※この小説はRichardさんの作品「Victory Aiko」をRichardさんの承諾を得て、Richardさんの原文、BAKEさんの翻訳した文章を元にアレンジを加えて小説として書きました。

 

 

 アイコにはトレーナーがいなかった。それはアイコが女性だからとか才能がないからとジムから邪険に扱われているわけではない。まだプロにもなっていない練習生にトレーナーが付くことが稀であった。それはこのジムだけでなく、国全般に広まった特有のボクシングジムの習わしだといえる。

 

 ジムではプロボクサーを志す者であればだれもが練習出来る。一銭も金を払う必要はない。その代わりにジム側は指導をしない。いわば練習する場を提供しているだけにすぎなくて、そこから上がっていけるかは個々の才能と努力次第である。そういう環境下でプロのリングに上がり優秀な戦績を残したボクサーだけがジムのトレーナーから指導を受けられるようになる。ジムから目をかけられる境界線の目安は二勝。決して多い数字ではないが、門下生の半数はトレーナーが付くことなくジムを去っている。二勝しても黒星が先行しているかぎりは素質を認められないもう一つの条件がハードルを上げていた。

 

 生存競争の厳しい世界。そしてこの過酷な世界にアイコもまた一歩深いところへ身を投じようとしている。昨日、デビュー戦の試合が決まったのだ。14歳からジムで練習をするようになって二年。細身で華奢だった少女の肉体は今ではファイターという言葉が相応しい隆々と膨らんだ筋肉を纏っている。ジムの指導に頼れず周りの門下生の練習している姿を見様見真似しながら練習を重ねた二年間の結晶であった。  

 

 アイコはトタン屋根が付いているだけで内と外を隔てる壁がない吹き抜けの構造であるジムの外に出て何もない広々としたその場でシャドーボクシングをする。  

 

 負けられない。そう心の中で念じながらバンテージが巻かれた左右の拳を打ち放つ。パンチは音を立て空を裂き、水玉となった汗が煌めきながら飛び散っていく。  

 

 負けられない。アイコは思い続ける。ジムに足を踏み入れたその日から毎日のようにずっと。  

 

 

 校門をくぐると、アイコは前方に猫背気味の丸まった背中を見つけた。ここら一帯が田園が並ぶ農村部のアイソナ村では娯楽施設などほとんどなく遊びといえば外である。望まなくても健康に育つ環境に不釣り合いな不健康そうなこの風貌は顔を見なくても誰だか分かる。アイコは足早に駆け付けて、その背中を叩いた。

 

「おはよう~」とアイコは元気に言うが、少年は前に一歩体勢を崩して背中に手を当てて顔をしかめながら振り向く。

 

「相変わらず馬鹿力だなぁ」  

 

 少年は抗議めいたように言う。

 

「馬鹿力ってなによ、ユウイチの身体が弱いだけじゃないの」  

 

 少年の言葉にアイコは顔を背けて言った。アイコは少年の横に並び校舎に向かって歩いていく。校舎に入り下駄箱の前でアイコが思い出したように声を上げた。

 

「あっそうだ、試合がついに決まったんだ」

 

「試合って誰の?」

 

 下駄箱から下履きを取り出したユウイチは関心がない面持ちで聞き返した。東南アジアの国ライギにおいてボクシングは国技といっていいほどの関心を人々が寄せているスポーツである。国内で最大の競技人口を誇り、最もお金を稼げるスポーツなのだ。しかし、競技者の多くは貧しい生活を送っている家庭の人間だった。大学まで通うことが出来ない者が大卒の人間以上の収入を稼げる最も現実的な手段。それがボクシングであった。

 

 だから農村部で貧しい生活を送る者が占めるこのアイソナ村からもボクサーを目指す子供は多く、ボクシングは村人にとって最も関心を持たれていることの一つであった。運動が得意な少年はまずボクサーになるためにジムに通うようになるといっていい。しかし、ユウイチはそれとは真逆の少年だった。運動が大の苦手で大好きなのは日本のアニメ。テレビに映る日本の限られた数少ないアニメをどれも見逃さずに見て自身もそのキャラクター達の絵を描くことが何より好きだった。運動が苦手で喧嘩とも無縁な少年は格闘技に憧れを抱き強い関心を持って観る側の人間になるかそれとも野蛮なスポーツに毛嫌いするかの両極端な反応を示しがちである。そして、ユウイチは後者の人間だった。だから、家が隣同士で幼馴染みのアイコがボクシングをしていることもプロボクサーを目指していることにも積極的に応援する気になれずにいた。そんなユウイチだったから、アイコから

 

「あたしに決まってるじゃない」  

 と返事を聞かされた時、彼は表情を失った。

 

「そうか…その日が来ちゃったのか……」  

 

 下を向いて呟くように言った。

 

「なによ、しんみりしちゃって。そこは喜ぶところじゃない」

 

「いやっ悪い……」  

 

 アイコもユウイチがボクシングを好きでないことは知っていた。だから念を押すように言う。

 

「見に来てくれるんでしょ」

 

「うん……」  

 

 乗り気じゃないことは見てとれる。でも、行くという約束はしてくれた。アイコにとってそれで十分だった。  

 

 二階の教室に向かう階段の途中でそれまでずっと無言でいたユウイチがアイコに尋ねた。

 

「対戦相手ってどんな人?」

 

「う~ん…」

 

 アイコは口元に人差し指を当てて考えた素振りをしてから「さぁ」と首を捻った。

 

「さぁってジムの人から聞いてないの?」

 

「う~ん、話っていっても名前くらいしか教えてもらってないし」

 

「何戦してるとかも?」

 

「うん」

 

 ユウイチははぁっと息を付いた。

 

「戦いってのはさぁ、情報戦なんだけどなぁ」

 

「大袈裟なんだから」

 

「いや日本とかじゃそれが普通みたいだよ」

 

「それってまたアニメの情報?」

 

「まぁそうだけど。でも、アニメでそんな地味な話をしてるってことは日本だと実際にそうだってことだろ」

 

「でも、相手だってたぶんあたしの情報は知らないよ。だったらフェアじゃない」

 

「いやまぁそうだけどさ……」  

 

 ユウイチは下を向いた。フェアと言われればそれ以上はもう言えなくなってしまう。でも、この国のボクシングの試合ではフェアじゃない面だってある。それも試合に大きく左右するほどのアンフェアな環境の差。それは選手にトレーナーが付いているかどうかの有無。ユウイチがアイコの試合で最も気になるのはそこだった。アイコにトレーナーがまだ付いていないことはユウイチも知っている。対戦相手もトレーナーが付いてなければ条件は対等だ。でも、対戦相手の選手にトレーナーが付いているとしたらアイコが試合に勝つ可能性はかぎりなく低くなる。そうでないことをユウイチはただ祈るしかなかった。

 

 

 週末、ユウイチは電車に乗り、都心のスーレンへと向かっていた。スーレンはアイソナ村の最寄り駅から20駅のところにある。時間にして1時間30分。長い時間をかけて目的の駅に付き、改札口を出る。

 

 自動車のエンジン音や道を歩く人々の喧騒が広がる街には上を見上げるほどの高層の建物が幾つも建っていた。デパートにマクドナルド、交差点の角には女優の顔が映る大きな看板がかけられている。アイソナ村を出たことがなかったユウイチにとって初めて見る風景ばかりだった。ユウイチは自分の手で書いた地図を片手に目的の場所へ向かう。まさか自分でこんな行動に出るとはとユウイチは改めて思い胸の鼓動の高鳴りを感じていた。

 

 思い付いたのは二日前。日本のボクシングアニメが発想のヒントだった。情報がないのなら自分で対戦相手のジムに行って掴んでくればいい。見つかればまずいことになる。荒くれもの達に殴る蹴るされるかもしれない。でも、思いついてしまったらその考えを抑えたままでいるのは堪えがたいことだった。行くわけがない、行くわけがないと自分に強く念押し学校が休みの日曜日も家でゴロゴロと過ごしていた。でも、居間の床に寝転がっていて昼の一時を過ぎたころ、隣の家に意識がいってしまった。アイコはまだ家にいるのかな……。ジムでの練習は三時からだ。だからたぶんまだ家にいると思う。家にいてアイコはジムに行く時間ぎりぎりまで……。ユウイチはあぁっと声を上げて着替えをして家を出た。  

 

 目的のボクシングジムは駅から歩いて10分のところにあった。隣では四車線の大きな道路にひっきりなしに車が走り、高層マンションも並んでいるのにボクシングジムはアイレナ村と変わらずに半野外の造りであった。トタン屋根に内と外を隔てる壁はない簡素な構造のスペースである。都会にジムがあってもジムの造りは農村部にあるアイコのジムとそう変わらないことにユウイチは少し安堵する。

 

 ここからでも練習をしている姿は見える。見回してみると女性は二人だった。どちらの女性もTシャツを着てトランクスを履いている。間違いなくボクサーだ。でも、どちらがアイコの対戦相手のメイリンだろう。一人は髪を左右で団子状に巻き上げている。もう一人は褐色の肌をして黒いショートカットの髪をしている。褐色の女性はリングの上でミットをはめている男性にパンチを打っている。その光景を観て少なくとも褐色の女性にはトレーナーが付いているとユウイチは察した。しかし、ここからでは声もよく聞こえないし彼女がメイリンであるか判断が付かない。帰るしかないのだろうか……。

 

 知りたい。その衝動がユウイチをいざなう。ユウイチは勝手に拝借してきた父の帽子を被った。ユウイチは白いワイシャツの上にジャケットを羽織りスラックスを履いている。頭頂部が膨らんだキャスケット帽子を含めてどれも服のサイズは彼にとって少々大きめであった。

 

 スペースの中に入る。チタン屋根の中の手前で足を止める。ユウイチは目を細めてリングの上でトレーナーのミットめがけてパンチを打っている女性の姿を凝視した。ボクサーのトランクスには選手の名前が刺繡されていることが多い。アイソナ村のボクシングジムの選手たちの多くがそうだった。しかし、ジムの中は明かりが少なくあまりよく見えない。選手の顔ですら影がかかって十分に判別できないのにトランクスの刺繍など見えるはずがなかった。  

 

 仕方なくもう一人の女性の姿を探していると、後ろから

 

「あんた何してるの?」  

 と声をかけられた。少年の声だった。心臓が跳ね上がり恐る恐る後ろを振り向くと、上半身が裸に青のトランクスを履いた少年が立っていた。年齢はユウイチよりも少し下かもしれない。心臓の鼓動は今も身体から呼び出そうなほどにばくついていて、ユウイチは落ち着けと言い聞かせる。上から下まで父の社交場用の服を着ているのだ。前もって用意していたこの台詞を言えば騙しとおせるに違いない。

 

「僕はフリーのライターだ。女子ボクサーを題材にルポを書こうと思っていてね」  

 

 ユウイチはそう言って帽子のツバを掴み前に下げて顔が見づらくなるようにした。少年は顔を近づけてじろじろとこちらを見続けている。大丈夫、声を下げて言ったんだ。ばれっこない。下を向きながらユウイチはそう念じていたが、次の瞬間、帽子を上に取られてしまった。

 

「なんだ。ガキじゃん」

 

 ユウイチは思わず両手を頭の上に持っていき「あっ」と声を漏らした。

 

「お前、偵察に来たな」  

 

 少年が語気を荒げて言う。くるりと背を向けて走ろうとしたが、肩を掴まれてしまった。

 

「やっぱり偵察か」

 

「違う!違うよ!!」  

 

 正面を向かされてジャケットの袖を掴まれて地面に身体を押さえつけられた。少年に馬乗りされると頬に強烈な衝撃が走った。パンチではなく張り手だった。ボクサーを目指しているから流石に少年も拳を使うことはしなかったのかもしれない。しかし、これまで父から殴られたことが何度かあったがそのどのパンチよりも少年の張り手は何倍も痛かった。毎日練習をして鍛え抜かれた身体が出す攻撃はこんなにも痛いのか。アイコはこんな衝撃に何度も耐えなきゃいけないのか。偵察なんて行かなければよかった。アイコにはリングになんて上がるなって説得した方がよかった。

 

「何してるのよあんた達」  

 

 頭の中がパニックになっていたところに女性の声が聞こえてきて、ユウイチは見下ろしている女性の顔を見た。声をかけてきたのは団子状に髪を結っている女性だった。

 

「メイリン、お前のことを偵察に来た奴だ」

 

 少年はユウイチから身体を離して言った。メイリンはふぅっと息を付く。

 

「どうするこいつ?」  

 

 あぁ、絶体絶命だ。ボコボコにされてしまう。恐怖で顔を引きつらせるユウイチだったが、メイリンはぷっと吹き出したのだった。

 

「あなた、ヒナタアイコのジムの子?」  

 

 彼女はそうユウイチに問いかける。呆然と固まるユウイチをよそにメイリンは

 

「にしては細い身体ね。彼女のお友達?」  

 と世間話でもするように陽気に話しかける。ユウイチは声を出すこともままならず首を縦に振るので精一杯だった。

 

「ふ~ん」

 

 彼女は右手を顎の先に当てて考え事をしているかのような振る舞いをして、

 

「私のことは何も教えられないけど、スペースの外から観てる分にはかまわないわよ」

 

 メイリンはそう言って少年が手にしていた帽子を取り、ユウイチの頭に被せた。

 

「ごゆっくりどうぞ」  

 

 そう言ってメイリンは踵を返して屋根のある場所へ戻っていく。

 

「いいのかよ」

 

「かまわないわよ、このくらい」

 

 メイリンは少年とそんなやり取りをしながら屋根の中に入っていく。その後ろ姿をユウイチは呆然と見つめていた。  

 

 大人の余裕、そして自身に満ち溢れている。まだ少女のそしてプロのリングで闘ったことのないアイコにはどちらもないもの。ユウイチは唾をごくりと飲んだ。アイコよりもどう見ても強そうにユウイチの目には映る。しばらくしてユウイチはスペースの外に出てそこからジムの中を見た。メイリンはボクシンググローブをはめようとしている。

 

「偵察とは大胆なことするな小僧」

 

 隣からそう言うのは60歳を過ぎただろう風貌の爺さんだった。腹は出ていて、頬が赤みを帯びていて昼間から酒を飲んでいるようにも思える。息も腐った柿のような臭いがする。

 

「まぁメイリンの言うようにこっから見てるんだな」

 

「彼女の知り合いですか?」

 

「いやっ」  

 

 爺さんは言った。

 

「単なるボクシング好きの爺だ」

 

 ユウイチはなんだと息を漏らす。関係者だったらこの爺さんから話を聞こうと思ったのに。そう溜め息を付きながら前を向くと、ユウイチは「あっ」と声を上げた。メイリンがリングの上で男が手にしている左右のミットめがけてパンチを放っているのだ。その男はTシャツにジャージのズボンを履いていて顎にひげを生やしたその身なりは30歳を過ぎたトレーナーに映る。もしそうならばメイリンにはトレーナーが付いているということだ。 一番避けたかった事実を目のあたりにし、ユウイチは手で両目を塞いだ。

 

「メイリンにとってはなぁ、付いたばっかなんだよ」  

 

 ユウイチは間の抜けたように口を開けながら爺さんの方を見た。

 

「トレーナーだろ。兄ちゃんが気になってんのは」  

 

 図星を突かれてユウイチはこの場からも逃げた方がよいのかと覚悟した。しかし、爺さんはユウイチが考えていることとはまったく反対の反応で、

 

「戦績は2勝1敗。デビュー戦でトレーナーありの相手にKO負け。次戦ではトレーナーなし相手にKO勝利。そして、三戦目でデビュー戦で負けた相手に勝ってやっと認められたんだ」  

 と逆にメイリンの情報を教えてくれた。

 

「彼女は強くなるぜ、ボクシングを見続けて40年の俺が言うんだから間違いねぇ」

 

「そうですか……」  

 

 ユウイチは肩を落とす。情報を教えてくれるのはこの程度の情報を知られたくらいで負けるようなレベルの選手じゃないということなのだろうか。ユウイチは虚脱したように背中を丸めこの場を離れていく。目的の情報は手にしたというのにそれはまったく意味をなさず、ここにいたらアイコにとって不利な情報をどんどん知ってしまう気がした。

 

「まぁ、試合の結果は気にすんな。メイリンも通った道だ」  

 

 デビュー戦を負けてからの這い上がり。そんな先のことなんて考えられるか。  

 

 

 家に着いたころ時間は六時を過ぎていた。玄関で顔を合わせた母からは顔の傷のことを聞かれたけど、何でもないと言い張って自分の部屋に入った。ベッドに顔を埋めてそのまま何もせずにいた。何もしないで何も考えもしないでこのまま休んでいたい。気力が出ない身体に布団のぬくもりが心地よくいつまでもそうしていたかった。そういや、父の服を着てるんだっけ……。父にばれないように早く着替えなきゃいけないのにそれすら億劫だった。着替えることもせずに十分くらいの時間が過ぎた。玄関のチャイムが鳴ってそれから、母からユウイチは名前を呼ばれた。何だよと面倒くさそうにベッドから顔を離すと、「アイコちゃんだよ」という声が聞こえて、慌ててベッドから起き上がった。  

 

 玄関に向かうと、アイコが立っている。ユウイチの顔を見て、アイコは「あっ」と声を漏らして目を見開いた。

 

「やっぱり行ったんだ……」  

 

 アイコの視線が腫れた頬にいっていて、ユウイチは思わず手で頬を隠したい衝動に駆られた。彼女はもう知っているのだとユウイチは悟った。

 

「外出ようか……」  

 

 ユウイチは扉に目配せして言った。  

 

 道路を歩きながらアイコはメイリンのジムからアイコのジムに連絡がいったことを教えてくれた。ユウイチは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。アイコに有利な情報を得ようとして逆にアイコのジムに迷惑をかけてしまった。でも、アイコは「ありがとう」と柔らかな笑みを浮かべて言ってくれた。彼女の気遣いが余計に自分のいたらなさをユウイチに痛感させた。

 

 せめて偵察に行って分かったことだけでも伝えた方がいいのだろうか。でも、何を伝える?メイリンにトレーナーが付いていることを教えることがアイコのためになるのだろうか。ボクシングジムの関係者でないユウイチには判断のつかぬことだった。言うべきか黙っておくべきか迷っていて、アイコと目的の場所もないまま無言で歩いていると、やっぱり伝えるべきだという思いに傾きつつあった。知らずにいるより知っていた方がよいにきまっている。でも、どう伝えたらアイコが不安がらないかその言葉が出てこない。沈黙の時間が増すごとに情報を自分だけが有していることに耐えきれなくなっていき、

 

「メイリンのことだけどさぁ」  

 と切り出した。アイコが振り向き、ユウイチは慌てて

 

「相手選手の……」  

 と補足した。しかし、それはアイコのためにというよりもどう伝えるべきか頭を整理するための時間を稼ぐためといってよかった。それでも、ユウイチの中で次の言葉が出てこない。息苦しくてのどが詰まる。トレーナーが付いている。伝えたい内容はそれだけだ。でも、それをどう伝えたら良いのか、話を切りだしたというのにその続きの言葉が出てこない。

 

「メイリンにはトレーナーが付いてるんでしょ」  

 

 アイコが言った。

 

「知ってたのか……?」

 

「さっき、会長から教えてもらった。会長は相手選手のこと知ってたんだ。でも、あたしが不安がるといけないからって言わずにいたみたい」  

 

 ユウイチは下を向いた。ジムの会長はメイリンにトレーナーが付いていることをちゃんと知っていた。その上でアイコのことを思って伏せていたのに自分が勝手に偵察に行ったために会長の配慮を台無しにしてしまった。素人で部外者なのに勝手にやってアイコの足を逆に引っ張って何やってるんだ僕は……。

 

「顔を上げてユウイチ」  

 

 その声に引っ張られるようにユウイチはアイコの顔を見た。

 

「もっとメイリンのこと教えてくれる?」

 

「いいの? だって会長は伏せてたのに……」

 

「不安だなんて言ってられない。あたし誰が相手でも負けていられないから」  

 

 アイコの力強い言葉に惹かれるようにユウイチは彼女の顔を見た。その目は彼女の発した言葉同様に力強い目をしていた。アイコにそんな目をさせる理由をユウイチは知っている。  

 

 アイコの母は二年半前に重い病を患った。心臓の病気で身体を動かすことに支障が出てやがて床で寝続ける日々を送るようになった。この病気を治すには手術を受けるしかない。しかし、農家のアイコの家に心臓の手術を受けられるようなお金はなかった。多くの鐘を一刻も早く稼ぐ必要があったためにアイコは大金を稼げるチャンスのあるプロボクサーになることを決めたのだ。

 

 ユウイチはメイリンについて知るかぎりのことを話した。これまでの戦績、対戦相手、有望視されているファイターであることも。全てを知ってもアイコは

 

「有望なボクサー?望むところよ」  

 と強気に言った。二年間のジムでの練習でアイコはとても強くなったんだなとユウイチは目を見張った。そうしてアイコを見ているうちに、彼女の拳が震えていることに気付いた。

 

「アイコ……」  

 

 ユウイチは彼女の両拳を自身の両手で包み込むように掴んだ。

 

「アイコ!」  

 

 ユウイチは彼女の名前をもう一度言った。

 

「絶対に勝てよ!!」  

 

 アイコはうんと言って頷く。その声は不安から少し解放されたような安堵が混じっているようで、やっぱり、アイコはまだ少女なんだとユウイチは思った。

 

 

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