この日北沢タウンホールでは日本のボクシングではきわめて珍しい同じジムの選手同士の試合、同門対決が組み込まれていた。女子ボクシングのフライ級新人王決勝戦。リングの上では今まさにその闘う選手同士が中央で対峙して立っていた。  

 

 青コーナーの田牧のぞみは赤コーナーの光智優花よりも身長が頭一つ低い。年齢も一つ下の18歳で眩いほどに明るく茶色に染めたショートカットの髪型にまだ幼さが残る童顔の顔を睨み上げるようにして闘志に満ちた視線をぶつけている。一方の優花はボブカットの髪が似合う楚々としたたおやかな顔立ちをしているが、その顔からはすでに汗が垂れ流れていて表情も片目を細めて歪めていて苦痛に耐えているかのようにぎこちない顔をしていた。4R以上闘っているかのような疲弊の色が彼女からは滲み出ている。  

 

 レフェリーの注意事項の確認が済み、二人が拳を合わせて前に出すと、のぞみが溢れる闘士に待ちきれないとばかりに青いボクシンググローブを上げて、優花の赤いボクシンググローブの上からぱんっと叩く。お互いの闘う意思を確認し合う試合前の挨拶だったが、そのグローブの軽い衝撃だけで優花の目がさらに細まり表情に苦痛の色が強まる。  

 

 その優花の表情の変化をのぞみは見逃してくるりと先に背中を向けて青コーナーへと戻って行った。その後に優花も赤コーナーへと戻っていく。赤コーナーに戻った優花はセコンドからの指示にも虚ろな目で耳に入ってないかのように辛そうな目で返事も出来ずに曖昧に頷くだけだった。汗が顔だけでなくて上半身から幾つもの筋を作り流れ落ちていて、試合開始のゴングが鳴る前だというのに、優花の白いスポブラは汗ばみ肌に張り付いている。優花の異変にリングの上に立つ人間は誰も気付かないまま、運命のゴングは鳴った。  

 

 

 新人王戦の準決勝の二試合が終わり、優花とのぞみが勝ち上がり決勝戦へ進出が決まった翌日から彼女たちが所属する川村ボクシングジムでは、彼女たちの快勝に歓喜する一方で、ぎすぎすとした空気も生まれていた。同じジムである優花とのぞみが勝ち上がって決勝戦はどうなるのかとそのことばかりが気になり、優花を支持する者たちとのぞみを支持する者たちで二分していたのだった。

 

 日本のボクシングのこれまでの慣習に従えば、新人王戦で同じジムの選手が当たることになった場合はどちらかの選手が棄権するようになっていた。しかし、女子ボクシングは日本ボクシング協会でなく、女子ボクシング競技会が管轄して運営していた。まだその歴史は浅く、選手層も薄いために新人王戦はアトム級、フライ級、バンタム級の三階級でしか行われていない。その新人王戦も実施されるようになってまだ五年目でこのような同門の選手たちが勝ち上がって当たるのは今回が初めてであった。  

 

 だから、ジムがどのような判断を下すのか、優花かのぞみのどちらかを棄権させるのか、それともこれまでのボクシング界の慣習に捉われずに二人を闘わせるのか。ジムの者たちの関心の対象はそこにばかり注がられてジムの中の時間は流れていった。  

 

 元々ジムの会長やトレーナーたちは優花とのぞみを同じ年でなく一年ずらさせてエントリーさせる予定であった。優花はのぞみよりも年齢が一つ上であるだけでなく入門も二年早かった。15歳と若いうちにボクシングを始めただけでなくセンスにも光るものがあって、会長や優花のトレーナーは彼女に大きな期待をかけていた。優花を17歳でプロデビューさせ18歳の時に新人王戦にエントリーさせる青写真を描いていた。しかし、プロデビューして二戦目の試合で優花は右拳を骨折した。そのために18歳で新人王戦にエントリーさせる青写真は崩れてしまった。そして、優花が拳を負傷したその年にジムに入門して一年が経ったのぞみがプロデビューを果たし、その一年に3戦3勝という見事な成績を彼女は残した。ジムに入門した当初は身長が低くリズム感のないのぞみにはあまり期待がかけられていなかった。しかし、プロデビューして初戦をKO勝ちすると、次第に攻撃的なボクシングスタイルが確立されていき、練習の時以上の実力を発揮してKOを重ねていくのだった。いわば本番に強いタイプがのぞみであった。そして、試合を重ねるごとに力が付いていく彼女にジムも優花と同様に期待をかけるようになっていった。その結果が優花とのぞみを同じ年の新人王戦にエントリーさせて、そして、同じジムである二人が決勝戦で当たるという事態を生んだのだった。  

 

 将来のチャンピオンを期待されている二人の激突。本来ならばスポーツなのだからそのまま闘わせて白黒をつけた方が良いはずだ。しかし、それは理想論にすぎず、選手たちの心情を考えれば、どちらかの選手を棄権させて同門対決を避けて来たボクシング界の慣習は当然の判断であった。だから、川村ボクシングジムでも日本ボクシング協会でなく女子ボクシング競技会の興行であってもボクシング界の慣習どおりにどちらかの選手を棄権させるのではないかという見方が多勢であった。そして、ジムでは一年先輩である優花に花を持たせ、のぞみを棄権させた方が良いのではないかという声が強かった。しかし、それは建前も含んでいて、やはりのぞみよりもボクシングの経験が二年長い優花の方が実力が高いはずだと見ている人たちが多いのだった。  

 

 だが、ジムの会長はなかなか判断を下さずにいた。優花とのぞみが進出した新人王決勝戦は日本タイトルマッチを控えているかのような緊張感をジムに生み出し、試合が行われるかさえ分からないもやもやした事態が続くことにジムではぎすぎすした空気だけでなく苛立ちさえ募っていた。

 

 そして、三週間が過ぎて、ジムの会長室に一本の電話がかかってきた。会長がその電話の応答を済ませ終わると、練習をしていた優花とのぞみが会長室へと呼び出された。部屋の奥にある長机の椅子に座る会長を前にして優花とのぞみが並び立った。激しく練習に打ち込んでいた二人の身体からは今も汗が滴り落ちている。

 

「今さっき競技会から電話があってな、新人王決勝戦についてのことなんだが———」  

 会長はそう切り出すと、

「競技会としては優花とのぞみの二人に決勝戦の試合を行って欲しいとのことだった」  

 と言い、両指を重ねて組みやや前のめりの姿勢になって優花とのぞみを見やった。

 

「どうする? 競技会がそういう考えである以上、私から止めることはない。あとはお前たち次第だ」  

 

 競技会が二人の試合を要望するとは優花は思ってもなくて、困惑した表情を浮かべてのぞみの方に顔を向けた。優花としてはのぞみとの試合を避けたい気持ちがあった。同門であるのぞみとリングの上で闘っても後味の悪い結果になるだろうとそのことばかりが気になっていた。しかし、優花はのぞみと試合をするのなら勝てると自信を持っていた。それは他の人たちが考えるのと同様にのぞみよりも二年長くボクシングをしている経験から彼女のボクシングには幾つかの穴を見つけていて十分に対処出来ると判断していた。だから、優花はのぞみから自ら試合を棄権する選択がされることを望んでいた。

 

 しかし、のぞみは優花にはまったく目を向けずに会長の顔を見て、

「はいっ、試合をさせてください!」  

 と力強い声で言った。その迷いのなさに、

「えっ……」  

 と優花は困惑から思わず声を漏らしたほどだった。しかし、会長から、

「優花はどうなんだ?」  

 と選択を改めて迫られて、優花は会長の方を慌てて向いて、

「やりますっやらせてくださいっ」  

 と答えた。のぞみが闘う気である以上、闘う意思を示さないわけにはいかない。

 

「そうか。では決定だな」  

 

 会長の組まれていた指に力が込められ、試合決定の判断が正式に下された。試合の決定を受けて、のぞみが優花の方を身体ごと向けた。

 

「優花先輩、わたし先輩には負けませんからね!」  

 

 そのギラギラと力強い眼差しは挫折を知らない者の目だと優花には映った。自分が負けることなどこれっぽっちも考えていない前だけを向いた危ういほどに真直ぐな目。自己主張をするのが苦手な優花も試合前から相手の前で気後れしているわけにはいかないことは承知している。

 

「のぞみちゃん、わたしも全力でいくから覚悟しててね」   

 

 のぞみの目を精一杯力強く捉えてそう言い伝えたのだった。

 

 

「のぞみも負けん気はだけは人一倍強いんだから。優花先輩が勝つのは分かってるんだから、自分から辞退すれば良かったのに」  

 

 試合前の控え室。椅子に座り、差し出された優花の右拳にボクシンググローブをはめてがっしりと白いテーピングを巻き付けながら瑞佳が不服そうな顔で言った。のぞみと同じ18歳の瑞佳は優花に憧れを抱くように慕ってくれている。そんな彼女が試合までの六週間、胸の内に溜まっていたもやもやした思いを代弁するかのような言葉を言ってくれて優花は気持ちが少し楽になるのを感じた。しかし、自分も同調してしまうわけにはいかないのは優花も承知していて、

「勝負は時の運だからね。実際にリングに上がってみないとこればかりは分からないよ」   

 と形式的な言葉で応じた。しかし、瑞佳はまだ言いたいことが胸の内に溜まっているのか、

「そりゃ分かってますけど、おかげでこの二ヶ月間、ジムの中を陰険な空気で過ごさなきゃいけなかったんですからたまったもんじゃないですよ」  

 となおも不満を吐き出した。それからはっとした表情になって、優花の顔を見て、

「あっいえ優花先輩を責めてるわけじゃないですよっ」  

 と両手を顔の前で左右に振った。申し訳ない顔をする彼女に元気を取り戻して欲しくて優花は、

「分かってる。瑞佳には練習にずっと付き合ってくれて感謝してるよ」  

 と言って笑みを浮かべた。

 

「そっそうですかっ」  

 

 優花から優しい言葉をかけられて瑞佳は照れたように頬が赤くなる。  

 

 その時、控室の扉が開いて、まだ20代の若い興行のスタッフが中に入って来た。上下、青色のジャージを着たこの男性がスタッフだと優花に分かるのは、胸に名前が付いたプレートを付けているからだった。そのスタッフは優花の前で、

「マウスピースをお届けにきました」  

 と言って、透明のプラスチックの箱を差し出した。その箱を優花は受け取り、お礼を伝えると、スタッフはお辞儀をして部屋を出た。優花はすぐに箱を開けて中から白いマウスピースを出して顔の前でまじまじと見つめた。

 

「これが競技会が作ってくれたマウスピースなんですかぁ」  

 

 物珍しそうに瑞佳が言う。歯を守るために試合の時に口にはめるマウスピースは、ジムでは兼用のものが置かれているが、自分の歯の型に合わせて作ることも出来る。マウスピースをはめると呼吸をしづらくなり息苦しい思いをしながらボクシングをしなければならなくなるが、自分に合わせたマウスピースだと歯にぴったりとフィットして、呼吸をするのがだいぶ楽になる。プロとして試合をしている多くの選手が自分用のマウスピースを使用して試合をしているが、ファイトマネーも多く出ない女子ボクシングの選手では兼用のマウスピースでリングに上がる選手も少なからずいる。そのため、競技会では重要な試合、今日のような新人王戦の決勝などでは、費用を負担して競技会指定の歯医者で選手専用のマウスピースを作る義務を担っていた。マウスピースを作るのに一万円はかかるのだから、その費用を負担してくれるだけで受け取れるファイトマネーが少ない新人選手にとってはありがたい。優花は自分用のマウスピースをすでに持っていたが、試合を重ねればそれだけ形も崩れていくのだから、新たに作ってもらおうと競技会からの申し出に応じていた。  

 

 競技会が作ってくれたマウスピースを優花は初めて手にして、物珍しく見つめていた。

 

「せっかくだからはめてみてくださいよ」  

 と瑞佳が言った。恋人から指輪を渡された前で友人がのろけた姿を見たくて促すシチュエーションのようであったけれども、実際はまったく違い、試合で自分の歯を守るための道具を手にしているのだから、甘い雰囲気など微塵もない。それでも、自分専用の新品のマウスピースを手にして、幾分気持ちが高まる優花は瑞佳の催促に応じて口にはめた。装着の具合は兼用のものと違って格段に良いとすぐに分かる。しかし、優花はかすかに木のような匂いを感じて顔をしかめた。生々とした清々しい樹木の匂いならまだ良いがそうではなくて苔けたような匂いであった。僅かに過ぎないが、前日まで減量をしていて神経が研ぎ澄まされていた優花は他の人なら見過ごしてしまうかもしれないその僅かな匂いが気になって、マウスピースを口から出した。優花が顔をしかめていたから、

「どうしたんですか先輩?」  

 と瑞佳が尋ねた。優花はマウスピースを瑞佳に差し出して、

「ちょっと匂うから洗ってきてくれない瑞佳」  

 と頼んだ。

 

「いやだぁ匂うって」  

 と瑞佳は笑ったものの、受け取ったマウスピースを見つめながら彼女も困惑した顔をして、

「これ衛生的に大丈夫なんですかね」  

 と言った。

 

 優花は返事に困って苦笑いを浮かべるだけだった。たぶん、自分が神経質になりすぎているだけなのだろうと思って、それ以上は考えないようにした。すぐに洗って戻ってきてくれた瑞佳からマウスピースを改めて受け取ってもう一度マウスピースをはめてみる。今度はもう匂いはまったくしなかった。やっぱり気のせいなんだろう。そう思い、気持ちを払しょくしようと優花は両腕にはめている赤いボクシンググローブを胸元でばすっと合わせた。  

 

 

 新人王トーナメントの決勝戦は二試合目のフライ級へと移っていた。優花とのぞみの一戦はボクシング界では極めて稀な同門対決であったために新人王戦の中でも一際注目を集めていた。試合はすでに第4Rを迎えており、猛打のパンチの音が次々とリングの上から発せられていて、選手に送られる声援の波は頂点に達しようとしている。

 

 新人王の決勝戦は青コーナーの選手が青を基軸としたトランクスを、赤コーナーの選手が赤を基軸としたトランクを履く規定となっている。この青コーナー側と赤コーナー側に対の色に分かれる演出が赤組と白組に分かれて競い合う運動会のような独特の熱気、いわば運動の祭りのような熱を北沢タウンホールの場内にもたらす作用を生み出していた。  

 

 しかし、その青と赤に分かれた対抗意識が白熱した試合であるのならば良い循環を生み出すが、リング上の二人の対決は白熱とは程遠い一方的な展開が続いていた。猛打を放つのはのぞみだけであり、優花はロープに追い詰められ背中を丸め弱々しく縮こまっている。試合前は有利と目されていた優花がまるでサンドバッグのような状態になっている。優花の顔面はすでに頬も瞼もパンパンに膨れ上がっていて、一方でのぞみの顔はパンチの痣は見当たらずほぼ無傷な状態だった。五十発を超えるパンチを浴びなければこうも顔の形が変わるはずはなく、優花は1Rから劣勢を強いられのぞみのパンチをいいように浴び続けていた。この予想外の展開は観客たちの熱狂に拍車をかけ、力強いラッシュをみせるのぞみの名前が熱狂の波に身を委ねたい観客たちに呼ばれ、大歓声を呼び起こしていた。

 

「のぞみ~!のぞみ~!」  

 

 観客たちの声援は神輿を担ぐ時の掛け声のような連帯の波を場内に生み出しており、その声援に後押しされるようにのぞみが豪快に優花の顔を右に左に吹き飛ばしていく。優花のガードは完全に崩れ、KOはもはや時間の問題だった。  

 

 カーン!!  

 

 ここで第4R終了のゴングが鳴り、のぞみのラッシュが止まった。のぞみからの圧力が止まったとたんに優花のガードのために上げられていた両腕がだらりと下がった。背中がロープにもたれかかったままの優花の顔面の腫れは一段と膨らみを増し、虚ろな目で天井を仰いでいた。  

 

 これはちがうの———。  

 

 優花はボロボロになった身体を天井の照明の光に照らされながら、ただその思いだけが込み上げてきた。優花は身体が動けずに悲壮な思いを味わいながら呆然としてロープを背に立ち尽くしている。  

 

 パンチのラッシュが続き息を荒げていたのぞみは大きく息を吸うと勝ち誇ったように微笑を浮かべて、

「ゴングに救われましたね、先輩っ」  

 と言い放った。優花は何も言い返せずに唇を噛み締めた歪んだ顔で彼女を見つめることしか出来なかった。優花がもはや反駁することさえ出来ないと分かって、のぞみは微笑を消して口元を力強く結びしめて青コーナーへと戻って行った。

 

「優花先輩っ!」  

 

 瑞佳が青コーナーへ帰るのぞみと入れ違えるように慌てて優花の元へ駆け付けた。瑞佳の呼びかけに反応するように優花がゆっくりと顔を向けて、そして、力尽きるように前に崩れ落ち瑞佳にその身体を抱き留められた。密着する優花の身体から噴き出るように流れる汗の匂いと悔しさの感情が充満した胸から漏れる湿った花のような匂いが混じり合ったように異臭を放ち瑞佳の鼻をついた。優花の身体から立ちこもる強烈な匂いが複雑な関係にある二人がこのリングで闘っているのだと瑞佳に強く思わせた。動けない優花が瑞佳の肩を借りて赤コーナーへ帰っていく。  

 

 優花のトレーナーである江野が用意したスツールに優花がどさっと座る。

 

「おいっどうしたっていうんだ!いつものお前のボクシングはどうしたっていうんだ!あと2Rしかないんだぞ!」  

 

 満身創痍の姿となって帰って来た優花に江野が大きな声で話しかける。 優花の勝利は揺るぎないと信じていただけに、江野は優花がこうも一方的に打たれる展開が信じられずにいた。のぞみが想像以上に強かったという以前に今日の優花のボクシングは別人のように精彩を欠いていた。俊敏なフットワークも優花の攻撃の生命線である左ジャブも漫然と繰り広げているだけで、そこには相手の行動に呼応した意図がまるで見られなかった。これまでどの試合でも常に試合を支配してきた左ジャブはキレを失いまったく当たらずに、代わりにのぞみの大きな踏み込みからのフックを何度も浴びた。ダウンこそまだ一度もないがその力強いフックを食らって、優花の身体がぐらついたことが二度三度とあった。まだ挽回出来るまだ挽回出来ると信じていたのぞみとの試合は第4Rを終え、いよいよ挽回が不可能といえるまでに追い詰められた。  

 

 江野が激を何度も飛ばしても優花は頭を垂らして顔をしかめたまま苦しそうに呼吸をするだけだった。江野も優花の姿に異変を感じて、

「どこか怪我でもしてるんじゃないのか!?」  

 と神妙な表情で訊ねたが、下を向く優花はただ無言で首を横に振るだけだった。インターバル終了を告げるブザーが鳴り、優花が椅子からもっさりと立ち上がる。優花は両腕を下げたまま瑞佳の方に顔を向けた。その顔はインターバルで休んだ今も右の頬が引き攣ったように上がっていて呼吸をするのも苦しそうであった。瑞佳が手にしていたタオルで拭かれていた汗が早くも頬から垂れ流れていく。瑞佳は優花の顔を見てマウスピースを右手で持ったまま、

「先輩……」  

 と呟きを漏らした。優花がむくっとした表情で顔を近づけたので、瑞佳は反射的に優花の口にマウスピースをくわえさせた。優花が右手を口持ちに当てマウスピースのはまり具合を調整していると、第5Rのゴングが鳴り、赤コーナーをゆっくりと出て行った。

 

「先輩……」  

 

 瑞佳は泣きそうな声で再び呟きを漏らした。先輩である優花の奇跡の逆転勝利を願うように瑞佳は両指を組み合わせてリング上を見つめた。  

 

 身体が鉛のように重たくて動かない。その感覚は深いダメージを負った今だけでなく試合が始まる直前からずっとあった。自分の身体が自分のものじゃないようなもどかしい思いを持ちながらこの試合の間のぞみのパンチをいいように浴び続けた。  

 

 なぜこうなったのか分からない。体調不良になるようなことをした覚えもない。しかし、今はそんなことよりも、のぞみの身体にパンチが当たって欲しいとただそれだけを優花は願っていた。  

 

 優花はもうフットワークが使えるような状態ではなく、のっそりと重たい足取りで直進していく。そして、青コーナーから飛び出て来たのぞみも今すぐにも仕留めにかかろうと一直線に向かっていた。  

 

 一瞬にして距離が近まった二人。優花は反射的に左ジャブを出していた。それは無意識に近く、射程距離に入った対戦相手に反応したボクサーの本能であった。優花にはこの左ジャブの精度がどの程度のものかという自覚もなく、うっすらとした意識の中でただこのジャブを足がかりに反撃に出たいという意思が赤いグローブに覆われた左拳には込められていた。そして、後輩の願いの分までも込められた左ジャブに対して交錯するように迫り来る青色の拳はただひたすらに力強かった。微弱な力に切なる願いを込めた優花のパンチは空発に終わり、のぞみの右ストレートが力に満ち溢れた躍動のままに相手の顔面を打ち抜いたのだった。  

 

 グワシャァッ!!

 

 両腕の筋肉が隆々と膨らんだのぞみの一撃に優花の顔面が圧し潰されて、頬が膨張するように変形をする。のぞみの右拳に圧し潰された顔面からは血と汗が飛び散っていった。のぞみの拳から伝わる凄まじい衝撃に優花の身体中の動きは硬直し、闘うための力が瓦解したかのように全身の筋肉が緩まっていく。  

 

 第5Rの最初の攻防を終えた二人であったが、その最初の一撃を受けただけで優花はもう闘えるような状態ではなくなっていた。両腕がだらりと下がり、マウスピースがぬめりと透明の液体に絡まりながら吐き出され、目が虚ろで口がだらしなく弛緩した表情で前のめりに崩れ落ちていった。  

 

 のぞみは両腕を見開くように広げ、沈み落ちる優花の身体がその胸にぶつかった。軽く両腕を広げたのはもうパンチを打つ必要がないと悟った余裕からであったが、奇しくもガッツポーズの格好のように優花の身体を受け止めるのぞみの姿は一足早く勝者の勝ち名乗りを受けたかのように観る者を錯覚させた。全身の汗が艶やかな光沢を放ち頬を上気させた雄々しくもはつらつとしたのぞみと彼女の胸に顔が埋まり両腕がだらりと下がりもはや闘える状態ではなくなっている優花。密着して汗に満ちた肌と肌が触れ合う距離において雄々しく上がっている青色の拳とだらりと下がっている赤色の拳がこの試合の決着を物語っていた。  

 

 勝ち誇るように笑みを浮かべて優花の顔を見つめるのぞみは両腕を上げたままで、暫しこの状態が続き、優花の身体がずり落ちるように前へと沈んでいった。顔から落ちるようにキャンバスに沈んだ優花はその反動で両足が浮くように上がった。そして両足がキャンバスに付くともう優花の身体は全く動かなくなり、両腕をだらりと下げてキャンバスに顔を沈めている優花の姿に場内は静まり返った。依然としてガッツポーズを上げたまま優花を見下ろすのぞみと打ちのめされたようにうつ伏せにキャンバスに倒れている優花のその完全な優劣のついた対照は観客の心に深い衝撃を与え、むせ返るほどの花の匂いが二人の間から立ち昇るのだった。 

 

 そして、試合終了を告げるゴングが打ち鳴らされ、レフェリーによってのぞみの右腕が高々と上げられた光景を目にした観客たちから歓声と拍手が乱れ飛び、のぞみは勝者の勝ち名乗りだけでなく、勝者への祝福も受け、さらなる輝きを放っていた。

 

 

web拍手 by FC2