真夏の陽光が燦燦と照り付ける午後、岐阜アリーナの館内ではまだ十代の少女たちが外の熱気に負けない気迫をリングの上で発していた。四本のロープに囲まれたリングの上に立つ二人の少女はそれぞれ赤か青の色で統一されたタンクトップとトランクスに着て分かれ、その両拳にも服の色に合わせた赤か青のボクシンググローブをはめている。第82回全国高校ボクシング選手権全国大会は、男子の部から合わせて八日目を迎えていた。最終日となる今日、女子の全4階級の準決勝と決勝戦が行われていき、リングの上ではフライ級の決勝戦が開始されていたところであった。青コーナーの選手は町ノ川高校の空中窓音といい、黒色のショートカットの髪型が良く似合うボーイッシュな少女で、赤コーナーの選手は帝館高校の三田詩恩、栗色の長髪を三つ編みに束ねた一見するとリングに不釣り合いな気品を感じさせる少女であった。

 

 ゴングが鳴らされ、自軍のコーナーを出ていくと、ポイント制の競技の色合いが強いアマチュアの試合であるにも関わらず、二人は足を止めて打ち合う。左右の拳から切れ味鋭いパンチがお互いの拳から次々と放たれていく。しかし、二人の少女の動きはパンチだけでなくディフェンスも見事なものでシュッシュッと上体を揺らしながらかわしていく。観ている側も息を付く間もないほどの高速の攻防が試合開始早々に展開され、四発、五発、六発と二人のパンチが瞬時のうちに空を裂いていく。しかし、このハイレベルのパンチの応酬で最後にパンチをヒットさせるのは決まって青のグローブ。空中窓音だった。赤コーナーの詩恩も高校生とは思えぬボクシングをみせるが、窓音はさらにその上をいくのである。三度目、四度目とパンチの応酬で上をいかれ窓音のパンチをフック、ストレートと顔面に打たれていくうちに詩恩の顔面は頬が赤く変色していくと共に試合開始時に涼しい目を見せていたその表情は唇をぐっと強く結ぶようになっていた。

 

 第1R終了のゴングが鳴り、二人は自軍のコーナーへと戻る。窓音も詩恩も両肘をロープの上に乗せ身体を休め、セコンドの指示を仰ぐ。窓音のセコンドには二人の男子高生が付いているのに対して詩恩のセコンドは四十を超えた年齢の男だった。窓音の所属する町ノ川高校ボクシングはこの年までインターハイに出場した選手が一人もいなかったボクシングの弱小校であるのに対して帝館高校ボクシングは毎年のようにインターハイ優勝者を何人も輩出する高校ボクシング界随一といえる名門校である。セコンドの男子高生がガッツポーズを作り高揚した顔で窓音に話しかける青コーナーの光景は若々しく微笑ましくも映るが、赤コーナーでは年輩のセコンドが激高した声を放ち選手を鼓舞しようとしていて、詩恩も懸命な表情で何度もしきりに頷き、それはプロの選手とトレーナーを思い起こさせる厳しい師弟関係を表していた。何もかもが対照的といえる青コーナーと赤コーナーの風景。弱小のボクシング部に所属する窓音は大会が始まるまで無名の選手であったが、逆に無名であるが故にKO勝利で勝ち進み日に日に注目が集まっていき準決勝が始まるこの日一番の注目選手にまでなっていたその一連の流れはさながらシンデレラストーリーの階段を上っているという言葉がぴたりと当てはまる。マスコミも大会関係者も熱い視線を送るのは窓音の方である。しかし、決勝戦の相手は高校ボクシング界一の強豪校の選手。今年の大会も男子の全10階級のうち6階級を制し、女子もすでに一つの階級で優勝を収めている。そんな名門校の所属であるだけでなく詩恩は女子の部長であり、名門校のエースを相手に弱小校の選手が勝てるとはボクシングに精通したマスコミ達も大会関係者も露程も思っておらず、むしろ彼らのこの試合に向ける焦点は窓音がどこまで善戦するかであった。

 

 しかし、蓋を開けてみれば窓音が詩恩にまったく引けを取らずそれどころか名門の選手に相応しい卓越したボクシングテクニックをみせる詩恩のさらに上をいき対戦相手を劣勢に立たせていた。シンデレラストーリーが完璧な形で生まれるかもしれない。そんな期待をマスコミ達は抱きながら第2R開始のゴングが待たれるようになっていた。

 

 第2R開始のゴングが鳴ると、窓音も詩恩もそれぞれのコーナーから勢いよく飛び出して行く。一直線に相手に向かって行く二人の姿は、若さに満ちていて早春の野に吹く風のように爽やかに観る者の目に映った。第1Rと同じように二人は足を止めてパンチを打ち合う。前のRで劣勢を仕入れられたのにも関わらず変わらず再び真っ向勝負を挑む詩恩の姿はセコンドに名伯楽が付いているだけにそれは意外に映る者も少なくなかっただろうが、名門校であるが故のプライドがそうさせるのか、名門校のエースの力を信じているのか、いずれにせよ観る者の心を打つものがあった。しかし、高速のパンチを打ち合う攻防はこのRも窓音に分があり、ハイスピードのパンチをお互いが打っては避ける高度な攻防の最後には必ず窓音が会心のパンチを当てていく。

 

 二発、三発、四発とパンチを被弾していくうちに目にも止まらぬ速さでパンチを放っていた詩恩の両腕が止まり始めていく。窓音のパンチは単発ながらもどのパンチもヒットするたびに強烈な重い音を詩恩の身体から響かせ、威力も一級品であった。前のRからのダメージの蓄積もある。左足でマットを強く踏み込みながら放たれた窓音の右フックが詩恩の左頬にヒットすると、汗や唾液が顔からびしゃっと無数の水玉となって飛び散っていき、目が宙をさまよう彼女からはもう反撃の動きはまったく見られなかった。棒立ちとなり虚ろな目をした詩恩に無慈悲にも左右のフックが次々と打ち込まれていく。右に左に詩恩の顔面が激しく吹き飛ばされ、その弱々しさに満ちた動きに連動して重く乾いた衝撃音が連続してリングの外まで響き渡る。

 

 五発目のフックが無抵抗な詩恩の頬を打ち抜くと、二人の少女の間にレフェリーが割って入った。レフェリーの動きに窓音がパンチを止め、詩恩は両腕がだらりと下がり伐採された大木のようにゆっさりと後ろに崩れ落ちていく。バタンッと大きな音を立てて詩恩が両腕をバンザイのように上げて倒れたままでいるのを目にしたレフェリーが両腕を交差した。試合終了のゴングが高らかに鳴り響く。  

 

 窓音がガッツポーズを作り、「やったー!!」と大声で叫んだ。アマチュアの試合で過度に勝利を喜ぶ姿を見せるのは良しとはされていないが、会心の笑みを浮かべる窓音にセコンドに付いた二人の男子高生も走って向かい大はしゃぎするその光景は優勝とは無縁であった彼らの喜びの大きさをそれだけ表すようであって、観客席からも惜しみない拍手が送られた。もっと彼女がリングに上がる姿を見てみたい。それは18歳を迎え高校生として最後の試合を終えた窓音の今後を期待する喝采の音でもあった

 

 

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