窓から映る広大な田園の風景。マンションどころかアパートもなくて道路の両側に広がる田んぼにとこどころ一軒家が立っている。母親からものすごい田舎だわよと人の不幸を楽しんでいるかのように軽い口調で言われていたけど、まさかここまでだったとは。

 

 知里の代わりに聖アリス女学院にボクシング部の推薦で入学して彼女の分まで部活に頑張ろうと思っていた身だから(一般入試で入ろうと頑張っていた知里は残念ながら入試で落ちてしまった。その時はあたしも落ち込んでものすごい決意で推薦入学を辞退してまで受験したっていうのにこういう結果になるなんて神様っているのって疑ってしまったくらいだ)、思いきり遊ぼうなんて思っていたわけじゃないけど、まさか遊べるような場所すらないなんてさすがに15歳の女の子には厳しすぎる環境だよ。これじゃお坊さんの出家ならぬ部活生の出家みたい。

 

 あたりは静けさに満ちていてバスの中は同じ年頃の同じブレザーの制服を着た女の子が7人くらいしか乗ってなくて会話はまったくなく(入学式の二日前だからたぶんみんな寮で生活するために来た一年生たちなんだろうけど)バスのエンジン音だけが振動と合わさって聞こえてきて、それがいっそう田舎ののどかな日常をしみじみと感じさせる。ハルカは窓の外に目を向けて頬杖をつきながらはぁっと息をついた。

 

「ざ~んねん。入学なんてするんじゃなかったって思ってる?」

 

 舌足らずで舞台の上で役者が演じているような大げさな口調の声。隣を振り向くと、栗色と言っていいくらいに明るい髪をした少女が微笑を浮かべるようにこっちを見ている。

 

「あたし、人の思ったこと当てるの得意なの」

 

 そう言って彼女は得意そうに浮かべていた笑みを目が瞑るくらいに緩ませた。

 

 溜息出たら誰でも分かるでしょ。得意満面に言わないでよ。

 

 ハルカは頬杖をつくのを崩さずに横目に彼女を観察した。栗色の髪は頭の上の方で小さなツインテールみたいに結ばれていて、頬には不自然に薄い赤色が浮かんでいて唇は薄いオレンジ色につやつやと光っている。

 

 高校生になろうとしているばかりなのに化粧をしていて、渋谷で遊んでそうなタイプの娘。化粧をしているといっても大人っぽくみせるというよりもアイドルみたいに可愛くみせたいロリ系の少女にみえる。中学の三年間、ソフトボールに打ち込んで化粧なんて一度もしたことがないどころか肌が小麦色に日焼けして男顔負けの健康優良児だったハルカとはまったく真逆のタイプだった。

 

 馴れ馴れしいし無神経だし、あたしが一番苦手なタイプ。

 

 無視しちゃえ。そう決め込もうとして再び窓の外に戻そうとしたハルカの目が止まる。隣に座っている少女の足元に置かれている大きなバッグからわずかに開かれているジッパーの合間から赤いボクシンググローブが見えたのだ。

 

「あなたボクシング部に入るの?」

 

 驚きを隠せなくて思わず声に出してしまった。彼女はハルカの視線の先に誘導されるように自分のバッグに視線を移す。それからはしゃぐように顔を近づけて言った。

 

「あなたもボクシング推薦なのねっ」

 

 今にも両手を握りしめて同士としての絆を深めてきそうな嬉しそうな表情。ハルカは彼女の第一印象に良い印象を持っていなかったからその振る舞いに戸惑いをみせる。相手しないように決めていたけど、考え方を改めた。これから部活で同じ時間を共にするんだからちゃんと会話して仲良くしなきゃって。

 

 隔離される場所に強制送還されるかのような時間を過ごしている中(それはさすがに言いすぎなんだろうけど)、共通の目的を持った娘と早くも出会って気が緩んだのかもしれない。うん、よろしくねって言おうと思った矢先に、彼女が先に言葉を続けた。

 

「あなたはボクシングを何年してきたの?」

 

 ハルカは言葉につまった。いきなりそんなことを聞かれるとは思ってもなかったのだ。ボクシング部の推薦の娘が集まるんだから中にはボクシングの経験者がいてもおかしくないだろうけど、まだプロが認められたばかりの女子競技に経験者がそんなにいるとは思ってもなかったのだ。でも、彼女の口ぶりはボクシングの経験をしていて当たり前のように聞こえさせる。

 

 彼女の軽い言動も相まって、全く経験ないなんて言いたくないなと負けん気が出て返事に躊躇していると、彼女はハルカの返事を待たずに言った。

 

「美香はねっ、中学の時から二年間ボクシングジムで練習続けてきたの。世界チャンピオンになりたいから」

 

 世界チャンピオン。可愛い系のアイドルみたいな容姿に似つかわしくないボクシングの、その世界の頂点を意味する言葉を聞かされてハルカは少し嫉妬した。

 

 外見は浮ついた感じだけど、しっかりとした目標を持って入学してきたんだこの娘……。

 

「あたしはまだボクシングやったこと一度しかないんだ」

 

 正直にそう言った途端、美香は顔を戻して、両手を後頭部に組み座席にもたれた。

 

「な~んだがっかり」

 

 案の定、失礼な言葉を聞かされて、むっとはしたものの、仕方ないかとハルカは思った。

 

 あたし、ボクシングを好きになれるかもまだ分からないし……。

 

 彼女との会話はもう止めておこう。そう思って窓の外を見ようとしたけれど、美香にはまだ会話を止める気はなかったようだ。彼女はふふっと嫌な笑みを浮かべてまた顔をこちらに近づけてきた。

 

「あたしねぇ、相手の思ったこと当てるの得意だけど、でも、相手の強さを見定めるのってもっと得意なんだよね」

 

 そう言って美香はハルカの頭からつま先まで見まわした。

 

「40秒ってところかな。美香と試合してあなたがリングに立っていられる時間」

 

 なんて失礼なやつなの。

 

 ハルカはカッとなって思わず大声で言い返した。

 

「馬鹿にしないでよっ。いくらあたしが素人だからって。あたしだって中学の時はスポーツを頑張ってた。運動神経にだって自信あるんだから。勝負はやってみなきゃ分からないじゃない!!」

 

「そうだね、試合の結末がどうなるかは分からないよね」

 

 ハルカの言葉に同調したとはまったく言えない見下した視線と笑みを美香は浮かべている。

 

「ふふっ。あたし、あなたとの試合、すごく楽しみになってきた」

 

 その言葉を最後に二人の会話はなくなった。イライラが止まらないハルカと鼻歌でも歌いそうな上機嫌な美香。

 

「聖アリス女学院前~聖アリス女学院前~」

 

 バスの運転手の事務的なアナウンスがスピーカーから響く。録音された音声じゃなくて、停留所のたびに発せられる運転手ののんびりとした直の声。いかにも田舎の路線バスらしい風景の中で、不釣り合いな可愛らしいブレザーの制服を着た少女二人が、その外見ともまた不釣り合いな果たし状を交わしあった。それは澄み切った空気に包まれる中で闘争本能を強く秘めた少女たちの汗臭く松ヤニと皮の匂いが混じり合った青春の始まりを暗喩しているかのようだった。

 

 

 バスを降りて三分も経たないうちに女学院に着いた。校舎は赤茶けたレンガで出来た建物でその校舎の入り口までの間には噴水がある。まるでヨーロッパの建物を連想させる造りでこの学校がお嬢様学校であり、キリスト教の系統であることを初めて実感した。都会にある名門のお嬢様学校で女子に人気の学校であるけれど、校舎が池袋にあるのは小学校、中学校、大学だけで高校だけは神奈川県の田舎に校舎がある。そのことをどれだけの人が知って入学したんだろう。あたしはその知らずにがっかりした組なんだけど。

 

 そんなことを思いながら歩いていると、後ろから「ねえ」と声をかけられた。振り向くとショートカットの髪型の少女が立っていた。同じ制服を着た彼女は「わたしもボクシング推薦組なの」と言った。

 

 ハルカは先ほどのバスでの美香との一件があって、警戒心を持って「そうなんだ」と声を強張らせて応えた。

 

「わたしもね、ボクシングジムで二年間練習してたんだけど、ボクシングしてる人ってあんなのばっかりじゃないから」

 

 目が少し垂れ目気味でボクシングをしているとは思えない人の好さそうな顔をしている彼女は柔らかい声で言った。彼女の一言はハルカの苛々した感情を吹き消すのに十分だった。

 

「うん。あたしは日比野ハルカ15歳。よろしくね」

 

 ハルカの挨拶に彼女はくすっと笑う。

 

「同学年なんだから年齢まで言わなくていいんじゃない」

 

 そう言って彼女は、

 

「わたしは佐藤亜美。よろしくね」

 

 と挨拶を返した。

 

 心地よい春の陽気をたっぷり含んだ太陽の光にレンガ造りの校舎、爽やかな音を立てる噴水。ヨーロッパにいるかのような気分になったのか、挨拶まで海外のドラマみたいにしちゃったとハルカは舌を出した。

 

 ハルカは亜美と共に寮の宿舎に行った。驚いたことに二人で使う寮の部屋の相方は亜美でこの幸運にハルカは感謝した。感じの良さそうな娘で良かった。これが美香みたいな高慢で性格の悪い奴だったらそれだけで最悪の高校生活になる。

 

 部屋に持ってきた荷物を片付けながら、ハルカと亜美は会話を続けた。

 

 亜美の家は四人の子供がいる大所帯でそのためもあって家計のやりくりは大変らしくて、彼女は両親を楽させたくてボクシングを始めたのだった。新聞配達のアルバイトをしてボクシングジムに通う金と聖アリス女学院の学費も自分で稼いだ。世界チャンピオンになって多くのお金を稼ぐために。世界チャンピオンを目指してジムに通っていたのは美香と同じなのに、その時とは全く違う胸の中がじんっと温まるのをハルカは感じた。

 

「亜美、あたしはあなたの夢が適うの応援するからね」

 

 亜美は柔らかい笑みを浮かべ言った。

 

「ありがとうハルカ」

 

 それから亜美は背を向けてタンスの前に立つ。棚を開けて物をしまいながら彼女は言った。

 

「でもね、わたしたちたぶん階級は同じだと思うから」

 

 その口調は彼女が持っている優しさをどこかに置いてきたかのように無機質だった。

 

「だから、一つのベルトを争うライバル同士でもあることを忘れちゃだめだからね」

 

「あぁ……そうだったね」

 

 世界チャンピオンのベルトを目指してみんなで争う。チームメートと一丸となって夢にむかって闘うソフトボールみたいにはいかないんだな……。

 

 ハルカはボクシングの世界が孤独であることを練習を始める前から感じてしまった。それもルームメートが健気すぎて思い入れを強くしちゃったからだけど、でも、今は先のことを考えないで亜美が同じ部員であることを素直に喜ばなきゃ。

 

 その時、部屋の天井の角についているスピーカーからアナウンスが流れた。

 

“ボクシング部員は運動できる格好に着替え二時に部室に集合するように”

 

 女性の声でありながら威圧高な命令口調。

 

 まるで軍隊に入隊したみたい。

 

 上は白いタンクトップ、下は青いショートパンツに着替えながらハルカはそう思った。

 

 

 部室には20人以上の少女が集まっていた。みんな、ショートパンツだったりスパッツだったりと運動できる服装をしているけれど、不自然じゃない程度に周りを見渡していて、初々しい空気が感じられた。この女子ボクシング部には先輩がいない。新設されたばかりでみんな一年生なのだ。クラスメートと初めて教室で顔を合わせたような新しい生活の始まりへの期待と上手く馴染めるかという緊張が合わさったような感覚にも似ている。

 

 それにしても気になったのはこの部室で20人以上の少女が練習するにはちょっと狭いことだ。これじゃ周りの娘とぶつからないように気を使いながらの練習になってしまう。

 

 入り口のドアが開き30歳前後の年齢を思わせる長い髪をした女性がこちらにやってくる。リングの前に立ち、彼女はぱんと柏手を鳴らし挨拶を始めた。

 

「私はボクシング部コーチの泉川涼子です」

 

 コーチと名乗る彼女は背中まで伸びた長い黒髪が良く似合う清楚な雰囲気を持っていた。コーチでありながら、ジャージではなく白いブラウスにスカートという服装をしている。聖アリス女学院の先生と言われれば誰もが納得するけれど、ボクシング部のコーチであると言われてなるほどと頷く人は誰もいない。それくらい上品な雰囲気が彼女からは醸し出ている。

 

「寮についた早々ではありますが、私たち新設の女子ボクシング部が目指しているのはオリンピックの金メダリストの輩出、プロボクシングの世界チャンピオンの誕生の二点です」

 

 彼女の口調はとても丁寧で柔らかくもあって、それは流石はお嬢様学校の先生だと思わせるほどでもあったけれど、でも彼女はその丁寧な口調のまま、さらりととんでもないことを次に言った。

 

「その目的達成のためにはのんびりと休んでいる時間はありません。あなたたちにはこれからボクシングの試合をしてもらいます」

 

 これからボクシングの試合? まだ入部初日だっていうのに?

 

 ハルカは信じられなくて自分の耳を疑ったほどだ。ちょっと待ってくださいと言いたくなったけれど、涼子の口からはさらに非情な言葉が発せられた。

 

「試合の勝者は一軍選手としてこの部室での練習を敗者は二軍選手として校舎の裏で練習をすることになりますから部内での試合とはいえ全力で戦うように」

 

 初めての顔合わせだからとまだどこか緩んでいた空気が一瞬にしてぴりぴりとした緊張感に詰まったものへと変わった。

 

「第一試合は日比野ハルカさんと富永美香さん。二人とも前へ出て」

 

 ハルカは中学時代の部活動の慣れで条件反射のようにはいと思いきり声を出して返事をしたものの、美香という名前を聞いて、んっ?と思った。

 

 前に出て顔を合わせた少女は栗色の髪をした少女。相変わらずの舌足らずで甘ったるい声で彼女は言った。

 

「まさか、ボクシング部での第一戦があなただなんてね。これって運命みたい」

 

 これからボクシングの試合が始まるっていうのに彼女はうっとりと自分の運命に酔いしれているかのように言う。

 

「でも、勘違いしないでね。あなたは美香のライバル役じゃなくてドラマの第一話で美香の強さを引き立てる当て馬にすぎないから」

 

「馬鹿にしないで。そんな大口叩いて恥かくのはあんたの方だからねっ」

 

 ハルカは両拳を爪で皮膚が裂けそうになるくらいに強く握りしめた。

 

 こんな嫌なやつになんか負けられない。絶対倒してやる。

 

 

 赤いボクシンググローブを両腕にはめ終えたハルカは、涼子の指示に従ってリングに上がり青コーナーについた。

 

 格が上の選手が赤コーナーで格が下の選手は青コーナーに立つ。ボクシングにあまり詳しくないハルカでもそのことは入学までの間に何度も見たボクシング中継から得た知識で知っている。

 

 涼子も美香の方があたしより強いと判断して二人のコーナーを振り分けたのか分からないけれど、今は期待されてなくたっていい。

 

 二年間ボクシングをしてきた美香がエリート候補生なら未経験者のあたしはスポーツ推薦で入学したといっても一般生のようなもん。雑草魂でそこから這い上がっていけばいいんだ。まずは美香に勝つことがその第一歩になる。

 

 ハルカは二度目となるキャンバスの感触を確かめるように右、左と足を上げて二歩前に出た。

 

 知里と試合をした時は彼女が対戦相手だと知って動揺したから気付かなかったけれど、キャンバスって思っていたよりも硬い。

 

 白色のキャンバスはところどころ暗いシミが付いていて、透明感のある配色なのにどこか無機質に感じさせる。

 

 闘いをする場ってこういうもんなのかってハルカは思った。心が引き締まるような、乾きもするような複雑な感覚。

 

 ハルカはリングの上の独特の空気を肌で感じながら対戦相手である美香に目を向けた。赤コーナーに立つ彼女は、赤いタンクトップに白いトランクスを着ていて、その服装から覗かせる両肩にはふっくらと立派に盛り上がった筋肉が、両腕には丸く隆々とした筋肉がついていた。童顔の顔に不釣り合いなその身体はまさに格闘家の肉体になっていて、三年間ソフトボールをしてきて筋肉がついているといっても普通の少女の範疇に収まるハルカの肉体とはまったく別物であった。

 

 ハルカは彼女の鍛え上げられた肉体を見て、またしても嫉妬の感情が芽生えるのを感じた。

 

 二年間本気でボクシングをしてきた。口だけのやつじゃないんだとハルカは拳を交わす前から感じ取ってしまった。

 

 でも、あたしは見下されることが何より大嫌いなんだ。特にエリート意識の高い奴に。

 

 まさにその典型である美香がボクシング部の第一戦の相手だなんて神様も酷いなぁとハルカは思った。

 

 こんなの過酷すぎる。絶対負けたく相手がものすごい経験者だなんて。

 

 でも、あたしは絶対に負けない。技術も身体つきも負けていたとしても三年間頑張ってきたソフトボールの経験がきっとあたしを助けくれるはず。

 

 そう信じて、ハルカはレフェリーを務めるもう一人の女性のコーチ(涼子と違いおでこがみえるくらいに短髪の髪型をしていていかにもボクシング経験者の雰囲気を持った女性でおそらくアナウンスで生徒を呼び出したのは彼女だったんだと思う)の指示に従い、リング中央に向かった。

 

 ハルカはリング中央で美香と対峙した。

 

 彼女の鍛え上げられた肉体を間近で見て嫉妬心を強めたくなかったからハルカは視線をキャンバスに向ける。

 

 レフェリーの注意事項の確認が聞こえてくるけれど、ハルカの耳には全く入ってこなかった。

 

 負けられないという思いが執着するように何度も心の中で流れる。

 

 レフェリーの声が雑音のように鳴っている中、甘ったるい舌足らずな声がハルカの耳に鮮明に届いた。

 

「40秒で終わらせるっての撤回してあげる」

 

 ハルカは思わず顔を上げた。

 

「撤回してあげる? 出来もしない大口叩いてただけでしょ」

 

 美香はそうじゃないのと言わんばかりに目を瞑り首を横に振る。

 

「だって二軍に落ちるあなたと試合するのはこれで最後になるから。だから最初で最後になるあなたとの試合、思う存分楽しまなきゃ」

 

 ハルカはかっとなって言い返そうとしたけれど、レフェリーに私語を慎めと注意されて、喉元まででかかっていたふざけないでという言葉をぐっと飲みこんだ。

 

 青コーナーに戻ると、セコンドを務める亜美が、

 

「あれも彼女の作戦の一つだから気にしちゃだめだよ」

 

 と言った。

 

 亜美の言葉で、ハルカは落ち着かなきゃと気を取り直そうとした。

 

 大きく息を吸って吐く。それを三度繰り返してから、ハルカはもう大丈夫と亜美に向けて首を縦に振った。

 

 落ち着きを取り戻したハルカに亜美は言った。

 

「ガードをしっかり固めてね。ボクシングは防御からだから」

 

 自身の両腕を顔の位置まで上げて身振りで丁寧に教える亜美にハルカはありがたく思う反面、それで美香に勝てるのだろうかという懸念も感じた。ちょっとボクシングをかじった程度の相手ならその作戦はとても有効かもしれないけれど美香の肉体を見れば彼女がそのレベルにないことは亜美も分かっているはず。

 

 今のあたしでは美香には勝てない。だから、受けるダメージを少しでも減らしてリングから降りてきて欲しい。

 

 そういう思いやりから亜美はそう指示を出したんじゃないかとハルカは思った。そうだったとしても、亜美があたしの身体を心配してくれているからであって、ハルカは彼女の優しさに感謝しながらも心の中でごめんと謝った。

 

 あたしは美香に勝ちたい。

 

 だから、亜美の助言は守れない。

 

 勝てる見込みは少なくてもがんがん攻めていかなきゃ美香には勝てないと思うんだ。

 

 カーン!!

 

 試合開始のゴングが鳴った。

 

 リングの上がどんなものか確かめるように慎重に一歩ずつ足を踏み青コーナーを出たハルカに対して美香はリズムを刻むように跳ねるような足取りでリングの上を動き回る。その様は彼女の鍛え上げられた肉体が見せかけのものでないボクシングの熟練者の動きであり、それは素人のハルカにも一目で分かった。

 

 美香の鍛え抜かれた肉体を見て、美香がリングの上を鮮やかに動き回る姿を見て、ハルカは美香のことを知れば知るほどに彼女に勝てる自信が失われていく感覚に襲われた。

 

 これ以上もう美香のことを知りたくない。

 

 そういう心境に陥ったハルカは、一直線に美香に向かって行った。攻めていこうとしているのに精神的に追い詰められている。その実情を理解できていないハルカに勝機など訪れるはずもなかった。虚しくもパンチの空振りを繰り返していく。ガードどころか美香の身体にかすることさえ出来ない。

 

 美香のディフェンス技術もまた洗練された高いレベルであることを、ハルカは空振りを続け疲労感に襲われる中で嫌でも認めるしかなかった。

 

 パンチを空振りするたびにパンチを打つのがしんどくなっていく。それが分かっていながらも、ハルカはパンチを打つのを止めなかった。いや、止められなかった。

 

 攻撃さえしていれば美香は攻撃に出ないと思ったから。美しくリングの上を舞い、いともたやすくパンチを避け続ける美香の放つパンチがどれほどのものか。ハルカはそれを知ることを最も恐れいていた。

 

「はぁはぁはぁ……」

 

 ソフトボールの試合で100球以上だって投げられるスタミナを持つハルカが試合開始からたったの40秒で息切れを起こし始める。

 

 顔をしかめ辛そうに両腕を上げる。ボクシンググローブをはめてパンチを打ち続けることがこんなにもしんどいことをハルカは知らなかった。

 

 ガードをしっかり固めて、防御から。

 

 亜美の言葉の意味が分かってきたハルカだったが、ここまできてもう退けない。自分の作戦を信じて前に出なきゃ……。

 

 そうして、左足を前に踏み込んだ瞬間だった。

 

 バシィィッ!!

 

 ハルカの顔面から乾いた音が弾き起こされ、苦痛で顔を歪めた。顔がひりひりと痛むだけじゃない。泣きたくなるような痛みがまとわりつくように鼻にもんやりと残り続け、ぬめっとした液体が嫌な感触で鼻から唇に落ちていく。

 

 無意識にグローブで鼻に触れ、それが鼻血であることをハルカは理解した。

 

 何が起きたのかぜんぜん分からない。

 

 沸き起こる恐怖。

 

 目の前に対峙する美香は両腕を上げファイティングポーズを取ったままでいる。でも、その姿は前よりも強大に見えてしまう。

 

 ディフェンスもパンチも想像を絶していた美香のボクシング。どうしたら彼女に勝てるの……。

 

 ハルカの心がパニックに陥る中、美香がにんまりと笑みを浮かべ楽しそうに言った。

 

「これがジャブって言うの。ボクシングの基本のパンチだって知ってた? いっぱい打ち込んであなたにジャブの重要性を分からせてあげる」

 

 ジャブ?

 

 左の腕で小さく放つパンチ。それくらいのことはハルカも分かっている。ジャブばっかり打つって分かっているならあたしだって避けられないことはない

 

 そう思い、ハルカは美香の左腕に集中して目を向ける。

 

 バシィィッ!!

 

 高らかに鳴り響くパンチの音。美香の左拳が鮮やかに伸びきり、ハルカは顔面が潰れ、血飛沫をリングに撒き散らす。

 

 左拳がわずかに動く瞬間は分かった。でも、分かったのはそれだけで美香のパンチがどう飛んできたのかハルカにはまったく見えなかった。

 

 ハルカは疲労で重たい両腕をさらに上げて顔面のガードを強くして状況の挽回を試みた。パンチが見えなくてもボクシングのグローブは大きい。左ジャブばかり打ってくるなら避けられる。

 

 しかし、その数秒後、ハルカの目論見は虚しくも破られることになる。

 

 美香の左ジャブが次々とハルカの顔面を捉える。

 

 両腕でガードしているからといって対戦相手の姿が見えなければ反撃に移れない。美香はそのガードの隙間を巧みに突いて、さまざまな角度から左のジャブを放ち、ハルカのガードを無効化していた。それは男子のプロボクサーでもそう簡単に出来る芸当ではない代物だった。日本の男のプロボクサーでも何人それが出来るかどうか。

 

 まだ15歳でありながらそこまでのレベルに達している美香の高度なボクシング技術を目にし、感嘆の声を出さずにいられないほどに感銘を受けていた者がこの部室に一人いた。それはボクシング部のコーチ泉川涼子に他ならなかった。

 

「素晴らしいわあの娘……」

 

 百発百中といってほどに的確にヒットする美香の左ジャブ。顔を吹き飛ばされては戻ったところをまた左ジャブで吹き飛ばされパンチングボールのようにブザマな姿を晒すハルカ。

 

 美香はまだ基本中の基本のパンチしか見せていないというのにもはや勝負は決したも同然だった。

 

 1R終了のゴングが鳴ったところで、ハルカはようやく美香の左ジャブの雨から解放される。

 

 左ジャブだけしか受けてないというのにふらついた足取りで青コーナーに戻るハルカ。その姿だけでも痛々しいのに、その顔面はセコンドの亜美の表情を青ざめさせるほどの変容を遂げていた。水膨れしたかのようにぷっくらと腫れ上がる両頬。その輪郭は元の倍近くにまで膨れ上がり、可愛らしかったハルカの顔は直視できないほどに醜悪に変形してしまっていた。

 

「たった1Rでこんなに……」

 

 ボクシング経験者であるからこそ亜美は美香の左ジャブのその凄まじさを痛感せずにはいられなかった。そして、彼女という存在が同年代でいるかぎり、わたしに世界チャンピオンになる可能性なんてないんじゃないかとも。

 

 しかし、亜美はすぐさま自分の将来のことを懸念している場合じゃないと気づき、スツールに座るハルカに言った。

 

「ハルカ、もう棄権しよう。1R耐えただけでもハルカは頑張ったよ」

 

 ハルカの身の危険を案じそう亜美は言ったが、ハルカは。

 

「ごめんね亜美。亜美のアドバイスを聞かなかったから……」

 

「ううん、それいいの。だからもう止めよう」

 

 しかし、ハルカは首を横に振った。

 

「嫌なやつだけどあいつが強いってことは認める。でも、左ジャブしか打ってこないってことは油断してるってことでしょ。だったらまだあたしにも勝てる可能性はあると思う」

 

「ハルカ……」

 

 赤コーナーでは美香が両肘をロープに乗せ満足げな表情を浮かべセコンドの娘に身体の汗を拭いてもらっている。余裕に満ちた赤コーナーと悲壮感漂う青コーナー。対照的な両コーナーの光景にもはや試合を続ける意味はないも同然であったが、リングを見つめる涼子は試合を止める気配を見せない。冷静な視線を二人に向けている。

 

 カーン!!

 

 第2R開始のゴングが鳴った。

 

 まだ勝負は分からないと亜美に言ったハルカだが、ファイティングポーズを取る美香との距離が縮まると無意識にガードを相手が見えなくなるくらいに固めてしまった。ラッシュをかけられる前から亀のようにガードを固めるハルカ。

 

 情けない姿を見せるハルカだが亜美はその方が良いと感じていた。勝てる見込みがあるとは思えない。それでもガードを固めて美香の攻撃をしのいでいたら第1Rほどに酷い打たれた方にはならない。美香がスタミナ切れを起こす可能性もないわけじゃない。そうなったとしてもハルカが勝てる相手とは思えないが、強いダメージのパンチを受けるリスクはさらに低くなる。

 

 そう願う亜美だったが、しかし、リングの上はそんなに甘くなかった。

 

 美香が左ジャブだけで闘うことにこだわるのを捨て、隙だらけとなったハルカのお腹に左の拳を打ち込んだ。

 

 ズドォォッ!!

 

 凄まじい衝撃が腹を貫き、ハルカの口が膨らむ。内臓に異常がきたしたハルカが胃液を吐き出した。

 

「ぶわぁぁっ」

 

 耳を覆いたくなるような少女の呻き声と共に黄色い液体がキャンバスにぶち撒かれ、その液体がねっとりと絡まったマウスピースがぼとりと音を立てて落ちた。

 

 ダメージに身悶え口が開きっぱなしになり酸っぱい異臭を放つハルカ。

 

 その口を塞がんとばかりに美香が右の拳をハルカの顔面にぶち込んだ。めり込む美香の赤いグローブとハルカの潰された顔面の間から黄色い液体がさらに飛び散っていく。

 

 拳を引いた美香は、ハルカの胃液がついた自身のボクシンググローブを見つめ

 

「信じられない。美香のボクシンググローブを汚すなんて」

 

 その口調には怒りは感じられず、リングを汚すハルカを侮蔑するような目であった。

 

 美香がハルカにラッシュをかける。

 

 もう付き合ってられない。早く試合を終わらせてシャワーを浴びよう。

 

 そんな思いから素人相手に手加減していた美香が本気の攻撃を開始する。近い間合いで強打を連続して放つ。美香のパンチを滅多打ちのごとく浴びたハルカは20秒ももたずに後ろへ崩れ落ちるようにリングに倒れた。

 

 両腕をバンザイしているかのように広げ弛緩した表情で天井を仰ぐハルカ。もはや試合は決まったも同然だが、非情にもカウントが数え上げられていく。

 

 やっぱり無茶だったんだ素人のあたしが勝つなんて……。相手は世界チャンピオンを目指してるんだもん。目標もまだ立ててないあたしが勝てるわけなんてないんだ……。

 

 朦朧とする意識の中で苦痛と快楽に喘ぐハルカ。勝利への意志を捨てかけたその時、上に知里の顔が浮かび上がった。

 

 知里……。そっか……、あたし一人の思いじゃないんだ。知里の思いも背負ってあたしはボクシングを始めたんだ。決して軽い気持ちなんかじゃない。美香にだってボクシングにかける思いは負けてないあたしは。

 

 レフェリーのカウントが9で止まった。かろうじて立ち上がってきたハルカ。

 

 試合は再開され、ハルカは第2R開始の時と同様に徹底してガードを固める。美香のパンチの連打をロープを背負いながらなんとかしのぎ続け、第2R終了のゴングが鳴った。

 

 またしてもゴングに救われたハルカは亜美の肩を借りて青コーナーに戻れた。

 

 スツールに座るハルカに亜美はまたしても試合の危険を勧めた。残すはあと1R。でも、これ以上試合を続けるのは危険すぎる。

 

 でも、ハルカは亜美の提案を頑なに拒んだ。

 

「あたしと闘った友達のためにも負けられないから……」

 

 憎たらしい相手に勝ちたい。そんなぎらついた思いは消え煌びやかな目で見上げハルカはそう言った。ハルカの変化を感じた亜美は何も言わずに最終R開始のゴングが鳴り青コーナーを出ていくハルカの姿を見守った。

 

 ハルカの変化はボクシングにも表れる。ガードを固め、左ジャブを打っていく。左ジャブの打ち方を教わったことはない。美香の見よう見真似で放つ左ジャブ。そんなパンチが美香に当たるはずもない。しかし、ハルカはあきらめずに左ジャブを打ち続ける。

 

 それはハルカが初めてリングの上で行ったボクシングであり、ハルカがボクサーになった瞬間でもあった。

 

 そのハルカに対し、美香も左ジャブだけで応じる。左ジャブしかまだ打てない相手に右のパンチは使えない。それは彼女のボクシング経験者としての意地でもあった。

 

 左ジャブの応酬は、美香のパンチだけがことごとく当たっていく。二人の実力差を考えれば当然の展開であったが、少なくともボクシングの試合になっていた。やがて、ハルカの手が出なくなり、美香の左ジャブだけが放たれるようになる。

 

 ドカッ!!バキッ!!バシィッ!!バキッ!!

 

 リング中央で血飛沫を上げ、美香の左ジャブに一人舞い踊らされていくハルカ。二人の実力差が残酷なまでに現れたその光景が10秒以上続いたところで、レフェリーが二人の間に割って入り、力尽きるように後ろに崩れ落ちていくハルカの背中を抱き止めた。

 

 白いタオルがリングの上をひらひらと舞いキャンバスに落ちる。試合を止めたのはレフェリーではない。亜美であった。

 

 試合終了のゴングが鳴る中、亜美はハルカの元へ駆け寄り、レフェリーからハルカの身体を預けられ背中を抱き止める。

 

 両腕がだらりと下がりすでにハルカは気を失っていた。

 

 ボコボコに腫れ上がった酷い友の顔。でも、やりきったかのような笑みをうっすらと浮かべているように亜美には見えた。

 

 

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