女子ボクシングの興行であるのにその舞台は代々木第二体育館が用意された。収容人数4000人を超える大きなホール。大きな会場であるにも限らず観客席は満杯で埋まっている。

 

 本日の主役である二人の女子ボクサーがリングに並び立つ。WBC世界ランキング1位の東条怜美とWBC世界ランキング12位の高橋美優。世界ランカー同士とはいえ世界タイトルマッチでもない女子の試合としては異例の規模の会場を決戦の場に用意されたのには、この試合が4冠統一王者である平瀬そのみの引退試合への挑戦の権利がかけられていることが大きかった。そして、もう一つ。東条怜美と高橋美優の試合が再戦であることも注目を集める要因となっていた。高橋美優を一度は引退においやった因縁の相手とのリマッチ。この一年半で二人の立場は大きく逆転していた。WFBTが開催されることになり、五試合目での世界タイトルマッチ挑戦を断念せざるえなくなった怜美はトーナメントへの参加メンバーにも選ばれず、トーナメントが開かれていたその間、世界ランカーを相手に3試合をこなしそのすべての試合に勝利を収めた。  

 

 美優に勝ちWBCのランキングが6位にまで上がった彼女はその後も世界ランカーを相手に勝ち続けランキング1位にまで上り詰めた。一年半前は親子鷹である話題性が優先し美優に勝ったとはいえ、その時の美優にはもう全盛期の力は失われていたとまだ実力を認められるまでにはいたらなかった。しかし、世界ランカー相手に勝ち続けたことで今では日本の女子ボクシング界の未来を担うボクサーとして期待と注目を集めるようになっている。  

 

 一方の美優は怜美に敗れて一度は引退をし、1年と3か月を経て再起を表明した。そこからさらに三か月。大きなブランクがある上に完敗といっていい敗北を二度続けて引退して、復帰したといってもどこまで体調が戻っているのかも分からない。本来なら、もっとランクが低い選手と復帰試合をすべきなのに美優はWBC1位である怜美を復帰戦の相手に選択した。それが彼女が早く怜美にリベンジを果たしたかったからという私怨からではないことはボクシングファンなら誰もが知っている。かつてライバルであったそのみの引退試合の相手を務めたい。美優の純粋な思いから無謀ともいえる復帰戦が組まれることになり、美優が再起した理由を知っているからこそ、会場の観客の多くは美優に心配な思いを寄せつつも彼女の勝利を願っていた。  

 

 黒いガウンを羽織り赤コーナーで最上段のロープに両肘を載せて待機する怜美の姿は強者の風格すら漂うようになっている。そして、青コーナーに立つ美優は日本チャンピオンになって以降羽織っていた黒いガウンを着ずに白いスポーツブラに黒のトランクスの格好のままでリングに上がってきた。新人時代のように初心に帰ってという思いがその姿から伝わってくる。  

 

 しかし、怜美の羽織るガウンの色は美優がそれまで着ていたガウンと同じ色であり、その光景が皮肉にも1年半前に行われた試合で勝利した怜美が美優の世界ランクだけでなく、強者にだけ許される黒いガウンまでも奪ったかのように映る。  

 

 奪い取った者と奪われた者の再戦。奪われた側の美優が試合に向けて十分な準備が出来たとは言えない不利な状況の中、宿命の試合のゴングが鳴ろうとしている。  

 

 レフェリーに呼ばれ二人がリング中央に向かう。一年と半年ぶりにリングの上で対峙する二人。美優も怜美も真っ向から視線をぶつけ合う。

 

「一年以上現役を離れていたっていうのに平瀬さんの引退試合に名乗り出るなんてどれだけ図々しい神経してるんですか」  

 

 そう言い放つ怜美に対して、美優は

「何を言われたってかまわない。でも、一つだけ言わせてもらうけど、あなたじゃそのみの引退試合の相手は役者が不足してるから」  

 と言い返した。

 

「高橋さんが全盛期の力を取り戻していたとしても期待はしない方がいいですよ。わたしの力はもう全盛期の高橋さんの上をいってますから」

 

「それでもあなたはあたしに勝てない」

 

「根性論ですか。それが通用しないのは前回の試合で証明したはずですけど」

 

「あなたには分からないことだよ」  

 

 美優は終始落ち着いた口調で怜美に言い返した。怜美の実力を十分に認めた上からなのかそれともそのみとの絆が彼女の心に揺るぎない信念を与えているのか。レフェリーの注意事項が終わり、二人は自陣のコーナーへ戻っていった。  

 

 カーン!!  

 

 試合開始のゴングが鳴った。それと同時にたたたたっと勢いよく駆けていく足音がキャンバスから刻まれる。一直線に相手に向かっていったのはアウトボクサーであるはずの怜美。  

 

 瞬く間に距離を詰め、放たれた右ストレートがズドオォォッと強烈な音を立てて美優の顔面を捉えた。  

 

 顎が上を向き、目の焦点が定まらずに口から唾液を吹き散らす美優。青コーナーを出たばかりなのによろめき体勢を崩し、コーナーポストに背中がぶつかった。  

 

 なんとか踏み止まるものの、ダウンしてもおかしくない体勢の崩し方だった。開始数秒で起きた美優のダウン寸前の姿に場内は早くも緊迫した空気に包まれる。そこには淡い期待が僅か試合開始数秒で散っていき、やっぱりダメなのかという失望が混じり始めていた。  

 

 クリーンヒットを当てた怜美はそこから追い詰めることはせずにその場から美優を見続ける。そして、腰を崩したままダウンを堪えている美優に対して、右腕でくいくいっと手招きし、来てみなさいよと挑発する。  

 

 それに対して、美優はリングを周りながらコーナーを出て行く。相手の挑発には乗らない。一年半のブランクを突かれた奇襲の攻撃を受けても動じた姿を見せずに冷静に怜美の姿を見続ける。  

 

 パンチが当たらない距離で様子を見合う二人。美優にしては珍しい慎重な闘い方。相手の右ストレートをまともにもらったダメージがあるからなのかそれとも1年と半年ぶりにリングに上がったことが影響しているのか。いずれにしろ、美優を応援する人たちをはらはらとさせる緊迫した空気がリング上を包む。  

 

 黄色と黒のリングシューズがそれぞれにきゅっきゅっとキャンバスを刻む音だけが聞こえ静かな攻防が続く中、その黄色いリングシューズの足さばきが変化をみせる。  

 

 風を切るように左右の足が一歩速く、そして力強く踏み込まれステップインして怜美が左のジャブを放つ。  

 

 バシィィッ!!  

 

 怜美の左ジャブが美優の顔面を鮮やかに捉えた。美優の顎が跳ね上がり、一歩二歩とまた後ろへ下がる。怜美の先ほどの右ストレートのダメージがまだ抜けきれていないのか、それとも美優は一年半前のように打たれ弱くなったままなのか。どちらであれ、美優への心配ばかりが募る息苦しさがリング上から醸し出ている。 一つ確実に言えたのは、怜美の左ジャブのスピードと威力、共に一年半前とは比べ物にならないくらいに上がっていることだった。  

 

 この一年半で確実に世界ランク1位に相応しい力をつけた怜美。そして、全盛期の力が戻ることなくリングに上がってきたのではないかと思わせる美優の姿に美優とそのみの再戦が最後にまた観られるかもしれないと抱かれていた期待がそれは夢を見ていたかのように淡く散っていき、この試合は組まれるべきではなかった残酷な展開がこの先待ち受けているのではないかと観る者の胸を詰まらせる。  

 

 そして、試合はその通りに展開していったのだった。  

 

 

 ゴングの音が鳴り響き、四度目を迎えたインターバル。青コーナーでスツールに座る美優の顔面は悲惨な変貌を遂げていた。両目の瞼がぷっくらと腫れ上がり、両頬にいたっては元の倍近くにまでの腫れ上がりをしていた。1Rから怜美のパンチを浴び続け、自身はパンチの空振りを繰り返す。怜美のパンチを浴びた数は百発をゆうに超える。そして、自分のパンチはまだ一発も怜美の顔面を捉えていないのだった。前回の試合を繰り返し観ているかのような怜美の一方的な展開がリング上では起きていた。いや、怜美のパンチ力が上がっている分、むしろこの試合の方が美優の身体に蓄積されたダメージは多い。それは美優の顔面が前回の試合以上に醜悪に変形していることからも明らかだった。美優の右目は腫れ上がった瞼ですでに閉ざされ、左目も僅かに開くばかり。このままでいけば美優の左右の瞳が両方とも閉じるのは時間の問題だった。持ってあと2R。下手したら次のラウンドにも美優の左目は閉ざされてしまうかもしれない。美優に残された反撃の時間はあと僅か。美優の敗北の瞬間が刻一刻と迫ってきている。  

 

 会長は美優の右目を氷の入った袋を当てて冷やしながら、

 

「まだ大丈夫か?」  

 と聞いた。  

 

 美優は力なく「はい」と小さな声で返事した。返事するのも辛そうなほどに弱りきった姿。しかし、その僅かに開かれた右目の瞳にはまだ力強い闘志が宿っていた。  

 

 一方の赤コーナーでは、怜美が左右のロープに両肘を載せて、涼し気な顔で父親にタオルで汗を拭ってもらっていた。

 

「あの目ならレフェリーストップは時間の問題だな。これまで通りでいいぞ。無理して距離を詰めてKOにいく必要はない。左ジャブを当てていたら自然と怜美の勝利は決まるからな」

 

 父親の指示に対して、怜美は

 

「うん、そのつもりだからパパ。相手はパンチ力だけはあるからラッキーパンチだけは気を付けていくから」  

 と心地よく答える。

 

「ああ、ラッキーパンチさえ気を付けていたらお前の勝利は揺るぎないものだ」  

 

 全ては予定通り。勝利はほぼ手中にあると余裕に満ちたやり取りで赤コーナー陣営は次のラウンドを待ち臨んでいる。おそらく、次のラウンドで試合はほぼ決まるだろうと確信を持ちながら。  

 

 第5ラウンド開始のゴングが鳴った。それは前回の二人の試合で美優が怜美にノックアウトされたラウンドであり、そして、この試合でもそうなるのではないかと思わせるほどの満身創痍な姿で美優は青コーナーを出て行った。これが美優の本当の最後のファイトになるかもしれない。美優のファンは切なさに満ちた思いで彼女の雄姿を見守る。  

 

 重い足取りで青コーナーを出る美優に対して、怜美は軽快なステップでリングを移動する。ダメージ一杯で鈍重な動きの美優に対して試合前と変わらぬ動きを見せる怜美。圧倒的な状態の差は両者の動きを見れば一目瞭然であり、弱りきった美優に対して、怜美が左ジャブを躊躇なく放っていく。  両腕を顔の前に固めて防ぐ美優だが、身体は一歩後退する。ガードで防いだのに怜美の左ジャブの圧力に耐えきれない美優。ラウンドは始まったばかりなのに弱々しい姿を見せる美優に挽回を期待するのは酷といえた。  

 

 ガードを固める美優に怜美が強気に左ジャブを何度も放っていく。その度に身体が揺れる美優。しかし、ガードを強固に固めているためにクリーンヒットだけはまだ許していない。そんな美優に対して怜美は、

 

「守ってばかりじゃ勝てないですよ高橋さん」  

 と挑発する。美優は言い返すことをせずに前に出ることもしない。両腕を上げてガードをしっかり固めて僅かに開かれた左目で強い眼差しを怜美に向ける。  

 

 1分が経過したが、美優からは一度も攻撃が放たれていない。しかし、そうした美優の消極的な姿勢はこのラウンドに限ったことではなかった。第1Rから美優はパンチの数も少なく前に出ることもあまりない。自分から前に出ることは1Rに二、三度程度。あとは中間距離から怜美をずっと見続けていた。そんな消極的な闘い方をする美優はデビューしてから27戦目でこれが初めてであった。それが一年と半年ぶりになるブランクからなのか作戦なのかは今をもって分からない。しかし、美優のその消極的なスタイルが怜美にはまったく通用しておらず、上手く機能しているとはいいがたかった。そして、右目が完全に塞がり、左目も僅かに開くばかりとなった今、美優はさらに消極的なファイトをしている。そんな美優を責める者は誰もいなかった。美優の試合がもう一度だけ観れて良かった。絶望的な展開となっているこの試合に対してそう思うことで気持ちを納得させようとしているそういう心境になっている美優のファンも少なからずいたのだった。

 

 ガードを固めて動かない美優に対してまた、怜美が左ジャブを放ち仕掛ける。三発、四発と怜美の左ジャブが美優のガードの上から当たる。両腕で顔を覆う美優。パンチを浴びてないとはいえ怜美の左ジャブは十分な威力を備えている。ガードの上からでも身体は弱々しく揺れ、すでにもう美優の左の目も閉じてしまっているんじゃないかと試合を観ている者に思わせる。試合をしている美優と怜美だけでなくレフェリーの動向にも注目が集まるようになっていく。

 

 その時だった。怜美の左ジャブを左に上半身を傾けてかわした美優がダッシュして距離を詰める。迅速という言葉が相応しいほどのスピードだった。瞬く間に怜美の懐に入り、左のボディブローをめり込ませる。

 

 ズドオォォッ!!

 

「がはあっ」  

 

 怜美の身体がくの字に折れ曲がり、苦悶の声が上がる。唾液が吹き散り、その液体が絡みついたマウスピースが今にも零れ落ちそうに顔を覗かせる。たった一発のパンチで怜美の身体をグロッギーにさせる。そして、返しの右フックを怜美の頬にぶち込み、怜美の身体がくるりと反転するようにうつ伏せにキャンバスに倒れ落ちた。

 

「ダウン!!」   

 

 レフェリーがダウンを宣告する。 僅か数秒の内に起きた大逆転劇に場内が静まり返り、数秒してからどっと歓声が沸き起こった。  

 

 上がっていたのはダッシュだけでない。パンチの威力までもが上がっている 

 

 レフェリーのカウントが進み、8を数え上げられたところで怜美が立ち上がりファイティングポーズを取る。  

 

 試合が再開されると、美優が一気に前に出た。迅速なダッシュの前にダメージが回復しきれていない怜美はパンチを出すことも出来ずにまた接近を許した。美優が左右のフックで畳みかける。先ほどとは一転して怜美がガードを固めて防戦一方になる。徐々に後退して、ロープを背負う。美優のラッシュが10秒ほど続いたところで、第5R終了のゴングが鳴った。  

 

 両腕を上げて固めたガードの隙間から口元をダメージの苦しみで歪めながらも睨みつけるように視線を向ける怜美。それに対して美優は呼吸を荒げながら疲れ切った目を相手に向ける。美優が先に青コーナーに戻っていき、続いて怜美が赤コーナーへ戻っていった。  

 

 青コーナーに戻り、スツールに座る美優に対して、

 

「ようやく出せたな」  

 と会長は言い、 

 

「ええ、なんとか試合中に間に合いました」  

 と美優は微かに笑みを浮かべて答える。現役を離れていた1年と2か月の間に1日3時間のロードワークをこなしていた美優。現役のボクサー以上に走って鍛え上げられた強靭な足腰が現役の時以上の驚異的なダッシュのスピードを生み出せるようになった。しかし、ダッシュのスピードが上がっても、パンチを避けながらそれを実行するのはなかなか出来るものではない。まして、美優は1年と半年も試合から遠ざかっていたのだ。試合中にそれを実践できるようになるまでに多くの時間を必要としていた。もしかしたら試合の最後まで出来ずに試合は終わってしまうかもしれない。そんなリスクを伴いながらも美優は試合に臨み、怜美の左ジャブに耐えながらその感覚を養おうとしていた。そして、ついに驚異的なダッシュ力をものにすることが出来たのである。  

 

 さらにハードなロードワークで作り上げられた強靭な足腰はダッシュ力を上げるだけに留まらずに美優のパンチ力をさらに上げることにもつながった。たった二発のパンチで怜美からダウンを奪ったのは決して運よく当たり所が良かったからではない。それは強靭な足腰から生み出されたパンチがもたらした必然であった。  

 

 希望が見え始めた青コーナーに対して、赤コーナーは前のラウンドから一転して慌ただしさを見せる。

 

「ガードを固めて左ジャブは慎重に放て。あと数発当てれば高橋の左目は塞がる。追い詰められているのは依然として相手の方なんだからな」  

 

 怜美はハァハァと息を切らしながら、

 

「分かってるパパ。さっきは油断して左ジャブを出しすぎただけだから。いつものボクシングをしていたら負けるわけない。一年と半年も試合をしてなかった人になんか」  

 と負けん気に溢れた表情で答えた。  

 

 第6R開始のゴングが鳴った。美優も怜美もゆっくりとした足取りでコーナーを出て行った。先ほどのラウンドで怜美をノックアウト寸前まで追い込んだ美優だが、このラウンドも始まりは距離を取って相手の様子をうかがう。怜美もステップを刻みながらなかなか左ジャブを出さない。迂闊に出せばまたダッシュで距離を縮められる。数発のパンチが命取りになる二人にとって真剣を抜くかのような緊迫した見つめ合いが続く。  

 

 息の詰まる見つめ合いが20秒以上続き、先に手を出したのは怜美の方だった。踏み込んでの左ジャブが美優の顔面を捉えた。  

 

 バシィィッ!!

 

 怜美の左ジャブが矢のように美優の顔面に突き刺さり、美優の身体が後ろに吹き飛ばされる。まるで右ストレートを受けたかのようなダメージの受け方を見せる美優。負けられない思いが拳に込められた怜美のパンチ、そして、ダメージの蓄積が限界を迎えつつある美優。  

 前のラウンドで美優の攻勢で終わったが、試合の行方の針は再び怜美に傾きつつあった。  

 

 今の攻撃で自信を再び取り戻したのか怜美がすかさずまた左ジャブを放った。一発、二発と連続して美優の顔面を捉える。さらに距離を詰めて、がら空きの美優のお腹に左のボディーブローを打ち込み、そこから右、左とフックを美優の顔面に打ち込んだ。合計五発のパンチを立て続けに浴びた美優。顔があらゆる方向に吹き飛ばされ、血、唾液、汗とあらゆる液体が顔面から飛び散るものの、美優は右のフックを打ち放ち、ガードした怜美を身体ごと後ろに吹き飛ばした。  

 

 再び距離が出来る二人。まだこれほどまでのパンチの威力で反撃してきた美優に怜美は信じられないといった表情を向ける。  

 

 朦朧とした表情で立ち尽くす美優だが、その左目はまだかろうじて開いていた。しかし、極度に狭くなった視界がもう怜美のパンチを捉えることが出来るのかは定かでない。  

 

 再び、そして限界まで追い詰められた美優。両者距離を取って見合う。次に仕掛けたのは美優の方だった。身体を屈めながらダッシュして距離を詰めていく。怜美が反応して右ストレートを放っていく。しかし、美優は屈めた身体をさらに左に傾けて怜美の右ストレートを避ける。そこから左のボディブローを打ち込み、重く鈍い音を響かせる。  

 

 ズドオォォッ!!

 

 怜美の身体がくの字に折れ曲がり、怜美は必死の表情で美優の身体に抱きついた。

 

「何で倒れないのよ……」  

 

 辛そうな表情でそう声を漏らす怜美。重い打撃音がまたしても響き、彼女の表情が苦痛に歪む。抱き着かれた美優がかまわずにボディブローを打ち放ったのだ。密着した距離でも十分な威力を持った美優のパンチ。そのパンチが二発、三発と打ち込まれ、怜美がたまらずに両腕を伸ばして後ろに退こうとする。美優はすぐにダッシュして距離を詰めに出た。そして、右ストレートを怜美の顔面に打ち込んだ。後退したところにもらったパンチに怜美の体勢が崩れ、もつれた足取りでさらに後ろへ下がっていく。ロープに背中が当たり戻ってきたところに下から空を切るように勢いよく伸び上がるパンチが彼女を待ち受けていた。  

 

 グワシャァッ!!  

 

 美優の右のアッパーカットが怜美の顎を捉えた。力に満ち溢れたその一撃に怜美の身体が宙に浮き上がった。マウスピースがいくつもの血の筋を作りながら場外にまで吹き飛んでいく。尻持ちをついて倒れ再びロープに背中がぶつかった怜美の顔がロープの間から外にはみ出た。  

 

 怜美の身体がぴくぴくと小刻みに震え、痙攣を起こす。レフェリーが両腕を交差して試合を止めた。  

 

 カーンカーンカーン!!  

 

 すぐさま父親が駆け寄り身体を抱きかかえられる怜美の表情は意識はあるものの放心状態であった。そんな彼女に対して美優は見下ろして言い放った。

 

「あなたの左ジャブは強烈だけど、それだけじゃ世界ランク1位にはなれても世界チャンピオンにはなれない。背負うものがない者のパンチは痛くても身体の芯にまで響かない。軽いのよ」  

 

 目が虚ろで反応を示さない怜美から美優は離れ、両腕を突き上げて会心の笑みを観客に向けて見せた。2年と半年ぶりに見せた勝利の後の笑顔。そんな美優の姿に会場からは万雷の拍手が鳴りやまなかった。

 

 

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