十二分にわたる殴り合いを終えたリング。赤コーナーに戻っていくボブカットの髪型をした黒髪の少女は日本人で金髪を短く刈り上げた若いアメリカ人の男の手で両腕のボクシンググローブの紐をほどかれている。その少女はまだ頬が赤く火照っていて充実した思いが顔に滲み出ている。6R闘い抜いたというのに顔には痣一つなくパンチを受けた形跡は見当たらないのだった。しかし、セコンドの男性は褒めるでなく叱る言葉もなく淡々とボクシンググローブを外している。

 

一方の青コーナーでセコンドのサポートを受けているファイターは金色の髪が肩までかかったアメリカ人の少女で、しかしその顔は痛々しく膨らんだ両瞼が左右の瞳をほとんどを覆い隠し頬も赤紫色にパンパンに腫れ上がり表情が何一つ読み取れないほど悲壮感に満ちていた。セコンドの年輩の男性は彼女の肩に手を置いてそっと小さな声で労いの言葉をかけている。

 

ここはアメリカのニューヨーク州にあるボクシング会場のスクエアフォースアリーナ。収容人数2000人のニューヨークで頻繁にボクシングで使われる会場の一つだ。もちろん観客はアメリカ人で埋め尽くされていて、ちらほら見受けられる異国の人間もこの土地に住む者ばかりで日本人の客は皆無であった。

 

リングで闘っていた日本人の少女は名前をユナ・アユカワといい、戦績が六戦五勝一敗のボクサーだ。日本で五戦した後、アメリカに闘いの場を移しこの試合が二戦目となる。日本で六回戦ボクサーだった彼女をわざわざアメリカにまで足を運んで応援する熱心なファンはおらず、この会場にいるほとんどの観客がアメリカ人であるジェニファーを応援していた。

 

彼女も六回戦のボクサーで五勝三敗と目を見張るほどの戦績も残していなかったが童顔でリンゴのように綺麗な赤みを帯びた愛くるしい頬が魅力の可愛らしい顔をしていてそのため熱狂的なファンが少なからずついていた。観客席の一群にはジェニファーの似顔絵がプリントされたTシャツを揃って来たグループがいたほどで試合が始まると会場はジェニファーを応援する声が絶えず上がっていた。しかし、ジェニファーがユナのパンチを一方的に浴び続けラウンドが終わるごとにその愛くるしい顔が醜く変わっていく様を見るにつれ、歓声は悲鳴へと変わっていった。そして、試合終了のゴングが鳴らされた今、会場は音一つない静けさの中、しかしその空気はピリピリと殺気立っていた。

 

そうした空気をユナも感じ取っていて、判定の結果を待つ間も決して笑顔を見せなかった。そして、判定が下された後もガッツポーズは控えようと心がけていた。自分がよそ者であり自身の勝利を望んでいる者がこの会場にいないことを前回の試合で痛切に感じた。KO勝利した後にガッツポーズをして喜びに浸ったものの周りを見渡すと会場中の観客からしらけた目線を向けられていてこの上ないくらいばつの悪い思いをした。だから試合に勝っても喜ぶのは家に帰ってからにしよう。控え室でもない。セコンドの二人はどちらも練習生でジムの会長の命令で嫌々ながらもセコンドに付いているだけでユナの勝敗の関心など持っていないのだから。

 

そう、ユナは自身の勝利を疑っていなかった。ジェニファーとの試合で彼女からダメージらしいダメージはまったく受けなかった。頬をタッチする程度のジャブが一つのRで二三発当たる程度。その数をはるかに上回る強打のパンチを彼女の身体に打ち込み続けた。第4Rにはダウンも奪いKOこそ出来なかったものの会心と言っていい内容だった。

 

しかし、判定でユナの名前が読み上げられることはなかった。

 

“勝者~青コーナージェニファー・ホーリーウッド~”

 

聞えてきたのは自分でなく対戦相手の名前。それも顔がゴツゴツと腫れ上がり立っているのもやっとなボロボロの姿を見せている————

 

ユナは棒立ちとなり表情を失った。そんなユナをよそに観客席からは拍手と歓声が沸き上がる。ユナ以外の者はこの判定を受け入れたのだ。ユナは怒りの感情に襲われ、

 

「なんで私の負けなの!!」

 

とレフェリーに向かって大声で叫んだ。そんなことしても無駄だと分かっていても判定の裏で何かが動いたことも分かっていても言わずにはいられなかった。

 

レフェリーはユナの声に振り向かず、勝者となったジェニファーのいる青コーナーへと向かっていく。

 

ユナはその背中を見てもう一度叫ぼうとしたが、セコンドの男性から止せと肩を後ろから掴まれた。

 

ユナは「だって」と涙を滲ませた弱々しい顔を向けるものの、セコンドの男は黙って首を横に振るばかりだった。試合中に指示らしい指示を何一つ出さなかったのにこんな時だけわたしを止めるなんて…。

 

ユナは唇を噛み締めてリングを降りた。

 

 

 

次の日、ユナはジムに出て練習を再開した。試合を終えたボクサーはどんなにダメージを受けてなくても三日間は休むものだ。ユナも身体を休ませる重要性は分かっていたしこれまでだってダメージに応じて三日から一週間は休養の時間に当てていた。でも昨日受けた不当な判定への怒りが次の日になっても収まらず家の中にいても判定を告げられた時のショックが何度も甦っては消えた。悶々として何も手がつかない。それどころか胸のもやもやは増すばかりだ。ユナはこれならまだジムで練習した方がましだと足を運んだのである。サンドバッグを叩いていたらこの胸のもやもやも晴れるかもしれない。

 

そうしてジムに顔を出しかれこれ三十分は練習をしているユナだったが彼女に注意を与える者はジムに誰もいなかった。その役割を担うはずのトレーナーは誰もユナに見向きもせずに男のボクサーにばかり声をかける。ユナの隣で同様にサンドバッグを叩く若い男は女性であるユナと比べてもその迫力は明らかに見劣りする。それでもトレーナーたちはユナをスルーしてその若い男の前に立ち止まり指示を与える。その男はまだ練習生でプロ志望に過ぎない。男のボクサーは金になる可能性がある。女のプロボクサーは金にならない。ただそれだけの理由である。女性がチャンピオンになってもジムに利益をもたらさない。男女平等の言葉で女子の試合も認められるようになったが、それが女子ボクシングの現実なのだ。まして、ユナは日本人だ。客を呼べる力もなくジムは練習と試合の場を与える以上のことをユナにする気にはなれないのだった。

 

自分の隣で練習する男が自分よりも下手くそでありながらトレーナーの教えを受ける姿を間近で目にしユナはサンドバッグを打っても気持ちが晴れるどころかむしろもやもやした思いは高まる一方だった。

 

もう限界っ。

 

ユナはサンドバッグを打つのを止めて壁際に移りボクシンググローブを長椅子の上に乱暴に放って自分も椅子に座った。タオルで顔に溜まる汗を拭き、そしてどこにも向ける場所のない視線を地面に下ろした。

 

なんで来たんだと誰も言ってくれない……。空気みたいにわたしの存在をスルーする……。

 

そうだ、わたしは練習したかったわけじゃない。わたしはトレーナーに注意されたかったんだ。

 

自分の胸の奥にある思いに気付き、ユナは死んだ魚のように目を泳がせる。

 

行き詰まった時、ユナはいつも思い出す。日本で最後となった試合。ユナにはどうしても勝ちたいライバル視していた存在がいて、その彼女と新人王決定戦の場で初めて拳を交えた。彼女の名前は梨々花といった。ユナは祖父がジムのオーナーをしていて、梨々花も名門の家柄の娘で父がジムのオーナーだった。いわば二人ともいいところの出で、周りからはお嬢様対決、ライバル対決と騒がれて注目を集めた試合だったが、試合が始まってみればリングの上は梨々花だけが光り輝き、ユナは何もさせてもらえず梨々花のパンチを浴び続けた。何度も何度も倒され、辛うじてゴングに救われ試合は判定を迎えた。試合の間、ユナはずっと悔しい思いをし、判定が告げられるまでの間も惨めな思いで待ち続けた。自分が負けたことは明白であって、もういいから早くて言ってよ、わたしをこの惨めな場から早く解放させてよと下を向き目に涙を浮かべながら思った。そして、判定で梨々花の名前が告げられた時、ユナは大粒の涙が止まらずに零れだしたのだった。

 

梨々花との力の差を痛感させられたユナはモチベーションを失い、練習に身が入らない日々を送った。そんなユナの姿を見兼ねた祖父がアメリカで揉まれてみてはどうだと提案し、ユナのニューヨークでの武者修行が決定したのだ。

 

そんな経緯があって、結果を残さなきゃ日本に帰れないと思っていたユナだったが、トレーナーからは相手にされず二戦目で早くも負けてしまった。

 

何してるんだろうわたし……。

 

成長を求めてボクシングの本場までやってきたのにむしろ練習の環境は悪化してしまった。どうにもならないところまで追い詰められたユナはもういっそのこと日本に帰っちゃおうかなという思いに駆られた。

 

そうして、顎を上げて天井を見上げてみると、浮かんでくるのは祖父の優しい顔であった。

 

おじい様はいつもわたしの味方だった。ボクシングジムに通うと決めた時もプロになる時も両親は反対したのにおじい様は穏やかな笑顔でまあいいじゃないかとわたしの後押しをしてくれた。

 

そんなおじい様の思いを裏切るわけにはいかない。

 

ユナは両手で頬をパシンと張って立ち上がった。

 

練習しなきゃ何も変わらない。

 

ユナは左の壁一面に張られた鏡の前に行き、ファイティングポーズを取る。ステップを踏みながらパンチを振るっていると、目の前にイメージとして形付けられていくのは梨々花の姿だった。

 

試合が決まっていない時、シャドーボクシングの相手として浮かび上がってくるのはいつも決まって梨々花だ。

 

誰よりも勝ちたい相手。そして、シャドーの相手としてこれ以上ないやりがいのある相手。あの時よりもわたしは強くなっている。そう強く思ってもシャド-である梨々花に勝てたことは一度もなかった。そして今日も梨々花にパンチは当たらない。

 

そうしてイメージ上の梨々花と闘い続け、足元に大きな水たまりが出来た頃、ユナは隣から声をかけられた。

 

「昨日の今日だっていうのに良いパンチ打つじゃん」

 

 ずっと待ち望んでいた指導者の声。その淡い期待は振り向くと同時に崩れ去った。眼鏡をかけた金髪のアメリカ人の男。身長は157センチのユナとほとんど変わらない。そして、年齢もユナと一つしか違わない————

 

「昨日負けたんだろ。それなのに翌日から練習なんてたいした玉だよな」

 

「ごめんね、今は練習中だから。声かけるのは後にしてくれる」

 

ユナは隣に立つアメリカ人の男ジックに冷たく言った。

 

「おいおい、僕を誰だと思ってるんだよ」

 

 ジックは心外だとばかりに両の掌を上げる。そんなジックにユナは、

 

「掃除係でしょ」

 

 と短い言葉で斬り捨てる。

 

「違うよっ。そりゃ掃除は僕の役目だけどそりゃトレーナーとして駆け出しだからやってるわけで、でもこれでもトレーナーなんだぜ」

 

 ジックは右手で頭を抱えて言った。冷たいユナの言葉にもジックのテンションは妙に高い。そうしたジックの大げさで馴れ馴れしい振る舞いがユナの心をさらにイラっとさせるのだった。

 

「ごめんなさい。そうだったの。頑張ってね」

 

「なんだよっそのつれない態度は。せっかく声かけてんのにさぁ」

 

 ユナはもうジックの声に返す気にもなれず鏡に向かって再びファイティングポーズを取った。そして、左のジャブを放った後だった。

 

「他のトレーナーから相手されてないんだろ。維持はんなよ」

 

 ユナはパンチを打つのを止めてジックを睨んだ。

 

「わたし、そこまで落ちぶれてないから」

 

 今までになく強い口調だった。

 

「二戦二敗。プロのリングで一度も勝てなかったんでしょあなたって」

 

「そりゃあボクサーとして強くはなかったけれど、名選手名伯楽にあらずっていう言葉もあるじゃん。プロのリングでの実績だけで判断するのは危険だぜ」

 

 そうかもしれいけど、でもあなた他の選手たちから相手にされないじゃない。相手にされてない同士で組むなんてこれ以上惨めなものはないわ。

 

 ユナは込み上げてきた思いを胸に留めた。その思いを言葉にすること自体が惨めだと思ったからだ。

 

「わたしに期待しても無駄よ」

 

 そう言って、ユナはまたシャドーボクシングを再開した。しかし、ユナはジックの言葉でまたもシャドーボクシングを中断する。

 

「リリカ・カガミハラだろ。ユナがイメージしてるのは」

 

 ユナは拳を止めて目を見開いてジックを見た。

 

「なんで分かるの……?」

 

「そりゃあ我がジムの有望株の試合に目を通さないのはまずいでしょトレーナーとして」

 

 ジックは胸を張って答える。

 

「あなた、わたしの日本での試合も観たの?」

 

「もちろんだ」

 

「全部?」

 

「とーぜん」

 

 日本での無名のボクサーの試合の映像を全部観るのがどれほど大変なことか、トレーナーでないユナにも分かることだった。そして、ユナは自分の言動を恥じた。ジックの戦績だけで判断してそれじゃこのジムのトレーナーたちと変わらないじゃない。

 

「分かってると思うけど、わたしの試合で判定勝利は期待できないの」

 

 とユナは言い、

 

「それでもあなたわたしに付いて勝てると思う?」

 

 と続けた。ジックは人差し指を立ててちっちっちっと横に振る。

 

「3Rありゃ十分だ」

 

「闘うのはわたしなのよ。口だけはいっちょ前なんだから」

 

 ユナはふぅっと息をつく。

 

 ジックは右手を差し出した。ユナは左手を出して握手に応じた。

 

「ホントは一杯酒でもやりたいところだけどな」

 

「?」

 

 キョトンとするユナにジックは続けた。

 

「日本ではこういう時杯を交わすんだろ」

 

「ばかッ。それはヤクザの世界よ」

 

 ユナはぷっと噴き出した。

 

「初めて笑ったよな」

 

 とジックは言った。ジックの言葉でユナはアメリカに来てから七か月間、ジムではおろかそれ以外での時間でも笑っていなかったことに気付いた。祖父の前ではつられて笑顔になってばかりだったのに。

 

「そうかもね。でも、わたし、リングの上で笑顔になるためにアメリカに来たんだから」

 

 ユナはそう言い、窓がない地下のジムの中で光が射すのを感じた。

 

 

 

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