駆け足で廊下を行くラックは部屋のドアを勢いのままに開けた。部屋ではユキがソファにもたれかかり書物を読んでいた。

 

「どうしたのラック? 息を切らして」  

 

 ユキが顔を向け、きょとんとした顔で聞くと、

 

「ユキ、ソフィアに決闘を申し込むなんてなんて馬鹿な真似をしたんだ」

 

 ラックは乱れた呼吸をさらに荒げて言った。

 

「先に剣を向けたのはソフィアの方だよ。わたしは喧嘩を買っただけさ。それに決闘といっても剣での闘いじゃない。ボクシングの試合なんだ」  

 

 真剣な面持ちのラックに対して、ユキは書物を両手に手にしたまま平然と答える。事態を父上から聞かされて心配になって慌てて来たっていうのに事もなげに構えるユキにラックは言葉が出なくなった。  

 

 これだからユキは……。  

 

 ラックはリオン家の人間であり、リオン家とバールフォース家はきわめて親しい間柄であった。そのため、ユキとも幼いころから仲良く交流を育くみ、そして二人は二年前に恋仲の関係になった。控えめな性格のラックに対しユキは気性が強く自由奔放な性格。正反対の二人で振り回されるのはいつもラックの方であった。それでもラックがユキに恋心を抱いたのは自分にないものを持つユキへの憧れが胸の内に秘められていたから。しかし、今回ばかりははっきりと言ってやらなければならない。後悔してもしきれない事態に陥らせないために。

 

「ボクシングだって駄目なものは駄目だ。その顔に一生消えない大きな傷が付いたらどうするんだ。それに素手でも危険なことに変わりはしないんだ」

 

 自分の部屋に突然入ってきては消極的な言葉を並べるラックにユキもうんざりして、

 

「今さら棄権しろっていうの? そんなことできるわけないじゃないか。相手はウェルスフォルト家の人間だぞ。私が逃げたらバールフォース家はウェルスフォルト家にこれから先永遠に馬鹿にされることになる」

 

 と不機嫌に言い返した。

 

「それにラックの心配は無用だよ。わたしは剣術以上にボクシングが得意なんだ。ボクシングで私に勝てる女性はこの国で存在しないよ」

 

 ユキはそう言って、書物をソファに置き、ラックの堅い小言に窮屈になった思いを発散するためか自然と両腕を上げて背伸びをした。

 

「相手はソフィアだぞ。わが国で五本の指に入る剣士の一人だ。ボクシングの技術だって相当なものに違いない。まったくなんてことになったんだよ。それにしたって、ロア様はなぜ女子のボクシングの試合を提案したんだ。国内では禁止されているっていうのに意味が分からないよ」

 

「五本の指? だったらわたしは四本の指だね。ソフィアよりは上だから」  

 

 ユキは大胆に笑って返す。

 

「それにわたしはロア様にむしろ感謝してるよ。大衆の目の前でソフィアと白黒つけれるんだから」  

 

 威勢の良い言葉を続けるユキ。どうしてこういつも強気でいられるんだろう。心配になって駆け付けて来たって言うのにいくら強く言っても全然聞く耳を持たない。いつもの言い合いの同じ結果になり、ラックはユキの家に来たことを後悔した。ユキに直接説得しても意味がないことは分かっていたはずなのに。他の方法を当たるべきだったんだ。

 

「馬鹿っ。勝手にしろ」

 

 そう言い残してラックは乱暴に扉を開けて部屋を出て行った。扉の閉まる音がしてから、ユキはゆっくりとソファに置いていた書物を再び手に取った。

 

「やれやれ……」

 

 溜め息を付くようにユキは右手でページに触れる。

 

「もう始まってしまったものを止めることは出来ないんだ。300年続く因果をね」

 

 そう呟きユキはほとんど進まない読書を再開した。

 

 

 その話を初めて聞かされたのはユキが12歳になった時であった。名門の貴族の娘同士であるためにユキはソフィアと度々会うことがあった。式典の場であることが多く横にいる双方の両親は顔を合わせればきまってとげとげしい言葉をぶつけあっていた。端々に皮肉が込められた親達の言葉は幼かったユキにはその意味が分からなかったが、大人たちの忌々し気な表情から両家の関係が悪いことだけは感じ取れた。

 

 12歳の時にスクールを卒業し騎士となる道を選んだユキは兵士養成の部隊に所属することになった。そこで同じく騎士の道を選び養成の部隊に所属することになったソフィアと初めて一対一で顔を合わせることになった。その場で二人が素っ気ない挨拶を交わした後、ソフィアが言ったのだ。

 

「私には近づかないで欲しいわ。異性への盛しい情欲が感染らないためにも」

 

 その時のソフィアの表情には両家の親達がみせる侮慢が垣間見られた。

 

 異性への情欲? 何を言ってるんだ、わたしは男勝りなその性格を直せと父に口うるさく言われてるくらいに女っ気がないっていうのに。

 

 ソフィアの言葉に激情しながらも意味の分からないことを言う彼女の言葉がずっと気になった。

 

 その夜、ユキは家で長男のルーサンに尋ねた。バールフォース家とウェルスフォルト家にに何があるのかを。そして、兄から聞かされた事実にユキの心は激しく揺さぶられたのだった。

 

 始まりはおよそ300年前に遡る。西暦1422年、メゼンダ国は一世紀にわたり敵対していたミラージュアル国との戦争に勝利した。5年に及んだこの長き大戦において自軍に勝利をもたらす活躍をしたのが二人の騎士リッツ・バーンフォースとトランジット・ウェルスフォルトであった。まだ20歳を迎えたばかりの若き天才剣士たちはお互いを良きライバルと認めながらもそれ以上に親友という間柄でもあった。それこそはたから見たら兄弟と勘違いしてしまうほどに普段はじゃれ合う仲の良さであった。

 

 その二人が先の戦争の活躍で共に貴族の中で最上位の侯爵の称号を授与された。最上位の称号を手にしながらも以前と変わらずに構えることなく帝国の騎士として日々を送っていたリッツとトランジットは共に23歳の年齢を迎えたころには結婚をして、家庭を持つようになった。結婚後も変わらずに親友として交流を続けていたリッツとトランジットはリッツから二人が子供を持つことになったら、その子供たちを許嫁にしてゆくゆくは結婚させようと持ちかけた。はじめは酒の席で言った冗談交じりの言葉だったが、トランジットはリッツとの絆を永遠のものにしたくまた騎士として類まれな実力を誇る二人の子供の間にどれだけ優秀な子供が生まれるかにも興味が沸いて提案したリッツ以上にその案を歓迎して率先して進めていった。

 

 二年後、リッツとトランジットは子供が出来たが共に男の子であり二人の約束は適わなかった。その後、八年の月日が経ちトランジットに長女が誕生した。リッツの長男と8歳の年の差があったがこの時代でその年の差の結婚はよくあることでリッツの長男、ライファーとトランジットの長女、リラは許嫁の関係として、幼いころから交流を続けてきた。親が決めた結婚とはいえ、ライファーもリラも反発することなく、特にリラは思春期を迎えたころにはライファ―に強い恋心を抱くようになっていた。それはライファーが8歳も年上であったことも大きく優秀な騎士であった彼に惹かれ憧れの対象として映るのだった。

 

 早くライファーとの結婚を夢見ていたリラだったが、結婚が出来る年齢となる16歳の一年前、15歳を迎えた時、ライファーが他の女性に恋をした。それまでリラとの結婚を受け入れていたライファーだったが、マールウイン家の娘、シンファニーと出会い心惹かれた彼はその時本当の恋を知ることになった。その心をどうにも抑えきれずにライファーは両親に自分の思いを打ち明けシンファニーとの結婚を許してもらえるように請うた。初めはライファーの懇願を断固として受け入れずにいたトランジットであったが、ライファーの度重なる直訴についには折れて、リッツに頭を下げる形でライファーとリラとの婚約をなかったことにしてもらうことを合意してもらった。

 

 しかし、失恋したリラは失意のあまりに自らの命を断ってしまう。そして、自らの意思で命を失ったリラの姿を目撃した長男のマーベットは最愛の妹の命を失ったあまりに怒りの感情のままにライファーを襲撃し殺害した。

 

 騎士同士の決闘は罪に問われないが、一方的な殺害は刑罰の対象であった。そのためにマーベットは牢獄に監禁されることになる。そして、マーベットも妹の後を追うように牢獄で自らの命を絶ったのだった。

 

 三人の子供の命を失った悲劇は、リッツとトランジットの関係にも禍根を残し、彼らは表立っては対立することはなかったが両家の関係は絶たれることになる。しかしながら、リッツとトランジットの妻と両家の親族は相手方を許すことが出来ずに敵対しあう関係が300年に渡って続いていくのだった。

 

 その事実を知った時、ユキは両家の因縁の原因の根端が自身の祖先にあったことに激しいショックを覚えた。許嫁の関係にあったのに他の女性に恋をして婚約を破棄してその女性と結婚をするなんてあまりに軽薄だと。

 

 しかし、ユキも思春期を迎え幼馴染みのラックへの思いに次第に気付くようになり、やがて恋人として結ばれると、自分が好きになった人と結ばれる幸せを知り、ライファーの気持ちも理解できるようになった。ライファーを責めることは出来ないし、命を失うことになったリラには深く同情するけどだからといって怒りの感情に我を忘れてライファーを殺害したマーベットの行動の方に非があるように思いが変換していったほどであった。しかし、当初は自身の祖先ライファーに非があると思っていたのだから、どちらも責められるものではないとユキはバーンフォース家とウェルスフォルト家の間にある確執を冷静に捉えるように努めた。

 

 それなのに、ソフィアと顔を合わせるだけで感情が揺さぶられる。ソフィアを倒したいと思っているわけじゃない。 先日の出来事だってソフィアと剣を向け合ったものの、決闘になる前に自分から「くだらない」と言って剣をおさめることだって出来たはずだ。それだけでなくて、ロアが二人の間に入って、ことがおさまるように配慮した行動に出てくれたのに、ユキはロアの計らいを拒絶した。戦場では冷静な心を失うことは命取りになると肝に銘じていたのにソフィアと事を構えたあの場で荒ぶる感情に自身の誓いを忘れてしまったのだ。

 

 それはソフィアから侮蔑の言葉をぶつけられてきたために彼女に反発する気持ちを強く抱くようになってしまったためか、それともいがみ合う両家の両親と親族を見続けてその思いが自分にも移ってしまったためなのかもっといえば300年に渡ってウェルスフォルト家と対立し続けてきたバールフォース家の血がそうさせるのか。その答えは分からずに両家の因縁に振り回され、自身の感情を抑えきれない自分がユキは嫌でたまらなく思うのだった。

 

 

 ラックがロアに呼び出されたのは、ラックがユキの家を訪れ言い合いになった二日後のことだった。名門の貴族の家柄であり騎士としても聖馬騎士団の副長を務めるラックだったがロアに一人で会うのはこれが初めてだ。最高司令官の補佐であるロアとは位が離れており、相手から面会を申し出られることなどまずない。だから用件がユキとソフィアの決闘についてであることは察しがついた。しかし、決闘についてといってもユキではなくて自分に何の用があるというのだろう。たしかに恋人である自分がセコンドに付く可能性は高い。二日前に喧嘩したとはいえ、この試合を止めることが不可能だとしたら自分からセコンドに名乗り出る考えをラックは持っていた。試合を止められないならせめて出来るかぎり安全にユキをリングから帰してやりたい。仮に用件がルール説明だとしたらわざわざ多忙なロアからされることはないだろう。だとしたら他に何があるというのだろう。決闘の話の内容についてまではいくら考えても検討もつかなかったが、ロアと直接面会出来ることはチャンスであるとラックは思った。こちらからなんとか試合を中止していただくように説得できればとラックは考えていた。

 

 ラックが国王の城内に入り、ロアの部屋へと入っていくと、広い部屋の奥でロアは椅子に座り入り口正面に目を向けて待ち構えていた。

 

「今日、あなたをお呼びしたのはレディ・ユキとレディ・ソフィアのボクシングの試合の件です」

 

「そのことについてですが、差し出がましいことは重々承知していますが、女性同士のボクシングの試合は禁止されているはずですが」

 

「えぇ、そのことはあなただけでなく多くの者から問われました。いくら国王の側近である私といえども規律を破るわけにはいきません」

 

「えぇ、ロア卿ならそうお考えだと存じておりました。それだけにますます理解できないのです。ロア卿がボクシングの試合での決着を提案されたことを」  

 

 ロアは隣のテーブルに置かれていた箱を手にした。

 

「これを開けてみてください」  

 

 そう言われラックは前に出てロアから箱を受け取った。

 

 箱を開けると、見たことのない奇妙な形のした物が入っていた。それは赤く光沢の艶があって手のような形をしていて、手袋を想起させるがそれにしてはあまりにでかく先の部分が丸みを帯びている。手にしてみると、弾力性を含んだ柔らかみがありしかしどこか生々しくもあり動物の皮で出来ているような感触がした。先が五本の指が別々に入るように分かれてなくてこんなにもばかでかいものは手袋として使うにはあまりに使い勝手が悪い。一体何のための物なのだろうか?

 

「ロア卿、これは一体?」

 

「これはボクシンググローブと呼ばれるものです」

 

「ボクシンググローブ……ですか?」

 

「えぇ、その名前の通り、ボクシングの時に使われる手袋です。スマリ国で最近作られ安全のために試合で使用されているそうですよ」  

 安全のため……。その言葉を聞いてもしかしてとラックは思った。

 

「ロア卿、もしやこのグローブを……」

 

「そうです、七日後のレディ・ユキとレディ・ソフィアとの試合で着用させるのです。これを付けていれば女子だからと非難されることもないでしょう」  

 

 この大きなグローブが試合をする女性二人の身体からパンチの衝撃を減らしてくれるのか。そう思うと、ラックは初めて目にしたこの奇妙な形状の物体をまじまじと見続けた。

 

 

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