倒の攻撃を一発も受けずにいる。でも、このままじゃ判定で負けてしまう。

 

 30秒が過ぎた頃、智子は作戦を変更して前に出て左ジャブを打って出た。リスクを承知でこっちもパンチを放たなきゃはつみから右のパンチを引き出せない。智子の左ジャブにはつみも左ジャブで応戦する。お互いが攻めに出た途端、二人の力の差が隠しようもないくらい歴然とリングに表れた。はつみの左ジャブは的確に捉えるが、ウィービングでかわされていく智子のパンチはすぐに出なくなっていき、やがて手の止まった智子の顔面をはつみの左ジャブが次々と捉えていくようになっていく。リングの中央ではつみの左ジャブの連打に圧倒され、智子は顔や上半身から汗飛沫、血飛沫を撒き散らしながら右に左に全身でダメージの凄まじさを表すかのように激しく体が揺さぶられる。朦朧とし、パンチを浴びるたびその衝撃が身体の芯まで浸透して意識が途切れそうになりながらも智子は耐え続けた。はつみが右のパンチを放つ時を待ち続けて。智子がはつみの左ジャブの連打を浴び続けて10秒が経過した。視界が右に左に乱れ飛ぶ中で智子は見逃さなかった。はつみが左足で踏み込み放ってきた右ストレートに前に出て応じていく。右と右のパンチの応戦。智子は朦朧とした意識の中で自分のパンチの方が早く当たるという確信を感じていた。身体中の感覚がダメージで麻痺しているのに不思議とそれだけは分かるのだった。それはボクサーの本能ともいうべき感受であった。  

 

 しかし、智子の右ストレートはヒットする衝撃を得ることなく空を切った。右のパンチを途中で止め右に頭を傾けながらパンチを避けたはつみがスリッピングアウェイをしながら智子の眼前までその顔を近づけていく。力強い眼差しを向け闘志に満ち溢れたはつみの表情を目にしながらはつみのアッパーカットの始動を智子は口を開けたまま呆然と見つめるしかなかった。空を裂くように上昇していくはつみの左アッパーカットが見事なまでに力強く智子の顎を打ち抜いた。  

 

 グワシャァッ!!  

 

 凄まじい打撃音がリングの外にまで響き渡り、智子の上半身が弓なりに反り返る。両腕はだらりと下がり跳ね上がった顎は天井を向けられた。白いマウスピースが赤い糸を引きながら空へ上がっていき血の色が付いたそれは照明のライトに照らされて妖艶な輝きを発していた。  

 

 ぐはぁっという声を上げながら智子が泥酔者のようにもつれた足取りで身体を反転させながらリングの上を後退しキャンバスに沈み落ちた。両腕をバンザイのような恰好で上げながら仰向けに倒れている智子は第3Rのダウンの時と違う感覚を味わっていた。キャンバスの冷たい感触が心を乾かし、目に映る景色がぼやけるほど眩しく天井のライトに照らされ、場内の観客たちに冷ややかに見下ろされているような思いに智子は駆られた。年齢も戦績も同じ新人同士である少女に歴然とした力の差を見せつけられ打ちのめされた。この試合を目にした人たちは青コーナーの少女には輝かしく道を上がっていく期待を抱き、赤コーナーの少女、そうあたしのことはもう家に着く頃には忘れているだろう。智子には何も残らない惨めな結末。そんな思いに駆られながら、智子は試合終了を告げるゴングの音を耳にした。

 

「ただ今の試合、4R58秒、黒崎はつみ選手のTKO勝利です!!」  

 

 場内の試合結果のアナウンスが告げられ、レフェリーがはつみの元に近づき彼女の右腕を上げた。はつみは汗を顔から滴らせ頬を上気させ、満面の笑顔をみせる。そのはつみの清々しさ溢れる姿を見てようやく場内から拍手や喝采が起き観客たちは勝者を称えた。  

 

 一方でまだ倒れたまま起き上がれない智子は会長から何度も声をかけられるが、返事を出来ずに天井を見上げていた。

 

「良かったぞ~新人!!」

「また応援するからな!!」

 

 会長の声を掻き消すようにはつみを称える観客の声が耳に届き、はつみをライバルだと思って試合に臨んだことを智子は虚しさに打ち震えながら思い返し早くリングから降りたいと願うものの、今もぴくりとも動かせない身体に惨めな思いをしながら会長の手で赤いボクシンググローブが智子の拳から外されようとしていた。

 

 

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