試合終了を告げる鐘の音が鳴った。  

 

 輝きの全くない黒みを帯びた茶色のロープは動物の皮で出来ていると一目で分かり、キャンバスも木で骨組みされその上からベージュ色の分厚い布を被されているだけの代物。粗野な造りのリングの上で、試合の勝者である男はトランクスと革製のシューズを履いているだけで自身の強さを誇示しようと上げられた両方の拳は素手であった。その男に見下ろされるようにキャンバスに仰向けで倒れているもう一人の男は顔の右側が異様に腫れ上がりどす黒く変色している。左の瞼も唇の端も切れていて血が垂れ落ちており鼻からも鮮血が流れていた。そのリング上の景色にコロッセオを囲う観客たちは大いに興奮し叫ぶように大声を上げていた。

 

 その光景はボクシングの試合というにはあまりに血生臭い匂いに包まれていた。

 

 

 まだ人々が剣を握って戦争を繰り広げていた時代、西の大陸スートルニアでは、ボクシングという新たな格闘技がイーダスという国で生まれ国を越えて広まろうとしていた。法があったといっても貴族や騎士など身分の高い者が人を殺しても罰せられなかった社会の中で人々が力を求めるのは必然といえた。貴族や騎士だけでなく平民の間でも多くの者が嗜むようになり、それどころかその中には女性の姿も少なからずあった。それはスートルニアの中でも一番の国力を誇りボクシング発祥の地でもあるイーダスで半世紀前、戦場の女神と呼ばれた女性騎士マチルダの存在が大きかった。女性でありながら一つの兵団の隊長であった彼女は国において三本の指に入る剣の使い手で戦争でも数多くの殊勲を立てた英雄的な騎士であった。マチルダは女性にとって崇高の対象となり、それ以降女性の兵士志願が習慣化していった。そんな中、平民の女性でも闘う意識が根付いていき、ボクシングで己の身を守る強さを身に付けようとする女性が増えていったのだ。

 

 しかし、ボクシングと名付けられたこの新しい格闘技は素手で闘いその拳だけで闘う制限があり倒れた相手への追撃も禁止されカウントを取り時間内に立てるかで勝敗を決めるとはいえ素手で闘うのはやはり喧嘩に近く競技というには野蛮過ぎた。大けがを負ったり中には死亡する者もおり剣での決闘より遥かに安全とはいえ、女性が試合をするには凄惨であるために練習をする者はいても女性の試合は禁止されていたのだった。  

 

 

 スートルニア大陸の東に位置するメゼンダ国。豊穣な大地を有した土地は農業に適しその利を活かし発展してきた国である。その西部地方にあるウェートウォールエリア東A3地区の市場は、太陽が元気よく顔を見せ陽気に包まれ、真昼間多くの人でにぎわっていた。しかし、その一角の食料品を売る店の前で大きな声のやり取りが繰り広げられ大勢の人だかりが出来ていた。その騒動の主は二人のまだ10歳にも満たぬ子供と三人の騎士であり、「悪かったよ」と大声で許しを請う二人の子供を二人の男性騎士が後ろから抑え込んでいた。そして、それを二人の騎士のリーダーであると思われる騎士が右の腰に手を当てて射抜くような非情な眼差しを向けている。二人の騎士と違い高貴な青の軍服を着たその騎士はまだ若き女性で白い肌に銀色の髪をカチューシャで後ろに束ね、男なら誰もが振り向くほどの美貌であった。

 

「何をしている」  

 

 そう言って、この騒動を見ている人の輪を掻き分けて入ってきたのは、また別の女性騎士であった。彼女もまた高貴な赤の軍服を着ており、ショートカットの髪型に精悍な顔つきながら、銀髪の女騎士に劣らず綺麗な顔立ちをしていた。ユキという名のその女騎士は男の騎士によって取り押さえられた子供の姿を見て形相を険しくし、その前に立つ銀髪の女性ソフィアを見ると、はっとした表情になりすぐに一層険しい形相に変貌し彼女に視線をぶつけた。

 

「何が起きた」  

 

 強い口調で問い詰めるように言ったユキの言葉にソフィアはまったく怯む気配を見せずに、

 

「その者たちが店の食料品を盗んだから取り締まったまでです」  

 

 と冷静にそれでいて厳しい口調で言った。

 

「それでその子供たちをどうするつもりだ?」

 

「もちろん留形場に連行します。それが何か?」

 

「まだ幼い子供だぞ。そこまでする必要はないじゃないか」

 

「ここは我がウェルスフォルト家の領土。我々の管理下であなたが口出しするものではないわ」

 

「だとしても聖龍騎士団の副長として行き過ぎた行為は見逃せないな」  

 

 ユキは引き下がるどころか強い口調で言い、

 

「行き過ぎた行為? これのどこが行き過ぎだというのです? 罪を犯した者を罰するのは当然ではありませんか」  

 

 ソフィアも毅然とした態度で言葉を返す。  

 

 己の信念をぶつけ合う二人の騎士の口論にその場にいる大衆たちは動揺し場は緊迫した空気に包まれていた。バールフォース家の娘であるユキとウェルスフォルト家の娘であるソフィア。メゼンダ国でも有数の名門貴族である両家は敵対しあっており、その両家の娘の対決は両家の関係悪化に繋がり、国内の情勢を不安定にさせる事態にもなりかねない。  

 

 ソフィアは話にならないとばかりにふぅっと息を付いて、人差し指を振って子供たちを連れて行くよう部下の騎士に合図を送った。立ち上がり子供たちに縄をかけて行こうとする騎士の腕をユキが掴まえた。

 

「貴卿らには慈悲がないのか?」  

 

 戸惑う男の騎士に代わってソフィアが答える。

 

「慈悲があるからこそ罪を犯した子供たちに罰を与えるのです。同じ過ちを繰り返さぬよう」  

 

 ソフィアはそう言い、鞘から剣を抜き取りユキに剣先を向けた。

 

「これ以上邪魔立てをするようでしたらあなたといえどただじゃすみませんわ」

 

「剣を向けてわたしが引き下がるとでも思っているのか?」  

 

 気が強いユキでももちろんことと場合によっては無用な争いを避けるために引くことはある。しかし、相手が敵対するウェルスフォルト家とあっては引くわけにはいかない。  

 

 ユキもまた剣を鞘から抜く。激しい形相で睨みあう二人。周りの人々からあぁっという悲鳴の声が上がる。  

 

 その時であった。人混みの中からするりと出て、対峙するユキとソフィアの前に立った男がいた。

 

「ここは私の顔に免じてその剣をおさめていただけませんか」  

 

 これから剣による決闘が始まろうとしているのにその男は穏やかな物腰で言った。男の名はロアといった。上から足元まである煌びやかな着衣を纏うその男は国王の側近の一人であった。軍の最高司令官の補佐を務め国の戦争時の作戦は主にこの男が担っているほどの軍部における重鎮的存在の人物である。

 

「ロア卿の言葉といえど騎士の矜持を曲げるわけにはいきません。それに騎士同士の決闘を禁止する法はないはずです」

 

 両手で剣を強く握りしめているユキは荒ぶる気持ちを抑えきれないままにいる。

 

「レディ・ソフィアも同じ考えですか」

 

「はい、この剣をおさめるということはウェルスフォルト家の教えに背くということ。下げることは出来ません」

 

「やれやれ困ったものですね」  

 

 ロアはそう言って目を瞑り首を左右に傾けた。

 

「レディ・ユキもレディ・ソフィアもわが国において欠かせぬ大事な騎士だというのにその片方を失う事態は避けなければなりません」  

 ロアが右手を顎に付け考える仕草を見せる。それからややあって言った。

 

「ではこうしましょう。二人の決闘、剣ではなくボクシングの試合で決着をつけてはいかがですか?」

 

「ボクシング?」  

 

 ユキは意外な声を上げたが、すぐに自信に満ちた表情になり、

 

「望むところです」  

 

 と答えた。

 

「私もです。しかし、女性同士のボクシングの試合は国の法律で禁止されています。陛下がお許しにならないのでは?」

 

「それは心配に及びません。私に考えがあります」  

 

 ロアは含みのある笑みを浮かべた。

 

「では二人の決闘は十日後、バルトニコロッセオで正午に行いましょう」

 

 

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