一ヶ月が過ぎて、アイコの試合の日を迎えた。試合の会場はメルコラナスタジアムといいスーレンの中心部から東寄りの地帯にあり、メイリンのホームグラウンドであった。アイコにとってはアウェイになり、アイソナ村から電車で一時間半近くかかるというのにアイコのクラスメートの友人の女子が三人も応援に来ている。ユウイチは彼女たちと一緒に会場まできたわけでないが、アイコからもらった試合のチケットで入場したために彼女たちと横並びに一階の後方の座席に座っている。クラスも違いアイコ以外の女子生徒と喋ることがないユウイチにとって彼女たちと席を共にするのは居心地が悪く、男でただ一人アイコの応援に来たユウイチに冷やかしの言葉をおくりもしてきたが、リングに上がったアイコに名前を呼んで声援をおくる姿を見て、ユウイチは彼女たちのことが気にならなくなった。しかし、ユウイチだけは気恥ずかしくて黙ってリングに立つアイコの姿を見つめていた。  

 

 青コーナーに立つアイコはオレンジ色のスポーツブラに青色を基軸にオレンジが配色されたトランクスを着ている。真ん中にアルファベットでアイコの文字が刺繍がされたその凝ったトランクスのデザインはアイコがプロボクサーであることを実感させ、両肩と両腕が逞しく膨らみ流線形に突起する筋肉が付いたその肉体もプロに相応しい鍛え上げられたものだった。18歳と二歳年上のメイリンとも引きを取らないほどに。しかし、アイコのセコンドに付いているのは一人の少女と一人の少年でそれはあまりに心もとない光景であった。ユウイチは彼らの顔に見覚えがあった。二人ともアイコと同じ学校で少女はアイコの一つ上で名前はマイリーン、少年は同学年で名前はケンだ。マイリーンはプロのボクサーになったばかりでケンにいたってはジムの練習生、トレーナーでなくボクシングの経験さえも多くない少女と少年がセコンドであることにアイコたちはボクシングの真似事である児戯のような虚しさを感じてしまう。対するメイリンには年輩の男が二人付いていて一人はユウイチが偵察時に見かけた男であり、メイリンのトレーナー、もう一人は50代らしき風貌からジムの会長を思わせた。手塩にかけられているメイリンとジムの会長から一切のサポートを受けてないアイコとでは周りの環境があまりに違い過ぎる。プロと素人が闘うような不公平さを目の当たりにしてユウイチは気が重たくなるばかりであった。  

 

 試合開始のゴングが鳴った。アイコもメイリンもコーナーから出てグローブを相手のグローブと合わせると、距離を取り相手を見つめ合う。メイリンが挨拶代わりに出した左ジャブをアイコは両腕のブロックで防ぐと、そのまま距離を詰めた。接近してパンチを思いきり打っていく。アイコはインファイターだ。自分の得意な間合いで闘うことに成功したアイコだったがメイリンは一歩も退かずにパンチを打ち返す。まだお互いにクリーンヒットは出ないが、ガード時に生じるその音はアイコに引けを取らずいやそれ以上の迫力を伴っているように聞こえ、メイリンもまた生粋のインファイターであった。  

 

 メイリンの左ストレートがアイコの頬を捉え、上半身がひるがえるように仰け反った。

 

 

 

 

 メイリンがパンチの連打を打ち込み、両腕で防御するアイコをたちまちコーナーまで追い立てた。両腕で顔を覆い身体を丸めるアイコにメイリンはパンチの連打を叩きこむ。早くも防戦一方となったアイコだが、反撃に出た左フックがメイリンの右アッパーを受けながらも彼女の顔面を捉えた。お互いが思いきり打った強打の相打ちに場内が沸いた。

 

 

 

 

 一発パンチが当たり、それを機にアイコは果敢にパンチを打ちに出ていった。メイリンも応戦に出てお互いのパンチが当たっていく。激しいパンチの応酬に場内の熱は一段と高まり、その歓声を背にしながらアイコの顔もメイリンの顔もたちまち紅潮していく。  

 

 カーン!!  

 

 第1R終了のゴングが鳴った。マイリーンが用意したスツールにアイコがどさっと座る。アイコが思っていた以上に善戦し、ケンは高揚した表情でアイコを出迎えた。一方でマイリーンは冷静に務め、 「アイコ、左よ。左のパンチに注意して!」 とアイコに指示をおくる。彼女は1Rの闘いでメイリンの得意のパンチを察知していた。マイリーンの指示にアイコは首を縦に振って頷く。アイコの顔は幾つも痣ができていて特に左の頬は痛々しく腫れていたが、意気揚々とした顔を浮かべていてその目は力強く、今までに見たことないほどの荒々しさが彼女の瞳に宿っていた。  

 

 相打ちを厭わないアイコの勇敢な闘いにユウイチももしかしたら勝てるんじゃないかという思いを抱き始めていた。互角とまではいえずに若干劣勢ではあったもののアイコにはこれがデビュー戦とは思えない強いハートがある。技術で劣っていてもそれを補うほどの気持ちで勝利をつかみ取るんじゃないかとユウイチは希望を胸に抱き第2Rを待ち構えた。  

 

 そして、運命の第2Rが始まった。場内は第1Rの興奮が冷め止まらない中、アイコもメイリンも全力で戦った。足を止めて二人がパンチを打ち合う。第1R同様に二人の渾身のパンチがヒットしていく。しかし、30秒が過ぎた頃、二人のダメージの差が明確に表れ始めた。メイリンの強烈な左がアイコのボディーに突き刺さる。胃液が逆流し思わず吐き出しかけたマウスピースを辛うじてくわえとどめた。

 

 

 

 

 足が止まったアイコにメイリンの猛攻が襲いかかる。アイコは両腕でパンチをブロックし、右フックを打った。そのパンチはメイリンの頬を捉えるが、メイリンの身体は揺れ動かない。アイコのパンチがまったく効いていない。すぐに左のボディがアイコの身体を再びくの字にさせる。

 

「ウグゥッ!!」

 

 アイコが呻き声を上げる。アイコの足が完全に止まり防戦一方となった。

 

「アイコ、手を出して!!反撃して!!」  

 

 マイリーンが叫ぶ。しかし、彼女の叫びは適わず、メイリンのフックの連打がアイコの顔面を右に左に吹き飛ばしていく。五発目のフックがアイコのテンプルを捉えた時、アイコの顔面は原型を留めないほど悲惨な変形を遂げていた。もはや何が起きているのかも分かっていないほどアイコの目は虚ろで力無くただメイリンの強烈なパンチのダメージに耐えようとしているだけであった。闘志が発散されていく形相のメイリンとは比ぶべくもなく、もはや勝負は決したも同然であった。

 

 

 

 

 メイリンの右のフックが再びアイコの顔面を捉えると、彼女の身体はロープにまで吹き飛ばされた。そして、ロープの反動で戻ってきたところに、メイリンの必殺の左がついにアイコの頬を打ち抜いた。  

 

 

 

 

 

 グワシャァッ!!  

 

 凄まじい打撃の音、返り血に染まる青いボクシンググローブ。メイリンの一撃に場内は言葉を失った。  

 

 マウスピースが高々と宙に舞い、アイコがリングに崩れ落ちる。  

 

 レフェリーがダウンを宣告し、カウントを数える。  

 

 両腕で広げ仰向けに寝ているアイコ。青コーナー付近でセコンドのマイリーンとケンが必死になってアイコの名前を叫ぶものの、アイコの目は虚ろなままだった。

 

 

 

 

 思わずユウイチは立った。

 

「立て、アイコ!!」  

 

 大きな声で叫んでいた。無意識に出ていた言葉だったが、次は意識して大声で叫んだ。隣に座るクラスメートの友達もアイコの名前を大声で叫んだ。  

 

 友人たちの叱咤にアイコの身体が反応する。右腕を伸ばしてロープを掴む。そして、セコンド9で立ち上がった。

 

 

 

 

 レフェリーの呼びかけにアイコが頷く。試合は再開された。しかし、アイコは足にきている。ダッシュして距離を詰めに来たメイリンは容赦なく鉄の拳をアイコのボディーに叩き込む。下から突き上げるボディアッパーが肉にめり込む。弱りきったアイコのボディーにその一撃は地獄の苦しみを与えた。息が詰まり、胃の中の物を吐き出したくなるほどの圧迫に全身が打ち震えた。

 

 

 

 

 その場で硬直し身体が小刻みに揺れ動くアイコにメイリンは容赦なく右のフックを全体重をかけてアイコの顔面に打ち込み、身体ごと激しく吹き飛ばした。さらにメイリンの左のストレートが非情にも追い打ちをかける。

 

 

 

 

 もう止めてくれとユウイチは心の中で叫んだ。これ以上アイコを打たないでくれとユウイチは懇願した。  

 

 しかし、アイコはまだ立っていた。もう目は宙をさまよい弱々しい姿だったがまだアイコは立っていた。戦士であるメイリンはそんなアイコに非情な一撃を放つ。

 

 

 

 

 メイリンの左のアッパーカットはアイコの顎を捉え、宙空へ突き抜けた。メイリンの渾身の一撃はアイコの全身の力を奪った。マウスピースは再び宙へ舞い上がり、アイコの身体がスローモーションがかかったように後ろへとゆっくり崩れ落ちていく。もう今度こそダメだとユウイチは思った。しかし、試合が早く終わることをあれだけ願っていたのにユウイチはアイコがキャンバスに打ち崩れる姿を見たくなかった。矛盾した思いに胸が焦がれるような痛みを覚えた。

 

 その瞬間、試合は止められた。レフェリーが倒れゆくアイコの背中を抱き止めて、左腕を上げて降った。

 

 カーン!!カーン!!カーン!!

 

 試合終了のゴングが鳴り響く。場内が歓声にどっと沸いた。そんな中、レフェリーに抱きかかえられたアイコは両腕が力無く下がっていて意識を完全に失っていた。  

 

 

 言わずにはいられなかった。  

 

 スタジアムの最寄りの駅でアイコと会ったユウイチは 「身体はもう大丈夫なのか?」 と聞いた。

 

「うん、もう何ともないから」  

 

 そうは言うものの両頬にガーゼが貼られているアイコの声は気落ちしていた。

 

「試合、惜しかったね」  

 

 アイコはその言葉には何も答えなかった。二人は切符を買い、駅のホームに向かった。それから電車に乗り家の最寄りの駅に着くまでずっと無言だった。  

 

 家に向かう帰路の途中でユウイチは言った。

 

「俺さ……」  

 

 その先の言葉が喉に詰まってなかなか出ない。

 

「高校卒業したら都心部で仕事見つけて働くから、その金アイコのお母さんの手術代に使ってくれよ」  

 

 一呼吸して、ユウイチは言った。

 

「だからもうアイコはリングに上がらなくていい」  

 

 それはアイコの試合が終わってから決めたことだった。

 

「ありがとうユウイチ」  

 

 アイコは柔らかく笑みを浮かべていた。

 

「でも、違うの」

 

「違うって……?」  

 

 アイコはユウイチを見た。

 

「あたし、ボクシングが好きだから、好きになったから……だから勝ちたい。今度こそ試合に勝ちたい」  

 

 幼馴染みの力強い目覚めにユウイチは目を瞑り歯を食いしばった。それから、「また応援に行かなきゃな」と言って夜空を見上げた。

 

 

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