コミッショナーがチャンピオンベルトを両手で頭上にかざすと、リング上の空気が一変した。

 

 血がふつふつと熱くなり高揚させられるいつものそれとは違う肌に張り付くような張り詰めた空気。

 

 ベルトをどうしても手に欲しい。だからこの試合には絶対に負けられない。そんな負のオーラがうちの会長や青コーナーにつくセコンドからにじみ出ている。渇望と重圧が入り混じったぎこちない表情で視線をベルトに向けて。

 

 対戦相手のまどかだけわたしに視線を向けているけれど。彼女の関心はベルトよりもわたしといったところか。

 

 こういう空気が嫌でわたしは会長に言った。

 

「大丈夫です、わたしは絶対に勝ちますから」

 

 それはけっして虚勢ではなかった。高校生の時にインターハイで五度優勝して負けることを知らずにプロに転向した。プロのリングでも勝ち続けた。アマチュアとプロは違う、いつか高い壁が立ちはだかる。そう自分を戒めていたけれど苦戦することなく日本ランキング一位に上り詰めた。次の試合は日本タイトルマッチ。チャンピオンはこれまでの相手とは違うはず。そうした思いを向けていたチャンピオンは前の試合で負った怪我が原因で引退しチャンピオンに挑戦する機会を失った。次戦は王座決定戦に変更を余儀なくされ、自分よりもランキングが下の選手と試合をすることになった。しかも、その相手は高校時代に同じ部に所属していた同級生でスパーリングや練習試合で一度も負けたことがない。彼女はわたしがいるから公式戦に出られることは一度もなかったのだ。

 

 わたしはベルトのかかった試合に臨むという気にどうしてもなれずいつもの試合と同じ気持ちでリングに上がっていた。高い壁というものはきっと世界にいるのだろうと思い。

 

「あぁ任せたぞ」

 

 砂田会長はそう言ってわたしの左のグローブのナックル部分に手を当てた。かすかにグローブを押されてまた手が離れた。

 

 会長はゴングが鳴る前に時々これをするけれどどんな意味があるのだろう。

 

 勝利へのおまじない?

 

 会長は60歳を過ぎたおじいちゃんだけど、根性至上主義の人間ではなくむしろいたわりの人で選手へのガウンを自分で塗ったりと女性的なチャーミングな面がある。わたしはそういう会長が好きで、試合に勝って会長を喜ばせたいと思った。

 

 負けるはずがない。わたしがいるかりまどかに陽は当たらない。彼女はナンバーツーなのだから。

 

 

 

 ゴトンゴトンという音と共に身体を揺らされているのを感じながら、わたしは目が覚めた。空席が目立つ車内は温かな日差しに照らされている。

 

 夢を見ていた。それは生々しく事実そのものだった。わたしは息をつく。思い起こさないようにしていた記憶も夢の前ではどうにもならない。せっかく妹のアカリに会いに来ているのに出鼻をくじかれた気分。

 

 次が目的の駅で電車を降りるとトイレに入り、鏡の前で笑顔を作った。これで憂鬱な思いが吹き飛んでくれるといいけど。アカリの前で暗い顔は見せられない。

 

 駅に出ると、太陽の光に当てられた。強烈な暑さに変わりないが東京と違いからっとしていて気持ち良くもあった。山々に囲まれ田んぼもところどころ目に映る。ここは緑の量が東京とではまるで違う。

 

 わたしはタクシーに乗り行先を告げた。十五分ほどで到着してタクシーから出た。目の前には病院が立つ。中に入りアカリがいる202号室へと向かう。

 

 アカリはベッドの上で上半身を起こし本を読んでいた。おそらく小説だろう。この娘は本を読むのが好きで見舞いの度に頼まれた小説を届けている。もちろん今日も二冊の新刊をバッグに入れてきている。

 

アカリがこちらに気付き笑顔になる。わたしは右手を軽く上げてアカリの元へ向かった。ベッドの横にある椅子に座りバッグから小説を出してアカリに渡した。「ありがとう」と言って表紙を見ているアカリにわたしは「調子はどう?」と聞いた。

 

アカリは「悪くないよ。ここにいる時は平気だから」と言った。その言葉を聞いて、わたしは安心する。二週間に一度、お見舞いに行くたびに症状が悪化していないか心のどこかに不安が常にあった。

 

アカリの病気は化学物質過敏症というものだ。病名通り、化学物質に過敏になり心身の体調を崩す。だるくなったり頭が痛くなったり、息苦しくなったり。現代の生活では家は化学物質で出来たものに囲まれている。絨毯だってカーテンだって化学物質で創られた製品だし、木製のテーブルも接着剤に強烈な化学物質が混じったものが使われている。科学物質を避けた生活を送ることなど現代では不可能なのだ。それでも、都会よりも自然の多い田舎の方で過ごす方が楽だそうで、この症状を二年前に発症したアカリは家で生活を送ることが出来なくなり、山梨の病院に入院することになった。この病院はアレルギーに悩む人専門の病棟で化学物質過敏症に苦しむ人を何人も治してきた実績を持っている。実際にアカリも入院して半年で症状は見違えるほどよくなり退院した。でも、家での生活を始めるとまたすぐに症状が再発しまた入院することになった。

 

丈夫な身体だけが取り柄のわたしと違い、妹の身体は繊細だ。わたしはスポーツが好きで妹は本を読むのが好き。姉妹とは思えないくらいに真逆のわたしと妹。でも、だからわたしは妹のことが愛おしく感じるのかもしれない。自分にはない繊細な感性を持っている妹にわたしは魅かれている。

 

「ねぇ、お姉ちゃん、すごかったねこの前の試合」

 

抑揚は薄いけれど瞳はキラキラとしていて嬉々とした表情。妹は一週間前に行われたわたしの試合を観たようだ。担当の先生が持つパソコンで試合の映像を観たのだろう。この病室にはテレビもパソコンも置かれてないし携帯電話の所持も禁止されている。家電製品は一切ないのだ。だから、先生にお願いしてパソコンを借りて観たのだろう。月額費を払えば女子ボクシングの試合が観られるインターネット専門のテレビ局がある。その局は格闘技以外に海外ドラマにも力を入れていて熱心なファンである先生はそのサービスの会員だと聞いている。わたしが試合を終えて見舞いに来るたびにアカリは試合の話をする。それも自分のことのようにうれしそうな表情で。わたしの試合が楽しみで仕方ないのだ。でも、それは分かる気がする。自分にはないものに人は魅かれる。わたしがアカリの読書好きで繊細な感性を持つところに惹かれるように。

 

KO勝ちしちゃうんだもん。女子の試合ってなかなかKO勝ちでないんでしょ? これで一気にランキング上がるね」

 

「そうかもしれないわね」

 

 わたしは受け流すように返事した。正直なところ、妹の前でボクシングの話をしたくなかった。せめて妹の前にいる時くらいはボクシングのことを忘れていたい。でも、アカリはわたしといる時、ボクシングの話で一番目を輝かせる。そんな妹の姿を見せられては自分の思いなど言えるはずもなかった。

 

「早くタイトルマッチに挑戦出来るといいね」

 

 と言うアカリに、

 

「そのつもりよ」

 

 と思ってもいない言葉を台本に書かれた台詞を読むように口に出した。

 

 わたしにはボクシングしかないのにわたしはボクシングに冷めている。

 

 早く止めればいいのにと心の中で思うものの、妹の無邪気さを前にしてそんなことを思う自分がとても腹立たしかった。

 

 

 

妹の見舞いを終えて担当の先生へ挨拶に向かった。ナース室で先生の居場所を尋ねると、外の庭にいると教えてもらった。行ってみると、先生は屈んで花壇に咲く花にじょうろで水を撒いていた。先生はこちらに気付き立ち上がる。わたしは会釈をして先生に近づいた。

 

「感心ですねぇ。月に二度もこの片田舎まで見舞いに来てくれるなんて」

 

「妹の顔を見ると疲れが飛ぶんです」

 

「人間が出来ている証拠です」

 

「とんでもない」

 

 わたしは左手を横に振った。

 

「でも、安心しました。今日もアカリは元気そうだったから」

 

「えぇ、アカリさんはずっと元気です」

 

 穏やかなその言い方にはどこか棘が含んでいるように聞こえた。わたしは温和な表情をしている先生の次の言葉を待った。

 

「私はもう退院しても大丈夫だと思っています」

 

 先生の口からその言葉が出るのは薄々勘づいていた。先生はここのところ会うたびにアカリさんは大丈夫と言っていた。営業の人が話しているのかと思えるくらいに過剰に何度も大丈夫と。

 

「でも……」

 

 わたしはそう言って、一度話を止めた。その間に頭の中を整理する。そうして出てきた言葉は、

 

「アカリは前に一度退院して症状が再発しました。わたし、それが心配で……」

 

 と退院に対して否定的な言葉だった。

 

「アカリさんも同じ考えでした」

 

 そうだろうと思った。一度苦しい思いをしているアカリが退院に否定的であるのはなんとなく分かっていた。だからわたしも退院に消極的になっているのだろう。

 

「黒板の前で爪を立てている人を見るとまだ触れてもないのに嫌な感じがしませんか? 身体が委縮してしまって」

 

「えぇ……それが何か……?」

 

「それと一緒です。アカリさんの身体は化学物質に耐えられる身体になっている。でも、家に戻ると昔の嫌な記憶が思い起こされて身体が過剰に反応してしまう」

 

 と言い先生は続けた。

 

「これは心の問題です。始めはまた反応してしまうかもしれない。でも、強い意志があれば克服できるものです」

 

 重要なことも優しい口調で話す先生。そこには強い意志が感じられた。

 

「と、アカリさんにも説明したのですが、渋い反応をされてしまいました」

 

 先生は後頭部に手を当てて苦笑いをみせた。

 

 わたしは反応に困って視線を反らして黙ったままでいた。そうして、しばらくの間沈黙が出来ていると、

 

「アイコさんはプロボクサーだとお聞きしました」

 

 あぁまたその話題かと、わたしは先生に気付かれない程度に小さくため息をつく。せっかく自然に囲まれた田舎に来ているのだからこんな時くらいはボクサーであることを忘れていたいっていうのに。汗とワセリンのにおいが混じったコンクリートの室内で黙々と汗を流し続ける毎日を送っているのだから。

 

「相当に強いボクサーだと」

 

「いいえ」

 

 とわたしは首を横に振る。そして、

 

「たいしたことないですよ。下位のランカーですから」

 

 と取り繕った笑顔を向けて言った。

 

「そうですか? 私なんて日本ランカーと聞くだけですごいと思ってしまいますけど」

 

「アレルギーに悩む人を治す先生の方がよっぽどすごいですよ」

 

「とんでもない。立派なのは医院長であって私なんて言われるままに動いているだけです」

 

 どんな時も温和に話すこの先生にわたしは少し意地悪なことを言いたい衝動に駆られ、

 

「先生は嘘がお得意ですね」

 

 と切り出した。それでも彼の表情は変わらない。柔らかな笑みを浮かべている。

 

「退院も医院長の考えですか?」

 

 わたしも笑顔を続けている。わたしは気を使うことが苦手なのになぜかこの人の前だけでは笑顔を取り繕くろうとする。それはわたしが負けず嫌いで、本心を見せない彼の前でわたしもつい本心をみせたくなくなり意地になっているからなのだろうと思う。

 

「アイコさんにはすべて見抜かれているみたいですね」

 

 わたしと先生、二人の表情と対照的に空気だけがぴりっとしたものに変わる。

 

「アカリさんを次の試合に誘ってみてはいかがでしょう」

 

 先生の顔から笑みが消えた。

 

「直に観戦することであなたのように頑張ってみようという気持ちになるかもしれません」

 

「わたし…」

 

 わたしは頑張ってないとは思っても言えなかった。

 

「考えさせてもらえませえんか?」

 

「もちろんです。試合はあなたにとって大切なものですから簡単に決められないのは重々承知です」

 

 そうではない。わたしは頑張ってない。だから、妹に闘っている姿を直に見られたくないだけなのだ……。

 

「そろそろ仕事に戻らないと」

 

 先生は時計の針を見ながら言った。

 

「試合を観戦してもらうのは効果的だと私は思います。アカリさんの病状を前に進めるためにも」

 

 そう言い残して先生は病棟へと戻っていった。先生の背中を見ながらわたしは首を横に振る。

 

 出来るはずがない。わたし自身の時計の針が一歩も進んでいないのだから。あの時から止まったまま……。

 

 

 

 

天井のライトはいつも以上に眩しくて観客の歓声はいつも以上に騒がしく感じられる。

 

試合は今4Rだっけ? 前の試合のように判定までいくとしてもまだ半分も過ぎていない。でも、その短い時間はわたしにとって耐えがたいものでしかなかった。大勢の観客の目が集まるリングの上でわたしは晒し者にされていた。

 

 

 

「ぶふぅ……ぶふぅ……」

 

まるで豚の鳴き声のような呼吸の音がわたしの鼻から漏れ出ていた。両穴から鼻血が噴き出ていて視界すらも膨れた瞼で機能をほとんど奪われかけている。右目は完全に閉じ左目がわずかに開くばかり。そのかすかな視界に映るまどかの顔は試合前と変わらない綺麗なままだ。それもそのはず。4Rに入ってもわたしのパンチはまだ一発もまどかの顔面を捉えていないのだから。

 

目の前が赤で覆われた次の瞬間、わたしの顔面は強烈な衝撃が貫き、弾き飛ばされた。

 

思いきり打ち抜かれたその右ストレートによって激しい痛みだけでなく悔しいという感情が胸から全身へと拡散していく。

 

 部室のリングの上で負けるはずがないといつも余裕を持って闘えた同級生に大勢の観客の視線が集まる王座決定戦のリング上で一方的に殴られる。

 

 それは耐え難いほどに悔しくて受け入れられるものではないのだった。

 

 身体ごと吹き飛ばされていくわたしは背中がロープに当たり、右腕をロープに絡ませてダウンを免れた。

 

 膝がガクリと折れたままわたしはリング中央に立つまどかを見上げた。

 

 試合中だとは思えないほど涼し気なまどかの表情。

 

 わたしは知っている。それが人と闘うというよりサンドバッグを目の前にしている時の心境に近いことを。パンチをどう避けるかはまったく頭にない。相手にどうパンチを叩き込みキャンバスに倒すかだけを考えている。

 

 違う、わたしの実力はこんなものじゃない!!

 

 まどかが距離を詰めるより先にわたしは動いた。ダッシュで距離を詰め、迎え撃つまどかの左ジャブをかわし左のボディブローを打った。これはブロックの上。それなら右のフックを顔面めがけて放ってそれからまた左のボディブローだ。左右と上下に打ち分けて相手を揺さぶる得意のコンビネーション。

 

 わたしの放ったパンチは三発ともまどかの腕にブロックされた。

 

まただ。まどかのボクシングの生命線であるスピードと威力を伴った左ジャブをなんとかかわせて接近出来ても得意のコンビネーションブローをすべて防がれる。これまでに何人ものボクサーをリングに沈めてきた自慢のテクニックだというのに、まどかには一発も当たらない。

 

コンビネーションの打ち終わりに出来た隙にまどかの左右のフックがわたしの顔面を捉えた。

 

 わたしの膝ががくがくと揺れる。

 

 1Rからこの繰り返しだった。まどかの左ジャブに苦しみ被弾にあいながらなんとか接近出来てもわたしの攻撃の軸であるコンビネーションブローがすべて防御され強打で反撃される。

 

 予測できた中間距離だけでなく近距離までもまどかが試合を支配する。どの距離でもわたしだけがパンチを浴び続け、わたしの顔面は見るも無残に腫れ上がり、自身の流した鮮血で白いスポブラは赤く染まり4Rでもう満身創痍になっていた。

 

でも、退くわけにはいかない。ここはわたしの得意の距離。インファイトでまどかに負けられない。

 

 自分を鼓舞して次に放った攻撃は、右のボディブローから左のフック、さらに右のアッパーカットの三連打。左右の連打から縦の動きへと変わってすべてを避けることは困難な必殺のコンビネーションをわたしはこの試合で初めて放った。

 

 これ以上はないと言っていいとっておきのパンチを電光石火のスピードで相手の身体に打ち終える。だが、わたしは目を疑った。まどかはアームブロックですべてのパンチを防ぎきったのだ。

 

「嘘よ……一発のパンチも当たらないなんて……」

 

 あまりのことに心の中の想いが口に出ていた。呆然とするわたしをまどかが見逃すはずがなかった。

 

 グワシャッ!!

 

 右のアッパーカットを振り抜かれ、わたしはまたしても後ろへと身体を吹き飛ばされた。千鳥足となって半円を描きながらもかろうじて踏ん張った。

 

 でも、ダメージは深刻で電撃に打たれたかのように身体が痺れる。ダメージに打ち震えその場から動けずにいるわたしに、

 

「高校時代と何も変わってないのね」

 

 まどかは冷めた口調で言い放つ。

 

「コンビネーションがすべて同じ。わたしが記憶しているものと何一つ変わってない」

 

 まどかはそう言いながら身動きできないわたしの腹部に左のパンチを打ち込み、さらに左右のフックが何度もわたしの顔面を往復する。なによ……とわたしは打たれながら心の中で反論する。でも、肝心のパンチが出ない。ボクシングで示すことが出来ない。

 

「高校時代は分かっていてもかわせなかったけど、今は違う。男の先輩方と毎日のようにスパーリングを重ねたの。死に物狂いになって。もうアイコのボクシングはわたしには通用しないわ。何一つ」

 

 その言葉に説得力をもたせるに十分な威力に満ちた右ストレートがわたしの顔面を打ち抜いた。身体ごと後ろに吹き飛ばされていったわたしはまたしてもロープに背中が当たり救われた。

 

わたしは奥歯を思いきり噛み締める。それでも、感情は身体の中で留まらない。わたしはまどかの言葉を否定せずにはいられなかった。

 

「ちょっとパンチが当たっているからって偉そうなこと言わないで!!」

 

 そう叫び、わたしはまどかに向かって行った。どこが“ちょっとなのよ”と心のどこかのわたしがわたしに向かって言う。熱くなりながらもどこかで冷静な部分を持ったわたし。対するまどかは憎たらしいくらいに冷静に徹していた。言い返して正すことをせずに代わりに左のジャブでわたしの顔面を何度も打ち抜いた。

 

 わたしはまどかの左ジャブの連打の前にその場で血を吹きながら躍らされ続けた。不細工なダンスを踊るわたしをまどかはあらゆる角度からパンチを放ち倒れることを許さなかった。

 

 ボクシングすらさせてもらえずに血飛沫を噴くだけとなったわたしの有り様は“何一つ通用しない”と言い放ったまどかの言葉が正しいことを証明するに十分な光景であった。

 

悲惨な姿を晒すわたしがまどかのパンチをかいくぐり反撃に出れたのはまどかにだけは負けられないという意地でしかない。どうやってかわせたのかも分からない。でも、彼女の左のパンチは空を切り、わたしの目の前にはがら空きのボディがある。わたしはそこめがけて渾身のフックを放った。

 

 わたしのパンチはまどかよりも威力が数段上だ。一瞬で相手をグロッギ―にさせられる。右のボディブローでまどかの動きを止めて、そこから左のフック、そして右のアッパーカットを顎に打ち込む。逆転KOのシナリオは全て出来上っていた。

 

 グシャリという鈍い音。その音はわたしが思っていたよりも遥かに重たく耳障りだった。ピキピキッという音が拳の内側から聞こえ、わたしの右拳を尋常じゃない痛みが襲った。わたしの右拳にはまどかの左ひじが突き刺さっている。 

 

わたしの右拳は折れたんだ。その事実を認識した途端、わたしの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。

 

 それが闘う意志であることをその時のわたしは分からずにいた。最後の希望を最悪の形で断たれたわたしはただこのリングにいるのが恐ろしくなっていて、その時のわたしはすがるような目で赤コーナーに立つ会長に目を向けようとしていた。

 

 だが、その行動すらもまどかは阻止をした。

 

 会長に助けを求めたわたしの顔は瞬時にしてまどかの左腕によって覆われるように抱え込まれ彼女の前へと強制的に戻されたのだ。

 

 左腕で抱きかかえられ、クリンチとなり肉と肉が触れ合う間近な距離でまどかが言う。

 

「アイコにはまだ役目が残ってるわ」

 

 恐怖という感情で頭の中が混乱していたわたしはその言葉の意味を理解できなかった。

 

「キャンバスに這わせなきゃわたしはあなたに勝った気になれないの」

 

 背中に回されていたまどかの左腕がわたしの右腕に絡みつく。そうして動きを封じたまどかは右のパンチを無防備なわたしのお腹に放つ。

 

 凄まじい衝撃がわたしのお腹で爆ぜた。メキメキッという耳障りな音。そのパンチの威力は肋骨を二本折っただけで済まずに内部でパンチのエネルギーが渦巻くように流動する。わたしの胃袋は激しく揺れ動き、尋常じゃない量の汗が身体中から噴き出た。酸っぱい感覚が込み上がり喉を走り、次の瞬間、

 

「ぶうぇぇっ!!」

 

 わたしは胃液を吐き出していた。細く尖った口から黄色い液体にまみれたマウスピースが漏れ出ていく。汚らしく胃液をキャンバスに撒き散らすわたしの姿に否応なしに観客の視線が集中する。

 

汚物を撒き散らす美形と呼ばれた女子ボクサーのその顔は想像していた以上に悲惨であったにちがいない。わたしは胃液を吐きながら白目を向いていたのだ。ノックアウトの瞬間を目にし、息を飲む場内。

 

しかし、リングの上の惨劇はまだ終わらないのだった。

 

 

 

まどかの左腕が放され、支えを失ったアイコは前へと崩れ落ちていく。しかし、まどかの身体はまだ動きを止めずにいた。膝を折り連動するように体重を乗せた左フックをアイコの右頬に打ち込む。

 

 ブワシャァッ!!

 

 壊れた人形のようにごつごつと腫れ上がり表情を失ったアイコの口から唾液、血、胃液とあらゆる液体が放射状にぶち撒かれていく。

 

 かろうじてファイティングポーズを取っていた両腕はだらりと下がり膝はぐにゃりと折れ曲がる。打ちのめされた姿で今度こそキャンバスに倒れ落ちると思われたアイコの身体は次の瞬間、宙に舞っていた。

 

 天に向かってかざされているまどかの右拳。左フックを打ち終えたまどかはさらに身を屈め、倒れゆくアイコよりもさらに下の位置からアッパーカットを顎に打ち込んだのだ。

 

 天井のライトに照らされながら宙を舞うアイコの姿を見つめる観客たちはその悲惨な姿を目で追いながら、この鮮烈なシーンを創り上げたまどかの動きにどこか見覚えのあるものを感じていた。

 

それに一早く気付いていたのは、儚げな姿でキャンバスに倒れ落ちていく教え子の様を固まった顔をして見つめる砂田会長だった。そのパンチは毎日のようにミットで受けていた。何百セットと毎日のように繰り返し磨き上げていった得意のコンビネーションブロー。まどかが放った電光石火の三連打。それはアイコの動きそのものだった。努力の結晶であるアイコの必殺のコンビネーションブローをまどかは本人の前でそっくりそのまま再現したのだ。

 

アイコの積み上げてきたものがすべて砕け散っていく非情な光景を目にした砂田会長は緑原まどかとの王座決定戦を組んだ自身の決断を悔やまずにはいられなかった。試合に負けるだけならいい。しかし、この敗北はアイコのボクサー生命を左右しかねない。

 

意識を奪われたアイコの空中飛行が終わり、背中を激しく打ち付けたアイコはもう一度キャンバスの上を弾んだ。試合続行を望む者など誰もいなかった。大の字となり、白目を向き胃液と血の入り混じった涎をキャンバスに垂れ流すアイコの姿はもはや試合どころではなかった。

 

レフェリーが両腕を交差する。試合終了のゴングが静まり返る場内で高らかと響き渡った。

 

 

 

 

 

試合に惨敗し担架に乗せられてリングから降りたわたしがKO負けの事実を知ったのは控え室のベッドの上だった。右拳と肋骨二か所に渡って骨折していた私はその後病院に入院することになる。その時のわたしはまだやり直せると闘志を持っていた。しかし、闘志は再び打ち砕かれることになる。それは二週間後。退院して、録画していたまどかとの王座決定戦を自宅で観た時だった。まどかにKOされたその光景は、覚悟していた以上の衝撃をわたしに与えた。自分が得意としているパンチでフィニュッシュされていたなんて知らなかった。右拳を壊されて武器を失っただけじゃなくて、自分が誇っていた技さえもまどかは打つことが出来ていたのだ。その技は高校時代の部活の先生から教わったもので、まどかも指導は受けていた。でも、その技を出来ていたのはわたしだけ。そのはずだったのに、まどかも自分のものにしていた。完敗どころではなかった。わたしはまどかに何一つ上回っているところがないことを知り、心底ボクシングを辞めたくなった。