「青コーナー立原ジム所属、葉坂柚希選手」  

 

 事務的なアナウンスで自分の名前が呼ばれるのを柚希はコーナーポストに背中を預けながら聞いていた。  

 

 自分の所属は拳武館なんだけどね。リングの上でアナウンスされるたびに心の中でそう思う。一年前に初めてボクシングの試合のリングに立った時から試合を迎えるたびにずっと。柚希の中に宿る空手家の精神が呼応するかのように。  

 

 選手紹介されても観客に向かって自分をアピールすることはしない。アマチュアの試合の礼儀作法に乗っ取ったものとはいえ、たとえプロの試合であっても柚希は観客にアピールする考えを微塵も持ち合わせていなかった。

 

「赤コーナー鈴川ジム所属、獅子戸リリカ選手」  

 

 対するリリカも名前をアナウンスされてももちろん観客に向かってアピールする振舞いをすることはなかった。しかし、柚希は眉間にしわを寄せる。最上段のロープに両肘を乗せるように置かれたリリカの両腕。なんだよその態度は。闘う者の謙虚さの欠片も感じられないじゃないか。  

 

 だから、リングは好きじゃないんだと柚希は改めて思った。けっして広くない四角いキャンバスを四本のロープで囲うなんて野蛮だよ。追い詰められた者の逃げ場を断つなんて慈悲の欠片もないし、外の世界と断絶されて見世物小屋に入れられたみたいな気分になる。ロープなんて無い方が断然いい。そうすればリリカみたいな横柄な振る舞いを見せられることもなくなるだろうし。  

 

 そう思うと広くて囲う物がない空手の舞台の場が恋しくなる。もう一年以上離れていることになるのか。でも、この試合に勝てばもうボクシングのリングに上がることもないし、空手の試合に戻れる。だから、絶対に負けられない。そうじゃなくてももうあんな屈辱的な思いはごめんだ。  

 

 柚希は一層険しい目つきでリリカを睨み、レフェリーに呼ばれリング中央へと向かった。    

 

 

 空手道場の館主の祖父を持ち8歳のころから空手の稽古に励み続けた柚希がボクシングの世界に足を踏み入れたのは二年前になる。幼いころから空手大会の全国大会で優勝を欲しいままにして天才空手少女と呼ばれるようになった柚希だったが、中学生になると優勝の栄冠を手にすることから遠ざかった。町田優菜という同学年の少女が大会に出場するようになり、彼女にだけはどうしても勝てなかったからだ。突きも蹴りも得意としてバランス良く闘う柚希に対して優菜は突きに特化していて闘い方も蹴りはほとんど放たずに突き一辺倒であった。身長が低く身を屈め猪突猛進のように前に出て突きを繰り返す優菜の変則的な闘い方に柚希は手を焼き三戦して三敗。中学の大会のタイトルはすべて彼女に取られた。空手家としての技量が彼女に劣っているとは思えない。むしろ、間を重視して闘う自分の闘い方こそ空手としての本道を突き進んでいるという自負もある。それだけに馬鹿の一つ覚えみたいに突進して突きを繰り返す彼女の優菜に勝てないなんて歯がゆくて仕方なかった。実力で上をいかれたと認めたくなる負け方をした方がましだと思えるくらいに。今度こそはと稽古の量を増やして臨んだ中学生最後の大会でも優菜に決勝で敗れた時、柚希は「あんな邪道な闘い方に負けるなんて」とその後の道場での稽古の最中にことある毎に溜息交じりにいった。袋小路に入ったような気分だった。そんな時、道場の兄弟子で五歳年上の湯谷さんが言ったのだ。

 

「柚希ちゃん、ボクシングジムに通ってみたら」  

 

 明治時代から続く拳武館の道場の娘であって、物心ついたころから空手に情熱を注ぎ、おにぎりに漬物の付け合わせの食事が何よりの好物で和の精神を愛するあたしにボクシングをしろって? 冗談じゃないと思った。あんな礼の精神もない強さだけを追い求める格闘技なんてまっぴら御免だ。初めはそう拒絶反応を示して応じなかったものの、若くして全国空手大会大人の部に入賞するほどの技量を誇る湯谷さんの言葉だけに心のどこかでひっかかり、時間が経つにつれて心も平静に考えられるようになっていき、このまままた優菜と闘ってもまた負ける可能性は高い。だったら、いっそのことこれまでとまったく違った環境に身を置くのも良いかもしれない。そう思えるようになり、柚希は渋々ボクシングジムに週二度通うようになった。その効果は思いのほか表れて、高校一年生の時に全国空手大会で優菜に雪辱を果たし優勝した。これまでの苦戦が嘘のように優菜の突きを冷静に対処してハイキックで一本勝ちした。  

 

 目的を達成してこのままボクシングの練習を続けるべきかそれともこの辺でまた空手に専念すべきか悩んでいると、ボクシングジムの会長からアマチュアの大会、全日本選手権に出てみないかと誘いを受けた。普段は年上相手でもはっきりと自分の考えを言う柚希もこの時ばかりはいや、ボクシングはもうそろそろいいかなとは言えず、これまで一年間親身に指導してくれた恩を返した方がと義を果たすために渋々と参加することになった。  

 

 一ヶ月前に開かれた空手の全国大会優勝という肩書があってもボクシングは専門外。高校生の部で相手が同年代といっても一年練習したくらい(しかも週二回)で勝てるもんじゃないでしょうと思いながら参加したものの、いざリングに上がると、KO勝利の連続で決勝までトーナメントを勝ち進んでいった。

 

 空手の試合に活かせないからとジャブの練習にあまり熱心でなかった柚希は、ジャブを打たずかといってローキックを打つわけにもいかなかったので、ひたすら前に出ながらパンチを打ち放っていった。その闘い方はさながら優菜のようになっていて、複雑な思いを抱きながらも空手家のあたしにはこの闘い方しかないと割り切っていたら、対戦相手は柚希の連打の圧力に対応できずに早い時間に倒れ落ちていくのだった。技術的には褒められたものでなく身体能力の差で勝っているようなものだった。とはいえ対戦相手をKOするたびに空手家の身体能力の高さを実感して痛快でもあった。鍛え方が違うんだよ。身も心も限界を超えて磨いていくから一発一発の打撃の重さが違う。そんなあたしはさしずめ黒船襲来といったところか。でも本道に外れた者が勝つのは好きじゃないから、ボクシングの大会に出るのはこれっきりにしよう。決勝戦を目前に控えた柚希の心にはそんな思いが芽生えていた。

 

 しかし、決勝戦のリングで柚希はボクシングという格闘技の本質的な強さを身を持って味わうことになる。

 

 決勝戦の相手は獅子戸リリカ。染めた色とは明らかに違う自然な色をした栗色の長い髪を後ろで三つ編みに束ねその綺麗な髪に劣らず肌も透明感のある淡い桃色に頬を上気させていてフランス人形のような美しい顔をしていた。モデルと対峙しているかのようで調子狂うなと思いながらレフェリーの注意事項を聞き終えリリカと拳を合わせた柚希だったが、試合開始のゴングが鳴ると、その美しさが意識の中から消え失せるほどに彼女の強さを身体にも心にも刻み込まれた。

 

 ゴングの音と同時に柚希はコーナーをゆっくり出て、リングの中央あたりに差し掛かると、一気に前へ出た。スピードの緩急はあったものの一直線に相手に向かう。勝ち上がった一回戦、二回戦、準決勝と同じように決勝戦でも真正面から相手に向かっていくその様は、自分にはボクシングの技術はないのだからと認め小細工なしで闘おうという潔さと勇敢さを兼ね備えているように試合を観る者の目には映った。しかし、それからすぐにそうではないのだと認識を改めることになる。

 

 真正面から距離を詰める柚希の顔面をリリカの左ジャブが射抜いた。リリカがすぐに左回りに移動し、柚希の視界の外に消えていく。リングに高らかな音を響かせたリツカの左ジャブは一秒にも満たないほんのわずかの間、柚希の身体に硬直をもたらした。しかし、リリカにはそれで充分であった。振り向いた柚希がリリカの姿を目にした時にはもう十分な距離が二人の間に出来ていた。

 

 仕切り直しとなった柚希の足がそこから前に出て行かない。対戦相手の左ジャブを受けたのはこれが初めてというわけではない。しかし、これまでの対戦相手の放つジャブとはダメージの質がまるで違った。頬がヒリヒリと痛むだけだったこれまでの対戦相手と違い骨が削られたかのように身体の奥底までえぐい痛みが染み込んでいく。とてもスポンジを十分に含んだアマチュアのボクシンググローブで覆われた拳で放たれたものとは思えなかった。身体の鍛え方が違うという見下しが含まれていた柚希の瞳は今、異形の格闘技を目にしているかのように固まっていた。

 

 シュッ!!

 

 柚希が前に出るより先にリツカの左ジャブが打ち放たれた。そのパンチがヒットし、さらに彼女の左拳が連続して二度柚希の顔面を捉えた。面白いように当たっていくリリカの左ジャブ。それに対して柚希は前に出ることさえままならない。これまで左ジャブを受けても怯まずに前に出ていた彼女がこの試合ではそれが全く出来ない。コンマ数秒の間、パンチのダメージで身体が硬直しその間に逃げられてしまう。リリカの左ジャブの強烈な威力と軽快なフットワークがそれを可能にし、そして何よりリツカのボクシングの前に柚希の心から積極性が奪われてしまっていた。柚希の勇敢さは跡形もなく消え去り、棒立ちとなり左ジャブに反応出来ずに浴び続ける。  

 

 その光景を見て、一回戦から柚希の試合を観てきた観客達は柚希は勇敢だったのではなくボクシングに潜む怖さに無知なだけだったのだと気付くのだった。  

 

 

 ラウンド終了を告げる二度目のゴングが鳴った時、きゅっきゅっと小気味よく刻まれたリリカのキャンバスを蹴り上げるステップの音が止まり、今にも打ち放たれようと右肩から出ようとしていた右のグローブがぴたっと止まった。足が揃い前屈みの姿勢で突っ立ったまま下を向いていた柚希が力無くだるそうに顔を持ち上げる。リリカが右の拳を下ろし、くるりと背を向け一足先に赤コーナーへと帰って行く。直前までパンチングボールのように顔面を跳ね飛ばされ続けていた柚希はようやくゴングの音に救われたのだと理解した。自分も振り向いて青コーナーへ戻ろうとする。しかし、極端に狭まった視界は、青コーナーを捉えることすらままならず、心配でこちらに駆けるようにきた会長に誘導される形で何とかコーナーへ戻れるような状態であった。

 

 青コーナーに戻った柚希がスツールに腰掛ける。右も左も瞼が酷く腫れ上がっている柚希の顔面。それだけに留まらず頬も左右とも酷く腫れ上がっていることも柚希は、厚ぼったさを纏い焼けるように熱を帯びた頬の痛みから察していた。たった2Rで物を見ることさえままならないくらいに顔面を変形させられてしまった。それなのにあたしは一発のパンチさえも当てることが出来ていない。試合前は想像さえしていなかった一方的な試合展開に柚希は悔しい思いが立ちこもりぐっと唇を噛んだ。

 

「前に出れねぇならこのまま棄権するか?」  

 

 突き放したような会長の言葉に柚希は「いえっ」と小さな声で返事した。それから、右拳を上げて太ももに打ち付けた。情けない……。倒されるかもしれないパンチの痛みを初めて知って、そのパンチの軌道を目で捉えることも出来ず、相手はパンチを打ったら視界の外に逃げていく。それらが合わさったくらいで前に出られなくなるなんて。

 

「気持ちはまだ折れてねぇみたいだな」  

 

 会長の言葉がすぅっと耳に入ってきて、柚希は顔を上げた。落ち着いたその口調同様に会長は柚希の足を見つめながらその足を丹念に揉みほぐしている。劣勢なのになんでこんなに落ち着いていられるんだろう……。

 

「初めてのボクシングの大会だ。思い通り出来なくて当たり前だ。でも、後悔だけは残さないことだな」  

 

 そう言って会長は、マッサージはおしまいとばかりに柚希の足を右手で張って立った。  

 

 後悔……。柚希は会長の言葉を心の中で反芻する。前に積極的に出れないままなんて絶対嫌だ。でも、パンチも一発も当てられないままも嫌だ。後悔って何かいろいろ思いを巡らせていくうちに柚希は思わず笑いが込み上げ零れそうになった。試合に臨んだらいつだって勝つことを追い求めていたじゃないか。それはボクシングの試合でだって同じだ。  

 

 インターバル終了のブザーが鳴り、柚希はスツールから立ち上がった。会長にマウスピースを口にはめてもらい、それから、前を見たまま言った。

 

「会長、あたしはまだ勝つ気でいますから」  

 

 ロープをくぐろうとしていた会長がその巨体を止めてこちらを見た。

 

「ふん、お前さんらしくていいや」  

 

 そう言い残し、会長は口の端を曲げてリングから降りた。  

 

 カーン!!  

 

 最終R開始のゴングが鳴った。  

 

 まずは前へ出ることだけを考えた。相手よりも先に前へ、ただひたすら前へ。試合に勝とうと余計なことを考えるから足が前に出なくなる。殴られたっていいから前に出るんだ。  

 

 バシィッ!!ドカッ!!バシィ!!  

 

 柚希は決心した思いを守り、前に出続け、そして、リリカの左ジャブの連打の前にリングの上でサンドバッグのように殴られ続けた。  

 前に出ることは出来たけど・・・でも、パンチ一発さえ当てることは出来ないや……。

 

 赤いグローブをその身に打ち込まれる度に虚しさと悔しさがこみ上げ感覚が鈍くなっていく身体に染み込んでいくようだった。  

 

 重い身体も霧のように拡散してまとわりついて離れていかない感情も自分のものじゃないみたいでいつもの感覚から剥離していっていく。でも、無数のパンチを浴びながら柚希は思った。リリカはどんなに攻勢でも左ジャブを中心に攻める姿勢を崩さない。ダメージの大きいパンチも左ジャブもクリーンヒットはどれも同じ点数のアマチュアの試合ならではの闘い方。あんたの左ジャブはものすごく痛いけど、でも、左ジャブじゃどんなに打たれてもあたしの意識は飛ばされない。そして、右のパンチでも単発なら耐えてみせる。  

 

 右のストレートを放った柚希はそのパンチをガードしたリリカを吹き飛ばした。

 

「あんたのパンチは効いちゃいないっ!!」  

 

 鼻血が垂れ流れ、白いスポーツブラを深紅に染めながら柚希は言い放った。再びパンチが当たらない間合いまで離れた柚希とリリカ。ハァハァと荒い呼吸を吐き肩で息をする柚希に対してリリカはすぐにまた軽やかなステップをリングの上に刻んでいく。途切れることなく聞こえてくるリリカの足音。閉ざされかけた視界から消えては映りまた消えては映る。きゅっきゅっと刻む足音の中にシュっという風を切る音が混じったのを柚希は聞き逃さなかった。リリカの左ジャブを避けるのは無理でも来ると察知することだけなら出来る。柚希は首の後ろ側に力を込めて歯を食いしばった。  

 

 バシィッ!!

 

 乾いた音が高らかに響き渡り、赤いグローブがめり込む柚希の顔面から血がキャンバスに飛び散っていく。ジャブとは思えないほどの威力が凄惨な鮮血シーンからうかがえた。

 

 しかし、柚希は顔を前に出しリリカの左の拳を押し退けて、前へダッシュしていった。リリカがキャンバスを強く蹴り上げ右斜め後ろへと大きく飛び跳ねた。柚希はその動きにも対応し付いていく。

 

 左ジャブを打った後のリリカは右か左に回ることが多い。これまでの経験から柚希はヤマをはって、パンチを食らった直後、狭い視界を左へと集中して向けていた。二分の一の賭けに勝った柚希はついにリリカに密着するほどの至近距離へと近づくことに成功した。この距離なら技術は関係ない。ひたすらパンチを打ち続ける。そう心に決めて柚希が右の拳を力強く振り回した。リリカの顔面目掛けて放たれた柚希の全力のパンチは彼女のスウェーバックの前に空を切っていき、しかしながら、柚希の耳にはドスゥッという肉が潰れるような重く鈍い耳障りなパンチの音が生々しく響くように聞こえてきた。

 

 右フックが空を切った柚希の身体にリリカのボディブローが鋭角に突き刺さっている。柚希の反撃の芽を一瞬にして潰したリリカの非情な一撃。そのパンチは反撃のチャンスを奪うに留まらず、柚希の臓器にまで強烈な衝撃を浸透させた。いびつに歪んだ唇からはみ出た白いマウスピース、黒い瞳が消え上を向く白目。柚希が戦闘不能な状態に陥っているのは誰の目にも明白であり、リリカが突き刺していた左の拳をすっと抜くと、柚希は「ぶほぅっ」とマウスピースを吐き出した。そして、糸の切れた人形のように両腕がだらりと下がり前へ崩れ落ちていった。

 

 柚希がキャンバスに倒れても場内は静まり返っていた。あまりに鮮やかなリリカのカウンターのボディアッパーに観客は言葉を忘れ魅入っていた。キャンバスに頬を張り付けたままぴくりともしない柚希と青ざめた表情で固まっているレフェリー。リングにいる二人までもが動きを無くした中、リリカだけが冷静にレフェリーに顔を向け、指示を待っていた。

 

 リリカの視線に気づいたレフェリーが慌てて「ニュートラルコーナーへ」と促し、リリカも移動しようとしたが、すぐに足を止めて、顔を向けて視線を戻す。

 

「担架だ。担架を用意して」  

 

 レフェリーがリングの外に向かって大声で指示を出している。自分の手でノックアウトされた柚希の元にセコンドも集まり、彼女の周りが慌ただしい空気に包まれる中、リリカは赤コーナーに戻り、自身の勝利を告げるゴングの音を耳にしながら、笑顔で待ち受けていたセコンドと抱き合った。

 

 

 意識を取り戻した柚希は、はっとなって身体を起こした。周りを見渡すとそこは控室で自分は長椅子に横になっていたことに気付いた。

 

 そうだっ試合、試合の結果は?

 

「おぉっ起きたか」

 

 駆け寄ってきた会長が安堵の表情を見せる。今まで見たことがないくらいに優しい表情に、柚希は試合の結果はと聞く気も無くなってしまった。

 

 聞かなくたって分かる。自分が完敗したにきまっている。分からないことは、どんな負け方をしたのかだけ。フィニッシュブローをもらった記憶はどうしても思い出せない。それでも、一つだけ分かっていることがある。

 

 あたし、一発のパンチも当てること出来なかった……。  

 

 柚希は顔をくしゃくしゃに歪め泣き崩れた。試合に負けて泣いたことなんて初めてだ。優菜に負けた時だって一度もなかった。三連敗もしたっていうのに。たった一度の敗北がこんなに悔しいなんて。それだけボクシングのリングに沈められたことが屈辱でならなかったんだ。会長に差し出されたタオルで涙を拭きながら、しばらく涙が出続けた。そうして涙がおさまったころ、柚希は会長に顔を向けて誓った。

 

「あたし、来年もまたこの大会に出ます。あいつに勝つまでは空手も止める。負けたままじゃ終われないから」

 

 

web拍手 by FC2