部活の生徒たちが発散する熱気と掛け声で活気づく放課後の時間帯が終わり一時間が経とうとしていた。夕日は消え落ち空は藍色に姿を変えている。部活を終えた生徒たちは下校して姿を消し、生徒たちの今日という一日は幕を閉じ、女学院の校舎の時間は明日へと向かおうとしていた。

 

 しかし、一つの部室にはまだ灯りが灯っていた。東校舎から五十メートルほど離れたところにぽつんと建てられたその小屋はボクシング部の部室となっていた。女子高ではほとんど存在しない極めて稀なボクシング部は、しかし一時間前までは十五人を超える少女たちが練習に身を焦がしていた。その練習をしていた生徒たちの姿は一人も見当たらず、今この場にいるのは放課後いなかった四人の少女である。四人の少女は窓音、アサ、ユウナ、サツキ。一週間前に部活を卒業したばかりの三年生たちだった。ユウナとサツキはブレザーの制服のままだが、窓音とアサは上はスポーツブラに下半身はショートパンツを履いていて、部活時の姿そのままであった。可愛らしいリボンを胸に付けた制服を着ているユウナとサツキはその制服が似合っていてはつらつとして可憐な雰囲気を備えていたが、奥にはリングがあり、鉄アレイやサンドバッグといった鉄製や革製の道具がごろごろと置かれた武骨な空気に満ちた部室の中ではっきりとした輪郭を伴っているのはやはりボクサーの練習服を纏っている窓音とアサだった。

 

 薄暗く藍色の窓の外は人の気配がまったく感じられない静けさで、部室の中もまた四人とも一言も発せずにいた。窓音とアサは身を屈めて革製のシューズを履き、紐を結び終えると次には道具置き場からボクシンググローブを取り出して、それぞれ制服姿のユウナとサツキにはめてもらおうとする。革製の道具を拳と足に付けた二人の少女がリングに上がり、お互いが視線を交わすと静かなこの乾いた空間に音もせず火が灯された。

 

「まさかあたしたちの最後の戦いの場がここになるなんてね」  

 赤コーナーに立つ窓音はそう言うと両拳を胸元で打ち鳴らした。誰もいない部室の中でばすっという音が乾きを伴って響いていく。青コーナーで右手の青いグローブで最上段のロープを掴むアサは半身の姿勢で窓音に目を向けるが、何も発しはせずにいた。そんなアサの態度が不満だったのか窓音は両拳をもう一度胸元で、今度は音も立てずに合わせたまま、

「ねぇっやる気はあるの?それとも嫌々この場に来た?」  

 と言った。

 

「いつでもゴングを鳴らしてかまわないわ」  

 アサはそう言い、右手をロープから離すと身体を窓音に向き直した。むすっとした顔をしているがそれはいつものアサの表情だ。青のグローブを付けた両拳は下に下げたままでいる。どうとでも取れるアサの返事に窓音は唇を尖らして、少ししてから

「あっそう」  

 と言って、

「じゃあ一分後の開始ね」  

 と乱雑な口調で同意を求めると、アサが無言でこくっと頷いた。  

 

 窓音が一歩下がってコーナーポストに背中を付けると、リングの外側に立っているユウナに向いて、口をがっと開けた。ユウナがマウスピースを取り出して口にくわえさせる。窓音は右手でもこっと膨らんだ上唇に触れてはまり具合を調整する。しっくりきたところで、窓音はユウナの顔を再び見て、

「ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって」  

 と口を横に開けて苦笑いを浮かべた。申し訳ない表情をする窓音に対してユウナはむふふっと笑みを浮かべた。

 

「インターハイ覇者とその覇者に勝ち越してる者との対決。間近で見れるんだからお得ってもんじゃない」

 にんまりと好奇に満ちた彼女のその表情は本当にそう思っているようだった。軽い調子の彼女に調子が狂うなと思いながらも文句も言わずに付き合ってくれてるんだからまぁいいかっと窓音は気を取り直して前を向いた。

 

 試合開始前のセコンドの役目を果たしたユウナがリングから降りて近くに置いておいたゴングを手にした。彼女には窓音のセコンドだけでなくてゴングを打ち鳴らす役割も与えられていた。もう一人の試合に出ない少女サツキにはアサのセコンドとダウン時にカウントを数える役割が与えられている。レフェリーの役を担う者はいない。そういったところは私闘だけあって、大雑把に決められていた。

 

 ユウナがゴングを打ち鳴らして、試合が開始された。高々と鳴ったゴングの音に合わせて、窓音が先立って赤コーナーを出ていき、続いてアサがファイティングポーズを静かに取って青コーナーを出た。公式戦でもないというのに二人は左手を前に出してお互いの拳を合わせた。高校三年間の間に何十度としてきた試合開始の儀礼が身体に染み込んでいるかのように二人は無意識にそうしたのだった。

 

 女子ボクシングの強豪校であるアンサナ女学院。部の二大エースであった窓音とアサが誰もいない放課後のリングで闘いを始める。闘いの話を持ち掛けたのは窓音からだった。窓音は一ヶ月前に静岡で開催された夏のインターハイで優勝している。ユウナが先ほど言ったインターハイ覇者とは窓音のことである。そして、窓音との直接対決で勝ち越しをしているのがアサ。三年間の公式戦での二人の闘いの戦績は一勝二敗。夏のインターハイの前の二年時の冬の大会で東京都予選の決勝で二人は対決しアサが窓音にKO勝利した。だからアサに負けている窓音にとって最後の大会である夏のインターハイは念願の全国優勝を目指すと同時にアサに雪辱を果たす場でもあった。アサに負けたままじゃ終われない。窓音にとってアサは同じボクシング部の同士である以上に最大のライバルだった。しかし、アサは夏の東京都予選が始まる一週間前から部に姿を現さなくなった。部の顧問の高岡はアサの休みを右拳の怪我のためだと説明した。その二か月後に全国大会で優勝した窓音は念願だった優勝を果たしたというのにどこかすっきりしない気持ちを胸の中に感じずにはいられなかった。

 

 東京都予選中はおろか全国大会にも同行しなかったアサと再び顔を合わせたのは夏休み明けの登校初日。その日は午後からボクシング部で三年生が後輩たちにバトンを渡し部を引退する日となっていた。

 

 二ヶ月ぶりに顔を合わせた窓音とアサだったが、アサは何も言わずに窓音の横を通り過ぎようとした。アサに何か言うつもりなんて思ってなかった窓音だったのに実際に顔を合わせて素っ気ない態度を取られて声をかけずにいられなかった。

 

「ねぇっ」  

 

 窓音の声にアサが顔を振り向かせる。アサは何の表情も浮かべていなかった。何にも興味を示そうとしない目をしていて口をきっと結んでいる。それはいつもの彼女だった。怪我で二か月も休んでいたっていうのに。それで最後の大会に出られなかっていうのに———。

 

「あっいや……拳の怪我はどうなの?」

 

 胸の中の思いを強引に押さえ付けて、窓音は聞いた。何を聞きたいのか窓音自身もよく分かっていない。窓音は視線をアサの右拳に向けた。その視線に気付いたアサが右拳を上げて自身の拳を見つめる。

 

「右手は何ともない」

 

 アサは自身の拳を見ながら言った。

 

「そうっ」  

 

 窓音はほっとした。でも、胸のどこかでざらりとした違和感が走る。

 

「プロにはなるの?それとも進学?」  

 

 そういったことが知りたかったんだろうか。聞いておきながら窓音もよく分からない。聞くまでそれを知りたいという欲求は持ってなかった。でも、それは大事なことだ。夏のインターハイで優勝したことで窓音はプロになることを決めたのだ。それまではプロボクサーになるか大学に進学して大学のボクシング部で続けるか迷っていた。窓音の部で残した実績ならスポーツ推薦は十分可能だった。それはアサにもいえることにちがいない。でも、アサもプロボクサーになろうと決めているのなら、そう————それなら最後の大会で闘うことが出来なかったとしてもまた彼女と闘えるのだ。アサと対面したことで窓音は心の中にある満たされない思いを埋める道に気付いた。それで窓音の表情に始めて笑みがかすかに浮かんだ。しかし、アサの目は一段と冷たくなり、

「もうボクシングはしないわ」  

 と言うのだった。思いもしなかったアサの発言に窓音は呆然とし、

「やっぱり拳の怪我がっ」  

 と言った。拳の怪我が原因でもうボクシングが出来ない。だから、アサは部活にも全国大会の会場にも顔を出さなかった。それならすべての説明がつく。でも、アサはただ顔を横に振るだけだった。

 

「どういうことっ」  

 

 窓音はアサの両肩を両手で押さえて顔を近づけて強い声を上げて問い詰めた。アサは顔を歪めながら窓音の左手を右手で払いのけた。

 

「もう遊びの時間は終わったの」  

 アサは淡々とそう言った。

 

「だったら最後にもう一度あたしと闘いなよっ!」  

 

 部室の外まで響く窓音の大声にこの場にいた全員が振り返る。今日は後輩たちにバトンを渡す日であったが、同時に全国大会を優勝した窓音を労う時間のはずでもあった。それらのめでたい空気が吹き飛んでいく。三年生にとって最後の部活の日は渾沌とした空気を残して終わっていったのだった。

 

 

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