顎を痛打され全身の力が失われていく。四股の力が抜け落ち真っ白になった情景の中で前のめりに倒れゆく中、目の前の相手に敵わない悔しさともう殴られずに済む安堵、矛盾する二つの想いが絡まりずきずきと痛む身体中から拡散されていく。顔を強く打ち付けたはずなのに痛みは大して感じずそれなのにキャンバスの冷たい感触が身体の芯まで浸透していく。ボロボロに傷ついた身体に敗北感を刻み込ませる。

 

 1Rから試合の主導権を奪われ続け、そして第7Rに滅多打ちを浴びてキャンバスに倒された。対戦相手の顔は試合前とほとんど変わらないというのにわたしの顔は原型が分からないくらいに醜く変わり果てた。それほどまでに力の差を見せつけられた試合だった。わたしは頬をキャンバスに付けて仰向けになったまま身体は自由が利かず拳を握ることさえままならない。

 

 視界に赤いシミが出来たキャンバスしか映らない。周りの情景がよく分からない中で、レフェリーのカウントを数える声、砂田会長の悲痛な叫び、そして観客の大きな歓声が唸るように響いて、わたしに現状を知らしめさせる。

 

 試合は終わりを迎えようとしているのだと……

 

 テンカウントを数えるレフェリーの声、試合終了のゴング、さらに大きくなる歓声————

 

砂田会長に抱きかかえられるわたしは深い沼にさらに沈んでいく感覚に陥り、すべての感覚が閉ざされた。

 

大丈夫かと何度も声をかける砂田会長の表情に何も感じず、あれだけはっきりと聞こえていた周りの音は雑音にしか聞こえなくなった。

 

もうどうでもいい————

 

担架に乗せられてリングを降り、花道をゆく。この試合の後のことはもう覚えていない。

 

これがまどかに敗れてから二戦目の記憶。止まらない転落劇の続き。

 

「ダイナマイトグローブ、セミファイナルの試合は予想外のワンサイドゲーム。ランキング5位の土屋レイカがランキング3位の田村アイコに第7RKO勝利となりました。田村アイコはこれで王座決定戦の敗北から三連敗。今日も勝つことが出来ませんでした」

 

 

 

 まどかとの王座決定戦に敗れたわたしはその後も試合に負け続け三連敗を喫した。

 

 次戦で日本ランキング9位の相手と試合をして辛うじて勝利を収め、それ以降、このあたりのランキングの相手と試合をし勝っては負けてを繰り返す。つまりわたしは日本チャンピオンには遠く及ばず下位ランカーの実力だったというわけだ。

 

 まどかとの試合で身体に後遺症となるダメージを残したりトラウマとなるような心の傷を負ったわけでもない。心も体もいたって元気。それなのに前のように思うように勝てなくなった。三連敗を喫した試合の中には一度勝っている相手もいた。その時は完勝と言っていい勝利をしたのに再戦となる試合では逆に完敗となるKO負けを喫した。

 

 何かが変わったわけではない。そう思っても試合では前のように思うようにパンチが当たらなくなり、リズムを掴むことが出来なくなりパンチを浴びることが増えていった。なぜそうなったのか理由は分からない。でも、自分でも分からないほんのちょっとの歯車の狂いが大きな結果の差を生むようになった。でももしかしたら勝ち続けていたころが出来すぎだっただけで下位のランキングで勝ったり負けたりがわたし本来の実力なのかもしれない。

 

 どちらにしろ日本チャンピオンになるのは遠い夢のようになり、わたしは試合に勝っても負けてもリングから降りるともうこれで最後にしてボクシングを止めようかなという思いに陥ってしまう。そんなわたしがアカリを招待するなんてはなはだおかしい話だ。

 

 悶々とした思いを持ちながらわたしはジムで練習をする日々が続いた。そうして二週間が過ぎた頃、会長から次の試合の話が持ち出された。

 

 初めに会長から次の試合のオファーが来ていると聞いた時、真っ先に違和感を覚えた。注目を集めるボクサーでなくなり咬ませ犬の役割も持たなくなった今のわたしに名指しで試合のオファーが相手から来ることなんてまずないと思っていたからだ。

 

試合から二、三カ月が経って十分に身体の休養を図れた頃に会長がジムの自主興行の出場選手として試合相手を探す。そういう試合の組まれ方がここ三試合ではされていた。

 

「わたしに試合の申し込み? そんな酔狂な人いるんですか?」

 

 試合に対する積極的な思いが薄れているためかつい自虐的な言葉がでたけれど、会長は窘めるでもなく黙っていて、会長が重苦しい表情をしていることにようやく気付いた。わたしは真顔になり会長の言葉を待った。

 

「緑原まどかだよ。次のタイトルマッチの挑戦者に指名してきた」

 

 わたしは耳を疑った。

 

「何言ってるんです会長、彼女はわたしに完勝したんですよ、なんで今さらまたわたしと」

 

「分からないよ」

 

 会長は首を横に振る。

 

「相手先からは次の防衛戦の指名したいとそれだけだったからね説明があったのは」

 

 唇をつぐむわたしに会長が続けた。

 

「どうする? 受けるかどうかはアイコに私は任せるよ」

 

 なんで今何ですかとわたしは大声で叫びたかった。でも、会長の前で叫んでも会長を困らせるだけ。わたしは胸の中に膨らむ感情をぐっとこらえる。そして、両拳を強く握りしめた。

 

あなたに負けてそれからずっともがき続け苦しみ続けているこんな中でなんでなの

 

 まどかのことを想い、そうして浮かんできたのはアカリの顔だった。

 

 アカリのためにこの試合を受けてやりたい。またタイトルマッチに挑戦する姿を見せてやりたい。

 

 でも、わたしは深い沼に落ちた状態のままでまどかが持つチャンピオンベルトにもう一度挑戦する気にはどうしてもなれなかった。

 

 わたしは会長に

 

「すみません、今回は辞退させていただけますか」

 

 と言った。顔を上げて言うことはとてもできなかった。アカリに対し申し訳なくて情けない思いでいっぱいで。