ピアノの音が綺麗に奏でられるジャズが流れる喫茶店。店内は壁もカウンターもテーブルも椅子もすべて濃い色の木製の素材で創られていて、クラシックな西洋の館を連想させる。カウンターの中には髪をオールバックに束ねた50歳過ぎの男と白のフリルの付いた上下黒の服にスカート姿のメイドのような恰好をした若い女性が一人。店のスタッフはその二人だけで50過ぎの店主である男はむすっとした表情でグラスを磨いており、客が二人店に入ってきてもその表情はまったく変わらなかった。対照的に隣の若い女性は笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶する。黒いショートカットの髪型に爽やかな笑顔を浮かべたこの女性はその笑顔のまま水を入れたコップをテーブル席に座る男女二人組の前に置く。可愛いらしい服装に可愛らしい笑顔。しかしながら、半袖のブラウスの先の腕は見事なまでの筋肉を纏い、スカートより下に覗かせる膝下の足もまた立派な筋肉が付いていた。可愛らしい顔をしているのに少々メイド服が似合わないこの女性は美優である。

 

 プロの女子ボクサーであった彼女に大きな転機となる出来事が1年2か月前に起きた。WBCの世界フライ級のベルトを6度防衛後、ライバルであるWBA世界フライ級チャンピオンであった平瀬そのみとの統一戦に完敗し、再起戦でもまだ3戦目の若手のボクサーに惨敗した。

 

 試合から五日後、ジムの会長から「お前の身体はもう限界まできている。身体に支障が出ないうちに止めるんだ」と引退を勧告され、美優は現役を退いた。それまで平日はアパレル会社の事務職の仕事を契約社員で勤めていたが、女子ボクシングを引退したのと同時期にその仕事も辞めた。

 

 第二の人生をどうしようかと悩んだ末に前から好きだった喫茶店を自分で開いてみたい思いにいたって、まずは勉強をと喫茶店でアルバイトの仕事をするようになった。店の名前はソナタ。この店を選んだ理由は美優が開きたいとイメージする洋風の雰囲気と近くて、そしてなによりガラスケースの中に並ぶケーキの数々が美味しいからであった。もっとも店主である木名は「喫茶店の一番の売りはコーヒーにある。決まってるだろうが」と面接時に志望動機を伝えた美優に一喝したのだが。そんなことがありながらも美優は募集していたウェイトレスとして採用された。

 

 採用されて働き始めてから一か月後になんで面接のときに一喝されたのにあたしを採用してくれたのか美優は木名に聞いてみたら、「そこまで立派な肉体をしていたら病気で休まれることもあるまい。肉体が健康であること、大いにけっこう」と褒めているのかよく分からない独特の言い回しでぶっきらぼうに言われた。これまでこの店でウェイトレスの女性が1年以上仕事が続いたことがないらしい。この愛想がなく女性相手でも間違ったことには平気で怒鳴るおじさんと平気で仕事が出来る女性もそうそういないと美優は店で働き始めて二週間でウェイトレスがすぐに辞めてしまう理由に気付いた。

 

 それでも、美優はこれまでジムでもっといかつい強面の顔をした会長に何度も何度も叱られてきたのだから、風変わりで不愛想な木名の接し方は気にならなかった。むしろ、口と愛想は悪いけれど、喫茶店の仕事に対して隅々まで考えていることに一緒に働けば働くほどに気付いて尊敬の念を抱くほどだ。だいぶ偏屈で怒りやすいしその怒るポイントもなんでそこでって思うことが多くてよく分からないし、叱られた時は勘弁してよこのおじさんとも思うのだけれど。

 

 男女のペアの注文を書き留めてカウンターに戻ろうとすると、また店の扉が開いて、美優は「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶をした。一人の男が店内に入り、その姿を目にした美優の目が大きく見開かれた。

 

 男はカウンターの席に座る。美優はすぐにまた笑顔に戻り男の前に水の入ったコップを置く。

 

「ご注文は何になさいますか?」  

 

 笑顔で尋ねる美優に対して、男はもじゃもじゃした髪の毛をまさぐって言った。

 

「ウェイトレスの仕事も様になってるね、美優君」  

 

 ふふっと笑う男に対して、美優は

 

「もう1年以上してますから」

 と答えた。

 

 もじゃもじゃした髪の男、来藤が言った。

 

「そうかい、元気そうで良かったよ」

 

「あたしはいつでも元気です」  

 

 美優は笑顔のまま答える。

 

「勝気なところも変わらないみたいだね」  

 

 来藤が再びふふっと笑った。

 

「あたしはどこでもあたしですから」

 

「そうかい。じゃあアメリカンを一つ頼むよ」

 

「かしこまりました」  

 

 そう答えて美優はカウンターの中に戻った。木名からアメリカンコーヒーが入れられて美優は来藤に対してカップを出した。  

 

 来藤はコーヒーを口に含み、「うん、おいしい。評判通りの味だ」と言ったきり、それから一言も発さなかった。  

 

 コーヒーを飲み終えた来藤が立ちあがり、入り口の隣にあるレジへと向かう。美優がレジに向かい、「500円です」と言った。財布から500円玉を出して置いた後に来藤が言った。

 

「今日の試合、君は観るのかい?」  

 

 来藤の言葉に美優は笑顔で「その時間はまだ勤務時間中ですから」とだけ言って答えた。

 

「そうか……」  

 

 来藤が入り口の扉に身体を向ける。それから顔だけを美優に向けて言った。

 

「その笑顔も良いけれど、リングの上で勝利した後の君の笑顔が今も心に焼き付いてるよ」  

 

 来藤はそう言い残して店を出て行った。  

 

 カウンターに戻った美優に木名が言った。

 

「知り合いかい?」

 

「ボクシング雑誌の記者さんです。現役の時にお世話になってて」

 

「気になって今の君を見に来たということか」

 

「さあ」  

 

 美優はおどけた表情に両方の掌を上に向けた。

 

「今日は早く帰ってもいいんだぞ。後片付けは俺一人でやる」

 

「えっ……」

 

「平瀬そのみの試合があるんだろ」

 

「木名さんも知ってたんですね」

 

「4つのベルトの統一がかかった試合。達成したら日本人で初めての偉業になるとニュース番組で何度も報道されていたらボクシングに関心がなくても頭に入る」

 

「そうですか……ニュースでそんなに報道されてるのか、すごいなそのみは」

 

「なんだ、知らなかったのか」

 

「テレビ、あまり観ないから」  

 

 美優は苦笑いを浮かべた。

 

「インターネットばかりしててもよくないぞ。知識が自分の興味あることばかりに偏る」

 

「ごもっともです」  

 

 美優は再び苦笑いを浮かべる。

 

「で、どうする? 早く帰ってもいいんだぞ」  

 

 美優は木名に向けていた顔を戻す。

 

「いえ、いいんです。もう過去のことですから。今はこの仕事の方があたしには大事だから」  

 

 そう言って、美優は汚れたカップの水洗いを始める。

 

「そうか」  

 

 それっきり、ボクシングの会話は二人の間でされなかった。カップを洗う美優にいつも元気さはない。カップに目を向けていながら何も見ていないよう。それはウェイトレスの仕事時に初めて見せた姿だった。

 

 

 

 店内の時計の針が午後の9時を指し、美優は店の外に出て扉に閉店の札をかけた。店に戻り、店内の掃除を始めようと美優が雑巾を手にした。店には美優一人きりだった。閉店時間の10分前。すでに客がいなくなった中、木名は「ちょっと用事があるから出てくる。閉店時間になったら後片付けをして終わったら先に帰っていいぞ」と言い残して出て行った。

 

 そう言われても店の鍵を持ってないしかけないまま帰るのもどうかなぁと思いながら、美優は木名が店を出て行くのを見守った。  

 

 ちょっと出て行くってどれくらい出るんだろう。10時過ぎても帰ってこなかったら流石に帰っちゃおうかな。  

 

 そう思いながら、一人閉店の時間が来るのを待ち続けた。そして、閉店時間が過ぎて、店内の掃除を始めて今にいたる。店に流れていたジャズの音楽も止めて一人で黙々と作業を続けるものの、テーブルを拭けば拭くほど、店の中は綺麗になるのに美優の頭の中は悶々としていく。

 

 来藤さんが客として来なかったらそんなことにはならなかっただろうか?

 

 美優は首を横に振る。来藤と会ってその話題を振られようとも前から意識はそこにずっと向けられていた。  

 

 美優が現役を引退した二か月後、女子ボクシングで大きなイベントが開催されることが発表された。日本で最も人気のある階級である女子フライ級で世界のトップクラスの選手を集めた8名のトーナメントを日本のイベント興行会社が開催することになったのだ。  

 

 これまでも男子で同じように世界のトップクラスを集めたボクシングの世界規模のトーナメントが開催されたことはある。しかし、トップクラスの選手を集めいろんなしがらみがある中で興行を開き黒字を出すことは難しく、後が続かなかった。

 

 そんな背景がありながら日本のイベント興行会社が今回、また世界規模のボクシングのトーナメントを開催しようと決めたのは、そのみの存在が大きかった。日本人の女子ボクサーとして初の世界の二つのベルトを統一した。それだけに留まらずにアイドルと見間違えるほどの可愛らしいルックスをしていて、テレビにも時折出演している。CMも2社と契約していて、女子ボクシングが興行として男子に比べてだいぶ劣っていながらもそのみの知名度だけは男子の世界チャンピオンと比べても遜色なかった。日本の男子の世界チャンピオンは現在六人もいるのだから世界チャンピオンといっても知名度には大きな差がある。その中でそのみは女子ながらも男子の世界チャンピオンの中に入れてもトップクラスに近い人気を誇っていた。

 

 だからこそ、今がチャンスだとばかりにイベント興行会社が仕掛けてきたのかもしれない。高い人気と実力を持ったそのみが世界のボクシング団体の四つのベルトを統一したら国民的なスターになるかもしれない。それこそ、女子テニスで世界ランキング一位になった選手と肩を並べるほどの。  

 

 WFBTと名付けられたこの大会にはWBA・WBCの世界チャンピオンであるそのみはもちろん、WBOの世界チャンピオンもIBFの世界チャンピオンも参加した。さらには下の階級の元世界チャンピオンも階級を上げて二階級制覇を狙って参加するほどの豪華な顔ぶれとなった。

 

 一回戦でそのみは元WBCライトフライ級チャンピオンのステファニー・ラウファーと闘った。そのみはその試合に8RでKO勝利し、準決勝ではIBF世界チャンピオンのソフィア・マーガレットと自身のWBAとWBCの二つのベルトを賭けた試合を行い、判定で勝利を収めた。この時点でそのみはWBAとWBCとIBFの三団体のチャンピオンになる。その時点で日本人の男子選手にも出来なかった三団体のベルトを同時に持つ偉業が達成されたのだが、トーナメントはまだ終わりを迎えていない。  

 決勝戦の相手は準決勝でWBO世界チャンピオンに勝利したイギリスの新鋭アイラ・マーティラ。12戦全勝10KOとまだ負け知らずで年齢は20歳。ショートカットのブロンドヘアが似合う若き女子ボクサーと4つのベルトを賭けた試合を行うことになった。

 

 美優は一回戦も準決勝もそのみの試合は全部観ている。どちらもそのみの快勝といってよい試合だった。美優と闘った時よりもそのみはさらに強くなっている。でも、そのそのみの姿を観ても悔しいとは思わなかった。素直におめでとうとそのみの勝利を祝福していた。自分自身の中に嫉妬の思いが全くないことに気付いて、美優は自分がもう女子ボクシングに全く未練がないことを実感した。もう自分が現役に復帰することはない。いや、もう身体が無理な状態なのだからしたくても出来ない。だからこそ、嫉妬の思いがなかったことに美優は安堵した。心からそのみを応援して、自分は今の仕事に打ち込むことが出来る。

 

 しかし、美優は来藤に対して嘘をついた。

 

 そのみの試合を観るのかと聞かれて、その意思はないことを告げた。正確には「その時間は勤務中ですから」と言っただけで、観ないと言ったわけではない。でも、そう答えられたら相手は観る気はないのだと受け取るだろう。

 

 美優はビデオに録画をしていた。仕事が終わって帰ったらそのみの試合を観るつもりだった。それまでインターネットはせずに余計な情報はいれない。一回戦も準決勝の試合もそうしてきた。そして、今日も。そのはずだった。

 

 でも、そのみの決勝戦の試合が気になって頭から離れられない。ウェイトレス失格だと思いながら、スマートフォンをバッグから取り出して、テレビをつけた。

 

 わぁぁっという大歓声が響いて、美優がどきっとする。

 

 試合どうなったの? もしかしてもう終わっちゃった?

 

 思わずスマートフォンを顔に使づけて凝視する。 画面にそのみの姿が映し出される。そこにはキャンバスに尻もちを付いているそのみの姿があった。レフェリーがカウントを数えている。

 

「立ってそのみ!!」

 

 美優は思わず画面に向かって叫んだ。そのみが右拳をキャンバスに押し付けながら下を向いたまま動けずにいる。レフェリーのカウントが進む。カウントが8を数え上げられたところでそのみが勢いよく立ち上がり、ファイティングポーズを取った。場内の歓声が一層高まる。

 

 試合が再開され、アイラが一気に詰め寄ってきた。その勢いのままにその場に立ち尽くすそのみにラッシュをかける。そのみはガードを固め防戦一方となった。相手の圧力に押されロープを背負い、相手の攻撃はさらに激しさを増す。がっしりとガードを固めているものの、アイラのパンチが何発もそのみの身体を捉えた。その度に重いパンチの音が響き、そのみの身体が激しい捻じれを起こす。

 

 アイラのパンチ力の凄さがスマートフォンの小さな画面からも伝わってくる。もしかしたら現役時代のあたしよりも上かもしれないと美優は胸の中が心配の思いで埋め尽くされる。

 

 カーン!!

 

 ラウンド終了のゴングが鳴った。

 

「ここで第2R終了のゴングが鳴りました!!平瀬、ゴングに救われました!!」  

 

 アナウンサーの実況で、美優は試合がまだ第2Rが終わったところであることを知る。

 

 まだ2Rだっていうのにもうそのみがダウンしたっていうの? 

 

 そんなに早くそのみが倒された試合なんて記憶にない。アイラの実力がそれだけ高いってこと? テレビ中継を観るほどに心配の思いが高まっていき、美優はアナウンサーにもっと状況を説明してよと願った。

 

「第1Rは良い立ち上がりだったと思うんですけどねぇ。左ジャブが良く冴え渡っていた。しかし、たった一発のパンチで試合をひっくり返すのですからアイラのパンチ力は驚異的ですよ。ダメージを抱えた次のラウンドをどう凌ぐかにかかってますよ」  

 

 解説者の説明で美優は試合の展開をある程度把握する。そのみは距離を取って左ジャブを中心に組み立てるボクシングをしたようだ。そのみはインファイトを得意としていたけれど、美優との試合以降、ミドルレンジで左ジャブを中心に闘う闘い方にチェンジした。そのみは強打の持ち主だったけれど、得意のパンチは右ストレート。ある程度パンチを放つのに距離を必要とする右ストレートを活かすには接近戦は相性が良くないのではないかと指摘もされていた。しかし、そのみも美優ほどでないにしてもディフェンスも左ジャブもあまり得意としていない。フィニッシュブローは違えど、二人は似た者同士ともいえた。そのそのみが美優との4度目の試合を機にボクシングの闘い方をがらりと変えた。試合で距離を取って闘われた時はがっかりした思いを抱いたけど、結果として美優は完敗した。  

 

 そして、それ以降の試合もそのみはミドルレンジでの戦い方に徹していて世界の猛者相手に白星を重ねている。闘い方をチェンジしたことは成功したのだ。そこにいたるまでにそのみがどれだけの努力を重ねたのかは分からないけれど、血の滲むような努力を重ねたにちがいない。  

 

 これまでの闘い方を捨てて新しい戦い方に挑戦する。それは勇気のいることでとてつもなく大変なことである。しかし、彼女は結果を出した。試合をして拳を重ねた当初、そのみの引け越しの闘い方を軽蔑した自分が今となっては恥ずかしく思えてくる。  

 

 第3R開始のゴングが鳴った。そのみの足取りからは重たさは感じられずに距離を取って左ジャブを放つ。闘い方のスタンスは変わらない。それに対してアイラは頭を振って巧みにかわしていく。そのみはタイミングを見計らって得意の右ストレートも放つが、アイラは驚異的な身体能力でかわし、そこから身体中のバネが連動するような異次元ともいえるほどの躍動感に満ちた動きで距離を詰めて反撃のパンチをそのみに打ち込んでいく。身体能力で劣る日本人では到底出来ないような力強さと柔軟性に満ち溢れた動きだ。左のボディブローをそのみの身体にめり込ませ、そのみが「がはあっ」と苦悶の声を上げる。  

 

 その攻防を見ただけで、アイラの実力が只者でないことが嫌というほど伝わってきた。  

 

 美優の心配はさらに高まっていく。そのみのボクシングがアイラに通用していない。こうして観ているとそのみが勝てる要素がどこにも見当たらない。  

 

 美優の懸念が望んでもないのに当たっていき、試合はアイラのペースで進んでいった。  そのみの左ジャブもアイラには当たるけれど、単発に終わり、一発の威力が激しいアイラのハードパンチを受けるたびにそのみが悶絶した表情を浮かべる。  

 接近戦になったらそのみも打ち返したら良いのにと美優は思うものの、そのみはなぜか得意の接近戦に応じない。要所要所で反撃し、クリンチをして凌いでいる。  

 

 左ジャブを避けられて距離を詰められたそのみはアイラのパンチの雨に晒されるもののまたしてもクリンチでピンチを逃れた。  

 

 そこにWBA・WBC・IBF統一王者の風格は見当たらない。そのみが圧倒的に有利と前評判で言われていた試合で番狂わせが起きるのではないかという空気がラウンドを重ねるごとに増していく。一度掴まれた試合の流れはなかなか奪い返せるものではない。  

 

 レフェリーが二人の身体を離して試合が再開される。再び距離が開く。そこはそのみの間合いだ。しかし、アイラは苦手な距離を苦にもせずに容易く距離を詰められる技術を持っている。そのみが左ジャブを打っても容易に避け距離を詰めてラッシュを何度も浴びせてきた。二人が中間距離で見合っているものの、何度も繰り返し起こされた嫌な展開がまた起きるのではないかという気にさせられる。  

 

 その時、高らかな打撃音が響いた。  

 

 ズドオォォッ!!  

 

 右ストレートが鮮やかに対戦相手の顔面を打ち抜いている。めり込んだ拳に頬が膨張し、アイドルと見間違えるほどの美貌を持った顔は悲惨な変形を遂げていた。  

 

 会心の右ストレートを打ち込んだのは、そのみではなくアイラであった。そのみのお株を奪う右ストレート。赤い弾丸がぶち込まれたように凄まじい衝撃が生まれ、激しく吹き飛ばされたそのみの顔面は目を背けたくなるほどの醜悪な変形を起こしている。黒い瞳の消えた目と潰れた鼻。弛緩したように緩みきった口の端からは唾液が糸を引くように吹き出ていく。

 

 そのみの得意のパンチである右ストレートを上回るアイラの右ストレートのインパクト。 そのみはばたりと大きな音を立てて背中からキャンバスに倒れ落ち、両腕はバンザイし、天井を向いたその目はもはや何も映していない。  

 

 終わってしまった。日本で開催され観客の多くを占める日本人はそう感じ取り、ダウンシーンだというのに静まり返ってしまった。そんな中でアイラは勝利を確信したようにニュートラルコーナーで右腕を観客席に向けて上げる。

 

「そのみ立って!!お願いだから立って!!」  

 

 場内が静まり返る中で、美優だけがただ一人大声で叫びそのみを鼓舞する。会場にいないのだから届くわけがないのに声に出さずにはいられなかった。  

 

 その声が届くはずはない。でも、そのみは対戦相手の会心のパンチを浴びながらもカウント9でかろうじて立ち上がってきた。  

 

 試合は再開されるものの、満身創痍のその身体はその場から動けない。でも、目だけは極度の疲労とダメージに襲われながらも闘志に満ち溢れていると美優は感じた。WBCの世界のベルトを賭けて闘った時も、会心のパンチを当ててもそのみの目から闘志の火が消えることはなかった。そして、会心のパンチを当てたのに全身全霊が込められた右ストレートを返されて美優は場外まで身体を吹き飛ばされた。  

 

 綺麗な顔をしていて大人しそうな顔をしているのにその内に秘めた闘志は誰よりも強い。四度もリングで拳を交えた美優がそのことを一番知っている。だから、そのみは負けない。まだ負けることの辛さも知らない若手のボクサーにそのみが負けるはずがない。  

 

 大和魂対才能の塊の闘い。日本人の誇り高き精神を持ったそのみが負けるはずがないんだ。美優は心の中で叫ぶ。  

 

 しかし、リング上では無情にもアイラのパンチがサンドバッグのようにそのみの身体に打ち込まれていく。  

 

 滅多打ちを浴びるそのみ。得意としていた接近戦でも完全に手が出なくなり、サンドバッグのように打たれるだけとなったそのみの姿に絶望感が限界まで増していく。  

 

 もうだめなのかもしれない。  

 

 美優までもがそう思いかけたその時、重く響く嫌な音が生じ、アイラのラッシュが止まった。そのみの左のボディブローがめり込まれたアイラの身体がくの字に折れ曲がり、その顔は目の瞳が上を向き、マウスピースが口から零れ落ちそうなほどにはみ出ていた。そして、マウスピースがもっこりと出た唇の端からはぼたぼたと涎が垂れ落ちていく。  

 

 くの字に折れ曲がったアイラがその態勢のまま一歩、二歩と後退していく。その瞬間、そのみが身体をぶつけるような勢いで右ストレートを放った。  

 

 グワシャアァッ!!  

 

 そのみの右ストレートがアイラの顔面を打ち抜き、アイラの身体がキャンバスを離れ、吹き飛ばされるように背中から倒れ落ちた。  

 

 レフェリーがダウンを宣告し、カウントを数え始める。リング中央に仰向けに倒れたアイラは両腕がバンザイをし、身体はぴくぴくと小刻みに震えていた。レフェリーのカウントが数え上げられていく。

 

「ナイン、テン!!」  

 

 テンカウントが数え上げられ、試合終了のゴングが鳴った。  

 

 カーンカーンカーン!!  

 

 その瞬間、美優はガッツポーズを取ってやったぁと自分のことのように大声を出した。  

 

 新たにIBFのベルトをセコンドによって腰に巻かれたそのみがアナウス譲のインタビューに答える。

 

「アイラ選手が強すぎて何度も駄目だと思いましたけど、皆さんのご声援のおかげでなんとか勝てました。ありがとうございます」  

 

 そのみの言葉に場内が応えるように一段と盛り上がっていく。インタビューはその後も続き、今後の展望についての質問になった。どんな質問もすぐに礼儀正しく答えていたそのみだったけれど、この質問にはなかなか答えない。少し下を向いて何か考えているようだった。  

 

 ようやく顔を上げたそのみは、

 

「WBA、WBC、IBF、WBOのベルトを四つ統一出来て感無量です。やりきった感がとても強くて、次の防衛戦を最後の試合にしたいと考えています」  

 

 興奮しきった気持ちでそのみのインタビューを聞いていた美優の思考がその瞬間止まった。  

 

 そのみが次の試合を最後に引退する? なんで、せっかく4つのベルトを統一したっていうのに。終着点となる目標を達成できたらからもうボクシングはいいの? そのみのボクシングへの思いはその程度のものだったの?  

 

 なんだかとても虚しい思いに襲われた。あたしは試合がしたくても出来ないっていうのにそのみは目的を達成したらあっさり引退を表明するなんて。応援してきたファンにだって失礼だよ。  

 

 ボクシング中継が終わり、美優はしばらく呆然と立ち尽くしていた。  

 

 やがて、美優はその場でパンチを打ち放つ行動に出た。身体を動かしながらリズムよく左右のパンチを打ち放っていく。それはシャドーボクシングといってよかった。  

 

 嫌な時はこうしてパンチを放っていると忘れることが出来る。昔からの癖はボクシングを引退した今も忘れない。  

 

 そうして、5分が過ぎた。  

 

 そのみが引退する。もうそのみとは永遠に試合が出来なくなるんだ。そう思って、すぐに苦笑する。  

 

 何を言ってるんだろうあたしは。もう一年も前に現役を引退してボクシングも出来ない身体になっているっていうのに。  

 

 でも、虚しい。あたしはボクシングをもうできないけれど、そのみも引退してしまったら、リングに置き残した思いはもう永遠に適わなくなる。そのみが引退しようとあたしの身体がこんなんじゃ適うことは絶対にないって分かってるのにでも、無性に悲しくなる。  

 

 なんでなの!!   

 

 美優はまた一心不乱にパンチを打ち放ち続けた。そうしてないと心の中がどうにかなりそうだった。

 

「まるで現役のボクサーのような動きだな」  

 

 そう声をかけてきたのは木名だった。シャドーボクシングに夢中になって、木名が店に戻ってきたことに気付かなかった。

 

「木名さんはボクシングの素人だからそう感じるだけでもう1年前に引退したんですよ。あたしの動きなんてぜんぜんですよ」

 

「素人だってしょっちゅう見てたら分かるさ。君のシャドーボクシングはこの一年でどんどん良くなっているじゃないか」

 

「見てたんですか……木名さん」

 

「あぁ、君が店の後片付けが終わった後に時折シャドーボクシングをしていたのを店の奥からこっそり見させてもらっていたよ」

 

「すみません、つい……」  

 

 美優は赤面して頭を下げた。

 

「君は今日限りクビだ。明日からもう来なくていい」

 

「そんなっ、店の中でシャドーボクシングをしていたことは謝りますからクビにだけはしないでください!」  

 

 木名が首を横に振る。

 

「君は店が終わった後、電車にも乗らずに走って家まで帰ってるだろう。2時間はある距離をなぜそうしてる?」  

 

 木名の指摘に美優は下を向いて口ごもる。

 

「君は今も一人で練習を続けているんだろう。その立派な肉体が今も変わらずに維持されているのを見たら分かるさ」

 

「それは……ただ身体を動かさないと気持ちが悪かったから……」

 

「君の気持ちは今もリングにある。喫茶店に本腰を入れて仕事を出来ない人間を置いておくことは出来ない。それがクビの理由だ。君は君がいるべき場所に戻るんだな」

 

「戻りたくても戻れないんです!!だってあたしの身体はもうボクシングが出来なくなってるから!!」

 

「本当にそう思ってるのか?1年2か月前はそうだったのかもしれない。でも、人の身体は回復していくものだ。もっとも素人の僕が必ずしもそうだと責任を持っていえるものじゃない。ともかく、今の君をここで働かせるわけにはいかない。もう一度自分の気持ちに向き合ってみるんだな」

 

「分かりました、木名さんがそう言うなら……」  

 

 美優は沈んだ声でそう言い、 「木名さん、1年2か月の間お世話していただいてありがとうございました」

 

 頭を下げた。

 

「失礼なことを言ったが、君の1年2か月の仕事ぶりには感謝をしている。今日で最後になるがもし次会うことがあったらもっと君らしさを感じる笑顔を見たいものだな。それがテレビの画面の先でもかまわない」  

 

 美優は頭をもう一度下げて店を出て行った。  

 

 暗い夜道の中で美優はそのみのことをずっと考え続けていた。次がそのみの最後の試合。それは気持ちを沈める出来事。でもだったら、あたしが挑戦者に名乗り出たらそのみともう一度だけ試合が出来る。そう思った途端、深い闇の中で希望の光が射してきたように感じられてきた。  

 

 

 

 次の日、美優はジムに1年2か月ぶりに顔を出した。美優の姿を見た会長が「どうしたんだ?」と戸惑い気味に声をかけてきた。いつも威勢の良い会長からはめったに見られない反応だ。突然、訪れた美優に会長は嫌な予感を抱いたのかもしれない。

 

「会長、あたしを現役復帰させてください」  

 

 美優は会長の前で深々と頭を下げた。

 

「昨日の試合、観たのか?」

 

「はい」

 

「平瀬が次の試合で引退すると知って居ても立っても居られなくなったのか」  

 

 会長の指摘に美優は素直に頷いた。

 

「そのみの最後の試合の相手をどうしてもあたし務めたいんです。リングに残してきた思いを適える最後のチャンスだから」  

 

 会長は頭頂部に頭を当てて渋い顔を見せる。

 

「最後の試合の対戦相手と言ってもなぁ、お前の身体はもう限界がきてるし1年2か月も現役を離れてるんだ。平瀬の相手になるわけないだろう」  

 

 会長の言葉を聞いた美優はその場から移動してサンドバッグの前に立った。そして、右ストレートを打ち込んだ。  

 

 ズドオォォッ!!  

 

 サンドバッグが大きく揺れ動く。その揺れは今まで見たこともないほどの激しさだった。美優が会長を見る。

 

「これでも、そのみの対戦相手が務まらないと思いますか?」  

 

 会長の表情は固まっていた。それからしばらくして口を開けた。

 

「お前、この1年2か月トレーニングをしていたのか?」  

 

 会長の問いに美優は「はい」と答えた。

 

「一日3時間のロードワークと1時間のシャドーボクシングだけですけど」  

 

 会長が美優の側に寄り、足に触れる。太もも、ふくらはぎ一つ一つの筋肉を確かめていく。

 

「現役の時以上に良い筋肉しやがって」  

 

 会長はそう言って両腕を組んだ。

 

「分かった、しばらくジムで練習していいぞ。それで身体の状態が全盛期の時に戻っていると判断したら1試合だけ試合を組んでやる。もっとも平瀬サイドが了承するか分からんけどな」  

 

 会長の言葉に美優は頬を緩ませて言った。

 

「ありがとうございます、会長!!」  

 

 

 

 一か月が過ぎ、美優の身体の状態に問題はなく動きも全盛期に近い状態に戻っていると判断した会長はそのみが所属しているジムに試合のオファーの打診をした。美優にその旨を伝えて戻ってきた会長は口を真一文字に結んでいて渋い表情をしている。もっともよくそういう表情をしょっちゅうしているので、この時の表情が何を意味するのか、長年時間を共にしてきた美優にも判断が付かぬことだった。どうだったんだろうとドキドキしながら会長の言葉を美優が待っていると、美優の前に来た会長は、

 

「1年以上現役を離れていた選手と試合は出来ないと言われたよ」  

 と言った。

 

 会長の言葉に美優はがっくりとうなだれる。  

 

 そうだよね。ライバルといっても1年と3か月も試合をしてないんだもん。最後の試合に相応しい相手だと認めてはくれないよね。

 

「ただし、条件があった」  

 

 続けて発せられた会長の言葉に美優が顔を上げる。

 

「えっ?」

 

「平瀬の引退試合は、WBC1位の東条怜美と交渉が進められていたらしい。東条と試合をしてその試合に勝利をした方を引退試合の相手に指名する。それが平瀬陣営が出した回答だ」  

 

 限りなくゼロに近いと思っていた道は閉ざされていなかった。いや、道を開けてくれたそのみに感謝しなきゃ。そのみ、待っててよ。あたし、あなたの最後の試合に相応しい身体に絶対に仕上げてあなたの最後の試合のリングの上に立ってみせるから。

 

 

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