浴室から居間へ出ると、窓から西日がぬくもりの場をつくるように射していた。陽だまりが出来たところまでバスタオルで濡れた髪を拭きながら移動する。  

 

 青空の上に顔を出す太陽は街並みを元気よくみせる。でも、窓に映るあたしの顔は曇り空のよう。美優は髪をいっそう強く拭いて、タオルをテーブルの上に椅子に置いた。冷蔵庫からビールを取り出してタブを開ける。昼間の休日にビール。

 

「前から一度やってみたかったんだよね」

 そう言って、ビールを口にふくんだ。ごくとくと飲んで、ぷはぁっと声を上げた。

 

「生きかえるぅ~」

 そう言ってソファーに座った。

 

「そんなわけないか……」

 

 美優は両手でビールを持ちながら声を漏らした。顔を上げて居間の壁に付いている時計を見ると、時刻は三時を指していた。

 

 仕事が休日の日曜日はいつもならジムで練習をしている時間だ。そのみとの統一戦に敗れて一週間が経つ。病院で検査を受けて体に異常は特に見当たらずダメージももう残っていないけれど、会長から二週間は休めと言われている。それに美優自身もまだ練習する気にはなれずにいた。こんなこと初めてだ。初めてそのみと試合をして負けた時でさえすぐに練習を再開したいって思ったのに。どうしちゃったんだろうあたし、燃え尽き症候群? まさかこのまま引退とかね……。

 

 美優はソファーにもたれながら天井を見上げた。

 

 あれでも見ようかな……。

 

 美優は机の上に置いておいた一通の茶封筒を手にした。昨日、郵便で届けられたものだけど、封を開けずにそのままにしていた。どうせ中のものは分かっていたから。

 

 封を開けると、予想通り一枚のDVD、それと一枚の手紙が添えられていた。    

 

 

 体調はどうだい? 君のことだからいらないって言うかもしれないけど、いつもの約束だから今回も試合の動画を送らせてもらうよ。いつかこの映像が君の役に立つことを願っている。  

 

 来藤秀二  

 

 

 来藤はボクシング雑誌の編集者である。まだ四回戦の新人時代のころから目をかけてもらっていて、日本チャンピオンになった時に美優は思いきって来藤にお願いをした。編集部にある試合の動画を試合が終わるたびに渡して欲しいと。我儘なお願いしちゃったかなと思ったけれど、来藤は快く承諾してくれた。試合後の取材はいつも笑顔で頼むよと付け加えて。それ以来、美優の試合が終わるたびに来藤はその約束を守り動画のデータの入ったDVDを送り続けてくれている。

 

 美優はそのDVDを握ったままじっと見つめた。そのみとの試合を見る気にはなれないけど、見ないのもなんかしゃくな思いになる。  

“君のことだからいらないって言うかもしれないけど”

 

 来藤の手紙に綴られていた一文が心に引っかかったまま離れない。

 

 どうせ、あたしは小さい女ですよ。  

 

 試合の映像を見ようか迷っていると、家のチャイムが鳴った。扉を開けると、もじゃもじゃした癖っ毛の男、来藤が立っていた。

 

「やぁ、体調はどうだい?」  

 

 落ち着いた声で愛想よく挨拶する来藤に美優は頬を膨らませる。

 

「同じですよ」  

 

 来藤の目が点になる。

 

「手紙と挨拶が」

 

「ははっ手厳しいな」  

 

 来藤が苦笑する。

 

「ところで、試合の方はもう見たかい」

 

「どうせあたしのことですからまだ見てませんよ」

 

「そこかっ、君を不機嫌にさせてたのは」

 

 来藤が再び苦笑した。

 

「今日は何の用ですか?」

 

「昨日、平瀬君に取材に行ってね」  

 

 そのみの名前が出て、美優が真顔になる。

 

「取材を終えた時に、君に渡してくれって頼まれてね」  

 

 来藤はそう言って、CD-Rを美優に渡した。

 

「まぁ、ちょっとした動画だよ。取材を終えた時に頼まれて撮ったものでね」  

 

 そのみから? いったいなんだろう?   

 

 気になって、CD-Rを握ったままでいると、

 

「ところで、体調の方は大丈夫かい?」  

 と来藤から聞かれた。

 

「ええっ、病院の検査でも問題ないって言われましたし、そこは心配御無用です」

 

「そうか、ならいいんだ」

 来藤はそう言い、「君の再起戦楽しみにしてるよ」と言い残して、帰った。  

 

 美優は居間に戻って、渡されたCD-RをDVDのデッキに入れた。  

 

 再生された映像には、ジムを背景に白いTシャツ姿のそのみが正面を向いて映っている。練習を相当した後なのか、取材後でも彼女の頬は少し火照った赤色をしていた。

 

「美優、体調の方は大丈夫?」  

 

 映像の中のそのみはそう挨拶し、それから少し間が出来た。

 

「わたしはこれから四つのベルトを統一するから」  

 

 映像はその一言であっさりと終わった。  

 

 短い言葉だけど、その言葉は美優の心に深く刻み込まれた。

 

 ベルトの統一を彼女は宣言した。彼女はあたしとの統一戦に勝利して、さらに先へ向かおうとしているのだ。

 

 ベルトを統一して、でもそこであたしを待っているからという言葉はなかった。そのみはもうあたしをライバルと見なしてないってこと?

 

 そんな思いが脳裏によぎったけれど、美優はすぐに頭を横に振った。

 

 だったら、こんな動画をよこしてこない。ライバルのあたしに向けたメッセージ。でも、頂上の場でもう一度闘おうとは言ってこない。短い言葉の意味を美優は何度も何度も考え続けた。

 

 

 一週間が経って、ジムでの練習を再開した。「高橋、平瀬の左ジャブだけで敗れる惨敗」とボクシング雑誌では軒並み散々なことを書かれていたけど、さすがの美優も今回の惨敗にはこたえて、前から甘いと言われていたディフェンスを一から鍛え直すことにした。苦手なディフェンスをパンチ力を活かした攻撃でこれまでカバーしてきた。でも、そのみに勝つには、得意の攻撃を伸ばすよりまずディフェンス力を上げるしかないと思ったのだ。そう決めて、ディフェンスの強化に力をいれて練習の日々を送ったものの、心のどこかで穴が開いているような感覚がずっとあった。  

 

 そのみとの再戦に勝つ。それだけを目標にしていていいのかな。そのみは四本のベルトの統一に向けて先へ進もうとしているのに、あたしはそのみへの勝利にこだわっている。そのみにずっと先へ行かれてしまったような気がする……。  

 

 それと、心のもやもやは単にそのみへの対抗心だけじゃなかった。そのみから送られてきた動画を見てから考えるようになったのだ。  

 あたしはまだ24歳とはいってももうプロで25戦も試合をしている。いつまでも闘い続けられるわけじゃない。そろそろボクサーとしての終着点を見なきゃいけないのかなって。残されたボクサー人生の中で最終的に適えたい目標ってやつを。  

 

 そのみは四本のベルトの統一を宣言した。それは彼女が見出した終着点なのかもしれない。実際はどうか分からない。でも、あたしは彼女の宣言がきっかけでそう考えるようになったのだ。だから、彼女は頂上の場で待っているからとはあえて言わなかったんじゃないかって。  

 

 そのみは四本のベルトの統一をボクサーとしての終着点に決めたのかもしれない。  

 

 でも、そのみとの試合に敗れて無冠となったあたしもそのみと同じ思いを持とうと思うことは出来なかった。  

 

 まずはまた世界チャンピオンに返り咲かなきゃ。出来たら、そのみを相手にベルトを賭けて闘いたい。でも、それはボクサーとしての終着点じゃない。そのみがボクサーとしての終着点を見据えるようになって、でも、あたしはそのみとの再戦で勝利することにこだわっている。なんだか、そのみにだいぶ先を行かれたような気がして、このままそのみと再戦してもまた惨敗してしまうんじゃないかという気にさせられる。  

 

 あたしもボクサーとしての終着点を見つけなきゃ。そう思うものの、その終着点となる目標を見出せないまま、日々は過ぎ、その間にそのみは一度のベルトの防衛を果たした。練習を再開してから、5ヶ月が過ぎたころ、美優にも再起戦の話が会長から切りだされた。ボクサーとしての終着点の答えが出ていないとはいえ、再起戦の話となると、やっぱり心はときめく。

 

「誰ですか?」  

 と思わず会長に詰め寄って聞いたけど、会長の口から出された名前を聞いて美優はがっかりした。  

 

 まだ3戦しかしていない相手だっただからだ。

 

「あたし、仮にも元世界チャンピオンですよ。いくらなんでも3戦しかしてない新人は再起戦の相手に安牌すぎるんじゃないですか」  

 

 美優が不貞腐れ気味に言うと、強面の会長がさらに顔を強張らせて言った。

 

「いやっ、今回の試合は相手側からの指名だ」

 

「あたしを指名? まだ3戦しかしてない日本ランキング9位の娘が?」

 

「つまり、勝てるって踏まれたんだよ」  

 

 美優はかっとなって大声で叫びたい気持ちになったけど、ぐっと堪えて両手を腰にそえて言った。

 

「たった一度の敗戦であたしも安くみられたもんですね。いいですよ、世界レベルってのものをその娘に教えてあげますよ」

 

 

 満杯の観客で埋まった後楽園ホール。最前列の席に座る栗色のセミロングの髪をした女性の隣にもじゃもじゃの髪をした男性が立った。

 

「やっぱり、気になるかいライバルの再起戦は」  

 

 来藤がそうそのみに話しかけた。

 

「ええ」  

 とそのみは静かに答えただけだった。取材の時に気周りの利いた返事をしてくれる彼女にしては素っ気ない返事である。彼女の表情はライバルの再起戦を心待ちにしているものではなくどこか浮かなさがうかがえる。

 

「左ジャブだけで勝てたことが上手くいきすぎて信じられない。取材の時に君はそう答えた。その時の君の顔は嬉しさよりも心配そうに見えたよ」  

 

 来藤はそのみの方を見ずに言った。そのみからの返事はない。

 

「俺たちの心配が杞憂に終わることを願うよ」  

 

 来藤はそう言って、その場から離れた。

 

 

 会長の手で十分に開けられたロープの間をくぐり、美優はリングの上から周囲を見回した。これが今日のメインイベントの試合。タイトルマッチでもないのに後楽園ホールの観客席は満杯で埋まっている。前回、みっともない負け方をしたのにこれだけの観客がまだあたしに興味を持ってくれている。そう思うと、美優は嬉しくなり頬を少し緩ませた。

 

 リングサイドの観客席にそのみの姿を見つけた。ライバルの前で下手な試合は見せられない。勝利はもちろん十分な内容を見せて勝たなきゃ。美優の表情がぐっと引き締まる。  

 

 圧勝して勝って、それで、あたしも終着点を見つけたい。あなたに早く追いつきたいから……。  

 

 美優は視線を青コーナーへと向けた。対戦相手の東条怜美はコーナーポストに向いていて、トレーナーが彼女の背に手を当てながら顔を近づけて何やら話をしている。怜美はそれに対してトレーナーに対して顔を向けながらうんうんと首を何度も頷けている。  

 

 怜美のトレーナーは彼女の父であり元ボクサーだ。といっても日本チャンピオンにもなれずに引退した8回戦止まりのボクサーだった。ボクサーとして大成しなかった自身の夢を娘に授けたのかは分からない。でも、怜美は小学3年生のころからボクシングを始めてジムで父がトレーナーを務めて二人三脚でここまでやってきた。父はパッとしないボクサーだったけれど、怜美はアマチュアの全日本大会に出場して16歳ながら三位の好成績を収めた。それからプロに転向して6回戦でデビューしこれまで3戦3勝2KOの成績を残している。そして、プロ五戦目での世界タイトルマッチへの挑戦を視野にいれて美優を四戦目の相手に指名してきたらしい。それが来藤から教えてもらった怜美の情報のすべてだ。

 

 まだ18歳でもボクシングのキャリアの年数だけは美優と変わらない。でも、その九年間の内容の濃さはまるで違う。日本タイトル、世界タイトル合わせてタイトルマッチを十度以上経験しているのだ。これといった勲章がアマチュアの全日本大会三位だけの少女に負ける要素なんてこれっぽっちも感じない。親子鷹だか何だか知らないけれど、周りにおだてられてのぼせ上って自分の実力を過剰に見ているとしか思えない。プロのボクシングの厳しさを教えてあげなきゃ。

 

 試合前から抱いていた思いがリング上で親密に指示を与えている父と素直に耳を傾ける娘の姿を見てまた湧いてきた。

 

 美優は自身の内に高まった闘志を放出するように一度胸元で左右の拳をぼすっと合わせた。

 

「これより本日のメインイベント、女子フライ級10回戦を行います!!」  

 

 場内のアナウンスが始まる。

 

「青コーナ~田中ジム所属、3戦3勝2KO~日本フライ級9位~東条怜美~!!」

 

 怜美が右腕を上げて、観客席からまばらの拍手が起きた。親子鷹だからかマスコミの記事に取り上げられることは多いけど、まだ人気の方はそれほどでもない。日本ランキング9位のボクサーに過ぎないのだから当然と言えばそうだ。

 

「赤コーナ~村田ジム所属~25戦23勝2敗19KO~WBC世界フライ級3位~高橋美優~!!」  

 

 美優が両腕を上げると、観客席からは大きな歓声が起こった。

 

「待ってましたぁ!!」

 

「今日も派手なKO頼むぞぉ!!」  

 

 観客席からの威勢の良い声がいくつも届き、それは美優のボクシングそのもののようであった。  

 

 美優と怜美がレフェリーに呼ばれリング中央に向かう。  

 

 黒髪を左右に細いおさげにして束ねている怜美は身長が美優よりも5センチほど高いはずだが、対戦相手とリング中央で対峙しても下を向いて視線を合わせずにいるためか自分よりも大きいと美優には感じられなかった。  

 

 下を向いているから表情はよく分からないけれど、その仕草からは勝気なタイプと思えない。陣営が強気のカードを組んだといっても本人の性格はおとなしめなのだろうか。

 

「まだデビューして一年で世界ランク取りはこの世界を甘く見すぎてるんじゃない?」  

 

 美優は両手を腰にそえて言った。さらにプレッシャーを与えるために言ったつもりだった。だが、顔を上げた怜美の表情は不敵にも目が笑っていた。

 

「すみません、一番簡単に世界ランク入り出来そうな相手が高橋さんだったから」  

 

 怜美の不遜な物言いに美優はカッとなったけれど、それが声に出ないように堪えて、感情は伏せて強い口調で言った。

 

「口だけは立派なんだから。5Rもったら褒めてあげる」  

 

 怜美はくすっと笑う。

 

「何がおかしいのよ」  

 

 美優がイラっとした表情で言った。

 

「だから平瀬さんに完敗するんだって思って」  

 

 小馬鹿にしたような表情で怜美が続ける。

 

「早くに倒すことばかり考えてるなんて子供みたいな考えでよく世界チャンピオンになれましたね。現代のボクシングはフルラウンド闘うことを想定して試合に臨むもんですよ。KO決着は二人の力の差が大きくあった時にだけ起こるサービスポイントみたいなものです」

 

「判定を前提に闘おうって気? 若いのにつまらないボクシングしてちゃ先がないよ」

 

「高橋さんの考えが古いだけです。もっとも歳だから仕方ないことかもしれませんけど」  

 

 そう言って怜美が再びクスッと笑う。

 

「そうやって笑っていられるのも試合前だけだよ。どっちの考えが正しいか、10分後には答えが出てるはずだから」

 

「そうですね。試合後が楽しみです」

 

 年齢差は6。プロでの試合数の差は22。年は離れキャリアの差はなおのことであり、怜美が美優に胸を借りる立場であるはずだが、怜美は美優を前にしても堂々と口戦に応じる。リングの上に不穏な空気が流れ始める。新進気鋭の若手のボクサーと前世界チャンピオンの対決。世代交代なるかという謳い文句がボクシング雑誌の記事に書かれていたが、それは試合を盛り上げるために大袈裟に書かれたもので女子ボクシング関係者とボクシングファンの大半は高橋美優の勝利が揺るぎないものと見ていた。東条怜美も有望な若手であるが前世界チャンピオンである高橋美優にはまだまだ及ばないと。しかし、ボクシングファンはともかく関係者であるならばこの試合は東条怜美サイドから持ちかけられたものであることは周知の事実であった。ボクシング関係者たちはそこにこの試合に下剋上が起きる可能性があるのではないかという思いも僅かながらも抱いていた。しかし、その可能性が僅かながらにあったとしても下剋上が起きることを望むものはほとんどいなかった。高橋美優にはまだまだ日本女子ボクシング界を引っ張っていって欲しい。そう思わせるだけの華と実績が美優にはあった。  

 

 だから、これからおよそ14分過ぎに起きたリング上の光景に多くの者が言葉を失った。それは皮肉にも美優がKOを予告したリミットの第5Rに待ち受けていた。  

 

 運命のラウンドを迎える直前のインターバル。美優にとって怜美に言い放った予告KOのリミットとなるラウンドを次に迎える。予告KOを実現するためにも一層気合の入った表情をして闘志を高まらせている。そんな美優の姿はどこにもなかった。両目の瞼が水を含んだように膨らみ、両頬も痛々しくパンパンに腫れ上がっている。対戦相手のパンチを百発以上浴びて原型を留めないほどに醜く腫れ上がった顔。うなだれる様に下を向いて気だるそうにスツールに座っている。そこには元世界チャンピオンの面影はどこにも見当たらなかった。

 

「いいか!これ以上相手の左ジャブをもらうんじゃねぇ!!ガードだ、ガードをしっかりと上げて一発一発丁寧に返していけ!!」  

 

 会長が大声で美優に向かって指示を出すが、美優は朦朧とした表情で曖昧に頷くだけであった。勝って当然と思われた再起戦の試合での大苦戦に赤コーナー陣営に漂う悲壮感は観ている者の胸をつまらせる。  

 

 一方の青コーナーでは、トレーナーの怜美の父が上機嫌な口調で怜美に指示を与えている。

 

「まだまだ時間は十分にある。焦って倒さなくていいぞ。今のままじわりじわりダメージを与えていくんだぞ」

 

「分かってるパパ。でも、高橋さんはもう次のラウンドもたないかも。自分で予告したラウンドにKOされるの可哀想だけど、こればかりは仕方ないよね」  

 

 涼し気な表情でそう答える怜美の顔は試合前と変わらない綺麗な形を保っている。それもそのはずである。美優のパンチはまだ怜美の顔に一発も当たってないのだから。一発のパンチももらわずに百発以上のパンチを対戦相手に浴びせた。そのパンチの多くは左ジャブとはいえ、美優に蓄積されたダメージの量が相当のものであることはボロボロに変わり果てた美優の姿を見れば明白であり、怜美の技術が美優よりはるかに上回っていることを証明していた。  

 

 しかし、怜美のボクシングは左ジャブを中心に右のストレートを織り交ぜて当てていくきわめてオーソドックスなスタイル。その彼女のボクシングの生命線である左ジャブも国内ではトップクラスのスピードと威力を兼ねているものの、世界のトップクラスに比べるとまだ及ばない。これまで美優が世界タイトルマッチの防衛戦で闘ってきた相手と比べて彼女の方が優れていると感じる要素はどこにも見当たらなかった。  

 

 しかし、美優は第1Rから怜美の左ジャブを避けられずにいいように浴びていく。いつもよりガードを高めにしているのにそれでも怜美のパンチに反応出来ずにもらってしまう。その光景は前戦であるそのみとの試合の光景が再現されているかのようであった。  

 

 パンチの空振りを繰り返し一方的に対戦相手の左ジャブを浴び続け、ラウンドを重ねるごとにボロボロな姿に変わり果てていく。  

 

 もうそんな美優の姿は見たくない。観客の多くが願っていた光景が無情にもまた起きているのだった。しかも二戦続けて。  

 

 このまま終わらないで欲しい。一発のパンチ力がある美優ならここからでも逆転できる。一発のパンチさえ当たれば。観客の多くがそう願いゴングが鳴って開始された第5Rもその願いは虚しくも適わずに距離を取ってクレバーに左ジャブを打ち放つ怜美の左ジャブが美優の顔面に面白いように当たる。  

 

 第1Rから続く若手のボクサーにいいように翻弄される元世界チャンピオンの悲哀に満ちた姿。その悲しき光景にさらなる非情な変化が起きる。  

 

 怜美の左ジャブを浴びた美優の顔面が首で抵抗をする力を失ったかのように後ろへ激しく吹き飛ばされていった。

 

 一発、二発、三発。まるで右のストレートを受けたかのような美優のダメージの受け様。これまでいいように左ジャブを当て続けてもあくまで距離を取って自分の距離を保つことに徹していた怜美が前に出て行った。 距離を詰めて接近して左右のフックを浴びせていく。この距離は美優の得意とする間合い。しかし、怜美はもう美優に対して何の恐れも抱いてないかのようにパンチのラッシュを打ち放っていく。怜美に滅多打ちされ、サンドバッグのようにパンチを打たれる美優。ロープに詰まった美優はパンチを返すことも出来ずにただただ怜美のパンチを浴び続ける。

 

 たいしたことない相手なのに…負けられないよ、そのみが待ってるんだからあたしはこんなところで負けられない。

 

 ライバルへの思いが満身創痍の美優の意識をなんとかつなぎとめる。

 

 しかし、怜美のパンチのラッシュは止まらない。美優が怜美のサンドバッグになって20秒が過ぎた。

 

 そのみが立ち上がり、ロープを背負い滅多打ちされる美優に駆け寄った。悲哀に満ちたライバルの背からそのみが叫んだ。

 

「美優!!」

 

 パンチを浴び続け朦朧とした意識の中で届いたそのみの声に美優が心の中で受け答える。

 

 そのみ……あたしは絶対に勝つから心配しないで……。

 

 ライバルがいるからあたしは勝ち続けることが出来た。だから今日の試合だってあたしは負けない。試合に臨むたびに抱き続けていた思い。しかし————。

 

「美優~もういいから!!あなたは十分にもう闘ったから!!」

 

 そのみが発した言葉は美優を鼓舞する言葉ではなかった。タオルを投げたのはセコンドではない。ライバルであるそのみであった。

 

 その言葉が心の中で霧消していく美優はそのみ…と心の中で虚しさに満ちたように呟き、身体中の力が抜け落ちていった。

 

 両腕の力が無くなったファイティングポーズはそのグローブの重さにも耐えきれなくなり少しずつ下がっていく。上半身がスローモーションがかかったように前のめりに崩れ落ちていく。

 

 全身の力を失った美優に対して、ラッシュを怒涛の如く浴びせ続け闘志に満ち溢れた怜美がその勢いに任せて右のアッパーカットを打ち放つ。

 

 新進気鋭のボクサーが渾身の力を込めて放ったその一撃は、顎を捉え天にまで届くかのように伸び上がると、美優の足がキャンバスを離れ宙に舞った。ロープを背負ったその身体は真上へ浮き上がり、舞い上がる身体とは逆にだらりと下がった両腕が完全に打ちのめされたことを哀しくも物語っていた。

 

 白いマウスピースが鮮血に染まり、場外へと飛び落ちていく。マウスピースはそのみの横を転々と転げ落ちていく。浮き上がった身体が落ちていく美優が顔からキャンバスに沈み落ち、お尻が付き上がるように打ちのめされた姿を晒す。

 

 それは一つの時代の終焉を告げたのだと観ている者の胸に刻みつけさせる強烈な光景であった。

 

 白いタオルが赤コーナーから投げられ、レフェリーが試合を止める。

 

 カーンカーンカーン!!

 

 試合終了のゴングが鳴り、レフェリーから勝ち名乗りを受けた怜美が父親に駆け寄り抱き付く。満面の笑みを浮かべ、歓喜の言葉を父に何度も何度も言った。一方で会長の介抱を受ける美優は身体をぴくぴくと小刻みに震わせその瞳は何も映していなかった。劇的なKO劇が起きたというのにお通夜のように静まり返る場内は異様な空気に包まれ、歓喜する若き女子ボクサーと完全に打ちのめされてキャンバスに倒れたままの前世界チャンピオンの対比がこの試合がスポーツであるにも関わらずハッピーエンドを迎えなかったドラマのように観ている者の目には映るのだった。

 

 

 五日が過ぎ、ジムには真昼間からサンドバッグを叩く美優の姿があった。顔からはもう腫れも痣も消え両腕から放たれるパンチの音は重く威力十分であった。試合のダメージはもう感じさせない元気な姿である。美優は汗まみれになるだけに留まらずに床に汗の水たまりが出来るまでに一心不乱にパンチを打ち続ける。

 

 ジムの入り口の扉が開き、会長が中に入る。サンドバッグを叩く美優の姿を見つけた瞬間、会長は大声で叫んだ。

 

「何やってるんだ美優!!」

 

 会長の声に対して美優はサンドバッグを打つのを止めて、顔を向けて言った。

 

「病院の検査も大丈夫だったから早く練習再開したくって」

 

「ジムにはしばらく来るなって言っただろ!!」

 

「でも、早く身体を動かしたくてたまらなくて」  

 

 そう言って、美優はまたサンドバッグを打つのを再開した。会長が駆け寄り美優の両肩を後ろから掴む。

 

「美優!!」  

 

 会長が大声で言った。

 

「もういい、もういいんだよ。お前は十分に闘った。だからもういいんだ」  

 

 張り詰めた表情で言う会長に、美優は、

 

「だって…あたし…まだまだ闘いたいですから…まだそのみと……」

 

“あなたは十分にもう闘ったから“

 

 再起戦の試合で背後から言ったそのみの言葉が美優の心に蘇った。会長もそのみも同じことをあたしに言う。

 

「だって…あたしまだ……」  

 

 美優の口元が歪み両目から涙が零れ落ちる。留めていた感情がとめどなく溢れ出てもう言葉を出すことは出来なかった。

 

「美優お前はこれまでよく闘った。もういい、もういいんだ。リングにはもう上がらなくていいんだ」  

 

 美優の身体を抱き止めて優しく話しかける会長の言葉に美優は泣き続けた。

 

 

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