二学期が始まり登校の初日。早速、六時限まであった授業を終えた窓音はボクシング部の部室に最後の足を運んだ。部長の守が次の部長を指名する恒例の儀式を終えると、三年生全員が最後の挨拶を残った部員たちに送る。三人の三年生の最後を務めるのは、窓音であった。

 

「みんな、夢は大きく持ってね。強く持てばその分目標の達成も近づいてくるから」  

 窓音がそう言い終えると、下級生の部員たちからは、

「インターハイ優勝者が言うと説得力が違うなぁ」  

 と深く頷く声が飛んだり

「窓音先輩もプロでまた夢適えてください!」

 と窓音にも激励が返されるなど、三年生の挨拶の中でも一番の反響が起こり、下級生に激励の言葉を送るだけでなくプロの世界に羽ばたく自分も見送られた形になり窓音も照れ臭そうに笑うのだった。

 

 最後の挨拶を終えると三人の三年生、窓音と守と真吾は早々に部室を出ていく。先輩たちがいつまでも居ては彼らも新たな部活のスタートを切りづらい。部室の今後を二年生と一年生に託し、彼らは学校の校舎を後にして出た。

 

「結局、僕らの代でプロになるのは窓音君だけだったなぁ」  

 

 三人並び歩いていく中で女子である窓音はもちろん真吾よりも頭一つ高い守はそう言って感慨深げに空を見上げた。

 

「竹屋君だって、プロになれる力あるのにもったいないよ。だって全国大会ベスト8だよ、すごい成績じゃない。今からでも目指さない?」  

 

 三人の真ん中に立つ窓音が守の方を向いて言う。

 

「いや僕はチャンピオンにはどう頑張ってもなれないよ。自分の身体能力の限界は自分が一番分かってる。身体を使うより頭を使う方が得意なんだよな僕は……」

 

「謙虚なのね、どこかの誰かさんとはえらい違い」

 

「なんだよ、俺のこと言ってんのか」  

 

 二人の話を聞いていた真吾が見下ろすように片目を窓音に向ける。

 

「さぁっ」  

 

 窓音は両目を瞑りけむに巻くが、

 

「俺のどこが謙虚じゃないってんだよ」  

 

 真吾は自分のことに違いないと不貞腐れたように唇の端を曲げて窓音をガン見する。

 

「俺は全国制覇するぅって言って、今年の夏も都大会の決勝で負けたのはどこの誰よ」  

 

 窓音も真吾の顔を見返した。

 

「でも、決勝まで行ったんだぜ。少しはねぎらいの言葉が欲しいね」

 

「全国大会じゃなくて都大会のでしょ」

 

「都の二番だって大変なんだよ。だいたいなぁ、さっき夢は大きく持てってお前言ってたろぉ」

 

「真吾ちゃんの場合、何度も何度も言うから軽いのよ」 「俺は部の空気が辛気臭くならないように思ってだなぁ言ったんだよ」

 

「まぁまぁ、二人とも今日で部活も卒業なんだ。仲良くいこうじゃないか」  

 

 守が二人の間に割って入り、窓音と真吾はぷいっと互いにそっぽを向いた。それからしばらくして窓音も膨らませていた頬を和らげ、

 

「竹屋君はこれからどうするの。もうボクシングはしないの?」  

 と守に話しかけた。

 

「いや、これからはトレーナーになろうと思ってね。さっきも言ったとおり僕は身体より頭を使う方が得意だから練習方法考えるのも好きだし」

 

「そっかぁ。竹屋君なら優秀なトレーナーにきっとなれるよ。竹屋君のお薦めしたボクシングの練習って、すごく効果あったし」  

 

 窓音は声を弾ませて言う。

 

「窓音君にそう言ってもらえるなら励みになるよ」

 

「そうだっ竹屋君も真吾ちゃんのジムでトレーナーしたらどう?おじさんきっと喜ぶよ」  

 

 窓音の提案に守は後頭部に手を当てながら頭を低くし、

 

「僕は来澤ジムから良い話もらってて。真吾には悪いけど」  

 と申し訳なさそうに言った。

 

「来澤ジム?すごいじゃない。世界チャンピオンを何人も出してる超名門でしょ」

 

「そうなんだ。ところで窓音君はもうジム決まってるの?」

 

「ううん、まだこれから」  

 

 窓音の返事に守の表情が急に硬くなり、わずかな沈黙の後、意を決したように、

 

「そうか。だったらもしよければ」  

 と言ったところで、突然、着信音が鳴り響いた。お互いがズボンやバッグに視線を向けて、真吾が、

「あれ、俺の携帯か」

 とズボンから携帯電話を取り出してボタンを押した。

 

「なんだよ親父、昼間っから」  

 

 真吾の言葉に窓音と守が目を丸くして顔を見合わせる。二人とも真吾の父、鉄矢とは顔なじみの関係だ。真吾の父はボクシングジムの会長なのだ。

 

「えぇ、マジで言ってんのか」  

 

 真吾の大声に窓音は守の顔を見たまま首を傾げる。昼間から息子に何の用事なのだろうとさっぱり見当も付かない様子だ。

 

「分かったよ、言うから大声出すなよ」  

 

 真吾だって大声出してるのにと真吾と父の電話でのやり取りに窓音は思わずぷっと吹き出しそうになる。真吾は電話を切って携帯電話をズボンの中に戻した。

 

「どうしたの真吾ちゃん?」  

 

 窓音は真吾の顔を覗くように見た。

 

「それがさ……」  

 

 真吾は空に目をやりながら頭を掻く。

 

「なによ、はっきり言いなよ」

 

「親父が窓音をうちのジムに誘えって言うんだよ。くるわけないよなぁうちのオンボロジムなんか」

 

 真吾はそう苦笑いを浮かべながら言った。

 

「あたし、入るよ」

 

「そうだよなぁ、入るわけないよな。ってえぇ入るぅ?」  

 

 真吾が首を前に出して甲高い声を上げる。

 

「マジで言ってんのか」

 

「うん」

 

「もっと真剣に考えろよ」

 

「あたしすごく真剣よ。前から決めてたんだから、プロになったら真吾ちゃんのジムに入るって」  

 

 そう言ってから窓音の頬が急に赤くなって、

 

「真吾ちゃんのお父さんのジムに」  

 と言い直した。

 

「うちのジムなんて何もないぜ?」  

 

 窓音の動揺した仕草に真吾は気付かずに依然として信じられないといった素振りをみせる。

 

「いいの。だってあたしをボクシングに誘ったのおじさんだから。中学生の時、おじさんがあたしにボクシングの才能あるって言ってなかったらあたし今もボクシングしてなかったよ」

 

「あいつはちょっといいパンチ打ったら誰彼見境なくプロ目指さねえかって言うだけなんだけどなぁ」

 

「だからいいんだって」  

 

 反応がどうにも鈍い真吾に窓音は少し苛立つものの、すぐに毅然とした表情に戻り、

 

「おじさんの一言があたしのボクシングのきっかけには変わりないんだから。だから、あたしおじさんに恩返ししたいの」  

 と言った。

 

「そっか……。じゃあ今日親父に会って窓音の口から直接言うか?」  

 

 窓音の真摯な思いが伝わったのか真吾の言葉にも嬉しさがこみ上がってきているようだった。

 

「うん」

 

「そうか。親父も喜ぶだろうな」  

 

 つい先ほどまで口喧嘩していたとは思えないほど二人はしみじみと話をする。

 

「ところで、竹屋君、さっき話の途中だったよね」  

 

 窓音が守の顔を見る。

 

「いや、もういいんだ」  

 

 守は口ごもり気味に答えた。

 

「そうなの?」  

 

 窓音は不思議そうに聞き返したが守からは返事がこなかった。窓音と真吾は幼馴染みで家も近所であり、二人が通学に使うバス停の前に付くと、守は彼らと別れ、駅までの道を進む。その道を地面を見ながら歩き続けた。  

 

 窓音君は真吾のジムか……。彼女がそういう決断をすることは予想出来たことだった。真吾の言うように彼の父が運営するジムは小さなジムで大きな実績もないが、窓音はそういうことを気にする人ではない。それよりも恩を大切にする人だと。その一方で、彼女の才能を自分がもっと伸ばしたいという欲求も守には強くあった。窓音が決断を下す前にもっと早くから説得していたらまた別の答えになっていたかもしれない。でも、それはもう過ぎたことだしそんな積極性も持ち合わせていなかった。悔いても仕方ない、気持ちを切り替えなければ。  

 

 パチンコの賑やかな音が横から聞こえ、駅前の商店街に辿り着き守はようやく顔を上げた。駅に着き、電車の定期を出そうとズボンの後ろポケットに手を当てたところで、守は目を見張った。駅の柱に見知っている顔があったのだ。彼女は三田詩恩。ブレザーの制服姿で柱に背中を預けたまま腕を組んでいる。こちらの視線に気付いた彼女は守の方へ向かってくる。神奈川の学校に通う彼女とこの場で合ったことは偶然と思えず、しかし彼女と話をしたことはこれまでに一度もなかった。

 

「竹屋守君」  

 

 詩恩に名前を呼ばれ、インターハイ女子フライ級準優勝の彼女が自分に用があるのだということが本当だったと分かり、守の動揺はむしろ高まった。守は口を噤んだまま小さく頷いた。

 

「わたしのことは知ってるでしょ?」

 

「あぁ……、三田詩恩さんだね」  

 

 守は慎重に言葉を発した。詩音の身体からはインターハイ準優勝を手にするに相応しい研ぎ澄まされた気が纏われているようだった。それでいて、彼女の顔は栗色の長い髪が良く似合う整った顔立ちをしていて、優美な気高さも放たれているように感じられた。守の動揺の中にどぎまぎした思いが混ざり合う。自身の胸の鼓動を感じている守に詩恩は言った。

 

「わたしのトレーナーになってくれない?」  

 

 夕暮れを背にした彼女の思いがけない言葉に守の胸の鼓動は速まるばかりであった。

 

 

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