第1話
汗が全身から止めどなく流れ落ちる。心地好い疲労感に包まれながら、美優はサンドバッグを叩いていた。これで三分打ちっぱなしの三セット目になる。
「美優~」
右隣から自分の名前を呼ばれた。このしゃがれた声は会長の声だ。美優はサンドバッグの揺れを両手で止めて右に振り返った。会長がいつもの無愛想な顔をしながら立っている。
「新しい挑戦をしてみねえか」
「挑戦?」
美優は目をぱちくりさせる。
「二階級制覇だよ」
「あたしがですか・・・?」
「うちでチャンピオンはお前だけだろ。他に誰がいるんだよ」
「なんかぴんとこなくて」
美優は右手を後頭部に当てて苦笑いを浮かべた。
「六度も防衛してるんだ。もうちょっとどんとしてろよ、チャンピオンらしくなぁ」
美優はもう一度苦笑いを浮かべた。視線を逸らしながら、会長の言葉を心の中で口ずさむ。
どんとね~。
意識してみたけれど、やっぱりぴんとこない。
なんかあたし変わらないなあ。会長の言うとおり、世界チャンピオンになって六度も防衛したっていうのに。
「実は挑戦者を探すのが難航しててな・・・。防衛戦全部KO勝利だろ。誰も受けたがらねえんだよ。だから、フライ級は卒業の時期だと思ってな」
「う~ん、でも・・・」
「なんだ、はっきり言えよ」
「出来たらこの階級で闘い続けたいです」
「なんだ、スーパーフライ級じゃ自信がないのか」
「そうじゃなくて・・・」
美優は口ごもった。ストレートに言うべきじゃないと思うものの、上手い言葉が思いつかない。
「なんだ?はっきり言ってくんねえとわかんねぇよ」
「いや、その・・・まだ闘いたい相手がいるから」
「あぁ、平瀬か」
美優はしゃきっと背筋を伸ばす。
「はい、そのみともう一度闘いたくて」
「しかしなぁ・・・平瀬も世界チャンピオンだからなぁ・・・」
会長が髪の毛をまさぐった。
「まぁいいや。お前の言い分は分かった」
会長はそう言うと、この場から離れていった。
「あっちょっと・・・」
美優が止めようとしたものの、聞こえなかったのか遠くに行ってしまった。
もうちょっと話したかったのに・・・。
美優は口をすぼめた。それから、ボクシンググローブを外して、白いタオルを手にして、頬に残っている汗を拭いた。
もう二年になるのか・・・。
二年前の夏、そのみと世界チャンピオンのベルトをかけて死闘を繰り広げた。試合に勝ってその後も六度の防衛に成功、そのみも九ヶ月前にWBAの世界チャンピオンになった。今ではお互いにチャンピオン。そろそろかなと思ってはいたけれど、会長に対戦したい相手としてそのみの名前を出したことで、そのみとの再戦への思いがぐっと高まった。
でも、試合をしたくてもあたしは待つ側だ。前回の試合で勝ったのはあたしだ。リターンマッチは勝った側が受けるもの。だから、そのみの方から申し出があるまではずっと待っているつもりだ。
とはいっても胸がもやっとしている。
この高まった気持ちどうしようかな・・・。
目の前にあるサンドバッグを見た。
これかな・・・と思った。
でも、それだとさっきまでの続きになる。気分転換になるのかな・・・。
美優は首をひねりながらもグローブを再びはめてファイティングポーズを取った。右ストレートを叩き込む。サンドバッグが大きく揺れ、重たい音が響く。
手応えは充分。気分は渋滞。かな・・・。
翌日。ジムで練習をしていた美優は、三分終了を告げる音が聞こえ、長い休憩を取ることにした。タオルで顔の汗を拭い取ると、目の前にはいかつい会長の顔があった。美優は仰け反り、声を出した。
「あ~びっくりした!」
「悪いな。それより平瀬そのみに試合のオファー出しといたぞ」
「えっ何で出してるの!」
思わず声が高くなった。
「試合したいんだろ」
会長は何言ってるんだこいつとでも言いたそうな表情でこちらを見る。
「何でこんな時だけ気をきかせるんだろ、もう~」
美優は両拳を握って縦に振った。
「それになぁっ、相手から待ってたらいつまでもスーパーフライ級のベルトに挑戦できねぇしな」
そう言って会長は美優の元から去っていった。このおじさんはいつも相手の返事を聞かずに行ってしまう。
美優は眉毛を斜めに釣り上げて背中を見続けた。ややあってから、溜め息をつく。
オファーしちゃったものは仕方ないか。闘いたい気持ちが高まってもいたし、会長の勇み足が結果としては良かったのかもしれない。
そのみにはフォローしとこう。デリカシーのないことしちゃったって。
二日後の夜、美優はそのみと出会った。場所はよく二人で訪れる馴染みの公園だ。美優とそのみが揃ってベンチに座った。そのみが美優の顔を見る。彼女は優しい表情で、
「どうしたの会いたいって」
と言った。
「あのねっ、試合の申し出なんだけど、ゴメンね、あたしの方からになっちゃって」
美優は少し硬くなりながら言った。言葉にするのに抵抗が出てしまう。たいしたことじゃなくても謝まるのって言いづらいなぁと思った。
「試合の申し出って・・・なんのこと?」
きょとんとした顔でそのみが聞き返した。
「なにってあたしたちの統一戦のことだよ」
美優が戸惑いながら言うと、そのみの顔が固まっている。
「もしかして・・・知らなかったの・・・?」
「うん・・・」
そのみの声は硬かった。
「おかしいなっ、会長ちゃんと伝えたのかな・・・」
美優は顎を人差し指で掻きながら首を捻った。
「あっ会長ってうちのね・・・」
美優は両手をせわしなく振りながら否定する。
「そうじゃないよ」
そのみが神妙な顔で言った。
「うちの会長がわたしに言ってないだけ」
「会長さん、なんで・・・」
「美優と闘わせたくないみたい。負けるリスクが高いってよく言ってたから」
そのみが目を瞑って言った。美優は目を見開いた。
闘いたくないって言葉がそのみの口からも出た・・・。
「そのみはどうなの。そのみもあたしが怖い?あたしと闘いたくない!?」
つい声が大きくなってしまう。そのみは首を横に振った。
「闘いたいよ。今すぐにでも試合したいくらい」
「だったらそのみから言えばいいじゃん」
「言ってるよ!一年前から何度も」
そのみが珍しく声を荒げた。
「一年前って・・・そのみがチャンピオンになる前から・・・?」
美優は目を丸くした。
「うん、本当はWBAじゃなくてWBC・・・美優のベルトに挑戦したかった」
そう言って、そのみは息をついた。
「でも、会長が同じ相手に三度も続けて負けるわけにはいかないって・・・まずはWBAのベルトを取って経験を積もうって言うものだから」
「そうだったんだ・・・」
「がっかりした?美優から逃げて他のベルトに挑戦して」
そのみが美優の目を見た。
「そんなことない。ぜんぜん逃げじゃないよ。そのみらしくないよ、胸を張りなよ」
美優の言葉にそのみは応じず視線を外した。
「わたし、会長には言うよ」
そのみはこっちを見てくれない。
「でも、期待はしないで」
そのみが立ち上がる。ようやくこちらを見てくれた。でも、その目はどこか哀しげだった。
「ゴメンね美優・・・」
「そのみ・・・」
第2話
休日の昼下がり。太陽が出ていて良い天気だというのに美優は家で頬杖をついてぼうっとしていた。はぁっと息が漏れた。
そのみと揉めてから一週間が経つのにいまだ彼女から連絡はない。統一戦の件どうなったんだろう。ダメだったとしても結果は伝えて欲しいのに。でも、あたしの方から聞く気にはなれないしなぁ・・・。
そのみのことが気になって何も手がつかない。
携帯電話の着信音が鳴った。手にしてみると、そのみからのメール着信だと分かり、唇を真一文字に結んだ。息を飲んでから、メールの内容を開いた。
”三時からテレ朝に出るから見てね。絶対だよ”
美優は脱力して後ろに倒れた。天井を見ながら、息をついた。
テレビってそれより先にあたしに伝えることあるんじゃない。
見るもんかと美優はごろりと腕枕に頭を乗せてふて寝をする。
あ~あ、テレビに出るってタレントじゃないんだから、ちょっと出過ぎじゃない。
いつもなら思わないことまで不満で出てしまう。
見るもんかと何度も口ずさみながらも、三時になると、気になってテレビをつけてしまった。たしか、マスコデラックスの部屋という生放送のトーク番組だ。前にゲスト出演するとそのみが言っていた。
画面には、そのみの姿が映っている。ソファーに座って、司会者のマスコデラックスと話をしている。
「あなた、ボクシングのチャンピオンなんですってね。普通の娘に見えるのにすごいわねぇ」
おネエキャラであるマスコデラックスが、カマ言葉で大げさに感嘆しながら話をふる。
「そんなことないです。それに、わたし一番強いわけじゃないですし」
そのみは温和な表情で応じるものの、その返答の内容には違和感があった。美優は起き上がり、テレビに集中を向ける。
「あらっ一番じゃないの?でも、あなたチャンピオンなんでしょ」
「ボクシングはメジャー団体が四つあるんです。だからチャンピオンも四人いて」
「そうだったの。でも、他のチャンピオンと同じくらい一番強いと思えば良いんじゃない。駄目かしら」
マスコデラックスが前向きな捉え方を促すけれど、そのみは首を横に振った。
「高橋美優選手も世界チャンピオンなんですけど、わたしは、二年前に高橋美優選手に負けているんです。だから彼女に勝たないとチャンピオンという気がしなくて」
美優がぐっと顔を前にのめりだす。
「そうなの。悔しい思いをしたわけなのね」
「あの・・・宣言させていただいてもかまいませんか」
胸の鼓動がどくんどくん高鳴る。
「あなた、意外と大胆なのね。好きにしてかまわないわよ」
そのみが真正面を見る。両腕を握って胸元まで上げた。
「美優~、わたしはあなたと試合がしたい。お互いのベルトをかけて統一戦をやろう!」
美優も目を輝かせながら、両拳を握った。
これってみんなが見てる前でのあたしへの挑戦状だ。
美優は立ち上がり画面のそのみに向かって心の中で応えた。
リターンマッチの申し出、ちゃんと受け止めたからね、そのみ。
第3話
「青コーナ~WBA世界女子フライ級チャンピオン~平瀬そのみ~!!」
盛大なコールを受け、そのみが右腕を高らかに上げた。観客からの声援が一段と高まるものの、彼女の表情は険しいままだった。
「赤コーナ~WBC世界女子フライ級チャンピオン~高橋美優~!!」
右腕を高らかに上げた美優にも場内からの歓声が一段と高まる。その量はそのみのそれを上回っていた。
二年前は逆だった。あの試合ではそのみへの声援が明らかに多かった。あれからWBCのタイトルを六度防衛して全ての試合でKOで勝ってきた。この二年間の闘いが支持されているのだと実感して、美優は頬を緩ませた。
「おい、にやついてるぞ」
隣から会長が背中を軽く叩いた。
「成長を実感してるだけです。ちょっとくらいいいじゃないですか」
美優は顔をしかめて会長を見る。
「勝ってからにしろ」
美優が「分かってます」と言って改めて表情を引き締めた。
レフェリーに呼ばれ、リング中央でそのみと向き合った。彼女の顔を間近でじっと見つめる。
この二年間で六度も防衛戦をこなしてきた。弱い相手なんていない。負けられない重圧がのしかかった中での試合の連続。でもあたしは勝ってきた。あたしは確実に強くなってる。
そのみはどれくらい強くなった?
これまでの防衛戦の相手はみんな強かったけど、負けそうだと思ったことは一度もなかった。そのみはあたしが唯一負けた相手でこれまで闘ってきた誰よりも強かった。そのみとならまた燃え焦がれるような試合が出来ると思う。
「良い試合をしようね、そのみ」
美優が話かけると、そのみは顎を引き目を瞑った。
「良い試合になるかは分からない」
「えっ・・・」
「勝つのはわたしだけどね」
そう言って、そのみが背中を向け青コーナーへ戻っていく。
なんだかいつものそのみと違う・・・。
そのみのそっけない対応に戸惑いながら美優も赤コーナーへと戻った。
会長からマウスピースを口にはめてもらい、気持ちを引き締める。
気にせずにあたしはあたしのボクシングをするだけだ。
試合開始のゴングが鳴った。
美優がベタ足で距離を詰めに出ると、そのみがステップしながら距離を取った。
また出ようとしたところにそのみの左ジャブが飛んできた。二発がガードの上から当たる。パンチの衝撃がおさまった頃には、そのみがパンチの射程距離から消えていた。
接近されるのを拒んでいるかのような闘い方だ。接近戦はそのみの距離でもあるはずなのに。
美優がダッシュして一気に距離を詰めて右フックを放つ。パンチはそのみの肩に当たり、彼女の身体が後ろへ大きく弾き飛んだ。クリーンヒットじゃないのに場内がざわめく。
「らしくないんじゃない、そのみ」
美優は挑発するが、そのみの表情に変化は見られない。
美優はまた大きくステップを踏んだ。
バシッ!!
そのみの左ジャブが美優の顔面を捉えた。美優はかまわずに距離を詰めてフックでたたみかける。
パンチを打ちながら、がっかりした思いが広がっていく。そのみのパンチ、全然効かなかった。出来もしないアウトボクシングであたしに勝つつもりなの。
そのみは打ち返さずにガードを固める。抱きつかれてラッシュを凌がれた。そのみの肌に触れたまま、美優は耳元で言った。
「そんな弱気な闘い方であたしに勝てると思う?」
そのみから返事はない。レフェリーに離されると、そのみはまた左ジャブを連続して放つ。美優は何発かもらいながらも距離を詰める。フックをガードの上から連続して打ち込んでいく。
言っとくけどねそのみ、あたしの接近を避ける闘い方をしてきた相手と何人も防衛戦をしてきたけど、みんなマットに沈めてきたから。
ラッシュに場内が早くも湧く中、美優は打ち返してきなよと心の中で強く発しながらそのみに向かってバンチを叩き込んだ。
左ジャブで接近を阻むそのみに左右のフックで攻めていく美優。クリーンヒットの数はそのみの方が目立つものの、美優がフックの連打を豪快に叩き込むたびに歓声が沸き起こった。ガードの上からとはいえ重く鈍い打撃音が響き渡る。一発でもクリーンヒットすればダウンするんじゃないかと思わせるほどの強烈なパンチに場内の熱が否応なしに高まっていく。歓声を呼ぶ美優の優勢で試合は進んでいるかのようにみえた。
しかし、4ラウンドに入った頃には場内の空気は一変していた。リングの上では、左ジャブのヒットする音が続けざまに響き渡る。ジャブとは思えないほどの強烈な音。それを物語るように頭が後ろに吹き飛ばされる美優。そのみが左ジャブの連打で美優を圧倒している。パンチが当たる度にガクガクと揺れる膝、霧状に舞っていく鼻血。あんなに勇ましかった美優が左ジャブだけでグロッギーに陥っている。信じがたいリング上の光景に場内は静まり返っていた。
バシッ!!
そのみの左ジャブがまた顔面に突き刺さり、美優がよれよれと後ろに下がる。そのみは深追いはしない。中間距離を守りながら冷静に相手の様子を見極めている。
「ぶふうっ・・・ぶふうっ・・・」
美優の顔からは鼻血が垂れ流れていて、呼吸も満足に出来ずにいる。瞼も頬も赤紫色に変色し、美優の顔面は痛々しくダメージが刻まれていた。
そのみの左ジャブがまた美優の顔面を捉えた。リングに響き渡る重く乾いた音。威力がないはずの左ジャブに美優の顔面が吹き飛ばされていく。
なっなんで・・・たいして効かなかった左ジャブで押されてるの・・・。
意識が朦朧としてきている中で美優は焦りを募らせる。
美優は反撃に出るが、逆にそのみの左ジャブが面白いように当たった。
美優がボクシングを出来ないまま、第四ラウンド終了のゴングが鳴った。
肩で息をする美優と颯爽としたたたずまいのそのみ。対照的な姿で二人はコーナーに戻る。
「まさかここまで作戦が上手くいくとは思わなかったな」
会長の上機嫌な言葉にそのみは険しい表情のまま頷いた。
「ええっ、彼女はまだ気付いてないです」
「第1ラウンドはジャブの威力をわざと下げ徐々に上げていく。そのみからこの作戦を提案された時は大きな賭けになると思ったんだかな」
「彼女の性格も計算した上です」
ジャブの威力を下げて油断させてジャブの威力を少しずつ上げていく。気付いた時にはダメージでジャブを避けられなくなっている。試合はそのみが考えた作戦通りに進んでいた。もうそろそろ美優も気付くかもしれない。でももう手遅れ。弱りきったその身体じゃわたしの本気の左ジャブは避けられない。
「高橋はもう立ってるだけでやっとだ。次のラウンドで倒してこい」
「油断は禁物です。彼女には何度も逆転されてきましたから」
「そうだったな。お前に任せるよ、好きにしていけ」
会長からマウスピースを渡され、そのみが立ち上がった。口にはめながら、まだスツールから立ち上がれないライバルを見つめる。
悪く思わないでね美優。これもボクシングの一つだから。
赤コーナーでは美優がロープに両肘を乗せ虚ろな表情で天を仰ぐ。
「おい聞けっ美優!平瀬はジャブの威力を上げてきている。もうあのジャブはもらうな!」
必死な形相で指示を出す会長の声が響く。でも何を言っているのかよく分からなかった。遠い出来事のように聞こえてしまう。
ジャブ?そのみのジャブがなに?別にジャブなんか効かないよ会長・・・。
美優は会長の指示を飲み込めないままインターバルの時間が終わり、虚ろな表情でコーナーを出た。
第5ラウンドが開始され、美優が一直線にそのみの元へ向かう。鈍くなった美優の前進をそのみの左ジャブが容易く止めた。
美優は一発の左ジャブだけで足元がふらついた。それでもまた前に出ていく。
そのみのパンチなんか全然効いてないんだから・・・。
美優の顔面にそのみの左ジャブが突き刺さる。深々とめり込むそのみの左拳。美優の足が止まった。一方で、そのみのジャブは勢いを増してマシンガンのように打ち放たれる。まるでパンチングボールのように四方八方へと顔面が吹き飛ばされる美優。完全に手が止まり、左ジャブ一本で好き放題に打たれ続けるチャンピオンの姿に場内からは罵声が飛んだ。
観客から非難を浴び、血飛沫を吹き上げながら打たれ続けるその様は惨めでしかなかった。
効いてない・・・そのみのパンチなんか全然効いてないよ・・・。
一方的にパンチの雨を浴び一発のパンチも返せない状況で美優はなおも強がる。ライバルを前にして意地で立ち続ける中、そのみがパンチのギアをさらに上げた。
ひねりが加わった銃弾のようなそのみの左ジャブが美優の顔面を打ち抜く。
ズドオォッ!!
鈍く重たい音が響き渡る。一発で美優の目が飛んでいた。
両腕のガードが下がり膝が折れ曲がりながらもそれでもまだ立ち続ける美優にそのみが左ジャブでなおも追い撃ちをかける。
あまりに一方的になった展開に「早く試合を止めろ」という声が起き始める。歓声と罵声が入り雑じり場内は騒然としていた。
無抵抗に打たれ続ける美優。セコンドが白いタオルを手にする赤コーナー。緊迫した時が過ぎていく中で、リングの上ではそのみのパンチだけが鳴り響いていく。
美優がぼろ雑巾のように打たれ続ける中、そのみのパンチの雨が止まった。レフェリーが割って入りそのみの身体を制していた。次の瞬間、美優が力尽きたようにゆっくりと後ろに崩れ落ちていった。
背中から倒れ落ち両腕がバンザイのように伸びている。目は虚ろとして、マウスピースがはみ出た口からは弱々しい呼吸が漏れる。
負けるもんか・・・。
意識が朦朧とする中で美優はまだ試合を諦めていなかった。でも、身体が全く言うことを聞いてくれない。天井の照明の光が眩し過ぎて意識が取られそうになる。
レフェリーのカウントが耳に入る。
「ツー、スリー!!」
まだ・・・まだ立ち上がれる・・・。
光が乱射している視界にひらひらと舞い落ちる白いものが映った。
かいちょう・・・あたし・・まだ闘えるのに・・・。
美優の気持ちが切れて、握りしめていた両拳が開いた。ダメージを堪えきれなくなり、身体が小刻みに震え出す。
白いタオルがキャンバスに落ちた。それと同時に試合終了を告げるゴングの音が鳴った。
「勝者平瀬そのみ!!」
レフェリーがそのみの名前を呼び、彼女の右腕を高らかに上げた。セコンドから一つのチャンピオンベルトを腰に巻かれもう一つのベルトを肩に持つそのみ。日本の女子で初めて世界のベルトを統一した歴史的な瞬間を目にした観客からは拍手が鳴り止まなかった。
そのみが感極まって涙を流す。勝者の美しい姿に拍手喝采は一段と大きく鳴り響き会場全体が温まる一方で、リングの片隅では倒れたまま痙攣が止まらない美優の対応に追われていた。会長や医師の呼び掛けに反応出来ずに上半身がぷるぷると震えるだけの美優。会長に口からマウスピースを出してもらい、セコンドについた後輩にボクシンググローブを外される。担架に乗せられた美優が弛緩した表情で笑みを浮かべ「もっと打ってきなよそのみ・・・」と呟いた。会長は「もういいんだ」と言って美優の右拳を左手で握りしめた。それでも、美優の口からは「そのみ・・・」と声が漏れた。
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