目の前で一人のボクサーが滅多打ちされていた。ロープに追い詰められて打ち込まれ続けるパンチの雨。あいつが打つのは喧嘩でもしているかのような大振りのパンチだ。まだガードをとっているからって、いい加減に止めてやれよと思った。止めるのが早いに越したことはないんだ。女なんだから。

 

 

 

  ようやくレフェリーが割って入り、試合が止められた。同時に滅多打ちされていた娘は、キャンバスに顔から沈み落ちた。

 

  

 

 隣にいた大山さんがリングに入る。俺も続けて中に入る。

 

  

 

 あいつは俺達の方へ駆け足気味に戻ってくる。大山さんに抱きかかり、

 

 

 

「やりましたー大山さん!」

 

  

 

 とはしゃぎ声を上げる。

 

  

 

 抱擁が終わって、俺の方を見た。

 

  

 

 爽やかな笑顔が嫌な笑みに変わった。彼女の唇が閉じられて少しつり上がっている。

 

 

 

「あれーヨウちゃん、顔がむすっとしてる。あたしが勝って嬉しくないのー」

 

 

 

「そんなことねぇよ。ただ相手が気の毒だったから」

 

  

 

 俺は動揺して咄嗟に嘘をついた。

 

 

 

「しかたないじゃん。あたしが強すぎたんだから」

 

  

 

 はっきり言うな。プロになって間もないのに分をわきまえるって言葉を知らねぇのかと思っても黙っていた。

 

  

 

 俺もまだプロのリングで勝ったことがない。二戰二敗。一方、遥花は今日の勝ちで二戰二勝。口に出しても惨めな思いをするだけだ。

 

 

 

「遥花ー!」

 

  

 

 観客席から男の声援が飛んだ。一人じゃない。複数の男が遥花の名前を呼ぶ。

 

  

 

 遥花はそれに応えるように観客席に向かって右腕を上げた。

 

  

 

 まだデビューして二戰だっていうのに遥花にファンができている。

 

  

 

 彼らは遥花の外見が目当てなんだろう。ボクサーだっていうのにアイドル顔負けの整った童顔に、現役女子高生という肩書きまでつく。それでいて試合では攻撃一辺倒のファイトスタイル。しかも勝ち続けている。人気も出るわけだ。

 

  

 

 でも、俺は嫌いだ。あいつのファイトスタイルも勝ち気な性格も。

 

  

 

 あいつのせいで、俺はボクシングを楽しめなくなってきている。

 

 

 

 

 

 

 

「ヨウちゃん、今日のあたしの服装どう?」

 

  

 

 隣から遥花に言われて俺は目を向けた。テンガロンハットにジーンズのミニパンツ、ウエスタンブーツ。カウボーイファッションっぽい服装だ。

 

 

 

「そんな服持ってたか?」

 

 

 

「今日のために買ったんだよ。会見で目立たった方がいいじゃない」

 

 

 

「ふーん」

 

 

 

「で感想は?」

 

 

 

「いいんじゃないですかお似合いですよ」

 

 

 

「わざとらしい言い方」

 

  

 

 そう言って遥花は顔を背けた。

 

  

 

 今日これから、女子ボクシングフレッシュトーナメントの会見が行われる。デビューして間もない選手たちのためのトーナメントだ。今回初めての開催だ。出場する四人に遥花も入っている。男子でいう新人王戰のようなものだけれど、実情は遥花を売り出すために開かれることになったらしい。女子ボクシング協会のプロモーターが先週うちのジムに来てそんな話を大声で言っていた。

 

  

 

 ジムのトレーナーの大山さんに用事があったため、このトーナメントにまったく興味がないのに俺が付き添うはめになった。あと五分も歩けば目的の建物に着く。

 

  

 

 会見で遥花が調子に乗った姿を見たくない。でも、服装に気合い入れてきたこの様子だとあきらめた方がよさそうだった。

 

 

 

「でも、トーナメント開くにしてももう少し強いメンバー集めた方がいいのに」

 

  

 

 何が「でも」かはさておいて、本人はもう優勝が確定している気なんだろうか。

 

 

 

「一回戦の相手なんてデビュー戰なんだよ。何もそんな娘ださなきゃいいのに」

 

  

 

 噛ませ犬を用意したのかなと思った。遥花は主役として扱われているのだから一回戦を勝ち上がってもらわないと主催者側も困るだろうし。

 

 

 

 「ホノカっていう名前らしいんだけど、弱そうなリングネームだよね」

 

 

 

「本名なんじゃねえの」

 

 

 

 昔、クラスメートに同じ名前の娘がいた。案外、その名前は多いのかもしれない。クラスメートだった娘の顔を思い出そうとしてあきらめた。もう忘れてしまっている。彼女は小学校二年の時に転校したんだった。

 

  

 

 「遥花ちゃん」

 

  

 

 後ろから名前を呼ばれて、振り向いた。ブレザーを着た少女が立っていた。雪のように白い肌をした綺麗な娘だった。見覚えのない顔だ。

 

  

 

 年齢はうちらと同じくらいなんだろうか。

 

  

 

 遥花の顔を見たけど、きょとんとしている。

 

 

 

「わたし、わからない?」

 

  

 

 俺もいっしょになって記憶を探った。雪のように白い肌・・・。幼い顔が浮かび上がってきた。小学校のクラスメートで二年生の時に転校していった娘だ。

 

 

 

「沢村か!」

 

 

 

「中村君、覚えていてくれてうれしい」

 

 

 

「あー!」

 

  

 

 遥花も思い出したみたいだ。

 

 

 

「穂乃花ちゃん!」

 

  

 

 その名前を遥花が口に出して、俺はふと思ってしまった。この再会は偶然ではないかもしれないと。遥花は懐かしがった顔をして話を続ける。遥花は思いもしていないようだ。

 

  

 

 外れていて欲しいという俺の思いは適わなかった。

 

 

 

「遥花ちゃん、試合ではよろしくね」

 

 

 

「何が?」

 

  

 

 遥花はまだ気づいていない。

 

 

 

「トーナメントの一回戦の相手わたしなんだよ」

 

 

 

「穂乃花ちゃん、ボクサーになったの・・」

 

  

 

 困惑を隠せない遥の言葉に穂乃花は頷いた。

 

 

 

「なんで・・」

 

  

 

 俺も同じ思いだ。昔、いじめっ子に遥花から守られてばかりだったおまえがボクサーだなんて。そう思って人のことを言えないことに気づいた。俺も穂乃花と一緒だ。だから、次に言う穂乃花の台詞も予測できた。

 

 

 

「わたし、遥ちゃんに憧れてたんだ。いつも苛めっ子から守ってくれた遥花ちゃんに。遥花ちゃんにみたいに強くなりたくてボクシングを始めた。だから、憧れの遥花ちゃんと試合できるなんてすごくうれしい」

 

 

 

「そっかぁ・・まいったな」

 

  

 

 遥花は照れ臭そうな表情になった。

 

 

 

「試合じゃ手加減しないよ穂乃花ちゃん」

 

 

 

「うん、全力で闘おうね」

 

  遥花が手を差し出して穂乃花が握る。美しい光景を俺は複雑な思いで見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  トイレに入ると、中には誰もいなかった。ようやく一人になれて、息をついた。さきほど会見が終わったばかりだった。

 

  

 

 会見で遥花はKO勝利を宣言した。幼馴染みが相手であってもビッグマウスに変わりはなかった。一方の穂乃花は記者の前で「全力で勝ちにいきます」と言った。遥花のビッグマウスの前では謙虚な言葉に聞こえるけれど、俺には意外だった。遥花に勝つと皆の前で宣言したのだ。

 

  

 

 勝てると思っているんだろうか。俺には穂乃花が勝つ姿が思い浮かばない。穂乃花は気が弱くて運動神経も鈍かったんだ。俺と同じで苛めっ子から遥花にいつも守られてきた。

 

  

 

 俺はそれが嫌でボクシングジムに通い始めた。遥花より弱い自分が許せなかった。なのに、遥花までジムに通い始めた。二人ともプロボクサーになって、ボクシングの世界でも俺は遥花の後ろにいる。遥花より先にボクシングを始めたのに俺はいまだに一勝もできていない。努力だけじゃどうにもならないんだろうかと最近はしょっちゅう思う。

 

 

 

 トイレを出ると目の前に穂乃花が立っていて、俺は目を見開いた。

 

 

 

「遥花ちゃんは相変わらず中村君が好きなんだね」

 

  

 

 心が大きく揺れた。

 

 

 

「何言い出すんだよ!」

 

 

 

「中村君と遥花ちゃん、どっちが先にジムに通い始めたの?」

 

 

 

「なんだよ、急に。どっちだっていいだろ」

 

 

 

「大事なことなの。教えて」

 

  

 

 穂乃花の落ち着いていて、でも強い口調に俺は気圧された。

 

 

 

「俺が先だよ」

 

 

 

「そうなんだ」

 

  

 

 穂乃花が薄く笑みを浮かべる。これが気の弱かった穂乃花か?別人を目の前にしているような違和感を覚えた。

 

 

 

「何がだよ」

 

 

 

「遥花ちゃんは中村君目当てでボクシングやってるんだろうなって思って」

 

 

 

「そんなわけあるかよ。プロボクサーにまでなってんのに」

 

 

 

「どこまで本気かわからないよ。遥花ちゃんにがっかりした」

 

 

 

「おいっ・・」

 

  

 

 穂乃花は強い眼差しを俺に向けた。

 

 

 

「遥花がどんな思いだろうがあいつは強いよ。沢村じゃ勝つのは無理だ」

 

 

 

「わたしは負けない。中途半端な思いでボクシングしてる人に」

 

  

 

 なぜ、穂乃花はこんなにも強気なんだろう。それだけ自信があるのか?俺と同じように遥花に守られてきたのに。

 

 

 

「わたしは七年もボクシングをやってきた。遥花ちゃんにどんなに才能があっても、わたしの努力の前では無力だから」

 

  

 

 七年・・・。たかだか二年くらいボクシングをやっただけで努力していると思っていた自分が恥ずかしくなった。

 

  

 

 努力は才能を凌駕できるんだろうか。

 

  

 

 俺は穂乃花のボクシングが気になった。

 

 

 

「じゃあ試合でね」

 

  

 

 と言って穂乃花は去っていった。

 

 

 

 穂乃花が勝つところを見たい。そんな思いに駆られ、俺は首を横に振った。

 

 

 

 

 

  

 

  リングの中央で遥花と穂乃花が対峙する。夢の中を見ているかのような不思議な光景だった。あの苛められっ子だった穂乃花が遥花とボクシングのリングで闘うのがいまだに信じられない。

 

  

 

 コーナーに戻った遥花に大山さんが確認をする。

 

 

 

「いつもどおりでいい。自分のボクシングをすれば勝てる相手だ」

 

  

 

 

 

 遥花のボクシングは力に任せたラフなスタイルだ。

 

  

 

 俺は黙って遥花を見ていた。穂乃花のボクシング歴が七年間だと遥花には伝えてある。その言葉を聞いても、遥花の表情から自信は消えなかった。「長けりゃいいってもんでもないしねぇ」とまで言った。穂乃花に負けるイメージなんてこれっぽっちももってないんだろう。

 

  

 

 試合開始のゴングが鳴った。同時に遥花はコーナーを飛び出した。一気に距離を詰めて、ラッシュを仕掛ける。いつもの戦法だ。

 

  

 

 遥花の連打の前に穂乃花は亀のようにガードを固めている。ロープにまで押し込んでさらにパンチの連打をたたみかける。

 

  

 

 試合は早くも遥花が主導権を握った。一ラウンドKOだってありえる展開だ。

 

  

 

 やっぱり、穂乃花が遥の相手になるはずなかったんだ。ほっとしたような寂しいような複雑な思いを俺は味わった。

 

  

 

 その瞬間だった。

 

 

 

「ぶへえっ!」

 

  

 

 寄声と共にマウスピースが宙に飛んだ。唾液を口から撒き散らして、キャンバスに倒れたのは遥花だった。尻餅をついて呆然とした顔で見上げている。遥花を見下ろす穂乃花の姿を。

 

  

 

 何が起きたのかよく分からなかった。

 

  

 

 なんで遥花が倒れてるんだ?

 

  

 

 遥花が慌ててカウント8で立ち上がる。

 

  

 

 試合再開と同時に遥花が猛然と穂乃花に向かって行った。大きく振りかぶっての右フック。強烈な打撃音がリングに響く。

 

  

 

 グワシャッ!!

 

 

 

「ぶへえっ!!」

 

  

 

 またしてもキャンバスに倒れたのは、遥花の方だった。寄声を上げて吐き出したマウスピースと共に体を吹き飛ばされ、背中からキャンバスに倒れた。大の字になってびくりともしない。ダメージが深刻なのは明らかだ。

 

  

 

 単発で遥花をグロッギーに追いやった穂乃花のパンチ。それはカウンターだった。大振りの遥花の右フックに右フックを合わせたのだ。恐らく、初めてのダウンもカウンターを合わせたんだろう。二度続けて当てたんだから、まぐれなんかじゃない。穂乃花はカウンターを武器として使っている。

 

  

 

 コーナーポストで両腕をロープの上にやり悠然と立つ穂乃花は、強者の姿だった。一方で遥花は大の字に寝たまま虚ろな表情で天を仰いでいる。カウントを聞く二人の姿はあまりに対照的だ。残酷な現実を突きつけられた気分になる。

 

  

 

 遥花が体を動かし、カウント8で立ち上がる。レフェリーが試合を再開し、穂乃花が襲いかかってきたところでゴングが鳴った。1ラウンド終了のゴングだ。俺と大山さんは駆け足で遥花の元に向かった。遥花が前に崩れ落ちていくのを俺は受け止めた。

 

  

 

 遥花はもう自分の力でコーナーに戻れないほど弱っている。目もまだ虚ろだ。俺はちらりと穂乃花の方を見た。彼女はパンチを浴びた形跡が見られないどころか汗一つかいていない。力の差を見せつけられた思いをまた味わった。まさか穂乃花が遥花を圧倒するなんて思いもしなかった展開だ。夢なんじゃないかと思いたくなっても、俺の耳には遥花の弱りきった呼吸が聞こえてくる。その生々しい音が俺を現実から離さなかった。

 

 

 

 「もう終わりにするか」

 

  

 

 大山さんの言葉に遥花は首を横に振った。

 

 

 

「ちょっと油断しただけです。まだまだいけますから」

 

  

 

 遥花は強気に言い放つ。遥花の返事に大山さんは試合を続ける決断を下した。

 

  

 

 俺は遥花に水を飲ませた。遥花がうがいをして、容器に吐き出す。コロンと音がした

 

  

 

 俺は息をのんだ。それは歯だった。奥歯が一本。遥の言葉が本当なら、油断してかかった代償は大きかった。

 

  

 

 大山さんが遥花に指示を出す。

 

 

 

「大きなバンチはカウンターの的になる。ジャブだ。ジャブを使っていけ」

 

  

 

 遥花は素直に頷いた。

 

  

 

 大山さんの指示に俺も心の中で頷いた。大山さんの言うとおり大振りのパンチはカウンターを受けやすい。それに俺は遥花の大味なボクシングが好きじゃなかった。俺が好きなのはパンチ力に頼ったボクシングじゃなくてテクニックを駆使したボクシングだ。遥花だってジャブから右のパンチを当てていけばまだまだ逆転はできる。遥花のパンチ力は十分な威力を持っている。少なくともパンチ力は遥花が優っているはずだ。

 

  

 

 ブザーが鳴り、遥花が椅子から立ち上がる。俺はリングから降りようとした。その瞬間に、遥花の呟きが耳に入った。

 

 

 

「穂乃花になんか負けられない」

 

  

 

 俺は遥花の方を振り向いた。悔しそうに唇に力が入っている。遥花の意地を俺は感じた。でも、個人的な感情は試合にけっしていい影響を与えない。熱くなって試合を盛り返せるのか?俺の中で次のラウンドへの期待が急速に萎んでいく。

 

  

 

 2ラウンド開始のゴングが鳴った。

 

  

 

 遥花は大川さんの指示を守り、左のジャブを打っていく。我を忘れていないようで俺は少し安心した。足もしっかり動いている。ボクシングできるまでに回復しているようだった。

 

  

 

 左のジャブで何度も攻撃に出る。

 

  

 

 しかし、当たらない。ガードどころかかすりもしない。穂乃花は足を使ってすべてかわしている。みとれてしまうほどに鮮やかなフットワークだった。

 

  

 

 逆に遥花のステップがだんだんと雑になっていく。前への踏み込みが大きすぎる。そこを狙われた。

 

  

 

 穂乃花が左のジャブを遥花の顔面に打ち込んだ。一発、二発、三発、四発。ジャブの集中放火だ。

 

  

 

 ステップで左に回り、また二発。ステップしてまた二発。

 

  

 

 気づけば、遥花はリング中央で血飛沫を吹きながら、踊らされていた。穂乃花の容赦ないジャブの雨が遥花の顔を右に左に吹き飛ばす。穂乃花のフットワークで円を描きながら放つジャブは、遥花をリング中央に封じ込めた。

 

 

 

 瞬く間に遥花の顔面が醜く変形していった。頬が水脹れしたように腫れ上がり、鼻血も噴き出ている。さらに穂乃花は右のパンチもコンビニネーションに入れ始めた。

 

 

 

「ぶへぇっ、ぶはぁっ、うえぇっ、ぶおぉっ!!」

 

  

 

 もはや遥花はサンドバッグ状態だ。あんなに強かった遥花が手も足も出ず滅多打ちにされている。パンチを浴びる度にうめき声を上げ、穂乃花のパンチに完全にグロッギ―になっている。

 

  

 

 俺は遥花が嫌いだ。我が儘で態度がでかくて、口が達者で。でも、こんな光景は目にしたくなかった。

 

  

 

 もういっそタオルを投げた方がと思い、大山さんを見た。そんな気配は見当たらずに、言ってみようかと思ったが、大山さんが「ガードを固めて」と指示を出した。まだ大山さんはあきらめていなかった。

 

  

 

 しかし、大山さんの指示は遥花の耳に届かなかった。

 

  

 

 遥花が穂乃花に向かって行ったのだ。

 

 

 

「行くな遥花!」

 

  

 

 俺は声に出していた。

 

  

 

 でも、俺の声も遥花には届きはしない。遥花が大振りの右フックを放つ。

 

  

 

 もう予測できないはずがなかった。この先の展開を誰もが思い描けたはすだ。遥花を除いては。遥花のパンチが穂乃花の顔の横を通り過ぎていく。

 

  

 

 ドボオォッ!!

 

  

 

 穂乃花の右アッパーカットが遥花の腹に打ち込まれた。

 

  

 

 遥花の体がくの字に折れ曲がる。顎が上がりよく見えた遥花の顔は、白目を向いていた。涎にまみれたマウピースが口からはみ出ている。唇の端からはポタポタと涎がだらしなく垂れ落ちている。液体にまみれ弛緩しきった表情を晒す遥花が、すでに意識を失っているのは誰の目にも明らかだ。ボディに突き刺さる穂乃花の右拳によって体を支えられているに過ぎないと。

 

 

 

「ぶえぇぇっ」

 

  

 

 涎にまみれた遥花の口からがうめき声が漏れマウスピースが滑り落ちていく。銀色と赤の液体にまみれたそれは、ぼとぼとっとキャンバスの上を弾んだ。

 

 

 

 穂乃花がようやく拳を抜いて、遥花の体が前に崩れ落ちていく。惨劇が終わりを告げる瞬間。そう思い込んでいた俺は目を疑った。

 

  

 

 穂乃花の右拳が下から唸りを上げていた。

 

  

 

 前に崩れ落ちていく遥花の顔面にぶち込まれた一撃。右のアッパーカット。

 

  

 

 グワシャァッ!!

 

  

 

 遥花の体が宙に浮き上がった。これが女のパンチかと目を疑った。遥花の体が後ろへと吹き飛ばされていく。穂乃花はパンチ力も凄まじかった。遥花が穂乃花に勝っているものは何一つなかったんだ。

 

  

 

 遥花は口から血反吐を撒き散らし、半円を描きながらキャンバスに沈み落ちた。遥花はキャンバスに顔を埋めてぴくりともしない。息をするのも忘れて見つめていてもその状況が変わることはなく、やがて遥花の身体がびくんびくん痙攣を起こし始めた。僅かに残されていた奇跡が起きる可能性すらなくなったことを告げる遥花の意識を奪われた姿に、俺は身体中の力が抜け落ちていき右手に握っていたタオルを落とした。

 

  

 

 カーン、カーン、カーン!!

 

  

 

 試合終了のゴングが打ち鳴らされた。レフェリーが穂乃花の右腕を上げる。

 

  

 

 試合の結果なんてどうでもいい。俺は遥花の元に駆けていった。遥花の名前を呼んでも反応がない。瞳は何も写してないのに頬は緩まりだらしのない笑みを浮かべているのがただただ虚しくさせる。幼馴染の穂乃花に遥花は今も自分の勝利を信じているのかもしれない。でも、現実は逆でそれどころか遥花の一方的なKO負けに終わった。自分の敗北すら知ることが出来ずキャンバスに倒れている遥花の姿はあまりにせつなくて儚かった。

 

 

 

「女子ボクシングにニューヒロインが誕生しました。元同級生との対決を制したホノカ。圧倒的な強さでした!」

 

  

 

 実況席からのアナウスが聞こえてきたが、ただ耳障りなだけだった。だから試合の結果なんてどうでもいいんだ。俺は遥花の無事を願い名前を呼び続けた。