第一話

 

高級なスーツを着た紳士や煌びやかなドレスを着飾った婦人たちの談笑がノイズのように響いている。

エリート階級たちの社交場。

あたしには場違いな場所だ。

やってられない。明日は試合だってのに。
 

「そうつまらない顔をするな」
 
斜め上から下りてきたエルマの声。
振り向くと隣に彼が腕を組むように立っていた。
陸軍の少佐であたしの上司兼ボクシングのトレーナーだ。

「御前はパーティーの主賓の一人なんだ。周りの目を集めていると思っておけ」

そう言ってエルマが続ける。

「笑顔でいろとまでは言わんがな」

ユウは組んでいた両腕をほどいた。

解いたのは腕だけ。

表情を変えるつもりはなかった。

この場にちょっとでも融け込むことが嫌なんだ。
あたしは戦士。そして、明日は大事な試合が控えているんだから。

「ところでコスモス側の選手は誰なんですか?」

「俺も分からん」

はあっと息が出た。試合相手の選手が分かると思って我慢して来たのに。

「いずれ分かるだろう。パーティーの中で試合に出るファイターは必ず紹介されるからな」

「そうですか」

こんなところでパーティーの余興みたいに大々的に紹介されても。
動物園にいる猿じゃないんだから。

エルマが前へと出る。

「どこに行くんですか?」
「挨拶しておかんといかん人間がたくさんいるんでな」

振り返らずに答えるエルマがテーブルの上を指差す。

「くれぐれもここに出てる飯は食べるなよ」

普段から低い声が一段と低くなった、

「どんな手を使って毒を盛ってくるか分からんからな」

そう言い残して離れていくエルマの背中を見ながら分かってますとユウは小さく呟いた。


明日の試合は長年追い求めていたもの。

明日の試合に勝てば父の情報を手に入れる可能性が格段と上がるかもしれない。

四十年前に人類は宇宙に住む時代を迎えた。人口増の問題を解決するために人工の居住地スペースコロニーを開発して宇宙に飛ばしたのだ。徐々にスペースコロニーに移住する人は増え今では地球の人口の五分の一が生活し、スペースコロニーの数も七つになっている。

でも、スペースコロニーは宇宙で生活していても地球の一部であって、彼らは遥か遠くに住む地球人。その構図が差別と搾取をもたらした。

地球側にすべての決定権があり地球が何事においても優先という構図に不満を蓄積させたスペースコロニー側は、すべてのコロニー間でコスモスという同盟を組み、地球に戦争を仕掛けた。一年に渡ったその戦争は地球側の勝利で終わり、スペースコロニーとで和平が結ばれた。それでも、今も地球による差別と搾取は続いている。戦争が終わり和平が結ばれても何も変わらないのだ。
多くのものを失っただけ。大切なものを失っただけ。

あたしの父はその戦争で亡くなった。

あたしの家に爆弾が落とされた。

一人家にいた父。助かるはずがなかった。

爆発した家の中で見つかった父の死体には銃弾の跡が胸にあった。

軍人でなく宇宙学の学者であった父が戦争で銃殺された。それは戦争に巻き込まれたのではなくて計画的な犯行だった。父の友人である宇宙学の学者のエマーソンはそう母に説明していた。幼かったあたしは部屋の外から偶然に聞いてしまった。

父はなぜ殺されたのか。
誰に殺されたのか。

あたしは真実を知りたくて決意した。

軍人になる。そして、コスモス側とで毎年終戦日から三日間開かれる平和の祭典「エターナルピース」のメインとなるイベント、女子同士のボクシングの試合に出て勝つ。試合に勝った地球側の選手は全員が軍人で皆軍の幹部に昇格している。ボクシングの試合でコスモスの選手に勝つことは至上命令。戦争に勝った地球がコスモスに負けることは絶対にあってならないこと。その命令通りにこれまでの九年間は地球のファイターが勝ち続けてきている。軍に入隊して二年目で掴んだ大舞台での活躍の場。幹部になれば戦争で起きたことを知る機会が一気に増える。


そのために十二歳からボクシングを始めた。ボクシングは好きになったしジムの仲間と一緒に練習する日々は楽しかった。そのままジムに残って世界チャンピオンを目指したい思いもあったけれど、父の死の真相を知りたい思いを捨てきれなくて軍人になった。

軍に入隊してからはジムの仲間と会うことはなくなった。いいやつばかりだったけど・・・。特に仲が良かったのはキララ。あたしと同じ年の彼女は同じ時期にボクシングのジムに入会してきた。強くなりたいという理由で。

口の悪いあたしの愚痴に彼女は嫌な顔をしないで聞いてくれた。

分かるよ、ユウちゃんの気持ち。

彼女はよくそう言って頷いてくれた。

彼女にそう言ってもらえるだけでギスギスしたあたしの心は和らいだ。でも、彼女とだけはもう二度会うことはない・・・。

十五歳の時、キララはスペースコロニーに移住してしまったのだ。

もう会うことはなくても、明日の試合はスペースコロニーでも放送されるみたいだから、あたしの元気な姿だけでも見せられたら良いかな。

ユウちゃんはすごいなぁ。

練習の時によく言っていた言葉をもう一度言うかも。


「ユウちゃん」

キララの声がユウの名前を呼ぶ。

幻聴? 

じゃない。はっきりとしたリアルな声。


我に返って、顔を上げる。

ワンピースの水着にコスモスのマークがついた軍服のジャケットを着た姿。
彼女はユウの目の前にいた。

 

 

 

 

第二話

 

「スペースコロニーに移住?」

「うん」と申し訳なさそうに答えるキララ。

「何でスペースコロニーなのっ…あっちの生活水準は地球より低いって有名じゃん」

そう言うと、キララは表情を曇らせて俯いてしまった。

あたしは思い出した。キララの家庭がけっして恵まれていないことを。キララの父親は地球歴史学の学者だけれど、数年前に大学の教授の座を追われて、それからは研究を続けながら小さな塾の講師のアルバイトでなんとか生計を立てていた。だから、キララはジムの月会費を一番安いコースにしている。一番安いコースは練習の場を自由に使えるだけでトレーナーの指導がつかない。でも、キララの強くなりたい思いを知ったあたしはトレーナーから教わったことを自分が彼女に教えていた。あたしが教えているからというのもあるけれど、彼女はけっしてボクシングは強くなかった。それでも、彼女は毎日のようにジムに通い真面目に練習を続けた。強い女性に憧れていた彼女はボクシングで世界チャンピオンになることを夢見ていた。

「ごめん…」

「そうじゃないのユウちゃん」

キララが慌てて否定する。

「えっ?」

「第3スペースコロニーの政府がお父さんの仕事を認めてくれて援助してくれるんだって。お父さんすごく喜んで…」
 
そう言って彼女は続けた。

「わたしは今の生活すごく好きだけど、だからいいの。お父さんがあんなに喜んだ顔見たの初めてだから」

「そっか…じゃあ笑顔でキララを送り出さないとね」

あたしは精一杯の笑顔を彼女にみせた。キララもぎこちない笑顔をみせてくれた。

「あっちでもボクシング続けるんでしょ」

「うん」

「目指すはあっちで世界チャンピオンだね」

「うん」

キララは頷いて、そして片方の目から涙が零れ落ちていった。

「ユウちゃんもお父さんの情報分かるといいね」
 
キララにはボクシングを始めた理由を教えていた。父のことまで話をしたのはジムの中で彼女だけだった。彼女だけがあたしの特別な存在で彼女にだけは本心を話したんだ。

そのキララとリングの中央で対峙している。収容人数8万人を誇るサッカースタジアムであるマリンフィールドスタジアムが満員となるほどの観客が集まる中で。

プロボクシングのリングなら受け入れられた。でも、このリングは地球とコスモスの大統領を始めとした両サイドの要人が観覧する御前試合であり、でもそれは建前で実質は地球とコスモスの威信をかけたボクシングの試合なのだ。政府の黒い思惑が入り混じったそんな汚い舞台でキララと闘うなんて耐えられない。

地球の方がコスモスより遥かに優れていることをホームである地球だけじゃなくスペースコロニーでも放送される大舞台の場で知らしめる。戦争で勝利した地球の方が今もコスモスよりも強い。そんなくだらない名目のためにキララを大観衆の前で倒さなきゃいけないなんて。
あたしに出来ることは早くキララを倒して試合を早く終わらせるだけだ。


キララと目を合わせることなく、赤コーナーに戻ると、

「言うまでもないがコスモスのボクシングのレベルは地球より低い。だからといって油断はするな。負けるわけにはいかない試合なんだ。1Rは様子を見ていけ。確実に勝つためにな」

エルマにそう指示を出されて頷いたけれど、でも試合開始のゴングが鳴ると、身体が前へ前へといくのが止まらなかった。
左のジャブから右のストレートのコンビネーションを積極的に打った。
早く試合を終らせたいその一心がユウを攻めに走らす。

右のストレートでどんな強敵もリングに沈めてきた。目で捉えられないほどのスピードでステルスと呼ばれている自慢の右ストレート。

キララには申し訳ないけれど、必殺のパンチで早く試合を終わらせる。

そう思い、何度も右のストレートを放った。

でも、目にしたのは想像すらしてなかった光景。

パンチが一発も当たらない。ガードどころかかすりすらしない。パンチを打つたびにキララは距離を取り、ユウのパンチの間合いから消えていった。右のパンチだけじゃなくて左のジャブさえもパンチを打つと後ろに下がり、距離が離れていく。それはまるでユウの思いを見透かしているかのようだった。

キララはファイティングポーズを取り、表情をまったく変えずに立っている。一方のユウはパンチの空振りが続き息を乱している。
その姿は赤コーナーと青コーナーの二人の立ち位置がまったく逆であるかのようであった。

これがあのキララなの?

ユウは息を切らしながら信じられない思いで目の前に立つかつての親友の姿を見る。

キララは以前のキララと違う。これまで闘ってきた地球のファイターたちよりも強くなっている。

でも、これならどう。

ユウは攻め手を変えた。横、斜めの動きを捨ててひたすら前進しながらパンチを打ち続ける。かわしながら後ろに下がっていくキララを待ち受けていたのはコーナーポスト。逃げる場所を失ったキララにユウが右のフックを放つ。

捉えた。
 
そう思ったパンチは何も捉えずに空転した。

対戦相手を見失ったユウはすぐに後ろを振り向く。

キララはコーナーポストから脱出していた。コーナーポストを背負ったのは自分。やばいと思ったユウは慌ててガードを上げる。

しかし、キララは攻めるどころか後ろへと下がっていく。そうしてリング中央で足を止めたキララに対して、ユウは向かって行った。

我を忘れていた。キララを出来るだけ傷つけずに勝つことを。コーナーポストに追い詰めた相手を目の前にして下がる行為。見下されたかのようなふるまいに闘争本能が反応した。

目の前の敵を倒さなきゃ。
 
その思いに満ち溢れていたユウの右のストレート。

グワシャァッ!!

爆弾が爆発したかのような凄まじい音がリングに響き渡った。
ついに当たったパンチはまるでとどめの一撃のように強烈な光景を生んだ。

血飛沫が舞い散り、マウスピースが宙へと飛んでいく。

激しいパンチの衝撃に瞳の輝きを失い、ぐにゃりと足が曲がるように後ろに崩れ落ちていく。

歓声に溢れていた場内が静まり返る。声を出せずに今にも悲鳴を上げたい表情でリングに目を向ける大勢の観客たち。

異様な空気に包まれた中、ユウは「速い…」とうめくように声を漏らし、身体を震わせた。

――――あたしのステルスよりも…

大の字になってマットに沈んでいるユウ。ファイティングポーズを崩さずに見下ろすキララの姿をぼんやりとした視界の中に映しながら、パンチのダメージに身悶える。

負けるはずがないと思っていたかつてのジムメートに1R早々に倒された…

得意の右のストレートの打ち合いで上をいかれた…

屈辱的な思いがいくつも錯綜するように頭の中でぐるぐると動き回る。


ダウンを告げるレフェリーの声を合図に静まり返っていた場内が一転してざわめいた。
第1Rですでにグロッギ―な姿をみせるユウに地球の住人が大半を占める観客たちは悲鳴を上げ、アナウンサーが叫んだ。

「ダウン!!第1R早々にダウンシーンが起こりました。ダウンしたのはユウ・アカシ。地球のファイターがダウンしたのはこれが初めてです!!」

 

 

 

 

 

第三話

 

「何やってるんだ。慎重に行けと言っただろうが。分かってるのか、この試合に負けたらお前も俺も軍にいられなくなるんだぞ」

ダウンから立ち上がりすぐに鳴ったゴングに救われてかろうじて赤コーナーに生還出来たユウにエルマが鬼のような形相で檄を飛ばす。

「奴はカウンターの使い手だ。右は出すな。タイミングを読まれている可能性がある。左だ。左のパンチで崩していけ」

左のパンチだけで崩せるボクシングをキララがしているとは思えないよ。心の中でそう思いながらもユウは第2Rが始まるとエルマの指示通りのボクシングを実行した。それは1Rと同じ攻め方をしてもキララには勝てない。だからといって他に有効な作戦が思い浮かばないという消極的な理由からだった。
 
基本に忠実なボクシングにすがる他ない。

そんな追い詰められた状況の中で、赤コーナーを出ていく。

徐々にキララとの距離を詰めていきながら、軽く左拳を握る。


左拳にこんなに意識を集中させるなんていつ以来だろう。

ボクシングを始めたばかりの頃を思い出す。

ユウは自虐気味に笑みを浮かべる。

まぁ、案外悪くないかもね。

ボクシングの原点であって最も重要なパンチにすべてを託す。
分かりやすくていいじゃん。

最も練習してきたパンチなんだ。

自信を持って打ちなよ、あたし。

初めは当たらないかもしれない。でも、しつこく出し続けていればいつか当たる。

そう信じてユウは左のジャブを放った。

何千、何万と練習で打ってきたパンチ。

その中でも会心の左ジャブを打てている。

初心に帰ったユウは左の腕を前に伸ばしていく最中、パンチが走っている感触を味わう。

キララは距離を取らずにいる。

反応出来ていないんだ。

バシイィッ!!

高らかに響くジャブの音。打ち抜かれた顔面はひしゃげ、潰れた鼻から血が吹き散っていく。足がもつれよたよたと下がる。
鼻血を出させ射程の距離から追い出した、最高といえる左ジャブ。

そのパンチを生み出していたのはキララだった。

二歩三歩と後ろに下がって、持ちこたえるユウ。

「嘘でしょ…」

鼻血をキャンバスにぽたぽたと落としながら呆然とした表情で声を漏らした。

会心の左ジャブさえもカウンターのパンチを合わされた。

しかも、このR初めて打ったパンチに。

パンチを出せばカウンターで返される。

そんな地獄のような展開を想像し、ユウはごくりと唾を飲んだ。

青ざめた表情をするユウにキララが表情を変えずに言った。

「ごめんねユウちゃん。わたしはもう昔のわたしじゃないの」

ユウが歯をぐっと噛み締めた。左拳をぎゅっと握りしめる。

「何をっ…」

キララを睨み付け闘争心を剥き出しにするユウ。

「あたしだってあの時より遥かに強くなってるんだ!!」

ユウが左のジャブを放つ。しかし、そのパンチはキララの頬の横を通り過ぎ、逆にキララの左ジャブがユウの頬に抉り込むように打ち込まれた。
首がぐにゃりと曲がるユウ。唾液と血が霧状に舞い、キャンバスにシミが出来上がる。

歯を食いしばって堪え、再び睨み付けるようにキララを見た。


認めたくない。キララのその力を。

全てのパンチを返すカウンターパンチを打てる。

そんな技術を持っていたら勝てるはずない。

ただ可能性を否定したいがためにユウはすぐさま反撃に出た。

審判のカギを握る左ジャブを打って。

しかし、そのパンチをヘッドスリップで難なくかわしたキララは左ジャブをカウンターでユウの顔面にめり込ませる。

第2Rが開始され、またユウへの声援が起き始めていた場内が瞬く間に静まり返った。

あらゆるパンチをカウンターで打ち返す怪物の誕生を目にし、地球側の人間が大半を占める観客たちは言葉を失う。

ありえないという思いは勝てるはずがないへと変わっていた。

ユウが左ジャブを打ちに出る。
ユウだけが受け入れられずにいる。

その先にあるのは――――


「またしてもキララ・チガサキのカウンターパンチが炸裂!!これで五発連続です。ユウ・アカシの左ジャブをすべてカウンターで打ち返しています!!キララ・チガサキが地球最強のファイター、ユウ・アカシを手玉に取っています!!」

出したパンチをことごとくカウンターで返され、パンチを打つたびにボロボロになっていくユウ。

想定した地獄が現実のものとなっていく。

 

 

 

第四話

 

パンチを打てばパンチを打たれる…

リング中央に大の字になって倒れているユウが天井を仰ぎながら半笑いの笑顔を浮かべる。目がとろんとし、力無く開いている口からはくわえているのも苦しそうにマウスピースが顔をのぞかせる。

セコンドの激しい叱咤の声、観客席から漏れる悲痛な叫び。リングに向かって飛ばされるそれらは恍惚とした表情で倒れているユウにとって窓の外からの音のようにしか聞こえてこない。

ユウの身体に数えきれないほど打ち込み、何度となくキャンバスに這わせたキララのカウンターパンチ。ぴくりとも身体が動けず朦朧とするユウの意識は身体だけじゃなく心にまでダメージを深く刻み込まれた彼女のパンチに囚われている。

パンチを打つたびに身体中に尋常じゃない衝撃が走った。自分のパンチのダメージがキララのパンチに合わさって返ってくる。ハードパンチャーのあたしのパンチの威力がさらに増して自分に打ち込まれる。それは身体が粉々に砕けるんじゃないかと思えるほどのダメージだった。
でも、辛いのはそれだけじゃない。パンチを打たなければカウンターを食らうことはない。でも、パンチを打たなければ試合に勝つことを放棄するようなもの。自分から攻めていってボロボロにされていく。まるで自分から破滅に向かって行っているかのような虚しさを味あわされた。そして、その虚しさはダウンを重ねるごとに増していく。

これで何度目だ…。
第1Rに一度、第2Rに一度、第3Rに二度、第4R・第5Rに一度、この第6Rに二度…。
八回もキャンバスの冷たい感触を味あわされているのかあたしは…。
軍人になってからボクシングのリングの上で味わったことのなかった悔しさをこの試合だけで八度も…。

プロボクシングの試合ならとっくに止めている。
でも、これは御前試合。

ここは地球。

地球に住んでいる人たちの威信がこの試合にはかかっているんだ。

止めるはずがない。

あたし次第なんだ。

立たなきゃ…。

負けるわけにはいかないんだった。

地球のためじゃない。

お父さんの為に…。
亡くなった父のためにあたしはここで負けるわけにはいかないんだ。

ユウはカウント9で立ち上がる。レフェリーは試合を続行させた。
キララが攻めてこないなら自分もそのままでいようと思った。
このRもう二度もダウンしている。次ダウンしたら強制的に試合終了だ。逃げ腰は嫌だけどなんとしてもこのRを凌がなきゃ。
キララはこれまで一度も自分からパンチを打ってきていない。あたしからパンチを打たないかぎりパンチを打ってこない。キララがこれまで同様の闘い方をしてくるならこのRを凌げる。来るな、来ないでくれ。
朦朧とした意識の中でユウは懇願する。

しかし、その願いすらも適うことはなかった。

キララは攻めてきた。全速力のダッシュで。

突き放さなきゃ左ジャブで。
ユウはパンチを打とうとするものの金縛りにあったように身体が硬直して動かない。
カウンターパンチを打ち込まれた時の凄まじい衝撃の数々が甦り、ユウの心を恐怖心が拘束する。
もうイヤだと心の中で呟いた。
パンチを打つのがイヤ。もうパンチを打ちたくない…。

パンチを打てばパンチを打ち込まれるから…。

本能が己の身体を守ろうとする。

 

でも――――

ユウは知っている。

パンチを打たなきゃもっと打たれるだけなのを。

次の瞬間、ユウはリングの上の鉄の掟を身をもって味わった。

キララのパンチの猛攻になすすべもなく滅多打ちを浴びるユウ。
ロープに追い詰められ一方的にパンチを浴び続けるその姿はキララのサンドバッグにしか映らず、二人の試合の勝敗は決したも同然だった。

早く試合を止めるべきだ。

地球側の人間が多くを占めている観客席でさえも誰もがそう願うほどの一方的な惨劇。

しかし、試合は終わらない。

レフェリーは止める素振りすら見せない。
その不可解な振る舞いに場内は一段とざわめいた。

八万人を超える大観衆が見つめる中で無力にも殴られ続けるユウ。目から輝きは消え失せ人形のように覇気のない表情をする顔からは血や汗、唾液といったあらゆる液体が殴られるたびに飛び散っていく。

キララが距離を詰めパンチを打ち込んでいく。さらに激しさが増すキララのラッシュ。ロープとキララに挟まれ、密着した距離で強烈なパンチを打たれゆく中でユウは、キララの存在をこれまで以上に意識した。
キララに負けたくない…。
ずっとあった意地は触れ合った肌から伝わってくるキララの体温を感じるにつれ、彼女を一人のボクサーとして認識して薄れていき、自分よりも遥かに強くなったことをユウは受け入れた。

あたしの負けだ…
キララ、あんたの勝ちだよ…
だからもう…

ユウは心の中で願う。届くわけないのに…どんなに二人の身体が密着していても声に出さなきゃ届くはずないのに…。

朦朧とする意識がさらにおぼろげになり消えていこうとする。

次の瞬間、パンチの雨が止まった。

パンチを打つのを止めたキララが踵を返し、ユウの元から離れていく。

「キララ・チガサキ、まだ試合は終わってないぞ…」
レフェリーが動揺した声で注意するものの、キララはかまわず歩を進める。その先にあるのは青コーナー。自分のセコンドの元。

レフェリーは戸惑った表情でキララにまた何か言おうとしたものの、すぐにユウに視線を移した。ユウの異変に気付いたからだ。

「うぅぅっ…」

ファイティングポーズを取り続けたままでいるユウ。しかし、目は白目を向き、唇が細く尖る口からは唾液にまみれたマウスピースが半分はみ出ている。上半身はぷるぷると小刻みに震え、もはや闘えるような状態でないのは誰が見ても一目瞭然の姿だった。呻き声を漏らすユウの上半身の痙攣が一段と激しさを増す。

「ぶえぇぇっ!!」

ユウが口を大きく開けマウスピースを吐き出した。それと同時に両腕がだらりと下がり、糸の切れたマリオネットの人形のように前のめりに崩れ落ちていく。

ユウが顔面からキャンバスに倒れた。

レフェリーが両腕を交差して試合を止める。試合終了のゴングが打ち鳴らされた。

青コーナーに戻ったキララはセコンドの男から手を肩に置かれる。セコンドの男は地球に初めて勝ったというのに浮かれる様子もなく「よくやった」と淡々とした口調で声をかけた。
キララは「はい」と簡単に返事を済ましてユウを見た。キャンバスに倒れたまま動けずにセコンドに介抱されているユウを寂しげな表情で見つめる。
「辛かったよねユウちゃん。ごめんね早く倒せなくて」

キララの小さな声は倒れたままのユウに届かない。そして、勝者となったキララがユウに声をかけることはなかった。青コーナー陣営は自軍のコーナー付近で静かに敗者の動向を見続け、赤コーナー陣営は慌ただしく意識を失ったままのユウを担架に乗せリングを降りていった。

 

 

 

 第五話

 

陸軍本部の建物を正面入り口から出た。誰もいない殺風景な光景の中、ユウは大きなバッグを右手に持ち敷地を歩いて正門へと向かう。門へ近づいていくと正門に一つの影が現れた。それはかつての上官の姿。
「出迎えるものが一人もいないと様にならんだろ」
エルダがサングラスを外して言った。ユウのむすっとした表情はほぐれくすっと笑う。
「経験者は語るですか」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ」
エルダは顔を反らす。
「ですよね。すみません、中佐」
ユウは頭を下げた。エルダは顔を反らしたまま黙ったままだ。
「責任は全部上官だった俺にある。だから責任を取って軍を辞めるのも俺一人でよかったんだ。そんな当たり前の理屈も通らない腐った組織だったんだよな俺たちがいたところは」
エルダは顔を反らしたまま言う。
「だからお前は何も気にすることはないんだ。そう伝えようと思って来たのにお前の軽口のせいでまた説教しちまった」
ユウはふふっと笑った。エルダがようやくこちらを見る。
「何がおかしい」
「中佐の小言を聞くのもこれが最後なのかって思って」

「ふざけたやつだ。それにもう一つだけ言わせてもらうがな
「何ですか?」

「俺はもう中佐じゃない」
「そうでしたね。エルマさんって言うのもなんだか違和感があって」

正門を出ると、エルマが指差した。その先には赤い色をした車高の低い車がある。
「車に乗っていくだろ。駅まで送るぞ」
ユウは指を鳴らして言った。
「喜んで」


車に乗ってエンジンがかかり走り始めると、
「これからどうするんだ?」
とエルマが言った。
「軍に入隊するまでお世話になっていたボクシングジムに戻ろうと思ってます」
エルマがユウの目を見つめる。
「世界チャンピオンを目指すっていう顔には見えんな」
「ええ、もう一度地球を代表する御前試合を目指すつもりです」

「強いな、お前の心は。お前はもう二度とリングに上がらないと思ってたんだがな」
「あたしももうリングに上がるのは止めようかなって思ったんですけど…」 
ユウは真剣な眼差しで言う。
「でも、コスモスの代表がキララだったから…このまま終わらせちゃいけないって思って」

「宿命というやつか」
「う~ん…」
ユウは顎を手で支えて唸る。
「運命かもしれません」

「今までいろんなボクサーを見てきたがな、キララ・チガサキ、奴の強さは別格だ」
エルマが続ける。
「いや、別次元と言っていい」

「そうですよね。パンチが一発も当たらないんだもん」

「薬を射してるのかとも思ったが体つきや表情を見るかぎりはそうはみえん。奴の強さの源が何か全くわからん」

エルマの言葉を聞いてユウは改めてキララの強さを認識した。キララになぜパンチが一発も当たらないのか。改めて考えても検討もつかない。

「中佐…エルマさんはこれからどうするんですか?」
「中佐でいい。俺も慣れん。どうせもう会うこともないだろう」

「分かりました中佐っ」
ユウは嫌味を込めて中佐のところだけ言葉を強めた。
「田舎で車の整備の仕事をしようと考えている」
ユウは意外な顔をする。
「潮時だと思ってな。ここらが異常な世界から普通の日常に戻れる最後の機会じゃないかってな」

「普通の日常…そういう選択もありますよね…」

「お前はまだ若い。満足いくまで闘うがいいさ」

「満足か…やっぱ勝ちたいですよ、負けたままじゃ終われない…」

「もう一度言うがキララ・チガサキの強さは別次元のものだ。隠居した身の俺にはお前にこんなことしか言えん」
ユウがエルマの顔を見つめる。しばらくしてエルマが続けた。
「勝てなくてもいい。無事に帰ってこい」
ユウは黙ったまま、窓の外に目をやる。何も思わないようにしていると、車のエンジン音がうるさく聞こえた。


七カ月が過ぎた。ユウはジムメートのサトルと共に陸軍の敷地に入り第二トレーニング施設へと向かった。この日はコスモスとの御前試合の地球代表を選考する大会の日。軍人四名とプロボクサー四名参加による計八名がトーナメント形式で闘い代表を選ぶ。もちろん、地球代表の切符を手に出来るのはトーナメント優勝者で、一日ですべての試合が行われる。前年度地球代表に選ばれたユウはその実績から今年もトーナメントのメンバーにプロボクサー代表として参加資格を手に入れた。

建物の中に入ったユウたちは受付で手続きを済ませ奥へと入っていく。更衣室へ向かおうとして、
「誰かと思えばユウ・アカシじゃない」
聞き覚えのある声が後ろからした。ユウは振り向く。青い軍服を着たウェーブがかかった金髪の女性の姿。
「よくあんなブザマな負け方をしてまた軍部に顔を出せたものね」
そう言って彼女は金色の髪先を右手で掻き上げた。
「何だお前失礼にもほどがあるだろ!!」
声を荒げて一歩前に出たサトルをユウは右腕を伸ばして止めた。ユウはぽんと右の握り拳で左の掌をぽんと叩いた。
「誰かと思えば去年の選考会でブザマにあたしにKO負けされたサーシャ・オーリンじゃない」
ユウはおどけて言うと、サーシャを強く睨み付ける。
「キララの強さが分かってないんだったらサーシャあんたこそ辞退した方がいいんじゃない」
サーシャは唇を吊り上げて笑う。
「分かってないのはあなたの方よ。軍部ではキララ・チガサキのボクシングを徹底して分析して攻略法を見つけ出したわ。その攻略プログラムに選ばれたのがこの私よ」

「ふ~ん」
ユウは白けた目をサーシャに向ける。
「攻略法を見つけたのはいいけどあたしに勝てないんじゃムダってやつでしょ」

サーシャは両肩をゆすりふふっと笑う。
「馬鹿ねぇ。軍を追放されたあなたがこの七か月間軍部で特別なトレーニングを受けた私に敵うとでも思ってるの」

「じゃああたしも言わせてもらうよ。プロボクサーを舐めるな」

「面白いじゃない。決勝まで勝ち上がってくることね。一回戦は海軍のカリナ・アリーナが相手よ。彼女も一年前とは比較にならないくらい強くなったわ」
そう言い残してサーシャは背を向けてこの場を離れていく。


「何だあいつ、プロボクサーを馬鹿にしやがって」
サトルが息巻いて言う。
「サーシャ・オーリン。海軍所属の軍人。父親も祖父も軍人の軍人一家。それでもって防衛大学首席で卒業の軍人エリート」

ユウは両手を首の後ろに当てて、「まぁ」と言って続けた。

「ボクシングじゃあいつに負けたことないけどね。去年の選考会も決勝でKOしてやった」
 
「恨み節ってやつか。じゃあキララの攻略法ってのもブラフかもしれねえな」

「ブラフね…」

「俺たちだってキララのボクシングの研究は十分にしてきた。それで出した答えはパンチをスピードをさらに上げていくだ。ボクシングの地力を上げていくのが一番ってな。攻略法なんてたいそうな言葉に振り回される必要なんてねえんだよな。なぁユウ」

ユウは黙って頷いた。シャツの袖をめくって手首にはめているパワーリストを見る。右手左手共に十キロの負荷。科学的なトレーニングが隆盛のこの時代であえて古典的なトレーニングを重ねてきた。それこそが最もボクシングの地力を上げるのに適したトレーニングだと思ったからだ。プロボクサーになってプロのリングにも上がった。世界ランカーと二試合闘ってどちらも早いRKO勝利した。去年の御前試合の時より数段強くなった感触はある。でも、まだキララに勝てるとは思えない。御前試合までの四カ月でもっと強くなる必要がある。今日の選考会は自分の実力を試す良い機会だ。あれからどれだけ強くなったのかサーシャと闘えばわかる。キララ対策のトレーニングを積んできたと言ってるけど、キララのボクシングの恐ろしさを知っているのは実際に拳を交えたあたしだけ。そして、キララに勝つ可能性があるのもあたしだけだ。