ぐしゃりと肉の潰れる音がした。

 

 あたしの右拳には穂乃花の頬を押し潰すたしかな感触がある。けれど身体には耐えがたいほどの衝撃が駆け巡りあたしの頬は丸みを帯びた何かに押し潰されて唇がひん曲がるほどの圧迫を受けている。

 

 明後日の方向を向かされて身動きを取れない中、あたしはクロスカウンターで穂乃花と相打ちとなっている状況を悟り悔しくて胸の中まで圧迫される感情に襲われた。

 

 穂乃花の上をいきたくても彼女のボクシングはそれを許さない。

 

 幼かった頃、あたしは彼女を守ろうとしていたのに久しぶりに再会した彼女はあたしよりも遥かに強くなっていた。

 

 あたしにはそれが受け入れがたくて、ボクシングを必死になって一からやり直した。

 

 あたしは大切な人を守りたい。だからあなたに負けたままでいられないの。

 

 だって、あなたは……。

 

 あたしは左拳を握りしめ思いきり打ち込んでいく。穂乃花のパンチもあたしに向かってきている。でもかまわない。

 

 あたしはあなたの上をいくから……。

 

 

 

真っ赤な太陽に澄み渡る青空、土の地面一面に生える緑の芝生。思い浮かばるのは原色の風景。同じクラスのいじめっ子たちはいい気になるなよと捨て台詞を残して駆け足で広場から出ていく。彼らがいなくなるのを確認してあたしは尻もちをついているヨウジに右手を差し出した。ヨウジはそっぽを向いてあたしの右手を握り立ち上がる。ヨウジは感謝の言葉も何も言わない代わりに地面に血の混じった唾を吐いた。可愛くないんだからとあたしは言ってその後ろで泣いている穂乃花のところへ行き彼女の顔の前にハンカチを出した。両目を指でこすっていた彼女は顔を上げて受け取って涙を拭く。涙が止まってもまだ表情をぐしゃぐしゃに崩している彼女にあたしは笑みを浮かべて言った。

 

「大丈夫、あいつらなんか全然怖くないよ。あたしが穂乃花ちゃんを守ってあげるから」

 

 

 

 バンテージを巻き終えて遥花はふぅっと息をつく。

 

 なんで今思い出すんだろう……。ずっとずっと昔のこと。思い出すこともなかった。ううん……、そうじゃない。あたしは思い出さないようにしていたんだ。穂乃花はもうあたしが守るとかそういう存在じゃなくなった。あたしよりも強くなって、あたしにとって勝ちたい目標の一人で。だから過去は過去でもういいんだ。昔を思い出すとあたしは自分を見失ってしまう気がする。

 

 ボクシンググローブを両拳にはめてサンドバッグの前に立つ。上半身を揺らしながらパンチを打ち込むものの、十秒もしないうちにまたいじめっこを追い払うあの時の光景が浮かんできた。

 

 あぁ、もう!!

 

 頭を振って、なんでかなぁと何度も心の中で問いかける。そうしても答えは出てこない。だから聞いてみた。

 

「ねぇ、なんでだと思う?」

 

 鏡の前でシャドーボクシングをしているヨウジにそう言うと、ヨウジは口元を引きつらせた顔をこちらに向けてきた。

 

「いや、何がだよ」

 

 ちょっと怒気を含んでる。

 

 言葉足らずだとは分かってる。でも、それ以上を言う気にはなれない。

 

「ううん、いいの。壁に向かって言ってみたかっただけだから」

 

「壁扱いするなよ!」

 

「そうだよね壁は怒鳴らないものね。ごめんね邪魔しちゃって」

 

 そう言って遥花はその場から去る。それからすぐにまた振り返った。

 

「あっそうだ、明日、暇?」

 

 と言って、

 

「今の時間だけど」

 

と付け足した。

 

「明日もジムで練習だよ。分かってんだろ」

 

「明日、チャンピオンとスパーリングなの」

 

「あぁ、そういやそんなこと言ってたよな。本橋さんとスパーするって。でも、彼女今はチャンピオンじゃないだろ」

 

「そうなんだけど、一か月前までチャンピオンだったしあたしの中で一番強い日本人は彼女だから」

 

「そうか明日か。まぁ頑張って来いよ」

 

「うん、だから来てくれる?」

 

「はぁ? 会長がいるだろ」

 

遥花は首を横に振る。

 

「会長もトレーナーの大山さんも明日は用事があるの」

 

「いや、俺だって練習したいし」

 

「大丈夫だよ、ヨウちゃんは期待されてないから」

 

「はっきり言うなよ。ていうか、失礼だろ」

 

「ねぇ、お願い。他に頼める人いないし」

 

「たく仕方ねぇな。俺、指示とか出せねぇよ?」

 

「うん大丈夫、期待はしてないから」

 

「だからはっきり言うな!!」