第10話

 

 

「これより本日のメインイベント、女子スーパーフライ級日本王座決定戦を行います!!」

 

決戦の日。みちると由香理、主役の二人がリングに上がり、運命のゴングを直前にして緊迫した空気が増す場内。

 

「青コーナー、竹嶋ジム~12戦11勝1敗9KO~日本女子スーパーフライ級2位竹嶋みちる~!!」

 

名前をコールされみちるが右腕を上げると場内から歓声が沸き起こった。  

 

「赤コーナー、氷室ジム~12戦11勝1敗7KO~日本女子スーパーフライ級1位氷室由香里~!!」

 

 由香理が左腕を上げるとみちるのそれを遥かに凌駕する大きな歓声が沸き起こる。この試合は宿命のライバルの再戦というよりも絶対王者をあと一歩まで追い詰めた由香理の再起戦。大多数はそういう位置づけで観ているのではないかと思わせるほどにみちると由香理に対する観客の反応は差があった。

 

 レフェリーに呼ばれ二人はリングの中央に向かう。

 

 一年と三ヵ月の時を経て再びリングの上で顔を合わせるみちると由香理。あの時はみちるが赤コーナーで立場が上だった。でも、試合に敗れて勝者となったライバルは一足先に世界タイトルマッチの舞台を経験した。赤コーナーに立つ相手の姿。自分よりも遥かに多い歓声。ライバルに先をいかれたという現実をみちるは否応にもリングの上に立ち実感する。

 

 でも、一年前のあたしとは違う。試合に勝つのはあたしだから。

 

みちるは黙って由香理の顔を見つめ続ける。由香理も強い眼差しを向けてくる。

 

 それぞれ青コーナー、赤コーナーに戻り、ロープに両腕を乗せてゴングが鳴るのを待つ。

 

試合開始のゴングが鳴った。赤コーナーを出た由香理は左のかまえだ。みちるは前へと出た。由香理の右のジャブをかわして左右のフックでたたみかける。由香理もフックで応戦を始めた。十秒近い近距離でのパンチの応酬から由香里がバックステップをして再び距離が出来た。

 

みちるはすぐに距離を詰めようと前に出かけたところで足を止めた。由香理のかまえが右に変わっていた。このまま不用意に出たらこっちのボクシングのリズムが崩れるかもしれない。みちるが警戒して様子を見ていたら由香理から前に出てきた。不意を食らったみちるは由香理のパンチをいいようにもらう。

 

右、左、右。フックの連打が面白いように当たりさらに右のストレートを顔面にめり込むように打ち込まれ後ろに吹き飛ばされた。ロープに背中が当たりみちるの後退は止まる。由香理が今みせたファイトはみちるのお株を奪うかのような力強いボクシングだった。鼻からぬっとした感触が垂れ落ちていき、みちるは思わずグローブで鼻を拭った。青いグローブに赤いシミが付いている。鼻血だ。まだ1Rが始まったばかりだっていうのに……。由香理、階級を上げてパンチ力も飛躍的に上がってる。これじゃ接近戦でも苦戦するかも……。

 

試合開始早々に試合の主導権を握ろうとし、前評判以上のファイトをみせる由香理に場内からは早くも歓声が沸き起こった。みちるはアウェーで闘っているような感覚に陥って苛立ちを募らせる。

 

このままじゃまた前と同じになる。なんとかしなきゃ。由香理は左のかまえを取っている。あれ?さっきはどっちのかまえだったっけ……?

 

みちるは混乱して足が出ないでいた。前に出て接近戦で闘うのが信条なのに心に迷いが出て躊躇してしまう。

 

「みちる~由香理のかまえに惑わされるな。右とか左とか考えるな。スパーで何度も体験したんだ。身体が自然と反応してくれる!!」

 

 大声で指示を出す高野の声を聞いてみちるは笑顔になる。

 

そうだ、何十Rもスイッチ対策でスパーリングしてきたんだ。頭で考えなくたって身体が反応してくれる。

 

迷いは一瞬にして消えた。みちるは再び前へと出た。由香理は執拗に右のジャブを放ち、近づかせようとしない。ジャブの連打で突き放されてもみちるはすぐにまたダッシュして向かって行った。

 

 お互いの得意の距離をキープしようと一進一退の攻防が続いた。

 

試合は第2Rに入る。由香理がかまえをスイッチしてもみちるは気にせずに前に出た。由香理の左ジャブをかいくぐりついに懐に潜り込む。左右のフックを浴びせかける。由香理はガードを固めて防戦一方だ。みちるの攻勢が続く。

 

「前とは違うようね」

 

 ガードを固めて顔が見えない中、由香理が言った。劣勢なのに落ち着いた口調なのがみちるを苛立たせる。

 

「当たり前だよ!!」

 

 みちるも言いながらパンチを返した。

 

「でも、成長したのはあなただけじゃない」

 

「だから何だっていうのよ」

 

「わたしは接近戦でもみちるに打ち勝ってみせるわ」

 

 由香理の不敵なその言葉はみちるを激高させた。

 

「ちょっとパンチ力が上がったからって調子に乗らないでよ!!」

 

 みちるは大声で言いパンチを打った。

 

「今に分かるわ」

 

 由香理もそう言ってパンチを打ち返しに出た。

 

 みちると由香里。二人が足を止めてパンチを打ちあう。思いもしない乱打戦に場内が再び沸いた。お互いの顔面にパンチが当たっていく。ヒットの数はほぼ同じ。しかし、パンチから放たれる音はみちるの方が上回っていた。みちる自身、接近戦での闘い方に手応えを感じていた。  

 

あたしの方が由香理にダメージを与えられている。

 

血飛沫が吹いた。パンチが当たるたびに血がぽたぽたとキャンバスに落ちていく。血を出しているのは由香理だ。鼻血がぽたぽたと垂れ流れている。

 

 由香理だってパンチ力で敵わないってもう分かっただろうにそれでも、由香理は距離を取らずにいる。

 

 なんで距離を取らないの。そのパンチ力であたしに接近戦で勝てると思ってるの。

 

由香理は一向に距離を取らずに強気にパンチを返し続ける。

 

もしかして、由香理意地になってるんじゃない。あたしの前で大口叩いたから引き返せないのかも。だったら今がチャンスだ。

 

みちるは平静を取り戻し、ここがチャンスだと接近戦で倒すことに集中する。

 

左、右、左とみちるのフックが三発続けてヒットした。試合の流れは完全にあたしのもの。ここから右の————

 

みちるが踏み込みの足をさらに強めた。無防備な由香理の顔面に————

 

シュゴゴゴと空を切る音がした。

 

次の瞬間、みちるの身体が宙に舞っていた。両腕を広げ、口からはマウスピースがさらに上空へと吹き飛んでいた。

 

みちるが背中から倒れ落ち激しい音がキャンバスから生じた。右の拳を天高くかざしていた由香理がすっと拳を下ろし、ダウンしているみちるの姿を見る。両腕をバンザイして倒れているみちるの姿はぷるぷると身体を震わせ早くもグロッギ―な状態であった。

 

レフェリーがダウンを取り、由香理にニュートラルコーナーへと指示する。

 

 

 

「ダウン!!竹嶋2Rに早くもダウンです!!氷室の強烈なアッパーカットが綺麗に決まりました。竹嶋動けない!!これは相当なダメージか!?」

 

 

 

アナウンサーが興奮気味に実況をする。

 

場内がざわめく中、みちるは膝をプルプルと震わせながらかろうじてカウント9で立ち上がった。

 

試合は再開されるものの、みちるは立ち上がった場所から動けずにいる。由香理が一気に距離を詰めて目の焦点が定まらずにいるみちるの顎にめがけて再び右のアッパーカットを放った。

 

カーン!!

 

ゴングの音が鳴った。

 

由香理の右拳はみちるの顎の寸前でぴたりと止まっている。顎の先で由香理の右拳が止まっている状況にみちるは呆然とした表情で固まっていた。先に由香理が拳を下ろして赤コーナーへと戻っていく。数秒してようやくみちるも青コーナーへと向かう。しかし、その姿は肩が降りて上半身が丸まり、今にも倒れそうな様だった。

 

 

 

「氷室、これは立派です!!ゴングが鳴る前に放ったパンチで有効にも関わらず竹嶋の顔の前で止めています!!」

 

 

 

実況の言葉に会場からは由香理に向けて拍手が送られた。その音がみちるをさらに惨めな思いにさせた。

 

宣言通り接近戦で打ち負かされ、そして、由香理の紳士的な振る舞いでゴングに救われたのだ。屈辱的な思いを二度も味あわされたみちるはまだこれからなんだからと気持ちを鼓舞してなんとか自分の足で青コーナーまで戻れた。