燦燦と照り付ける太陽の光を浴びて、額から汗を流しながら歩いていて、ようやく目的の体育館が見えてきた。建物の敷地内に入って、「いよいよだね」と亜美が言った。屈託のない笑顔。憧れの大会に友達が出場することを楽しみにしているようで、ハルカも「うん」とにっこりとほほ笑んで明るく振舞ってみせた。

 

 この遠山体育館でこれから行われるのは女子ボクシングのインターハイ神奈川県大会。この予選大会に一つの学校から出場出来るのは二名まで。 ハルカはその出場の権利を賭けて、二つのブロックに分かれたBブロックのトーナメントの決勝で亜美と試合をした。第1R早々にハルカのダウンから始まった親友との試合は、ダウンを奪い合う死闘の末にハルカが最終R3Rに亜美をKOして逆転勝利した。

 

 試合を終えた後、二人はリングの上で抱き合った。亜美は涙を流しながら「がんばってね」と言った。世界チャンピオンになりたい夢を抱く亜美はとてもつらい心境だったと思う。それでも、亜美は自分からハルカのセコンド役を志願してくれた。その亜美の優しさにハルカは心から感謝していた。

 

 それだけにハルカは胸の内にあるもう一つの思いから、心苦しさも感じていた。

 

 晴れ晴れしい思いで臨んでないんだあたし……。

 

 

 一軍と二軍に分けて、練習場所、コーチのサポート、お風呂の入浴の順番など、露骨なくらいに待遇の面で差を作り、一日のトレーニングのメニューは完全に決まっていて自分が望むことが出来る余地はまったくなく、徹底的に管理して指導をする。待遇に大きく差を出したことで一軍の生徒の多くからは自分がエリートのような特別意識が感じられるし、徹底した管理指導は学校の価値を高めるためだけに指導されているかのようで、一人の人間というよりも価値を生み出す物のように扱われているような気持ちにさせられる。

 

 そういう聖アリス女学院女子ボクシング部の日々が嫌でたまらなく、ハルカはどうしてもボクシングを好きになれずにいた。辞めちゃおうかと何度も思ったけれど、それでも部に残っているのは、美香に試合で勝ちたい思いからだった。これまでの一年半で部内の試合で負けた娘は何人もいる。未経験で始めたんだからそれは当たり前だし、でも頑張って練習を続けていって勝てなかった娘たちにも勝てるようになった。でも、美香にだけは一度も勝てていない。三戦して三敗。全部KO負け。どの試合も完敗といっていいくらいに歯が立たなかった。それでも、二年生になって夏のインターハイの神奈川県予選への出場の権利を得られた。予選に出場できる二名のうちの一人。あたしは確実に強くなっている。このインターハイの予選で今度こそ美香に勝ちたい。

 

 そんな思いからボクシングを続けているのは歪んだ動機だとは思っている。でも、ボクシングが嫌いだったらさすがにとっくに部を止めていたと思う。嫌いじゃないけど好きにもなれないボクシング。霧のようにもやがかかった日々を過ごしているよう。ボクシングを続けているかぎり、この霧って晴れないのかな……。

 

 白いタンクトップ、ピンクのトランクスに着替え終え、リングが置かれてあるメインフロアに入って、隅にある白いボードの前に立った。

 

 そこにはトーナメント表が書かれている。参加選手の数は8名。聖アリス女学院がインターハイに参加するようになって二度の県大会ではいずれもうちの学校の選手が決勝戦で闘っている。さらに言えば、二大会とも優勝したのは美香で、それだけじゃなくて全国大会でも彼女が夏と冬の大会を共に優勝している。だから、この県大会でも優勝を本命視されているのは美香で、他校の生徒は聖アリス女学院の生徒に比べるとボクシングの実力が見劣りしてしまう。同じ学校の生徒は別のブロックに分けられるようになっているから、美香と試合をするとなったら決勝になる。

 

 だから、このトーナメント表を見ることにわくわくした思いはなかったけれど、規定通り、美香と自分が別のブロックで自分が第四試合であることを確認すると、踵を返した。先生たちがいるところに戻ろうとすると、

 

「ハルカ」

 

 と後ろから声をかけられた。馴染みのある少女の声。でも、日ごろ聞き慣れた声ではない……。

 

 一人の少女の顔が浮かび上がり、すぐにハルカは振り返る。目の前には想像と一致した少女が立っている。

 

「知里……」

 

ハルカはそう言って、知里の全身に目を向けた。彼女も青いタンクトップに白いトランクスの格好をしている。

 

なんでここにいるの? 思わずその言葉が出かかったけれど、彼女の格好を見ればその答えは聞くまでもなく明白だった。つまり、そういうことなのだ。

 

「びっくりしてる?」

 

 知里は温和な声でそう問いかけて、

 

「私、高校でボクシングを始めたんだ」

 

 と言った。

 

「でも、知里の学校にはボクシング部はないって言ってなかった……?」

 

 まだ目の前の出来事を受け止めきれないハルカはそう尋ねた。

 

「だから、自分で部を創っちゃった。ハルカと試合をした時のあの興奮が忘れられなくて」

 

 あの時の興奮……。知里はあたしとの試合でボクシングを始めようと思うくらいに楽しさを感じたのか。自分で部を創ってまでやってみたいと思うほどに。あたしもあの時ボクシングの楽しさを感じた瞬間もあったけれど……。でも、高校でボクシングを頑張ろうと思ったのは推薦を譲ってくれた知里の思いに応えるためだ。

 

「最初は人数が足りなくて同好会で、今年になってやっと5人になったから部として認められて公式戦に出られるようになったの」

 

 自身の近況を伝え終えた知里は、

 

「ハルカと試合できるよう一回戦勝つからね」

 

 と言った。温和な彼女のその声には闘志がほのかに宿っているようにも聞こえた。

 

 ハルカはすぐにまた白いボードに目を向ける。知里の一回戦は第三試合。お互いに勝ち上がれば準決勝で対戦になる。

 

「うん、お互い勝ち上れるといいね」

 

 そう言って精一杯の笑みを作り、知里とは分かれた。思いがけない場所での中学時代の友達との再会。同じ出来事を体験したことから二人ともボクシングを始めるようになって二人はまた出会った。でも、ハルカはこのボクシング大会での旧友との再会を素直に喜べなかった。

 

 前に知里と試合をした時は引き分けに終わった。あの試合の続き、決着戦をしたいという気持ちがないわけじゃない。たぶん、知里はそういう思いを持って試合に臨むと思う。でも、あたしは聖アリス女学院で立派なボクシング経験を持つコーチたちの下でボクシング漬けの日々を過ごしてきた。ボクシングの同好会から始まって今年になってやっとボクシング部として認められた知里とでは、ボクシングに費やした日々の中身の濃さがぜんぜん違う。もし知里と一緒に聖アリス女学院に入学出来て一緒にボクシング部での日々を過ごすことが出来ていたら、あたしたちは良いライバルになれたかもしれないけど……。

 

 ハルカは天井を見上げて呟いた。

 

「こんなことばっかりだよボクシングと出会ってから……」

 

 

 ハルカがリングに上がる。準決勝の試合。同じくリングに上がり、青コーナーに立つのは知里。ハルカは一回戦で苦戦することなく第3RKO勝利した。一方の知里は判定勝利。知里の試合が自分の試合の前だったから見ることは出来なかったけれど、部員の話だと、凡戦で退屈な内容だったらしい。「安牌で良かったわね」とその娘から肩を叩かれたほどだ。

 

レフェリーに呼ばれ、リング中央でハルカと知里が対峙する。

 

無表情のままお互いの顔を見つめ合う二人。ハルカが赤いボクシンググローブを軽く上げて知里の青いボクシンググローブの上にタイミングを合わせて重ねた。

 

二人が自軍のコーナーへ戻っていく。

 

セコンドの涼子は、

 

「ミドルレンジで闘いなさい。左ジャブを多めにね」

 

 と指示を出した。それは一回戦の時と同じ指示だ。ハルカが得意としているのはインファイト。でも、ミドルレンジから左ジャブを中心に試合を組み立てるオーソドックスな戦い方も指導されていて、試合の対戦相手によって使い分けるようにされている。一回戦の対戦相手は実力がだいぶ低いとみなし、確実に勝てるようにミドルレンジでの戦い方を指示された。インファイトの闘い方をしたら、ラッキーパンチを食らって負ける可能性もあるからと。ハルカはその指示に従って闘ったものの、内心ではインファイトをしたいと強く思った。自分の好きなボクシングはインファイトなのだから。

 

 一回戦と同じ指示が出されたということは、知里のボクシングの実力も低いと涼子は見なしたらしい。でも、相手の実力は実際にリングに上がらなきゃ分からない。

 

 知里のボクシングを直に見て強いと感じたなら、インファイトしなきゃ逆に負ける可能性が出てくる。涼子の見立てとおり、大した実力でなかったのならその時は……。

 

知里を格下とみなしてあたしはアウトボクシングを出来るのだろうか?

 

 心の中の迷いに答えを出せないまま、試合開始のゴングが鳴った。

 

 ゆっくりとした足取りで赤コーナーを出たハルカに対して、青コーナーを出た知里はリズムを取ったステップでリング上を動く。

 

 知里のボクシングはアウトボクシングか……。

 

 でも、そのフットワークの足取りは雑な音を立ててだいぶたどたどしい。

 

 知里には悪いけれど、美香のフットワークには遠く及ばないし、うちの部だと一軍どころか二軍レベルのものだと思う。

 

 ハルカはパンチを放たずに見続けていると、知里が左のジャブを打ってきたけれど、これもそのフットワークと似たようなものだった。スピードも力もないし、肩が力んでいるからパンチを打ってくるタイミングがすぐに分かってしまう。

 

 相手の実力をそう読み取ったハルカの思いを知らない知里は果敢に左ジャブを何発も打ってくる。

 

 ハルカはそのジャブをすべて避け続ける。簡単にさばかれ、それでも拙いパンチを健気に出し続ける知里の姿を見て、ハルカは美香と初めて試合をした時のことを思い出した。あの時、二人の間には大きな実力差があったのにあたしは自分の勝利を信じて闘い、美香にサンドバッグのように打たれ続けた。

 

 忌々しい記憶。悔しくて忘れることもできない過去。

 

ハルカは大きく後ろへステップして距離を取った。

 

 一度、大きく息を吸って吐いた。

 

 ミドルレンジで戦わずに接近戦して一気に仕留める。アウトボクシングで長い時間ダメージを与えるよりも早く試合を終わらせる。それが知里のためだ。

 

 二人の間に出来た距離を詰めに出たのは知里の方だった。直線的に距離を縮め、左のジャブを放つ。ハルカがガードすると、知里は後ろに大きくステップした。

 

 一つ一つの動作が大きすぎてドタバタしているだけのように見えるけど、それはヒットアンドアウェイなんだろう。

 

 遠くの距離から踏み込んでパンチを当てては距離を取り、相手の反撃をもらわないアウトボクサーの戦法。

 

 だったら、もう一度知里が攻めてきた時が絶好の機会。

 

 不用意に距離を詰めて打ってきた知里の左ジャブを右腕でパリングして弾くと、ハルカは身を沈めながら潜り込むように大きく右足で踏み込み、そこから生み出される力のエネルギーを左拳に集約するように左のストレートを知里の顔面に向けて放った。

 

 この一発で終わらせる。二年ぶりになる同級生だった友達との再戦をリングの上で楽しむにはあたしと知里では実力が離れすぎてしまった。知里のためにも早く試合を終わらせる。

 

 そう思い打ち放たれた一撃は、ハルカの思惑通りの結果を生み出すことはなかった。

 

 青のボクシンググローブがめり込まれ、顔面を押し潰されているハルカの姿がすべてを物語る。ハルカのパンチは空振りに終わり、知里の右ストレートがヒットしている。二人の両腕が交差してクロスカウンターとなって決まった知里の一撃にグローブで顔が埋まったまま、ハルカの身体がぷるぷると震え出す。ラッキーパンチでは説明がつかないパンチの威力であった。そして、それはけっしてラッキーパンチではなく思惑通りの結果を得たのは知里の方であったと、ダメージに打ち震えるハルカの姿を満足げに見つめる知里の顔が言い表していた。

 

 知里がすっと右拳を引くと、ハルカの顔面は目も鼻も潰れひしゃげていて、「ぶふぅっ」と唾液を吹き散らしながら後ろへ崩れ落ちて行った。

 

 ハルカが背中から倒れ、レフェリーからダウンが宣告された。

 

 

 

 

 

 

知里がレフェリーの指示に従いニュートラルコーナーへ向かう。ニュートラルコーナーに立ち、両肘をロープに預けて、平然とした表情で倒れているハルカを見下ろす彼女の姿はそれまで頼りないボクシングをしていたとは思えないくらい堂々としていた。

 

「ワン、ツー」

 

何が起きたの……

 

状況が理解できずに全身のダメージに悶えながら呆然とした表情でキャンバスを見つめるハルカは、レフェリーのカウントが数え上げられるたびに悔しさを募らせながらカウント8でかろうじて立ち上がった。

 

ファイティングポーズを取りながらも内股気味になる両足。ハルカの身体にパンチのダメージが相当に残っているのは誰の目にも明白であった。

 

試合は再開されるものの、ハルカは弱々しくその場に立ったままガードを固める。対照的にさっと勢いよく距離を詰めてきた知里は躊躇なく左ジャブを放つ。

 

知里の左ジャブならガードを固めればしのげる。身体のダメージに苦しみながらもそう読みを立てるハルカ。

 

スピードも威力もない知里の左ジャブ。そう目に焼き付いていた知里の左ジャブはハルカの目測をはるかに上回る速さで顔面を打ち抜いた。

 

 バシィッ!!

 

「ぶふぅっ」

 

 呻き声と共に唾液が漏れていくハルカ。パンチのダメージで歪むその顔からは困惑の眼差しが表れている。

 

見えなかっただけじゃなくて脳震盪が起きそうなくらいのダメージ……。

 

スピードも威力もけた違いに上がっている知里の左ジャブにハルカの心の動揺はさらに広がっていく。

 

 目の焦点が泳ぎ気味のハルカの顔面を知里の左ジャブが次々と捉える。マシンガンのようにハルカの顔面を後ろへ激しく吹き飛ばし続ける知里の左ジャブ。ハルカがふらつく足取りで後退し続け、ロープを背負うと、知里は瞬時に距離を詰め、ラッシュをかけた。左ボディ、右フック、左のアッパーカット。上下に見事にパンチを打ち分け、この好機を逃さずにグロッギーの相手に的確に連打を打ち込むその姿は、知里のボクシングが本物であると周りに知らしめるに十分な光景だった。

 

「あれ、ラッシュかけられてるの聖アリス女学院の娘でしょ。白いトランクスのあの娘、誰?」

 

「沢村田高校の生徒だって」

 

「あたし、聖アリス女学院の選手が一方的に殴られてるの初めて見た」

 

 まさかの試合展開に周りの生徒たちや大会関係者たちの注目がリングに集まるようになり、波乱が起きるんじゃないかという好奇の視線が向けられる中、ハルカはロープを背負いながら知里のパンチをサンドバッグのように浴びる。KOシーンが期待される中で手を出せず滅多打ちを浴びるハルカの姿は哀れさと虚しさが混じり合い、ボクシングが持つ残酷さを如実に表していた。

 

カーン!!

 

第1R終了のゴングが鳴った。長いこと続いていた知里のラッシュがようやく止まる。まだ1Rが終わったばかりだというのに顔面がボコボコに腫れ上がり茫然自失の表情でロープにもたれかかったままのハルカに対して、知里が言った。

 

「ハルカなら油断すると思ってた。昔からの悪い癖突かせてもらったから」

 

 直前まで激しくパンチを打ち続けていたとは思えないくらいに平静な声。目の焦点が今も定まらないハルカに知里は続ける。

 

「悪く思わないでね。私たちはボクシングのリングの上にいるんだから」

 

 そう言い放ち、知里は青コーナーへと戻っていく。力ない目でその背中を見ながら、数秒立ちハルカもようやく赤コーナーへと戻る。

 

油断? 試合序盤はわざと下手に振る舞って闘っていたってこと?

 

弱々しい足取りで歩きながら、混乱していた頭の中が整理されていき、ハルカは自分のしたことを悔やみ、唇を噛み締めた。

 

バカだあたしは。小さな部だからって心のどこかで知里の実力を軽んじてみてた。学校とか関係なくちゃんと知里のボクシングを見ていたら、彼女が手を抜いていたって気づけたかもしれないのに。

 

赤コーナーに戻り用意されたスツールに座るハルカに涼子が声を荒げる。

 

「いきなり大振りのパンチを放つなんて不用意にもほどがあるわ」

 

下を向き返事をせずにいるハルカに対して涼子は続ける。

 

「実力を隠していたといってもあの程度のボクシングならうちの部なら代表にもなれてないレベルのものよ。次のRはあなたの得意なインファイトでと言いたいところだけど、まずは距離を取ってダメージ回復に努めなさい。左ジャブで突き放していればポイントは奪われないわ」

 

涼子の高慢な言葉にハルカは心の中で反論した。

 

あの程度? 知里の放った左ジャブはそんな見下した言葉で言い表せるものじゃない。スピードも威力もとても高いレベルのものだった。高慢な思いを持って闘っていたら絶対に負ける。

 

ハルカは体力が回復するまで距離を取るという涼子の指示には同意するものの、ポイント稼ぎの左ジャブを放つことには頷けなかった。下手に左ジャブを放ったらまた知里の左ジャブを浴びてしまう。徹底してガードを固めて知里の攻撃を凌いで、ダメージが回復したら接近戦で勝負に出る。

 

涼子の指示を耳に入れず、次のRの闘い方を自分で立てたハルカは、第2R開始のゴングが鳴ると、ゆっくりと赤コーナーを出て両腕を上げてじっくりと知里の出方をうかがう。

 

アウトボクシングで闘う? それともダメージが回復しきれていない今がチャンスと判断してラッシュをかける?

 

アウトボクシングなら美香との試合を経験しているからダメージを負っててもなんとかさばけると思う。いくら知里の実力が高くても美香のボクシングほどじゃないから。もし、ラッシュをかけてきたのならガードを固めながら打ち返す。接近戦はあたしの距離だ。ダメージがあるからリスクはあるけれど、逆転のチャンスでもある。

 

ハルカは頭の中でいろいろと対応の作を図る。

 

知里もリングを周りながら一定の距離を保ち続ける。そうして、二人がお互いに相手の様子をうかがって10秒が経過した。

 

突如、知里がダッシュして距離を詰め近距離からパンチを放つ。知里のフックの連打にハルカはガードで防ぐ。

 

仕留めに来た? 望むところだよ。接近戦はあたしの距離だ。

 

五発以上のパンチをガードでしのぎ続けたハルカが反撃に出る。十分なパンチを打てるくらいにはダメージが取れてきている。

 

ハルカが右のフックを放つ。

 

ズドォォッ!!

 

重く鈍い音が響いた。ハルカの右フックは空を切り、知里の左の拳がハルカの腹を的確に捉えている。

 

パンチをダッキングでかわしきった体勢から放たれ、鋭角な角度で突き刺さる知里の左ボディブロー。胃を押し潰したその一撃でハルカの頬が膨らみ、マウスピースが口からはみ出る。

 

「私が得意の闘い方も接近戦なの」

 

 ダメージで身震うハルカに知里がそう言い放つ。

 

お互い、得意の距離で闘い合いましょう。

 

そうとも読み取れる知里の宣戦布告。それを合図に二人は全力のパンチを放ち合った。

 

ストレートは打てずフックが主体となるほどの近い間合い。パンチが当たるのは必然で、強烈なパンチが幾度となくヒットした。攻撃重視の試合にはアマチュアの試合でも拍手がたびたび選手に送られる。しかし、この試合を見ている者たちの反応はそうではなかった。リング上の異様な光景に言葉を失い表情が固まっていた。

 

パンチが当たるのは知里だけ。ハルカのパンチは空振りを続け、知里のパンチだけが次々と当たっていた。至近距離から放たれる相手のパンチをかわしてはパンチを打ち込み、反撃をかわしてはまたパンチを打ち込む。攻防一体を体現する知里の高校生の次元を超えたボクシングの前にハルカは何も出来ず、その身体は瞬く間にボロボロになっていく。原型を留めないほどに醜く腫れ上がる顔面、タンクトップの下はその顔面同様に赤紫色に変色しているだろう。

 

至近距離だというのに自分のパンチは全く当たらず知里のパンチだけが当たっていくハルカにとって悪夢でも見ているかのような展開が繰り広げられる。ハルカは知里のパンチを浴びるたびに悔しさを募らせ勝利への意欲が霧散していくかのように奪われ、乾いていく心の中でその悔しい感情だけが心を覆うように広がっていく。

 

血のにじむような練習の日々、誰にも負けないと胸を張れるくらいに積み重ねてきた努力がまったく報われない試合展開にハルカはこれは夢の中の出来事なんじゃないかと思いたくなるほどにこの非情な現実を受け止めきれないでいた。

 

リングの外に逃げ出したい。それくらい辛いのに、知里に負けるのは嫌だという思いがなんとかハルカをリングの上に立たせている。

 

当たらないパンチをハルカは出す気力さえ奪われ、知里のパンチに怯えるように顔を覆うように両腕でガードを固める。その上から雨のように放たれる知里のパンチ。どうにもならず、たまらずにハルカは知里の身体に抱き着きクリンチする。

 

「なんで……」

 

 鼻からは血が垂れ流れ絶望的な展開を味わい憔悴した表情ですがりつくように知里の腰に両腕を回しクリンチするハルカは思わずそう呟きの声を漏らした。

 

「同好会だったからたいして強くなるわけないって思ってた?」 

 

 知里はハルカの思いを見透かすように言った。

 

「何もないところから創り上げていくことの方が恵まれた練習環境より人を強くさせることもあるの」

 

 知里はそう言い放つと、すがるように抱き着く元クラスメートの身体を両腕で突き放し、顔面に右ストレートを打ち込んだ。

 

めり込む知里の右拳にハルカの顔面は潰され、血が巻き散っていく。

 

ハルカの身体が後ろへ沈んでいく。だが、運良くロープに背中が当たり、右腕を最上段のロープに絡ませ、かろうじてダウンを免れた。

 

第2R終了のゴングが鳴った。

 

身体のダメージと心を打ち砕かれた思いからハルカは下を向き、血が点々とキャンバスにシミを作る。

 

もはや自力で赤コーナーへ戻れる力もなくセコンドの亜美の肩を借りながら自軍のコーナーへ戻っていく。

 

親友の肩を借りながら、朦朧とした意識の中でハルカは自分の思いを恥じていた。

 

心のどこかでまだ知里を下に見ていたのかもしれない。あたしの練習環境はすごいんだからって。同好会だった知里には負けるわけないって。あたしもいつのまにか聖アリス女学院に蔓延しているエリート意識に染まっていたのかもしれない。どんな環境でも必死になって練習すれば人は強くなれる。困難な状況ほど人をたくましくさせる。そんな当たり前なことも分からなくなっていた。

 

赤コーナーのスツールに座り、ヒステリックに喚き散らすように指示を出す涼子の言葉を全く耳に入れず、ハルカは第3R開始のゴングが鳴ると、自分の思いに問いかけながら赤コーナーを出て行った。

 

余計なことは全く考えない。まっさらな思いで知里とボクシングしよう。知里に負けてもかまわない。真っ向から向かってパンチをどんどん打っていく。それがあたしのボクシングなんだから。

 

これまで受け身だったハルカが初めて自分の方から攻めて行った。近距離まで間合いを詰めて足を止めてパンチを放つ。それは前のRで知里にまったく通用しなかったボクシング。それでもこれがあたしのボクシングだからとハルカはパンチを自分から打っていく。

 

ハルカのパンチは全く当たらずに知里のパンチだけが次々とハルカの身体を捉える。第2Rに起きた非情な展開が再現されていくだけ。その光景に何も変化はうまれない。パンチが当たらないハルカの身体を知里が一方的に殴っていくだけ。

 

それでも、ハルカはぼうっとしていく意識の中で、元クラスメートとの二年ぶりとなるボクシングを大切に味わっていた。

 

あぁ知里はすごい。慢心の思いを捨てて闘ってもパンチが全然当たらないなんて……。

 

だんだんと薄れていく意識。それでも、ハルカは懸命な眼差しで知里を見続ける。

 

でもね、知里。あたし、あなたに見せてないパンチがあるの。

 

劣勢からガードに徹していたハルカが知里の右フックをかいくぐる。伸び上がるようにして打ち放たれた右拳。ハルカの右アッパーカットが知里の顎を打ち抜いた。

 

グワシャァッ!!

 

キャンバスを飛び上がるんじゃないかというほどに勢いよく身体ごと伸び上がったハルカの右アッパーカットに知里の両足がキャンバスから浮き身体が宙を舞う。白いマウスピースが彼女の身体のさらに上をいくように銀色になまめく液体の光を放ちながら飛び上がっていく。

 

知里が背中からキャンバスに激しい音を立てて落ち、両腕両足を広げ大の字で倒れた姿をみせる。

 

ハルカの得意とする全身が伸び上がるように放つアッパーカット。それはソフトボールのピッチャーの経験を生かそうという発想から生まれたものだった。

 

 

 

 

 

 

 まさかの大逆転劇におぉっと歓声が沸き起こる。常勝校、聖アリス女学院の選手というだけで完全アウェイのような状態だったハルカに対して声援が集まっていく。

 

 騒然とする場内の中で、知里がカウント9で立ち上がる。口の端からは血がにじみ出て、両足は生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えている。勝利への執念だけで立ち上がってきたようなものだった。でも、それはハルカも同様であった。もはや一発のパンチを打てるかさえ怪しい満身創痍の状態。大きなダメージを負ったハルカと知里が弱々しい足取りで距離を詰めると二人はそれが当然のように打ち合いを再開した。

 

 知里だけでなくハルカのパンチも当たっていく。勝利への執念だけでパンチを打ち合うノーガードの殴り合いが続いた。

 

 沸き起こる二人への声援。学校名なんて関係ない。二人の熱い思いに感化された者たちが声を上げて、満身創痍の状態で闘い合う両者の名前を呼んだ。

 

 懐かしいこの感覚……。

 

 知里と初めてボクシングをすることになった時、あたしは友達である彼女を殴れなかった。でも、知里は聖アリス女学院に入りたい思いから必死にあたしにパンチを打ってきた。友達との闘い、推薦入学の切符を賭けた闘い。部活の仲間にチームのエースだったあたしが負けたくない。

 

 友情、欲望、優越感、プライド……いろんな感情が生まれては消え、最後はただ相手に勝ちたいという思いだけで知里と夢中でパンチを打ち合った。

 

 リングの上に憎しみとか劣等感とかそんな感情はいらない。

 

 あたしはただ純粋に殴り合いをしたかっただけなんだ……

 

 友達だった知里との殴り合いでハルカはボクシングへの思いを思い出していく。

 

 今度こそ知里に勝ちたい。恵まれていない環境下でそれでも強くなって再び現れたあたしのライバルに勝利したい。

 

 身体のダメージが限界を超え、ハルカの身体が打ち震え始める。しかし、それはハルカだけではなかった。知里の身体も同様に異変が起き打ち震え始めている。わずかに残されたすべての力を右拳に集めてハルカがパンチを放った。呼応するように知里も左のパンチを放つ。

 

 ひたすらに純粋に勝利を欲する思いをのせたハルカの右ストレート。同好会の発足から始め、誰よりも強くなりたいと一年半の高校生活をすべてボクシングに捧げてきた知里の熱い情熱が宿った左ストレート。

 

 二人の渾身のパンチが交差し、次の瞬間二人の反応に大きな差が生み出されていく。

 

 グワシャァッ!!

 

 凄まじい打撃音が響き渡り、両者の動きが止まった。パンチが空を切りぷるぷると震えが止まらない赤のボクシンググローブと確かな手応えと共に相手の頬に深々とめり込まれた青のボクシンググローブ。

 

 勝負は決着を見せた。右ストレートを寸前でかわしきり左ストレートをハルカの顔面にめり込ませる知里。ライバルが放つ渾身のパンチの上を行きライトクロスを決める彼女の姿は神々しいまでに美しく、ボクシングの神様に選ばれ祝福を受けているかのように煌びやかに輝いていた。

 

 知里の渾身のパンチが頬にめり込まれているハルカの目は何も捉えておらず、その凄まじいパンチのダメージにただぷるぷると身体を震わすだけであった。

 

 知里がゆっくりと青いボクシンググローブを引くと、醜く歪んでいたハルカの口にさらに大きな歪みが生じる。

 

「ぶうぇぇっ!!」

 

 渾身のパンチの打ち合いに敗れ果てた少女の口から漏れた苦しみに満ちた声。観客席にまで響き渡ったその儚き呻き声が場内に静寂を生み、吐き出された白いマウスピースが虚しさを誘うように宙を舞う。

 

 弧を描いて飛んでいき弾むように二度キャンバスの上をはねたマウスピースを追うようにハルカの身体が反転し泥酔者のようにふらつきながら血反吐を撒き散らしキャンバスに倒れこんだ。

 

 

 

 

 

 

 主の元を離れたマウスピースのすぐ横でハルカがどさりと倒れこみ、キャンバスに頬が埋まり歪んだ口から血が赤いシミを作り上げていく。水たまりのように広がり、凄惨に打ちのめされた姿をハルカが晒す中、知里は左目がふさがった痛々しい顔に充実感に満ちた笑みを浮かばせる。そして、力尽きたようにふらついた足取りで後ろに下がり、ロープにもたれかかった。

 

 死闘に終止符が打たれたのだと一目で分かる二人の姿。レフェリーは両腕を交差して試合を止めた。試合終了のゴングが鳴り響き、レフェリーはロープにもたれかかったままの知里の右腕を高々と上げた。

 

「第3R1分40秒、沢村田高校中川千里選手のKO勝利です」

 

 試合結果を伝えるアナウンスが流れる。精一杯戦い抜いた二人への拍手が止まない中、亜美の肩を借りて何とか立ち上がったハルカは知里の元に近寄って、身体を密着させ抱擁した。

 

「また闘おうね」

 

 小さな声でハルカはそう伝える。知里の「私も同じ思いだよ」という返事を聞いてハルカはまた亜美の肩を借りるようにしてリングから降りた。

 

 控室でベッドの上に寝て疲れ果ててて眠っていたハルカは、県大会のその後のことをこの目で見ていない。目が覚めた時、横で介抱してくれていた亜美から決勝戦の試合を美香が勝ち大会を優勝したことを教えてもらった。美香の2RKO勝利で圧勝といっていい内容だったらしい。ただ知里に準決勝の試合のダメージが残っていたのは明らかで彼女の動きは準決勝までと違ってとても鈍かったのだとも。もし美香と知里の二人がノーダメージだったらどちらが勝つのか分からない。その答えは次の冬の大会までお預けなんだろう。

 

 でも、その事実にハルカは関心を持たなかった。

 

 亜美の話を聞き終えて、ハルカは一つの決断をした。

 

 ボクシング部を辞めよう。それで一からボクシングをやり直すんだ。

 

 

 それから三年後。後楽園ホールにロック音楽が大音量で鳴り響く中、黒いガウンを着たハルカが姿を現し花道を歩いていく。リングに上がり青コーナーに立つ。音楽が止まると、次にアメリカ人女性が歌うポップスが大音量で流れだした。黄色いガウンを羽織り、少女がその音楽に身体をのせながらリングへと向かって行く。セコンドによって分けられたロープの間をくぐり、役者が揃ったリング。ハルカは黄色いガウンを纏う少女の屈強な肉体の腰に巻かれた金色に輝くチャンピオンベルトに目を向けた。

 

 自分の闘志を高めるように胸元で左右の拳を打ち鳴らした。

 

「富永美香からベルトを奪取した中川知里の初防衛戦。挑戦者として臨むのは日比野ハルカ。中学時代にクラスメートだった二人が日本女子フライ級のベルトを賭けて闘います!!」

 

 チャンピオンベルトを腰に巻き威風堂々とリングに立つ元クラスメートだった少女の姿に高揚感を覚え、ライバルとの大舞台での決戦にハルカは心の中で笑みを浮かべた。

 

 今度こそあたしが勝つからね知里。

 

 おわり

 

 

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